IV
校舎の陰に隠れて薄暗い裏門は、グラウンドのスピーカーからの音もほとんど届かない、文化祭の最中とは思えないほど寂しいところだった。賑やかでカラフルの世界からは隔離されていて、来てはいけないところに来てしまったとさえ思われる。
江里口さんは佐那さんの手掛かりを聞き出そうと、ここに潜んでいるかもしれない恋人を探してみたものの、見つけることはできなかった。
「……いないか」
「もう校内にはいないのかもしれないね」
適当な段差に腰掛ける。そういえばここは、春の連休の前に江里口さんから相談を受けた場所だ。あのとき平馬は、何かと理由をつけて彼女とのデートを断っていた。本当のことを話さないのは、「面白くない」から。
いま身を隠す彼にとっては、楽しくて華やかな秋穂祭も「面白くない」ようだ。
「一応さ、想像はできてきたんだ」
彼女の声からは、普段の荒っぽい調子が消えていた。大人しくて、弱々しい。
「佐那はさ、学校説明会に行ったんだ。お母さんと一緒に」
「学校説明会? 高校入試の?」
首肯。
「家入のクラスのメイド喫茶に行ったとき、落とし物を預かっただろ? あの『テンリツ』のファイル、帆乃佳と佐那がお揃いで持っていたやつだ。あのファイルは佐那の持ち物だと思う」
ファイルくらい誰でも持っているのではないか、と訊いてみるが、彼女は否定する。あのファイルは『天使の旋律』の二次創作をしている同人サークルが作ったもので、それを持っている人は学内では相当珍しいはずだという。
「あのファイルの中には、コースを設けている高校のパンフもあっただろ? きっと、その学校の説明会だ。二年から芸術コースを選択できるらしい」
江里口さんが携帯電話で検索した高校のページを見せてくれた。音楽やスポーツのコースと並んで、芸術コースが特色として紹介されている。
学校説明会の案内をするページには、きょうの日付が記されていた。
「もっと専門的に美術の勉強をしたかったんだろうな。そういう専門的な勉強のために中等部までで天保を離れて、外部進学するケースもないわけじゃない。塾通いも入試への備えかも。選ぶ学校によっては、実技試験が必要なこともある」
彼女の画力は高校生離れしていた。天保高校でその実力を活かせる機会は、部活くらいにしかない。その部活も、彼女にとって充分な環境だったかどうか。もどかしかったことだろう。
しかし、夢のための進学には、親友の存在が障害だったといわなければならない。
「外部進学の計画を帆乃佳には秘密にしていた。まあ、簡単に切りだせることではないよな。高校で漫研を作る約束を破ることになる。だから、説明会に行くのが帆乃佳にバレないよう、なるべく誰にも見られずに学校を出ようとした。
まず開会直後、真っ先に保護者休憩室に行く。祥子が佐那を見たのはこのときだ。保護者休憩室なら生徒はあまり近づかないから、母親との待ち合わせにはうってつけの場所になる。
母親と落ち合ったら、裏門からこっそり高校を出る。写真部の男子部員に見られたのと、学校案内の入ったファイルを置き忘れていったのは誤算だったけどね。その情報からすれば、ファイルを置き忘れたのは九時半ごろで、一〇時までに出ていったことになる」
親友に黙って、親友と別れる道を計画する――不安とか心配とかいう簡単な言葉では説明できない感情がつきまとったことだろう。自身の才能や将来と、親友との絆や約束とを天秤にかけるなんて。
想像するだけで胸が締めつけられる。
ため息も出ない。
江里口さんも、同じ気持ちだ。
「あたしも嘘を吐いたんだよね、帆乃佳を叱ったくせに。佐那が学校説明会のために出かけたとわかっていて、帆乃佳にはそう伝えなかったんだから。もちろん、あたしの考えが間違っている可能性もあるけどさ」
体育座りをする彼女は、顔を膝で隠してしまうほどに身を丸めている。ただでさえ小柄な彼女がそうしていると、幼い子どもを相手にしているかの如く感じてしまう。先刻までに垣間見た、先輩らしい姿、姉らしい姿はどこかへ飛んでいってしまった。
