I
『秋穂祭、開幕です!』
文化祭実行委員長足立愛莉の宣言に、グラウンドに集まった初等部から高等部までの全天保生がわっと歓声を上げた。年に一度の大イベント、天保高校文化祭、通称秋穂祭がここに始まったのだ。
校長、生徒会長、実行委員長と立て続いた挨拶で焦れに焦れた天保生たちの興奮は、足立先輩の「開会」ではなく「開幕」というドラマチックな言葉によって爆発した。我こそこの文化祭の主役だという勢いで移動を始める。それが一斉に起こるものだからぼくはもみくちゃにされて、気がつけばグラウンドの端に放り出される。開幕早々からこの熱気、ぼくは一日無事に過ごせるだろうか。ぼうっとしていたら轢き殺されそうだ。
ぼくがこの文化祭で任せられた役割はふたつ。B組が出展するお化け屋敷の受付と、将棋部と囲碁同好会が共同で出展する体験対局会の指し手だ。ただ、きょうはいずれのシフトも午後から。午前中は特にやることがない。
となれば遊びまわるに決まっている。ところが、今朝才華を誘ってみたら、午前中はクラスに顔を出さなければならず、不運にもきょうは暇な時間が重なっていなかった。
「平馬にでも声をかけるか……」
奴もB組の担当は午後からのはずだ。ぼくは喧騒の中に数少ない友人であるクラスメイトを探すことにした。
ところがそうは問屋が卸さなかった。
「なんでや、なんでどこにもおらんのや」
学校中を一周探しても、平馬はどこにも見つからなかった。
きょう彼を最後に見たのは、グラウンドに集合する旨校内放送で聞いたときだ。トイレに寄っていくという彼をおいてひとりで外に出たら、そのまま二度と彼に会えなくなってしまった。
奴は携帯電話を持っていないから、メールをして呼び出すことができない。こんなことになるなら、グラウンドに集合する前に捕まえておけばよかった。
すでに三〇分も無為にうろついて過ごしている。もう諦めてひとりで見てまわろうか。それか、将棋部と囲碁同好会の共同出展に顔を出してもいい。姫川先輩がいるから、来客がいなければ対局をして過ごすことができる。どうせ空いているだろう。でも、初めての文化祭をそのように過ごしていてはもったいない。
平馬はいないかとすれ違う人々の顔を確認しながら歩いているが、誰ひとりとも目が合わない。みんな友達を連れだって笑っているから、ひとりで歩くぼくのことが視界に入らないらしい。ぼくのほかにひとりで歩いている生徒といえば、実行委員や風紀委員が見回りをしているか、もしくは看板やビラで宣伝して回っているかというくらいだ。そうして作られる賑わいの中を進むのは、楽しくもあるけれど、同時に寂しい。これは結構、残酷なことのように思う。
それにしてもどうしたら平馬と会えるだろうか、とパンフレットを睨みつつ三階の廊下を歩いていると、女子生徒の声に止められる。
「おいこら、止まれ。その先は女子更衣室だぞ」
「え? すみません……あ、蓮田さん」
うっかり覗き魔となる未来からぼくを救ってくれたのは、才華のクラスメイト、蓮田さんだった。
彼女はグレーの制服姿ではなくて、F組が文化祭に合わせてデザインしたライムグリーンのポロシャツを身に纏う。いつもハーフアップにしている髪も、きょうはポニーテールに束ねられ、前髪には鮮やかなピンク色のメッシュが入っている。メークにも気合が入っている様子だ。実行委員をやるだけあって、文化祭にかなり気分が高揚しているらしい。
「注意してくれてありがとう。下を見ていて気がつかなかった」
「別に弥くんが覗き魔になっても私はどうでもいいんだけど」
ぼくへのアグレッシヴな態度は通常営業のようだ。
「変態の弥くんには一階をお勧めするよ。愛莉先輩の着替えを見ようと、演劇部用更衣室の周りに男子が殺到しているから」
「誰が変態や! 教えてもらっても行かんわ、そんなところ」
「ふん、本当に行こうとしたならぶっ殺していたところだよ」
蓮田さんは言い過ぎにしても、前方不注意は反省しなければならない。パンフレットの部屋割りを見るに、更衣室は各階の突き当りの教室が割り当てられている。四階は男子、三階は女子、一階は男女各一部屋が演劇部専用の部屋だ。二階だけは更衣室にされておらず、保護者や学外からの来客向けの休憩室らしい。
赤に金色で「文化祭実行委員」と書かれた腕章が目についたので、彼女の予定について尋ねてみる。
「蓮田さんは、委員の仕事でここの見張りなの?」
「そう、一〇時半まではね。それから一時まで本部で落とし物係、そのあとは吹奏楽部の演奏と、クラスのシフト」
「そのスケジュールで、いつお昼ご飯を食べるの?」
「さあね」
「さあねって……」
