III
どこに行きたいという希望が特になかったから、江里口さんのリクエストでメイド喫茶に座ることになった。
白と黒とレースが揺れるメイド服で同級生が歩きまわり、ぼくはどこに視線を向けていればいいのかわからないでいた。午前中は女子生徒が接客をしてメイド喫茶、午後は男子生徒が接客して執事喫茶になるそうだ。
「はい、よく見つけました。あと三人、頑張って探してね」
江里口さんは「追跡中」のゲームでスタンプを求めてきた小学生の男の子のグループに、慣れた様子で接している。スタンプを押してもらって喜ぶ小学生たちは、次の指名手配犯を捕まえようと教室を駆けだして行った。
「こら、走るとケガするぞ!」
「……慣れているんだね」
「まあね。バカな弟がふたりいるおかげでね」
江里口さんとは四月に出会って、もすうぐ半年になろうとしている。けれども案外、こうして長い時間一緒に過ごしてみないと知らなかった面も多い。眼鏡をかけていない顔を見るのも滅多にないことだし。
「お、店員が来たぞ」
「おかえりなさいませ、ご主人さま、お嬢さま。お待たせしてしまい申し訳ございませんでした。お飲み物は何になさいますか?」
その「メイド」らしい丁寧な接客に対し、失礼にも江里口さんは口元に手を当て、目には涙を湛えて肩を揺らしている。というのも、その「メイド」を演じているのが彼女と犬猿の仲の――家入才華だからだ。
あの才華が白くて可憐なヘッドドレスや、ひらひらと過剰にフリルのついたエプロンを身に付けて、ノリノリで「ご主人さま」と口にするのだ。江里口さんが笑ってしまう気持ちもわかる。まさかこんなにノリノリだとは思わなかったから。
でも、メイドのコスチュームの才華と、「ご主人さま」呼びのコンビネーションはあかん。ドキドキして耐えられん。
「ええと、アイスコーヒーをもらうよ」
「承知しました。ブラックでよろしいですか?」
「う、うん。砂糖もフレッシュも要らないよ」
ぼくがブラックコーヒーを飲むことくらい知っているじゃないか! そんなに丁寧に接しないでくれよ! 頼むからいつもみたいにぶっきらぼうにしてくれ! ドキドキするじゃないか!
「お嬢さまはアイスココアがよろしいかと思いますが、いかがでしょう?」
江里口さんが注文しようとすると、「メイド」が先回りした。
「え? まあ、そのつもりだったけど」
「それなら安心です。お嬢さまにコーヒーはまだ刺激が強すぎると案じておりました」
「ば、バカにするなよ! コーヒーくらい飲めるわ!」
「承知しました、ではお持ちします」
「ああ、持ってこい! 砂糖もミルクも要らないからな!」
才華は失笑を堪えてから、飲み物を準備するコーナーへと下がっていった。よかった、張り切ってメイドを演じているとはいえ、才華は才華だった。
深呼吸して心臓の鼓動を鎮めようとしていると、「ねえねえ」と不意に背後から肩を叩かれて身体が跳ねる。
「……秦野のおばさん!」
下宿でお世話になっているおばさんは、デジカメの画面をこっそり見せてきた。メイド服姿の才華の写真や、接客されるぼくの写真が映しだされる。どうやら、文化祭でのぼくたちを見に来ていたようだ。
「弥くんのご両親にもデータで写真を送ってあげるからね」
「あ、わざわざありがとうございます」
「それでね、ついでに訊きたいのだけれど、忘れ物ってどこに届ければいいのかしら? さっき休憩室で拾ったのよ」
おばさんが取りだしたのは、一冊のクリアファイルだった。そこにプリントされた少女の絵を見て、江里口さんは「『テンリツ』じゃん」と呟く――何かのアニメ作品の絵なのか。
ファイルは大きく膨れていて、天保を含めた学校案内のパンフレットの類がぎっしりと詰まっている。部活が盛んな近所の公立高校のものや、校舎がピカピカの私立女子高校のもの、専門のコースを持つ個性的な高校のものなど、多岐にわたる。高校を探している人の持ち物とみえる、天保高校の生徒が落としたものではなさそうだ。
学外の人が落としてしまったのか。慣れない場所で持ち物を紛失したら、さぞ焦ってしまうことだろう。
「落とし物なら実行委員の本部で集めていますよ」
話を聞いていた江里口さんがおばさんに伝える。
「あ、本当? でも、場所がわからなくて迷っちゃうと思うから、弥くんにお願いしてもいい?」
