III
姫川先輩の登場で、森崎先輩の表情には明らかに困惑の色が浮かびはじめていた。
彼女はちらりとぼくに目配せし、ぼくは頷いた。メールを読んだ、という合図である。森崎先輩の計画のシッポを掴もうとしている、先輩からも彼に言いたいことがあるのではないか、と侵入前に先輩にメールしていたのだ。
「家入さん、会うのは初めてですね」姫川先輩は才華に柔和な微笑みをみせた。「話は聞いています。森崎を相手に諦めなかったのはすごいことです。久米くんから聞いていた以上でしょう」
はあ、と才華は呆気にとられている。ぼくがいなければ、出会うことのなかったふたりなのかもしれない。
ただ、いまは出会いを喜ぶ場面ではない。真偽を争う相手がいる。苦々しい表情の森崎先輩は、見下ろすようにして姫川先輩と向かい合う。
「その一文、憶えているよ。僕へのあてつけもいいところだった」
「書かずにはいられなかったものですから」
ぼくもその文章には出会ったことがある。ぼくだけではない、才華もだ。「たとえ無意味だったとしても、真相を知る自分が語らなければならない」とは、姫川先輩が中等部のころに書いた小説『闇に紛れて』の終盤の一文である。
作者の姫川先輩が森崎先輩を意識しながら書いていたとは――思い出してみれば、そう解釈できなくもない。やや安易な読み方をするならば、主人公の「増川」と「塩崎」がちょうど「姫川」「森崎」に対応していて、塩崎の振る舞いは森崎先輩を意識して描かれていたとも考えられる。
だとすれば、姫川先輩が森崎先輩に向ける不信感は相当根深い。塩崎は自分のサークルの中で起こってしまった殺人事件を隠蔽しようとするあまり、自ら殺人を犯して事件の経緯を強引に改変しようとする。保身に怯え、誤った仕方でその不安を解消しようとして大きな間違いを犯してしまう、悲しい人間として描写されていた。物語に救いようのない破局をもたらす人物だ。
小説の通りではないにせよ、姫川先輩が森崎先輩をそのように評していたのなら「平気で嘘を吐く」と苛烈に批判するのも無理はない。
「森崎、あなたの動機は不純なもの、いえ、不純かどうかは価値観によるでしょうが、少なくとも個人的な都合です。他人を巻きこむには身勝手すぎる感情的な動機です。結果的に良いことができるからといって、その動機まで正しかったことにはなりませんよ」
天保の成績ナンバーツー、将棋部部長は強い口調でかつての仲間を責めたてた。
「私は知っています。あなたが中学二年生のときに赴いたあの地で、地元中学校の女子生徒と懇意にしていたことを」
活動先の仲の良い女の子の存在。森崎先輩はその夏の日々が楽しくて仕方がなかった。
ということは、まさか、プロジェクトを通して女の子とまた会いたかったのか?
そんなことが動機の根本だったと?
活動では中学生から大学生までの様々な若者が揃っていた。天保の代表と地元の学校の生徒とが交流することも大切な活動の趣旨だった。それゆえ、ひとりくらいは思い入れの強い友人が見つかっても自然なことだが、そういう存在が森崎先輩にいて、彼の策謀に繋がっていたとは想像もつかない。
才華の表情を伺うと、彼女も驚いた様子だった。いくら才華でも、推理でこの事実に辿りつくのは不可能だろう。
「名前は忘れてしまいましたが、森崎がその子と楽しそうに話し、一緒に活動していた様子は忘れもしません。私は生徒会新聞に載せる写真を撮る、記録係でしたから。誰がどのように過ごしていたか、参加者としての立場だけでなく、一歩引いた立場としてもよく見ていました」
一旦言葉を切って、息を吸う。
「森崎がそこまでプロジェクトに固執しているのは、その子と作ったタイムカプセルがあるからですね? 花壇の隅にこっそり作っていたのを見ていますし、私が撮った写真の中にはそれが映りこんでいるものもあったはずです。それを掘り返しに行きたかった、違いますか?」
問われた側は口を閉ざしたままだ。黙りとおすつもりだろうか。
代わりに、はっとしたように才華が口を開いた。
「タイムカプセルは何かの節目に、埋めた人と一緒に掘り起こすもの。花畑のプロジェクトには、わかりやすいそのタイミングがある――五年ごとの完成予想図が。来年はちょうどその区切りを迎え、高校の最終学年にも重なる。タイムカプセルを開くにはこれ以上ない。だから来年は何としてもそこに行き、その人に会いたかった」
姫川先輩は頷いた。ぼくたちの正しさを確信した一瞬だった。
