その12
期末テストが近づいてくるほど勉強する意欲が削がれていく――そんな経験はぼくだけのものではないと思う。イベント盛りだくさんだった二学期が終わろうとしている感慨や、成績に対する緊張感とそれに疲れてサボりたいという葛藤、涼しくなってきた空気などが集中力を粉々にしてしまう。焦りとは裏腹に行動が伴わない昼下がり。
気分を変えたいので、暖房を切り、参考書の一冊を手にして階段を下りた。自室で勉強するべきだとは思いつつも、秦野のおばさんや才華がときどき顔を見せるリビングのほうがかえって飽きずに勉強できる感覚があった。温かいコーヒーを飲みつつ勉強できるところもポイントが高い。
階段を下りた先、玄関でおばさんと鉢合わせる。
「あれ、出かけるんですか?」
きょうは日曜日なので、普段ならおばさんが出かける用事はない。それなのに、彼女はダウンを着こんで財布を入れたポーチを肩にかけ、買い物に出かける様子だった。
「あしたの夜急用で出かけることになったから、作り置きする材料を買いに行くの」おばさんの声はとても小さい。ほとんど囁いているかのようだ。「いま上に行って弥くんにも声かけるつもりだったの。リビングで勉強する?」
そのつもりだと言うと、おばさんは「じゃあ、これで」と言って口の前で人差し指を立てると、割れ物でも扱うかの如く静かにドアノブを引いて外へ出ていった。
何をこそこそしているのだろうかと思いつつ、リビングへ続くドアを開く。そういえば、おばさんは出かけるはずなのにリビングの照明も暖房も点けっぱなしだ。ぼくがリビングにいるかを気にしていたのは、消してほしいという意味だったのだろうか。
でも、疑問はすぐに晴れた。ソファには先客がいて、座って俯いた姿勢のまま動かない。
「才華、勉強しながら寝ちゃったのか」
テーブルの上にはノートが広げられ、その脇には冷めたコーヒーも置かれていた。
おばさんがかけたのであろう毛布を被っている。寝ぼけながら肌寒さを感じたのか、器用に毛布を抱き込んで、腕を組むようにして寝息を立てる。蟻塚のような三角形ができていた。
こうなるまでの経緯を想像してみる。おばさんは、買い物の必要に気づいて才華に声をかけようとしたところ、眠ってしまっていた。起こすのはかわいそうなので寝かせていたいけれど、秋から冬へと向かう季節、放っておいたら風邪を引いてしまう。毛布を掛けて、暖房も消さないでおいた。
明かりがそのままなのは、才華はそのほうが気持ちよく眠れるからだろう。明かりが消えたことに気がつくと目を覚ましてしまうのかも。そう考えると、起きているときと違って、眠っている才華は相当デリケートらしい。
毛布で作る団子から顔だけを出す才華は、この世の幸せを噛みしめるような、穏やかな顔で眠っていた。その寝顔は、好奇心に目を輝かせる無邪気な表情や、推理を巡らせて眉間に皺を寄せた表情、退屈さのあまり機嫌を損ねているときの表情などからはかけ離れている。眠っているあいだだけは、興味引かれることがあろうとなかろうと忙しく働く頭を真っ白にしていられる、安らかな「無」の時間なのだ。
クールな印象が強く、いつも理屈を巡らせて淡々とモノを言う姿ばかりイメージする彼女だけれど、幼い子どものような寝顔を見て思い返してみると、感情表現豊かで賑やかな女の子なのだと気づかされる。眠ってしまうまでノンストップ、彼女は一秒たりとも無駄にはしない。
「……あかん、勉強しよう」
ふと我に返って、自分のしていたことが恥ずかしくなる。同級生の女の子の寝顔を覗きこむなんて、客観的には変態の所業である。親戚とはいえ、一緒に住んでいるとはいえ、別の寝室を持っている時点でそれは許されていないと考えるべきだ。
でも、いま自分が部屋を出ていったら、絶妙なバランスでピラミッド型を保っている彼女が倒れてしまうかもわからない。頭をぶつけてしまうことも考えられる。そう思うと、顔をじろじろ見ない限りで、近くにいたほうがいいような気がする。
寝顔をもっと見たいとか、離れたくないとかいう下心はない。断じて、そのような邪な心はありえない。ぼくは才華を心配しているから、リビングに残って勉強をするのだ。そう、これは仕方のないことだ。慈善事業である。
斜めに向かい合うソファに座り、参考書を手に取る。
つまり、カルビンベンソン回路は光合成の反応を示していて、要するに二酸化炭素を……二酸化炭素を、どうするんだ? 光合成だから、最終的に植物が養分を手にすれば……ええと、養分ってなんだ?
