II
「弥くんは気が多い人とは思っていたけれど、まさかこれほどだなんて」
終業式の日の昼食は、たまたま同席した蓮田さんと過ごしていた。
才華はいないし平馬は帰ってしまったので、ひとり昼食を済ませようとしていたところ、同じように食堂でひとりぼっちだった彼女と同席することになった。お互い部活があって、終業式が午前中に終わってもすぐ帰らず学校に残っていたのだ。
席に座ると彼女は例の如く、ぼくに対して敵意の視線を向けてくる。そうして曰く、試験結果が返却された日の午後にぼくと足立先輩が窪寺駅で会っていたことを引き合いに、ぼくが軟派で浮気性だと罵りはじめていた。
「気が多いって、それはもう誤解というより妄想だよ。それに、ぼくがそんなに悪い奴だと思うなら、一緒にお昼を食べようなんて思わないものじゃない?」
ぼくの反撃に、蓮田さんは薄っすら顔を赤くしてたじろぐ。
「だって、食堂でひとりぼっちなんて嫌だもの。弥くんでも仕方ない」
「本心を言おうか」
「……才華さんが留学に行っちゃったから」
「そうだと思った。はいはい、ぼくは才華のオマケだからね」
足立先輩といい蓮田さんといい、ぼくがMVPに輝いたところでぼくに対する認識はひとつも変わっていないらしい。間違いなく、先輩の悪い影響を後輩が受け取ってしまっている。人を罵倒するならその相手をよく知っておいてもらいたいものだ。
本当に変わったのはぼくの認識だけ、と内心毒づいていたら、蓮田さんは懸命な様子で首を振った。
「そうじゃなくて、いや、それは事実なんだけど、その……どうしているのか聞けたりしないかなって」
「ああ、まだちゃんと話せていなかったんだね」
「うん、謝れていないから声もかけづらくて、でも謝り方もわからなかったから。迷っているうちに、留学に行っちゃって」
蓮田さんは、気の荒んでいた才華から自身の為人を批判されたときのことを言っている。友達のメールアドレス――しかも交換して入手したばかりのもの――を本人に無断で別の人に教えていたことは、確かに彼女の落ち度である。怒らせてしまったと反省した彼女は、ずっと謝ろうと思っていたのに、勇気が足りなかった。
才華も少しは怒りを感じていたとはいえ、それゆえに蓮田さんを攻撃したわけではないとぼくは思っている。タイミングが悪かったのと、才華が森崎や足立先輩を過度に敵視して、蓮田さんにまでそちら側とレッテルを貼っていたからだろう。その件が終わってしまえば、何も「気にしない」のが才華である。蓮田さんにしてみれば、教室でよそよそしい彼女を見て一層後悔を募らせていたのかもしれないけれど、そうだとすれば才華は通常営業だ。
「ねえ、弥くんのところに才華さんから何か連絡は来ていない?」
手紙をもらったよ、とは簡単に言えなかった。
つい深く考えもせず足立先輩には読ませてしまったけれど、いまではそうすべきではなかったと反省している。手紙を読み終えた先輩から「これをわたしに読ませてもよかったの?」と訊かれ、ぼくは顔から火を噴いた。あの手紙は、ぼくと才華がひとつ屋根の下で暮らしていることを如実に示す証拠なのだ。
江里口さんなどに読んでもらってもいいようなことを書いてあったので、おそらく才華はぼくのうっかりを責めることはしないだろう。でも、これまで秘密にしてきた同居生活をこんなにあっさりと、しかも足立先輩に明かしてしまったことは、彼女が帰国したら謝らなくてはならないと思っている。
「近況はよく知らないけれど」ぼくは半分嘘を吐いて切り出してから、楽しい話題を提供することにした。「来月の六日は才華の一六歳の誕生日なんだ」
唐突に話題が変えられたと思ったのか、蓮田さんは、きょとん。
「誕生日?」
ぼくも手紙を読んで初めて才華の誕生日を知ったのだった。長く共同生活をしてきても、案外わからないことは多いものだ。それが留学帰りの彼女との再会の日――帰国後彼女は実家に帰ってしまうので、年越し後まで会うことができないのだ――なのは、運命のいたずらなのか、ひょっとして才華の演出なのか。
「その日はお祝いの連絡をしてあげてよ。いつも素っ気ない才華も、あれで内心喜ぶときは喜ぶから。謝っていないのは気になるだろうけれど、謝るよりもそうしてあげたらどうかな」
いくら長く共同生活してきたからといって、才華の感情を勝手に代弁するのはよくないのかもしれない。でも、気落ちした相手と話していては、蓮田さんと話している気がしないではないか。
「……それ、いいかも」
頷く蓮田さんの表情には、前向きな色が戻ってきていた。よかった、彼女は楽天的なくらいでちょうどいい。重く受け止めすぎていては、無意味な気持ちの行き違いが続くだけである。
ところで、蓮田さんの性向は、やや調子に乗りやすいところもあった。
「じゃあ、誕生日パーティをするときは私も呼んでね」
「え」
秦野のおばさんの家に招けということ? パーティをすると決まっているわけではないが、おばさんも一緒に祝福するとなれば下宿で開くことになるだろう。ぼくが一六歳を迎えたときもそうだった。さて、どうしたものか。黙殺するしかない?
