I
一二月、期末テストから解放された天保高校の生徒たちが何人も窪寺駅を闊歩していた。クリスマスが近づいてきた季節とあって、生徒たちの中には、成立間もないとみられる初々しいカップルが占める割合も少なくない。
当事者になれなかったぼくは、特段悔しいとか、羨ましいとか思っているわけではない。むしろ、恋愛どころではない高校生活だったと振り返る。ようやく地に足ついてきたことだし、今後ぼくにもそういうことがあったりするのだろうか。年末に先のことをいうと鬼に笑われてしまうけれど。
それに現在だって、カップルに囲まれてひとり寂しくしているわけではない。クリスマス気分の装飾がちらほら見えるコーヒーチェーンの店内で、ぼくはひとりの女子生徒とテーブルを挟んで向かい合っていた。
といっても、その彼女は同居人たる家入才華でなければ、友人たる江里口穂波でもなかった。
「この私を呼び止めて『話がしたい』なんて、サヨナラホームランを一本打ったくらいで気が大きくなりすぎているんじゃないの?」
一学年上の先輩、足立愛莉だ。
演劇ボランティア部の活動が軌道に乗り、いまでは演劇部のスター女優という地位でなくなったものの、彼女に集まる注目はまだまだ並大抵のものではなかった。店内のあちこちから向けられる視線に、彼女が生きる世界が垣間見える。これだけ人に見られたことは過去にない、背中に寒気がするくらいだ。
頬杖をついて不機嫌そうな足立先輩は、視線をぼくではなくサイドテールの毛先に逸らし、右手はカップの中でコーヒーに浮かぶクリームを突き崩していた。周囲から集まる視線は、ぼくが彼女の新しい恋人か何かで、現在絶賛別れ話中というストーリーを期待しているのだろうか。
「気が大きくなったというか、小さすぎたものがそれなりになったというか」
「知らない、そんなこと。私に言わせれば、所詮弥くんは才華ちゃんのオマケ。森崎に土を付けようと、球技大会の学年MVPになろうとね」
「お褒めいただき光栄です。才華のオマケなんて、ぼくも出世しましたね」
ぼくの道化っぷりに堪えきれなかったようで、彼女はちらりと歯を見せる。その愛嬌ある表情を見る限り、それが先月森崎に悪魔の笑みを見せていた女子生徒と同一人物とは、正直思えなかった。
その森崎とぼくとでは、球技大会以降はっきりと明暗が分かれていた。ぼくは逆転サヨナラホームランの甲斐あって足立先輩が言うような名誉に預かることになった。対して敗戦投手は、ボランティアプロジェクトの復活を目的とした金券偽造の教唆と演劇部の活動妨害を自ら明かしたことで、現在どのような懲戒が下されるのかを待っている状態だ。証拠に乏しいだけに重い処分にはならないとみられているものの、二度と信頼される地位には戻れないだろう。
森崎が学校にどのような説明をしているのかは知らないけれど、足立先輩は彼の計画に積極的に関与しておきながら、いまのところ何のお咎めもなし。普通にテストを受けて普通にぼくとコーヒーショップに来ているのだから恐ろしいものだ。先生たちまで演技で丸め込んでしまっているのではないかと、悪い想像がはたらいてしまう。
「まあ、くだらない悪役ごっこはこれくらいにするとして……それで? 私と話したいことって何? 夕方から大学でミーティングだから手短にお願いね」
なかなかひどいことを言った割には、その憎まれ口は演技だったと翻す。とてもそうは見えなかったから、やはり彼女は名女優ということだ。
「訊きたいことがあったんです、先月までのことで」ちょっと気になっただけ、というふうに笑顔で問う。
「本気であの子に恋をしているのか、なんて野暮なことはやめてね?」ぼくの意図を汲んでくれた天才女優も、軽口で応じる。
背伸びして熱いコーヒーで気持ちを整えて、本題を切り出す。
「先輩は、自分を好きになった人が自分のために必死になるところを見るのが好きなんですよね?」
「そんな話、どういうつもり?」