「はあ……いいですけど」
ファイルを受けとる。手に取るとずっしり重い。
九時半ごろに見つけたということだけ言い残して、おばさんは去っていった。しばらく文化祭を見物していくという。それならぼくに任せずに自分で落とし物係へ届けてほしかった。
おばさんと入れ替わりに才華が飲み物を持ってやってきた。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーふたつ、お持ちしました」
飲み物をテーブルに置き、一礼する才華に、江里口さんが問いかける。
「ねえ、家入。この子見てない?」
携帯電話を開いて見せる写真には、江里口さんのほかにウルフカットの少女がいた。佐那さんだろう。才華は目を細めてそれを覗きこむが、すぐに首を傾いだ。
「これは、お嬢さまのお姉さまですか?」
「そんなわけあるか! 後輩だよ、後輩」
「さあ、見ていませんね」
江里口さんは口を尖らせて携帯をポケットに仕舞った。ついでだから、ぼくからも平馬を見ていないかと才華に尋ねる。
「へいま……はて、存じ上げない方ですね」
「江里口さんの恋人で、ぼくのクラスメイトの平馬だよ」
「ああ、ご主人さまのご友人の彼ですね。思い出しました。しかし、申し訳ございません。きょうは見かけませんね。きょうはずっとここにおりましたもので」
すると、才華はクラスメイトに呼び出される。次のオーダーを取りにいかなければならないようだ。それを見た江里口さんは、すかさず、「下がっていいわよ」と偉そうに言い、才華はどこか悔しげに、大袈裟なお辞儀をして去っていった。
くだらないやり取りに微笑んでいると、江里口さんが自分のコップをぼくの手元にすっと滑らせた。
「ごめん、久米くんのぶんも払うから、あたしのコーヒー飲んで。ダメなの」
平馬だったら、「面白い」と言って笑うところなのかな。
「ああ、この子なら見た気がする。開会式のあと、私より前を歩いて階段を上っていたから妙な子だと思ったの」
コーヒーでお腹をいっぱいにして向かったのは、実行委員の本部。
この時間から落とし物係には蓮田さんが立っていた。ビビッドカラーのTシャツがけばけばしい彼女にファイルを預けがてら、森ガールが佐那さんの消息を尋ねていた。
「私、実行委員として更衣室の見張りをすることになっていたから、全校で一番に校舎に戻らなきゃならなかったのね? だから、自分より先に校舎に入っている子がいてびっくりしたの」
「どこに向かっていたかわかる?」
「私は三階に向かっていたからどこまで行ったのかはわからないけれど、確か二階で別れたと思う」
佐那さんの足取りについて初めて得たヒントだった。しかし、蓮田さんが委員として配置についたのはもう一時間半も前のことだから、ヒントにはなってもそれ以上ではない。
ありがと、と江里口さんは礼を言った。ついでにぼくも、平馬を見ていないか尋ねた。
「平馬? いやいや、見つかりっこないってば。そもそも私は女子更衣室の見張りをしていたんだから、見るのは女子ばっかり」
「ううん、男子を見ていないんじゃ、平馬も見ていないか」
「まあ、暇なとき、窓の外にこそこそと歩く人影を見ることもあったから、男子を一切見なかったと言えば嘘になるけど」
更衣室があるのは校舎の突き当り。その近くにある窓から見えるところといえば、学校の中でもかなり外れに位置する。
「そっちに行くと何があるの?」
「何も。そこに行くのは、愛莉先輩の着替えを覗こうとする豚だけだね」
平馬はそういう豚ではないはずだ。
これまで平馬が文化祭から距離を置くようなことを聞いている。奴は誰もいない校舎裏で、ひとり喧騒をやり過ごしているのだろうか。
「というか、本当にふたりで回っているとはね。才華さんにあれだけ馴れ馴れしくおいて、弥くんはどういうつもりなの?」
いやらしく訝しがる視線に、江里口さんとぼくはため息をついて、声を揃えた。
「違うから」
「ちゃうで」
最初に漫画研究部を尋ねてから一時間以上が過ぎていたので、再び大教室に足を運んだ。
「イラスト、できていますよ」
再び帆乃佳さんが明るく迎えてくれた。机の中を探って、二枚の紙を取りだした。
ぼくが受け取ったB5サイズの紙には、ぼくでも知っているポピュラーなアニメのキャラクターが描かれていた。ぼくの知る絵よりは描き手の癖が出ているが、むしろそれに味があって素敵に思える一枚だ。