「きょうとあしたの午後、それと後夜祭は忙しいの。その代わり中夜祭と午前はフリーだから、その時間は才華さん予約ね。弥くんには譲らないよ」
予約とはなんや、予約とは。
実行委員は大変だ、と関心していると、蓮田さんはしっしと手で払う仕草をする。委員の仕事を邪魔するな、ということか。邪魔をしていたのは悪かったから、いちいち過剰にぼくを斥けようとするのは勘弁してほしい。
踵を返そうかというとき、「あ、久米くん」と呼び止められる。覚えのある声だが、どこから誰がぼくを呼んだのだろうかと周囲を見まわす。
「こっちだよ、こっち」
そう言って手を振ったのは、女子更衣室から出てきたばかりの何者か。背が低く、つばの広い大きなハットを被っているせいで、顔がよく見えない。でも身長と声がわかっただけでも、なんとなく誰かは見当がついた。
「江里口さん?」
よう、と手を差し出す挨拶は、彼女の恋人である平馬と同じ癖である。ぼくが探していたクラスメイトより、奴と付き合っている彼女のほうに先に会ってしまった。
「そのいでたちは……森ガール?」
帽子のほかに、レースが飾りつけられた淡く爽やかなグリーンのトップスと、素朴なベージュの動きやすそうなパンツ。ビビットな色が目立つ恰好の蓮田さんの隣に立つと、江里口さんのファッションはいかにも「天然素材」という印象だ。
「誉め言葉と受け取っておくよ。言っとくけど、好きで着ているわけじゃないから」
「衣装に着替えていたんだね。眼鏡も外しているの?」
「コンタクトを入れてあるんだ。裸眼だと〇・一も怪しいけど、一応ちゃんと見えてる」
失礼だから口には出さないけれど、正直な感想、眼鏡がないと彼女の顔は無個性だ。いつもと印象が違うとすれば、服装のおかげもあって大人っぽく見えるところか。眼鏡をかけていると童顔に見えるタイプらしい。それがないと、ちょっと目が小さいことに気づく。
どうしてそんな姿で? と聞くまでもなく、森ガールは自分の好かない服装をさせられている理由を語りだした。
「C組はゲームで出展しててさ。その中のひとつに、ほら、テレビでやってる『追跡中』だっけ? あれがあって、あたしは指名手配されて追われる役なわけ。C組で受付した人はあたしがこの恰好をした写真を持っていて、学校をうろつくあたしを探すんだよ」
なるほど、この服装は追いかけられるための役作りというわけだ。彼女は追手に捕まったときに、追手が持っているシートに押すスタンプも見せてくれた。これは何のひねりもない星形だ。
「久米くんはひとり? 家入と一緒じゃないの?」
蓮田さんに睨まれつつ、ぼくは予定が合わず平馬を探していたところだと答える。すると、何か心当たりがあるというように、江里口さんと蓮田さんは顔を見合わせた。江里口さんは恋人として、蓮田さんはかつてのクラスメイトとして平馬のことをよく知っている。
「どこにいるか知っているの?」
「いや、見つからないだろうな。というか、探さなくていいよ」
いまぼくの頭の上には疑問符が浮かんで見えるはずだ。江里口さんの言う意味がわからない。
「それじゃあまさか、帰っちゃったってこと?」
「さすがに校内にいるだろ。クラスのシフトをすっぽかすほど我儘な奴じゃない」
彼のシフトは午後。その時間に姿を見せてくれたとしても、ぼくは将棋部で対局をしている時間だ。それでは意味がない。
でも、平馬の不在はぼくだけの問題ではないはず。
「江里口さんこそ、平馬と一緒に見てまわるんじゃないの? 付き合っているんだから」
ふん、と鼻で笑われた。わかっていないな、と。
「だからこそ、放っておいてやるんだよ」
見つからない、見つけなくていい、放っておいてやる――平馬は秋穂祭をいったいどのように過ごしているんだ?
「まあ、いいや。梓と会うのは諦めろ。代わりにこれからあたしと一緒に行こう」
「え?」
突然の提案に驚いてしまった。いくらぼくが高校生活初の文化祭を孤独に過ごすかわいそうな一年生男子だからといって、まさか江里口さんから誘われるとは思いもしなかった。
「いいの? 『追跡中』の役は?」
「大丈夫、大丈夫。一か所にじっとしていなければ、逃げながらどこで遊んでてもいいことになっているんだ」
「平馬に怒られない? あいつ、結構嫉妬深い気がするよ?」
「たぶん梓と会うことはないから平気」
「……どういうこと?」
口ぶりからすると江里口さんは平馬の居場所を知っていそうに思える。でも、知っているのなら会いに行けばいいのだから、実は知らないともとれる。そのいずれにしたって、恋人のことをまったく気にせずぼくを誘える理由がわからない。
「まあまあ。ここで問答するよりどっか行こう。女子更衣室の前に久米くんがいると、変態扱いされるぞ」
「あ、そうだった」