同級生もすぐ近くにいる狭い店内で、特殊な嗜好の話をするのは彼女でも憚られるらしく、声を低くして眉を顰める。夏には自分から好き好んで話していたのに。
嫌がらせて帰らせてしまうと目的が果たせないので、ぼくもちょっと身を乗りだして、口許に手を添えながら話す。
「ぼくは、言うなれば先輩は人に貢がせるのが好きなのだと思っていました。でも、どうやらそれだけではないらしい。たとえば、藤宮先輩のときそうだったように、人を振って困らせるのもアリ。そう考えてみたら、森崎の件での先輩の不可解な態度、あの意味もわかってくるような気がしたんです」
足立先輩は怪訝そうな顔を崩さない。無言で「不可解なところなんてなかった」と訴えかけてきている。
「ぼくが理解できなかったのは、先輩は森崎に協力していたのに、どう考えたってそれに噛みつくだろう才華をなぜ巻きこんだのか、です。才華が森崎の件にアタックするようになったのは、もとはと言えば、捨てられている金券が見つかったとき、蓮田さんから相談を受けた先輩が才華を呼ぶよう助言したからですよね? 才華が好奇心と探求心の塊だということは先輩も夏に知っていたのですから、わかっていて呼んだはずです。でも、それは森崎への協力と矛盾します」
事実、才華は森崎の計画を暴こうと奔走し、最終的には彼を諦めさせてしまった。彼女が方法を誤り暴走特急と化すことはぼくにも予期できなかったとはいえ、才華が自分たちの計画の邪魔になりうることは足立先輩にも充分想像できただろう。
「先輩は森崎を篭絡するために手を貸していたわけですよね?」
「篭絡って言葉は気に入らないけれどね」
「言葉遣いはどうでもいいとして、積極的ではないにせよ手伝ってはいたのですから、変なところで才華にバラされたら先輩にとってもダメージになったでしょう。そのリスクをわざわざ背負っていたのは不可解です」
そのとき、先輩はぼくの話を中断させるようにラテを啜った。面食らったぼくを睨みながらカップを乱暴に置くと、
「くどい、もっと簡潔に」
と、叱りつけた。ぼくの語り口にも、知らず知らずのうちに才華の癖が乗り移ってしまったのだろうか。
「ああ、だから、ぼくの考えはこうです。リスクを負って才華を呼んだのは、あえて才華に妨害させることで森崎が慌てふためく状況を作りたかったということではありませんか?」
返答はない。
「つまり、森崎を手玉に取るには、森崎が計画に失敗したときがチャンスだと目論んでいたのでは?」
今度は、大きな嘆息というわかりやすいリアクションをもらった。
「才華ちゃんの真似事は、弥くんには向かないよ。そもそも才華ちゃんと同じ思い込みで、私を過大評価しているの。それだけ私が魅力的なら仕方ないけれどね」
「じゃあ、才華に会いたかったからですか? 才華がふたりを妨害しにかかってくれば、それだけ顔を見る回数を重ねられますからね」
人の話を聞いているのか、とまた叱られてしまった。とういうことは、呆れて頭を抱える彼女の顔が赤らんで見えたのも、ぼくの期待ゆえの思い込みなのだろう。
「まったく、良い気になりすぎ。才華ちゃんが一緒でない時点でろくなことではないと思っていたけれど、これほどくだらないことだなんて」
「あ、図星だったんですね?」
「さあね、弥くんに私の高度な演技はわからないでしょう?」
確かに、足立先輩の演技をすべて見破ることは不可能だ。
なぜなら、彼女の演技はつまり、何でも事後に「演技だった」と付け加えることで成立するからだ。何をしようと、何を言おうと、それが本心だったのか演技だったのかは関係なくて、演技だと宣言してしまえば演技になってしまう。
もちろん、そんなことができるのは彼女の演技力があってこそだ。夢と現がわからなくなるほどの自然で巧みな表現力と、台本がなくてもアドリブで演じ切る想像力、そして常に女優として振る舞うセルフプロデュース――これらが一体となることで、彼女は現実と虚構とを後から決められるようになった。
姫川先輩や才華が足立先輩を理解できないのも仕方がない。真実は確かに存在すると信じる人にとっては根本的に異質で、破壊的なのだから。
