その9
「ただいま」
秋穂祭後の一週間が終わった。授業が午前のみの土曜日、才華よりも一足先に帰ったぼくは昼食も終えて野球中継をソファでくつろぎながら眺めているところだった。遅い帰りの才華は、何やら大きな荷物を手にしていた。
「おかえり、遅かったね。それは?」
「これ? メイド服」
「ふうん」
なんだ、メイド服か。
うん?
メイド服!
「どうしてそんなものを?」
「文化祭で使ったやつ」
言われなくてもよく憶えている。才華はそのメイド服を着、クラスメイトの誰よりもそれになりきって接客していた。メイド喫茶は出展団体の人気投票でもなかなかの順位につけていて、才華が貢献していたのは間違いない。
しかし、彼女がそれを身に纏った姿はできるならもう二度と見たくない。メイド服それ自体に不道徳な意味がこびりついてしまい、ぼくもそういうイメージを持ってしまっている以上、あまりに煽情的なそれを彼女が着る様子は正視に堪えなかった。
才華はそれを手に入れた経緯を続けて説明する。
「誰も持って帰ろうとしないし、かといって捨てるのももったいないからもらってきた。帰りが遅くなったのもそのせい。これの処分をクラスで話し合っていたから」
事も無げに語るが、家にあっても無用の長物――寝間着くらいにはしてもいいかもしれないが、寝心地は最悪だろう――であるそれを持ち帰らせるというのは、ある種のいじめを疑ってしまう。話し合いなどというものはなく、本当は同調圧力の中で押し付けられたのではなかろうか。
当の本人には、気にする様子がない。
「それ、どうするの?」と問えば、「わからない」と返す。続けて「わからないのに持っているの?」と尋ねてみると、「一応」とぼやけた返事。「使わないよね?」と問うと、「だろうね」と答える。
どうやら、持ち帰ったのは役に立つとか必要があったとかいう理由ではなくて、メイド服を着るのが楽しかったので、捨てるのを勿体なく思ってしまったからだろう。着道楽の傾向のある才華だ、広く言えばコスプレも好きなのだろう。
部屋に置いてくる、と言って才華が階段を上がっていくと、ぼくはもう野球観戦どころではなくなってしまった。才華はコスプレが好きなのかもしれない、というふとした気づきが、ぼくの頭の中をくだらない妄想でいっぱいにしてしまったのだ――
涼しい季節になってくると、インフルエンザが心配になってくる。入院して授業を受けられなくなったりテストを受験できなかったりすると大変だから、冬が本番になる前に、ぼくはできるだけ予防接種を受けることに決めていた。
病院の外来の椅子に座っていると、名前を呼ばれて奥の部屋に案内される。そこで看護師さんが待っていて、ちくりと注射をするのだ。
白衣の天使は「家入才華」と書かれたネームプレートを首から下げていた。清潔さを感じる真っ白なナース服は、首筋や腕などの露出する肌とのギャップもあって、長身で手足の長い彼女に良く似合う。髪を束ねて被るナースキャップが彼女の真面目な仕事ぶりを想像させる。扱いなれた様子でてきぱきと注射器を支度していた。
しかし、カーテンをくぐっても彼女はぼくを案内しようとしない。
「あの、そこに座ればいいですか?」
彼女の前の椅子を示して問うてみるが、彼女は首を横に振った。
「問診表に嘘を書きましたね? 赤い顔に、断続的な咳、ときどき鼻を啜り、痛む関節を気にするような歩き方をしている……予防云々どころではなくて、検査をすれば陽性が出ると思いますが?」
検温をすり抜けた方法も話したほうがいい? と看護師は口を尖らせた。
……ううむ、これなら才華は医師のほうが似合っている気がする。
個人経営で小規模な家入医院は、かかりつけ医院として窪寺の地域住民から信頼を得ていた。ひとえに医師の腕の良さのおかげである。そんな有能な医師と縁あって、ぼくは事務職としてともに働いていた。
しかし、困ったことになった。次に診察を受けてもらう患者さんのカルテが見当たらない。
「先生、江里口さんを案内したいのですが、カルテが見当たらなくて……」
診察室を覗いてみると、先生はいつの間に手にしていたのか、探しているカルテを眺めて机に向かっていた。
グレーのタートルネックのセーターに、濃紺のチノパンという姿はいかにもごくありふれた、庶民的ないで立ちであるが、そこに白衣をひっかけ聴診器を首にかけることで街の天才内科医としての恰好が完成する。医学生時代の勉強が祟ってかけるようになったフチなし眼鏡も、彼女の聡明さを表現している。
「先生、無断で持ち出されては困ります」
「ああ、それはごめんなさい。さっき待合室を通りかかったとき、江里口さんの顔を見てね、あの感じだとただの風邪らしいのだけれど、一応過去に何で来ていたか調べないといけないと思って、気になっちゃって」
