I
学園の熱気は静まりつつも、別の興奮が蠢いている。
二日間という長くて短い祭典が終わり、ぞろぞろと人の流れが校門から吐き出されていく。両手の袋に景品をいっぱいに詰めた初等部の子どもは有り余る体力で駆け抜けていき、中等部の生徒たちは名残を惜しみながら半分の歩幅で校舎に背を向ける。
その中で高等部の生徒たちだけは、反対向きに歩みを進めていた。彼ら彼女らの進む先、体育館に、静まる空気に逆らう熱気が滞留している。秋穂祭のクライマックスは、むしろこれからだと言わんばかりに。
午後四時、文化祭閉幕。一時間の撤収作業ののち、後夜祭が始まる。
危険なことをしない限り、すべて高校生だけで運営されるステージ。冒頭に出展団体の人気投票の結果が実行委員から発表され、そのあとはダンス部のパフォーマンスやバンドの演奏といった、ただひたすら興奮するだけの一時間半のプログラムだという。
勉学にスポーツにと忙しい天保の高校生活から解放される、年に一度の「特権」に、同級生たちのほとんどは体育館に吸い込まれていった。しかし、ぼくは反対向きに歩みを進め、小中学生の流れを見守っていた。
「あ、久米くん。後夜祭は?」
通りがかった江里口さんがぼくに気がついて歩み寄ってきた。彼女のいでたちはグレーのブレザーに元通り、もはや森ガールではない。うん、彼女は眼鏡をかけていてこそだ。
「考え中」
「家入次第ってことか」
そんなところ、と肩を竦めてみせる。
「それって、『帰りたい』って言っているのと同じじゃない?」江里口さんもぼくと同じように肩を竦めて、苦笑い。「家入も久米くんも、大声出して飛び跳ねるタイプじゃないだろ?」
「正直なところ、そうだね。そういう友達がいれば話は違ったのかも」ぼくは目の前の女の子と付き合っているクラスメイトを思い浮かべながら言った。「江里口さんだって、同じ側だよね」
他人の才能を羨むあまり目を逸らす平馬と完全に共感するわけではないけれど、後夜祭に自分が馴染めるとは思っていなかった。高校生たちが貴重な「自由」を謳歌するその場は、天才たちが羽を休めて凡人に戻る場ではない。才能を遺憾なく発揮するところだ。文化祭それ自体がそういう性質を持ったイベントなのだけれど、クラスや部活、そして何より先生たちといった最低限の拘束すらも解放してしまう後夜祭は、比べ物にならないと想像がつく。ぼくに許される「自由」ではないように思えた。
平馬は当然来ない、ゆえに江里口さんもこうして校門から学校を出ようとしているのだろう。「同じ側」とはちょっとからかいを含んでいたが、彼女は食らいつかない。代わりに、もうひとりぼくに歩み寄ってきた少女を見て、にやにやと笑みを浮かべた。
「よう、家入」
「何? 江里口も一緒にいたの?」
まばらになりはじめた人の流れの中から、ぼくの同居人が現れた。左肩にはスクールバッグをかけ、右手には紙袋を手にして、疲れた表情を見せている。その顔を見ると、きのうの昼間メイド服姿でにこやかに接客していたのが嘘のようだ。
江里口さんにとっては、才華の接客がよっぽど面白かったようで、もはやメイド姿ではない才華に対しても思い出し笑いが止められない。
「家入、案外文化祭を楽しんでたな。全力で営業スマイルを振りまいて疲れたか?」
いつもの他愛無い口喧嘩が始まるかと思ったが、きょうはその余裕がないほど才華が疲れ切っていた。
「メイド喫茶は別にいいの。それより、きょうはナオコさんに振り回されて……」
才華を「予約」していた蓮田さんのことだ。名前は祥子さんだけど。彼女のことだ、気乗りしない才華を半ば強引にいろいろと連れまわしたに違いない。
「その紙袋も蓮田さんと一緒に買ったの?」
「そう、写真部で買わされたフォトフレーム。お揃いにしようってうるさくて、断っていたら『おごる』とまで言われて……ほかにもそういうものがいくつも」
買わざるを得なくなったのか。倹約家の才華には苦しかったろう。傍らの江里口さんの笑いは、息苦しそうなほどに高まっている。
彼女も文化祭によっぽど懲りたとみえ、後夜祭に行くかと問えば間髪入れず「嫌だ」と返ってきた。祥子さんは実行委員で忙しいから後夜祭で会うことはないと言ってみても、早く帰って休みたいと言う。
やっぱりな、とぼくと江里口さんは目配せして、にやり。そのまま踵を返そうとすると、才華のケータイから着信音が響いた。
『才華さん! 困ったことになったの、知恵を貸して!』
才華が顔を背けるほどの大声が蓮田さんのものであることは、離れて立っていたぼくたちにもすぐにわかった。
困っているというから無視をして帰るわけにもいかないし、江里口さんも困る才華を見たくて仕方がないようで、ぼくたちは呼び出されたゴミ集積所へと向かった。ゴミ集積場はどの校舎からもアクセスをよくするため、中庭の端に位置している。
「実行委員も大変だな。今度はゴミ捨て場か」
江里口さんが感心して呟く。確かに、彼女は更衣室の見張りや落とし物番などもこなしている。三〇分ほどあとの後夜祭でも役割があるようなことを言っていた。
この持ち場で困りごとということは、片づけが手に負えなくなったのだろうかと見回してみるが、そんなこともない。開催時間中も常に実行委員が見張りについていただけあって、ゴミは整然と分別されていた。そもそも本格的な片づけはあした予定されているから、きょうはとにかくゴミを整理して、ネットをかけておくだけで充分と思われる。
「あ、来てくれた!」