「来月だね、楽しみ。何をプレゼントすれば喜んでもらえるかなぁ」
その情報ならぼくが暗号の形で持っている。でも、蓮田さんには黙っておこう。
「いえ、別に祝福されるほどのことではないと思いますが」
ぱちん、と短く乾いた音が響く。冬になると空気が乾燥してきて、駒音が綺麗に心地よく響いてくれる。この音だけで上達した気分になれるから、ちょっと気分がいい。
局面は終盤戦。天保高校将棋部の対局にしては珍しく、攻め合いの展開になっていた。双方の大将が守備を剥がされはじめていて、持ち駒を守りに使うか攻めに使うかで勝負が決まる、将棋を指していて最も興奮する場面だった。
そんなときにも世間話をしつつ指すのがこの将棋部である。ぼくは頭をフル回転させながらも、先輩と他愛無い言葉を交わしていた。
「そうですか? 学年一位だなんて、すごいことなのに」
「ですから、それは森崎くんの結果が悪かったから偶然にそうなっただけですし、そもそも私は一番になろうと思っているわけではありませんから」
ぼくは廊下に貼りだされた成績順位――上位五名がテストの合計点を公開されるものだ――の、二年生の一位に彼女の名前を見つけたことを挙げて、先輩を称えていた。もちろん、人に褒められるのが苦手な先輩の気を散らして対局を有利に進めようという下心など、微塵も持っていない。
成績と言えば、と先輩は自分に向けられた話題をぼくに向けなおす。
「久米くんのことも祝福しなければなりませんね。今回の結果、補習は化学だけで済むそうではありませんか。おめでとうございます」
掲示されるのは上位者だけでなく、補習が決定された者も含まれる。ぼくは毎回のように数学や理科といった複数の科目で名前を晒されていて、今回は奇跡的に一科目で済んでいた。
「お恥ずかしい……中間テストは悪かったんですが、期末で何とか取り返しました」
「赤点を取っていることには違いないのですから、反省してくださいね」
「はい、仰る通りです。……というか、もしかしてぼくの気を逸らそうとしていません?」
騙されないぞ、と攻めの一手。貴重な持ち駒の銀将を、相手の懐に打った。
ぼくの大胆な一手に、先輩は一瞬、表情を険しくする。ポーカーフェイスが強みの彼女がそのような隙を見せる場面は、このごろ少しずつ増えてきたように思う。思い上がりでなければ、ぼくも彼女のお眼鏡に叶うくらいには腕を上げてきたということだ。
「あ、そうだ。ところで先輩、海外に長く滞在したとして、何か欲しくなるものはありますか?」
ぼくの突然の質問に、先輩は怪訝な表情を隠そうとしなかった。「久米くんのほうこそ、私の集中を削ごうというのですか?」と。しかし、ほんの一瞬逡巡したならば、彼女はすぐに気がつく。
「家入さんと関わりのあることですか? 留学中なのでしたよね」
ぱちん、という攻めを凌ぐ駒音と、はい、というぼくの短い返事とが重なった。
「帰国後すぐ誕生日なのだそうで、ぼくにプレゼントを要求してきまして。外国から帰ったら何が欲しいかな、ということを参考に訊いてみようと思ったんです」
はあ、と姫川先輩は気の抜けたような声で返事した。
手紙の存在は示唆しつつも、それを見せず、暗号のことも伏せておいたのには、ふたつ理由がある。第一には蓮田さんのときと同じ、秘密を守るため。第二には、姫川先輩に頼めば暗号解読に大きく近づくことになるだろうけれど、ズルをするようで才華に申し訳ないからだ。彼女はぼくに期待する手紙を送っている。