「診察なしに診断しないでください……」
ここは病院。融通が利く、ということでは済まないよなぁ。
……なるほど、才華は医療現場には向かないようだ。理科は苦手だし、これから医大に進むこともなかろう。では、もっと才華らしい職業、彼女に似合う制服とは何があるか。すぐに思いつくものがある。
帰り道、ふと向かってきた自転車を避けたときに、左足が何かを踏みつけた。小石や空き缶とも違う感触を不思議に思って足元を見ると、折り畳み型の財布であった。
落とし物に違いない。高そうなものではないが、持ち主はさぞかし困っていることだろう。正直者のぼくは、それをくすめることはせず、最寄りの交番を訪れた。
「すみません、財布を拾ったのですが……」
紺色で揃えられた帽子に、ネクタイ、防刃チョッキ。腰には無線や警棒などの装備をじゃらじゃらと身に付ける。配属されたばかりの数か月前にはコスプレじみて見えたそれらは、いまではすっかり馴染んでしまった。水色の半袖シャツの襟を汗で濡らしながら、彼女は何やら書類を作成しているところだった。
「ありがとうございます。お手数ですが書類を記入しがてら、いくつか訊かせてもらいますね」
どこで拾ったのかとか、中身を見たかとかいろいろと訊かれる。数多の欄をせっせと埋めつつ、ぼくはそれに答えた。女性警官は財布の中身を確認し、免許証や保険証などの手掛かりがないか探る。
「個人情報にあたるものはなし……ということは、近所の高校生、おそらく一年生で、女の子。部活はテニス部でレギュラーには程遠い、一学期の試験の成績が悪かったことで親に怒られて、嫌々この夏休みから学習塾に通いはじめた。持ち主はそんなところですね」
「え?」
「簡単な話ですよ、財布を見ればわかります。コツがあるんです。次財布を拾ったときに自分で持ち主を見つけられますよ。教えましょうか?」
腕時計をちらり。意外と時間を食われている。早く家に帰りたかった。
「か、帰ります……」
敬礼してみると、彼女も笑顔で敬礼を返してくれた。
……推理力に長けた彼女にとって警官は天職かもしれないが、自分の好奇心に突っ走る彼女が組織で生きるとは思えない。出世欲もなさそうだし、一生交番勤務を望むかもしれない。それならば個人事業としての探偵のほうが向いていそうだ。ただ、探偵には決まった制服はないので、もっと別の業界で何かないだろうか。
一時間後に突然の来客の約束が入ってしまった。久々に会う相手なので、何かおいしいお茶菓子でも出せればと思い、ふらりと外に出てみたのだが、さて何を用意するのがよいだろうか。
ふと、甘い香りを嗅ぎつける。
「洋菓子屋さんか……ケーキなら無難だよな」
扉をくぐると、一層の甘い香りに包まれる。ぼくが来店したことで奥からそそくさと店員が姿を見せる。
透き通るような白色のシャツに、シックなブラウンで揃えた調理帽、スカーフ、エプロンのコントラストが美しい。縛った髪やこなれた袖口の折り返しに、彼女の職人肌が想像できる。小さな店で厳しいスイーツ職人の世界を生き抜く彼女こそ、この店のパティシエ――
……それはないだろう。才華はお菓子が作れない。
現実の業界に縛られているからしっくりこないのだろうか。いっそのこと空想上の、ゲームの世界など想像してみるのも悪くない。とんがり帽子に黒いマントで魔法使いとか、銀色の鎧をまとって剣士とか。
「……くだらない妄想だったな」
いくらコスプレといえど、現実にありえない恰好を想像したところでそれこそ妄想に留まってしまう。言ってしまえばお人形遊びで、才華をそのような無為な想像に付きわせるのは失礼が過ぎる。
そもそも、何でも似合うのだろうことは妄想するまでもなくわかっていたのだ。ともかく、ぼくの妄想はまったく無価値、くだらないことだった。
「何の妄想がくだらないって?」
背筋が凍る。才華が部屋に戻ってきて、背後でぼくの呟きを聞いていたのだ。
「いや……何でもないよ、うん」
「気になるなぁ。どうせ、お菓子も作れないくせにメイドかよ、とでも思って心の中でバカにしていたんだろうけどさ」
当たらずとも遠からず。
制服を着ていようがジャージを着ていようが、彼女の推理力には敬意を払わねばならない。
【各登場人物の所持デバイス】
久米弥……フィーチャーフォン(インターネットなし)
家入才華……フィーチャーフォン
江里口穂波……フィーチャーフォン
平馬梓……なし
姫川英奈……フィーチャーフォン
蓮田祥子……スマートフォン
二ツ木麗……フィーチャーフォン
家入舞華……なし
足立愛莉……スマートフォン
秦野朝子(おばちゃん)……フィーチャーフォン