「黙っていることは嘘なの?」
「そんな気がする。梓なら『面白くない』って言うんじゃないかな」
奴の価値判断の基準はぼくにはわからない。でも、江里口さんの言う通りだろうと思った。奴をよく知る彼女が言うなら間違いないだろうし、ぼくの友人としての期待もそう予想している。
春の連休前、平馬は自分の事情を恋人に話そうとしなかった。つまり「嘘」を吐いていた。しかしそれは、江里口さんを面倒に巻き込みたくなかったからで、もしそうなったら「面白くない」ことになっていた。だから、あえて「面白くない」嘘を吐いた。
彼女の論法なら、帆乃佳さんに進路のことを秘密にしている佐那さんも、嘘を吐いたことになる。こうした嘘を、平馬は「面白くない」と評す。本当のことを隠し通せず、最後には「面白くない」ことが起こってしまう、虚しい嘘。
「梓はいいなっていつも思うんだ。『面白い』ってあいつなりの基準があって、どういうときに嘘を吐いてもいいか自分で決められる。あれはひとつの才能だと思う。あたしには真似できないよ」
その言葉には違和感があった。
「でも、江里口さんはさっき、平馬のことを『自分に自信がない』って言っていたよね?」
「ああ、そうだね。うん、それもそうなんだよ。せっかく揺るがない自分を持っているのに、そういうところもあるんだ。明確な基準のせいで、かえって理想が高すぎるのかもしれないな。表と裏の関係というか?
簡単に言うとあいつは、自分に個性がないと思っている。特に、趣味とか芸術とか運動とか、勉強以外のところで。はっきり言って絵は下手だし、歌は音痴、スポーツもいまひとつ。
それを思い悩むあまり、文化祭が耐えられなくなったらしい。文化祭は、そういうのを披露する場だろ? 去年初めて逃げだして、あたしも結構焦らされたよ。今年の久米くんみたいに。
理由はなんとなく想像できてる。たぶん、あたしの絵を見たからだね。自分で言うのもアレだけど、あたしは絵を描ける側だから、それでいよいよ自信がなくなったんだと思う。あたしがあいつの下手な絵をバカにするなんてありえないんだから、気に病むことではないのにね」
気に病むことはない――その言葉は、才能を持つ人が言うのと持っていない人が言うのとでは意味が正反対になる。江里口さんは残念ながらそれをわかっていない。平馬の真意を知るヒントは、そこにあるような気がする。
才能は人を悩ませ、ときに嘘を吐かせる。ぼくに言わせれば佐那さんも、江里口さんも、平馬もみんな「天才」なのだけれど、そのせいで頭を痛めるのは、何も持たざる側のぼくだけではないということだ。
みんなもっと気楽でいればいいのに、と思ってしまうのは、ぼくが暢気すぎるからなのだろうか。
「さ、辛気臭い話はこのくらいにしようか」江里口さんが飛び跳ねるようにして立ち上がった。「逃げまわっている奴の相手なんかしてやらない! それに、いつまでもここにいたら『追跡中』がただのかくれんぼになっちゃうからな」
そうだね、と同意してぼくも伸びをしてから立ち上がる。
心の中では、彼女に嘘を吐いたことを詫びていた。実は、平馬がすぐ近くにいる。倉庫の裏で鞄を枕に横になっているところを見つけたが、「面白くない」と思って黙っていたのだ。ぼくと彼女が話しこんでいても彼がいきり立って姿を見せないあたり、ぼくの判断には彼も満足しているらしい。
ぼくの嘘を露も知らない江里口さんは、声を弾ませる。
「ねえ、そろそろお昼ご飯にしようよ。屋台の焼きそばとお好み焼きが食べたい」
「焼きそばにお好み焼きだって? 二ツ木家流を知るぼくは、粉物にはうるさいよ?」
「知るか。あの店行列だから急ごうよ。そうだ、紅ショウガは久米くんにあげるね」
「江里口さん、好き嫌いばっかりだね。ソース味と紅ショウガは相性抜群なのに」
悪いね、平馬。
きみの代わりに、ぼくはもう少しきみの想い人と文化祭を楽しませてもらうよ。