「その通りです。そういう事情がなければ、ボランティアにここまで熱を上げることはないでしょうから。根っこにあるその感情は、何としても事を進めようという意志と、事を秘密裏に進めようという計画につながります。
森崎は昔から体裁をよくするために嘘を吐いていましたね。少しお願いをするにも理由をつけたり、まずいことがあったら自分はちゃんとやっていたと主張したり、自分の評判が下がるのをひどく嫌いました。
ボランティアを復活させたかったのなら、そのようにすればよかったんです。わざわざ演劇部を分裂させるようなことが必要だったはずがありません。どうして、正面切って、真面目に、粘り強く提案していこうという気にならなかったのですか!」
まるで平手打ちをするような叫びだった。自分とは相容れない存在に対して積もり積もった感情が乗っかっている。才華と江里口さんのような生易しい反目の仕方ではない、もっと心の奥深くのどこかに絶対に共感できないものがあって、磁石の如く反発するしかない関係なのだ。
敵の王将は完全に包囲された。飛車と角行に挟み撃ちにされている。歩兵も非力ながらお手伝いをさせてもらった。王将の傍には金将もいるが、王将を守る動きは見せていない。もはや退路はないはずだ。
「言っただろう、僕たちが真っ当に企画したところで、誰も聞く耳を持たなかったと」
追いこまれた生徒会長が口を開いた。身体を揺すっているように見えるのは、彼の手足が長いというだけではなさそうだ。
「僕は認めないぞ。僕は何ひとつ間違っていない。ああ、確かに姫川の言うような動機もあったさ。でも、動機なんてそんなものだろう? 結果として良いものが始まるのだから、誰も困ることはない、むしろ良いことしか起こらない。それでどうして、僕は間違っていると言われなければならないんだ!」
恥を知らない天保の象徴は、胸を張って主張を振りかざした。
先刻の開き直りとは違う。自分を正当化したいのではなくて、自分が正当化されないのが納得できないという意志表示である。もはや彼は嘘を吐いていない。ぼくたちが辿りついた真実の意味をわかっていないのだ。
「方法が間違っていると言っているんですよ、わかりませんか?」何とかして認めさせたい、その気持ちだけで突っ走って、ぼくは生徒会長に食ってかかっていた。「どうしたら認めてくれるんですか? 認める気になりますか? そうだ、勝負をして賭けるのでもいい。ぼくが勝ったら計画を正直に話してください」
「くだらない、誰が乗るものか」当然、ぼくの意見など通るはずがない。会長はもはや議論を終えたという態度で、踵を返し退室しようとする。「僕はひとつも間違っていないんだ。やり方が間違っていた? 関係ない――所詮は意図の問題だ、僕が否定すれば何の意味もないことだ。足立、そろそろ行こう。午後の日程もある」
そう言って肩越しに足立先輩を振り返った刹那、「え?」と声を漏らす。彼にとって不測の事態だった。泥沼化していくとみえた争いは、呆気ない形で決着を迎えることになる。
足立先輩がスマートフォンの液晶をこちらに見せていた。
「茶番は終わった? 面白いものが録れたよ」彼女はスマートフォンを用いて、いまのやり取りを録音していたのだ。停止ボタンを押して、ポケットに仕舞う。いままでずっと黙っていたのは、自分の声が入らないようにするために違いない。「くだらないのはどっち? 勘弁してほしいな」
この場の主役は一転して言葉を失った。
彼の強みは、体裁を整える言い分さえ持っていれば、多くの人の信用を失わないで済む点だ。たとえ才華が彼の計画を暴いたとしても、別の相手には「そんなことはない」と説明し続ければいい。だから彼は、才華を前にして強気の態度でいられる。
しかし、足立先輩はその強気の態度そのものを記録してしまった。これでは、いくら自分の正当性をアピールしたところで虚しい。否定すれば意味はないなどと本心を語ってしまった音声が動かぬ証拠となって、意図の問題では済まされなくなる。
その弱みに気づく足立先輩も恐ろしい。恋の駆け引きで自分が不利に立たされないよう何人もの相手を嵌めてきたのも伊達ではない。
彼女は森崎先輩には興味がないというふうに、才華や姫川先輩に目を向ける。
「英奈も才華ちゃんも、こういう相手に真正面から取り合っていてはダメだね。まともに議論しようとしない相手なんだから、こっちもまともに議論しないのが正解。そういう意味では、弥くんはマシだったかな」