でも、裏を返せば、彼女はいつでも演技だと言って覆すことができるのだ。それなら常に本心で話していても怖いことがない。正直にものを言って不利な立場になったら、「演技だった」となかったことにすればいい。
だから、ぼくは彼女の話すことをすべて本当のことだと信じることにした。恋愛にスリルを求め、人を掌で転がすのが好きで、女の子とも恋ができて、才華をタイプの女の子と思っていることも。それだけ無軌道な人だと思うことにした。
「それで、才華ちゃんはどうしているの? きょうは会えないの?」
大げさに演技ぶって尋ねるのも本心を捻くれて表現しているだけだと思うと、これから事実を伝えるのが申し訳なくなってしまう。
「ええと……才華ならいま、ロンドンにいます」
「はあ? ロンドン?」
「留学に出かけました。天保高校のプログラムで、一二月の三週間」
「どうしてそれを最初に言わないかな……」
言ったら足立先輩はぼくの相手などしてくれないからね。
才華の留学は中学三年のころから計画されていたらしい。中等部でかなり尖った成績を残し、下手をすれば内部進学の資格を失うところだった彼女に、少し思い切った刺激を与えてみたら何か変わるのではないかと先生方や才華の両親は考えていたらしい。そこで英語力のある彼女なら、ということで留学を勧めてみたという。才華は最初渋ったらしいが、そのうちその気になって、準備を進めていた。
ぼくがこのことを知ったのは、留学準備が本格化した一一月の中ごろだ。部活にも所属していないくせに帰りの遅い日があることを不思議に思っていて、ふと本人に尋ねたところ明らかになった。それについて彼女は、
『言っていなかったっけ? 知らないとは思わなかった』
などと秦野のおばさんのようなことを言った。伯母と姪っ子、血は争えないようだ。
そのうえ携帯電話は、契約の都合、ロンドンで一切使えない状態になるという。現地の固定電話を使うか、手紙を書くかしないと音信不通になるのだ。三週間とはいえ、まったく予告しないとは彼女の神経は計り知れない。
「会えないならもう電車に乗る。大学に行く」
才華が遠くイギリスにいると知って、ふてくされた足立先輩は荷物をまとめはじめる。それをぼくは、まだ時間はあるのだから、と言って引き留めた。本題は終わったけれど、先輩にも興味深い話題ならもうひとつあった。
訝しんで席を立ってしまった彼女に、ぼくは鞄から手紙を取りだして見せた。
「才華からの手紙です。これなら興味あるでしょう?」
『Dear 弥くん、朝子おばちゃん
「くん」づけや敬語に奇妙な気分ですが、そういうものとしてかきます。英国生活はとても充実しています、色んなことに好奇心をそそられてパンクしてしまいそう。おなじ歴史の授業、おなじカエサルのことでも、授業する場所と言語がちがうだけなのに、まるで別人のことみたいです。
しかし、わたしのイギリスでの生活のことよりも、つたえておかなければならいことがありました。まだ弥くんはしらないかもしれませんが、一月にわたしのバースデーがあり、はずかしながら、プレゼントがほしいのです。
ゆめゆめわすれないよう、よろしくおねがいします。
***
そういうわけで、わたしの誕生日であり東京での再会の日である一月六日には、弥くんの用意するプレゼントに期待しています。もちろん何でもいいわけではなくて、リクエストがあります。わたしの希望は、上の六行に書いておきました。つまりは暗号です。ただお願いするだけではつまらないでしょう? 解読すべき暗号と鍵は、文章の頭から読めば、弥くんならすぐにわかるはず。江里口たちと相談してみてもいいけれど、弥くんでないとわからないかも。
ロンドンにいるうちにまた手紙を書くかもしれませんが、とりあえずこのくらいで。みんなによろしく伝えておいてください。
Sincerely
家入才華
p.s. わたしの帰国後に電話してきてもヒントはあげないからね』