ところが、江里口さんは表情を曇らせた。
「これ、事前に描いておいた絵をプリントしただろ」
ぎくり、という部員の反応。
「あれだけ依頼を受けて、一時間で仕上げるなんて無理を言うと思った。一時間っていうのは、そう言えば客が一旦離れるだろうと想定した時間で、本当は客がいないうちに絵を印刷していたんだな。人気のキャラは見当がつくから、事前にいくらか原本をストックして、お任せのときはその原本から選ぶ仕組みか。そうだな、依頼を受けるコーナーにある、控室みたいなあのスペース。あそこにプリンターを置いてあるんじゃないか?」
「そ、その通りです。ご、ごめんなさい……」
後輩女子は涙目になって先輩に詫びた。その反省を前に、江里口さんもさすがにバツが悪くなって声を優しくする。
「まあ、絵には満足しているからいいけどさ。シフトもあって時間を効率的に使いたいのもわかる。お金を払っていないから騙されたとまでは言わない。ただ、その場で描くなんて嘘はいけないよな。嘘だけはダメだ」
はい、と説教された女子生徒は素直に非を認めた。江里口さんの先輩らしい一幕、いや、お姉さんの資質を見た。
「ところで、佐那は来たか? 連絡がないから、まだなんだろうけど」
帆乃佳さんは頷いた。涙を拭いながら、か細い声で続ける。
「佐那、部活がつまらなくなっちゃったんでしょうか? つまらないから、来てくれないんでしょうか?」
これを聞いて先輩がどう励ますのかと思えば、江里口さんも寂しそうに息を吐いた。
「まあ、あれだけ絵が上手ければつまらなくなることもあるかもな」
「…………」
先輩からの励ましを期待していた帆乃佳さんは、がっくりと肩を落とす。江里口さんは美術部に所属するように芸術家としての気質も併せ持っているから、うわべだけの言葉で励ますよりも、佐那さんの心情を想像しようとしているのだろう。
「帆乃佳、『天使の旋律』観ただろ?」
急にアニメの話を振られ、帆乃佳さんは目を丸くした。
「あ、はい。『テンリツ』好きです」
「佐那も好きだっただろ?」
「はい。一緒に即売会に行ったり、同じグッズを買ったりしました」
「なら、そのことでまた話せばいいよ。もし部活をつまらなく思っていたとしても、好きなことで話しているうちに、また楽しくなって戻ってくるかもしれない」
「……そうですね」
帆乃佳さんに安堵の表情が浮かぶ。現在の状況は変わっていなくても、彼女が友情に抱く不安は多少和らいだのかもしれない。江里口さんは言っていて自分で恥ずかしくなったのか、「まあ、腹が痛いだけかもわからない」と冗談めかして笑ってみせると、帆乃佳さんも「照れてますね」と笑った。
とても幸福な場面を見せてもらったが、部外者が場違いに居合わせたみたいで正直ちょっと気まずい。ぼくもそれとなく微笑み、三人で話していた体を作ってみる。
そのとき声をかける人があって、ぼくは気まずさから救われる。
「なあ、ちょっといいかな?」
二年生の男子生徒が歩み寄ってきた。大部屋の反対側、写真部の人だ。
「さっき見覚えのある女子とすれ違ったんだ。知り合いじゃないから漫画研究部だと思ったんだけど、ひょっとすると探している子かもしれない」
江里口さんがケータイの写真を見せて確認すると、「その子だ!」と男子部員は声を大にした。
「いつ見たんですか?」
「一〇時ちょっと前かな」
「どこで?」
「校舎裏の近く」
校舎裏! 失笑しそうになるのをギリギリで堪える。さっき蓮田さんがこう言っていた――「そこに行くのは、愛莉先輩の着替えを覗こうとする豚だけだね」
彼の行動の目的はともかく、重要な手掛かりを得た。
「そのとき、ひとりだけでしたか?」
「いや、正装をした大人の女の人と一緒だったな。たぶん母親じゃないか?」
江里口さんは何かに合点したように、何度も頷いた。薄く開いた口がわずかに動いているのは、頭の中に思い浮かべたことを声なく呟いているのだろうか。
「よし、久米くん。行ってみよう」
「え、どこに?」
「校舎裏だよ」
「そんなこと言ったって、佐那さんがいるとは限らないよね? 一時間近く前のことだよ?」
彼女は首を横に振った。
「梓ならいるかもしれない。あいつが佐那を見ている可能性はある」