ああ、やる気のないときに勉強するものではない。気分を変えようと思って下りてきてはみたものの、気分が乗らないときは乗らないのだ。受験勉強のころにも、無理に勉強を進めようとして後悔したことがあったではないか。
そうだ、そういえばコーヒーを飲みたいと思っていたのだった。コーヒー……ああ、キッチンに行かないと。でも、勉強する気になれないから、コーヒーも要らないな。あとで淹れればいいや、あとで……そう、あとで――
はじめモノクロに見えた景色は、だんだんと色づいていく。忘れることはない、三月に見た桜並木のピンク色だ。
この場所で桜を見ているということは、隣には才華が座っている。
しかし不思議な感覚が胸に引っかかる。同じ才華なのに、ぼくの見知った才華ではないような気がする。同じぼくの目で見ているのに、まったく異なった彼女が見えていると感じられる。違う、何かが違う。何かが変わっている。彼女自身? ぼくの見方? それとももっと、形而上学的な揺らぎ?
奇妙な思いは手なずけられず、それなのにどうしてか、微笑んでしまう。
「才華。来年も桜、見に来ようね」
すると彼女は、ぼくに微笑み返してくれたような気がするのだけれど、モザイクがかかっているかのように、のっぺらぼうと出会ったかのように、その表情がぼくにはよく見えない――
コーヒーの香りがする。
はっとして顔を上げると、いつの間にか自分が毛布を被っていることに気づく。才華がかけていたはずのものだ。もしかして、ぼくもソファで気持ちよくなって眠ってしまっていたのだろうか。
「あ、起きた」
コーヒーの香りは、才華が淹れなおしたカップから漂っていたらしい。カップを包み込むように持ち、テーブルに置いたノートを見下ろすように読み返しているところだった。
「毛布、かけてくれたんだね。ありがと」
「ん」
背後を振り返ると、おばさんがキッチンで食事の準備を始めていた。生物の参考書を読んでいたのは昼過ぎ、その時間はまだおばさんが買い物に出かけたばかりだったから、記憶とかなり違った光景が目の前にあるということだ。時間の感覚にぽっかりと空いたギャップを埋めるべく時計を見ると、どきりと心臓が跳ねる。ああ、きょうもテスト勉強が進まなかった。
昼寝でこれほど熟睡してしまうとは。
「頭が重い……寝すぎたみたいだ」
「ぐっすりだったからね。寝言も言っていたくらい」
「嘘、ぼく何を言っていたの?」
「あ、そうだ。弥のコーヒーも淹れてくるよ」
ぼくの問いには答えず、才華はソファを立ってしまう。なんだよ、気になるのに。
夢の中で何か言っていて、現実でもそれを口にしていたのかもしれない。でも、ぼくは一体どんな夢を見ていたのだろう? 夢を見ていたような気はするけれど、どんな夢だったかは思い出せない。
「ねえ、才華。教えてくれたっていいじゃないか」
コーヒーを淹れて戻ってきた才華に問う。それでも答えてくれない。ついでに、ちょっとした異変を発見する。
「そういえば才華、顔が赤くなっていない? 涼しいのに昼寝するから、もしかすると風邪引いたかもよ?」
「そう? どうってことないけど」
ぼくのカップをテーブルに置くと、ぼんやりとした様子で自分のコーヒーをまた味わいはじめる。
「なんだよ、何を聞いても答えてくれないじゃないか」
「そういう弥だって、体冷やしてない?」
確かに、寝覚めだと体の芯まで涼しさが沁みてくる。
……はっくしょん。
【登場人物 File.08】
○家入才華 ――1年F組 帰宅部
弥と下宿で同居中の天才的少女。ある日同級生に弥との関係を問われて「はとこ」と答えたら、「はとこって何?」と言われたので困ってしまう。「またいとこ」でも伝わらない。仕方なく具体的に姻戚関係を説明したところ「遠い親戚?」と返されて、ふてくされるよりほかになかった。
「なんだ、その程度か。こんなの簡単な話だよ」
☆家入(←ホームズ)+才華(←シャーロック)