校舎の陰に夕日が隠れる薄闇に、ビビットピンクのメッシュとTシャツが浮かんでいた。髪を染めている蓮田さんは森ガールやメイド衣装のようにはいかず、まだまだ文化祭モードの恰好だ。
実行委員の腕章をつけた彼女は、ぼくや江里口さんが見えていないかの如く才華を見つけた途端飛びついた。
「助けて! 才華さんならきっといいアイデアがあると思うの」
「はいはい……」
才華は嫌な顔を隠そうとせず、まとわりつくクラスメイトを引きはがそうとするも、蓮田さんはしつこかった。
「早くはなして……」
放して、話して。
さすがに江里口さんも面白がる気になれなかったのか、蓮田さんの肩を引いて才華から離れさせた。これで少し冷静になったらしく、蓮田さんが事情の説明をはじめる。
「まずね、これを見てほしいの」
指差した先には、可燃ゴミの袋があった。クレープの包み紙や焼き鳥の串、割りばしといった屋台で売られていたもののゴミや、二日間で大量に配られたビラなどが押し込められている。プラスチックのカップや空き缶などが入っている様子はなく、外から見ただけでは特に問題ない。
しかし、蓮田さんが縛られた口を開けると、事情が変わった。
「これ、どういうことだと思う?」
そこには、大量のオレンジ色の紙切れ――秋穂祭の金券があった。
秋穂祭では現金で売買を行わない。代わりに、生徒会から一枚一〇〇円の金券を必要数購入して商品と交換する。ものを売った団体はそれを生徒会指定の台紙に貼りつけて提出することで、団体の売り上げ額ぶんの現金を生徒会の金券売り上げから受け取れる。売買された金額を明らかにし、同時に金券の再使用を防ぐ効率的な仕組みだ。
学校の先生にしてみれば、生徒たちが現金をやり取りして何らかのトラブルを起こしても困るから、せめて生徒会のもとで一括に管理できるシステムにしたのだろう。
その金券も、文化祭でしか使えないだけでお金であることには違いない。しかも、文化祭終了後には使い切れなかったぶんを換金できることが知らされている。
「返金を知らなかったのかな? もったいない」
ふと感想が漏れた呟きだったが、江里口さんと才華は「それはない」と口を揃えた。
「それならどの袋にも少しずつ捨てられているだろうね」と江里口さん。
「この袋にしかなくて、しかも大量。理由があって捨てたんだよ」と才華。
ふたりの相容れない天才から揃って否定されてしまえば、なるほど、と感心するしかない。見当違いなことを言ってしまった。
蓮田さんも感心しきって、
「これならすぐ解決できるね! 後夜祭までに何とかしたいの」
と声を弾ませる。
「そうは言うけど、どうしたいんだ?」江里口さんは少し照れた色を含みながら、蓮田さんに聞く。「捨てた奴が悪いんだからそれでいいじゃないか。それに、祥子が一旦集めて持っておいて忘れ物ってことにもできる」
「どっちにしても面倒なことになるでしょ?」蓮田さんは焦りの心境を語る。「放っておいてこれが何かのイタズラやいじめだったら大事だし、かといって私が持っておくと、泥棒呼ばわりされるかも」
蓮田さんの良心に頷きつつ、小心なところにちょっと呆れてしまう。三〇分で金券の問題を解決するアイデアを提示せよ、ということでははっきり言って丸投げである。
江里口さんもやや呆れた様子で、とかく意見だけ言ってみる。
「想像できるとしたら、そうだね……金券を作っているのは生徒会でしょ? 作りすぎたんじゃない?」
「なるほど! じゃあ生徒会に訊いてみればわかるかも!」
さっそく光明が見えたかに思われたが、拙速なアイデアだったらしい。すぐに誤りであると確認される。
「それはない。金券の番号に決まりが見られない」
しゃがみこむ才華からの意見だ。彼女はゴミ袋に手を入れることを厭わず、五〇枚ほどはあろうかというそれを束にして調べていた。どうやら、彼女の「気になる」アンテナに引っかかっているらしい。先刻の疲れ顔が嘘だったのかというほどに目を輝かせている。
「番号に決まりがあると、生徒会が捨てたんちゃうとわかるん?」
「簡単な話だよ。余って捨てたなら、番号は振られる前か、連続する数字のはずだから」
生徒会から金券を買うと、その場で番号がスタンプで押されていた。金券は画用紙に印刷されただけのものであるから、偽物を作られないために必要な工夫である。返金手続きでも参照されるはずだ。
つまり、作りすぎが発生していたとしてもその番号がバラバラということはありえない。才華の言う通り、配布前で番号がないものか、配布を控えていても出番がなかった連続する大きなナンバーのものでないと矛盾する。
「というか、金券は足りていないという話をしていなかった?」
問われた祥子さんは、はっとしてから照れ笑いした。
「そういえばそうだった……追加で印刷していたくらいだし」
頭を掻く蓮田さんを、江里口さんは睨みつつも呆れ笑い。どこか抜けていて憎めないのが蓮田さんである。
まあ、捨てるにしてもゴミ捨て場に適当に捨てることはないか。文化祭の運営を担う生徒会がわざわざ混乱を呼ぶようではあかん。番号のスタンプが押されているのだから、使用可能な金券だ。糊づけの台紙と番号とで二重に警戒していたはずの、金券使いまわしの不正が起こってしまう。
「それより気になるのは、この金券、偽物かもしれない」
「え?」
才華から物騒な言葉が聞かれたとき、驚いた声をあげる三人のほかに、もうひとり、言葉を発する男子生徒がいた。
「それは聞き捨てならないね」