旅行云々のことを問うのは、暗号以外のアプローチから才華の希望を探るためだ。正直、才華の作る暗号に真正面から挑んで解読できる気がしないのだ。
「そうですね」姫川先輩は口許に手をやりながら述べる。「確かに、何度か家族で海外旅行に出かけたことはあります。しかし、私は特段何が恋しくなるとかという経験はありませんでした。知っての通り、私は何かと多趣味でしょう? だから、特定の何かが恋しくなることも少ないようでして」
いきなり特殊な意見をもらってしまった。訊く相手が悪かったか。でも、誠実な回答をくれる先輩をもっと頼っておくべきだ。
「一般論でいいので、何かありませんかね?」
「……よく言われるのは、食べ物でしょうか? 食文化は郷愁と強く結びつくものだと思いますよ」
なるほど。
しかし、才華がそこまで求めるような好物というと、意外と思いつかない。料理を自分で作れるようになったせいか、これが好き、と強く思うことがあまりないようでもある。好き嫌いより興味の有無が問題なのだろう。
ぼくが駒を動かすと、姫川先輩は間髪入れず次の手を指す。これでぼくの攻撃は中断に追い込まれる。いまの手では予想の範疇だったようだ、次のシンキングタイムは大切に使わなくては。
頭を悩ませるぼくの前で、先輩は腕を組んだ。
「家入さんから電話なり手紙なりでリクエストされたのですよね? そこにヒントはありませんでしたか?」
ありましたが、読み取れませんでした。
「私は家入さんの為人をよく知っているわけではありませんが、久米くんから伝え聞くところによると、頭が切れて、いたずら心もある人のようです。想像するに、彼女は暗号文で要求を伝えてきたのでしょう? そういう事情でもなければ、私より久米くんのほうが気の利いた贈り物ができるはず」
「……ああ、お見通しでしたか。その通りなんです、さっぱりわからなくて」
観念した、というジェスチャー。それを見た上級生は、ふふ、と笑う。
「手紙を見せろというわけにはいきませんから、助言だけしておきましょうか」水筒を取りだして紅茶を香らせる。湯気立つそれで喉を潤すと、彼女はまた口を開く。「復号されることを期待して作られた暗号なら、久米くんが鍵を既に持っているはずですよ」
鍵という単語は才華の文面にも記されていた。しかし、ぼくが鍵を持っているというよりは、ぼくなら鍵を見つけられるというような書かれ方であった。その旨先輩に伝えてみると、眼鏡の向こう側で目を丸くした。
「手の込んだ暗号ですね。ということは、おそらく、鍵すらも暗号化されているのでしょう。鍵は提示されている代わりに、暗号化されているのですね」
いわば二重ロック。純粋に才華の希望を知るための暗号解読ができないというのに、その解読のための鍵が暗号化され、それを解読できないのでは、手紙を読んでいても何も読んでいないのと同じ。
どうしたものか、これでは才華にプレゼントを贈ることができない。やはり、手紙を持っているぼくがもっとよく分析して、鍵を見つけることが必要なのだろう。まったく、宿題は自分でやりなさい、というロンドンからのメッセージか。
指すべき手が決まった。無理に攻めることはない、守ろう。
ぱちん。
「久米くん」
「はい」
「久米くんは、いま勝ちを捨ててしまったようです」
「え」
「指しようによっては詰めろがありました、見逃しましたね」
「そんなぁ」