けらけらと笑って話す足立先輩に、森崎先輩だけではない、誰もが呆然とするしかない。演劇ボランティア部を立ち上げるなど、計画の重要な場面で協力してきたというのに、何の前触れもなく掌を返してしまったのだから。
「足立! お前、裏切ったな!」
いきなり主役を奪ってしまったヒロインは、共犯者の絶望的な叫びにも笑いが止まらない。もはや腹を抱えて、「息が苦しい」とまで。
「その台詞最高だね、悪役が言うにしたって安すぎてバカみたい。B級作品でも絶滅した台詞だよ。こんなに笑えるものが聞けるなら、録音を切らないほうがよかったかも。いい? 『裏切り』っていうのは、仲間に使う言葉。私がいつ森崎の仲間になったっていうの?」
「どういうことだ? Inter-Actと協力して、プロジェクトを進めていたじゃないか。演劇部も退部したじゃないか」
「知らない、それは私がそうしたかったからそうしただけ。Inter-Actの幹事長、真面目でカッコイイから話してみたかったの。あと、演劇部も結構息苦しかったから。周りはちやほやしてくるけれど、それで部長がやっかむんだもの。せっかく主演になっても、自分で方針を決められないのはフラストレーションだったね。私抜きでやっていけないくせに。だから、演劇部を潰して自分の部活を作るなんて、スリリングで気持ちよかったよ。仕返ししてやったって感じ。
……まあ、そうは言っても結局、私は演じられればそれでいい。演劇部だろうと、別のところだろうと。それが社会貢献になるなら、悪い気はしないしね。だから、私は森崎に協力したというよりは、やりたいことが森崎の利害と矛盾しなかっただけ。味方でないのにそう見せることができたのなら、演技派女優の面目躍如だね。
というか、森崎は演劇部を潰すつもりはなかったんだよね? そうだとしたら、どうして私に裏切られたつもりになれるのかな?」
梯子を外されるなんてものではない。森崎先輩はがっくりと肩を落とし、テーブルに手を突いた。その落胆たるや、反論するとか、携帯を奪うとか、状況を覆そうという気概がまったく起きないほどだ。
「愛莉、いったいどうして……?」
気の毒になったのか、態度を一変させた理由を姫川先輩が尋ねる。当初から森崎先輩に与したつもりでなかったとしても、彼と意思疎通していたのは疑いない事実だし、何も録音までして彼を貶める必要はない。ぼくも才華も、彼女がどう答えるのか、彼女の表情を注視した。
しかし、彼女は笑顔すら引っ込めて、説明不要と言わんばかり、ごく当然の判断だったというふうに話す。
「期待外れだったってことだね。もとはと言えば、生徒会長になる野望を持っている奴を、私の思っている通りに転がせたら楽しそうだったから近づいてみたの。しかもその野望がボランティアをやりたいからだなんて、バカみたいに真面目でカワイイでしょ? だから選挙の応援とか、実行委員長とか、演劇部の退部とか、いろいろ餌を撒いてみた。
でも、いまの話を聞いてがっかりしちゃった。私がいくら喜ばせてやっても全然靡かないから変だと思っていたの。ようやくわかった、要するに最初から、どうしたって靡くことはなかったんでしょ? 思い出の女の子にぞっこんなんだから。刺激の強い恋愛は好きでも、負けるだけの恋愛に興味はない。そういう女優になったら演技の幅が狭まるもの」
彼女はもう一度携帯電話を取りだして、それを示した。
「でも、このままじゃ完敗。そんなの嫌だよ、私は恋に無敵でないと。私のほうから離れていくなんてありえない、森崎のせいでなくちゃ。こんなに良い音声が録音できるなんて、想像以上だったけれど」
言ってみれば、彼女はずっと演技をしていただけだったのだ。相手を自分に夢中にさせて楽しむための、恋の駆け引き。それが通用しないとわかると、その演技を利用しながら相手の非ということにして離れる。ただしそれは決して恋に破れたのではなく、弱みを握ることで結果的に自分のいいように相手を動かすことができたのだから、足立先輩の駆け引きは勝利に終わったのと同じこと。
これでは、目を付けられた相手に勝ち目がないではないか。
「じゃあね、楽しませてもらったよ」
嫌味に手を振ってそう言うと、彼女は生徒会室を退出する。トレードマークのサイドテールは、踊っていた。
残された四人の中で、姫川先輩がぽつりと呟く。
「愛莉には敵いませんね、彼女は演技が上手すぎます」