その8
ぐつぐつと湯の沸騰する音と、小麦粉の香り。秦野家の台所には、見目麗しいふたりの少女が並んで立っていた。
舞華ちゃんの一泊二日の滞在は、午後三時に帰る約束になっている。そのため昼食は秦野家で四人一緒に食べることになっていて、秦野のおばさんは「家入家の子なんだから、お客さんじゃなくて働く側よ」と家入姉妹に昼食を作らせている。家入家云々はどうでもよくて、思い付きに違いない。
「……そろそろ」
「じゃあフライパン温めないとね」
妹のほうも料理の心得があったようで、少ない口数でもぴったりと呼吸を合わせて手際よく調理を進めていた。家入姉妹は最初おばさんに文句を言っていた――特に才華が――ものの、始めてしまえば慣れた仕事で、順調に完成に向かっていた。
その姉妹の片方、すなわち舞華ちゃんはピンク色のチェックのエプロンを着ている。帰りに着る洋服なので、汚してはならないのだ。他方、才華はというとTシャツにスウェットのラフな恰好、生活感にギャップがあってちょっと面白い。
ぱっちりとした瞳や細くやや吊り上がった眉、控えめな鼻筋、薄い唇、艶やかな黒髪など姉妹としてもよく似ているふたりだけれど、キッチンに揃っていると違った印象に気づく。年下の舞華ちゃんのほうが幼い容姿であるのはもとより、全体の雰囲気は大人しくて儚げで、そのつもりで見ると才華のほうが派手さがある。性格がそう見せるというだけではないだろう。強いて表現するならば、姉は洋服が似合い、妹は和服が似合うタイプではなかろうか。
そのとき、油の熱による大きな音。野菜とウインナーを炒めていたフライパンに、茹であがったパスタが移されたのだ。
「舞華、ケチャップ」
「……うん」
具材からも想像できていたが、やはりナポリタンだったようだ。大きなフライパンで炒められる四人前のパスタに向かって、舞華ちゃんはチューブを逆さに、両手で持って豪快にケチャップを投入した。
それを絡めていくと加熱する音が小さくなっていく。完成が近い。
「舞華、ソース」
「……うん」
今度は舞華ちゃんがウスターソースを手に取った。
「え? ソース?」
驚いて才華に問うと、才華も驚いたように答える。
「え? 入れるでしょ?」
ウスターソース入りのナポリタンはなんとも美味であった。家入姉妹が作ったという付加価値を差し引いても、美味い。粉チーズなんてかけたくないほどに。ソースのおかげでちょっと濃いくらいの味付けが癖になる。
ソースを入れるのは一般的なコツなのだろうか。今度おばさんがナポリタンを作っていたら調理工程を覗いてみよう。
美味なるそれを黙々と食べてしまいそうだけれど、きょうのこの時間は普通の日曜日のお昼ご飯ではない。いつもと違うメンバーとの会話を楽しむべきだ。
「ナポリタン美味しいよ、舞華ちゃん。家でも作るの?」
「…………うん」
きのう一日話して、特に推理対決がアイスブレイクになってくれたらしく、最初に会ったときよりは舞華ちゃんのぼくに対する警戒感はほぐれたようだった。敬語を使わなくなったところがちょっとくすぐったくて嬉しい。
「確か実家から学校に通っているんだよね?」
「……うん」
「実家でも手伝っているのは偉いなぁ……でも、才華と違って天保中学は受験しなかったんだね」
「……うん」
さっきから「うん」としか言っていない気がする。楽しんでくれていないのだろうか。
「舞華ちゃんも私立よね」おばさんが説明を補う。「地元の私立では一番優秀な学校じゃないかしら? それこそ天保に負けないくらい」
人の進路に口を挟むのも良くないけれど、それならどうして天保を選ばなかったのだろうか。舞華ちゃんはぼくの視線からその疑問を向けられていると感づいたらしく、
「病院があるから」
と付け加えた。
「舞華は喘息があるから、かかりつけの病院から離れないことにしたの」
今度は才華が説明を付け加えて、ぼくは頷いた。
「病気があったのか。ごめんね、詮索しちゃって。いまでも体調が悪くなることがあるの?」
「小さいころよりは治ってきているから……」
大丈夫、という一言が抜け落ちている。でも、表情を見るにそれはシャイな性格ゆえのことであり、心配は無用だと読み取れる。ぼくもこの一日で舞華ちゃんの表情を読むことに慣れてきた。
次はどんな話題にしようかと考えていると、おばさんから提案される。
「ねえ、質問責めにしていたら舞華ちゃんが大変じゃない。舞華ちゃんから弥くんに訊きたいことはないの?」
おお、なるほど。言われてみればそうである。
何でも訊いてみてよ、と促してみると、舞華ちゃんは困ったように目を閉じ、質問を絞りだそうとする。どうやら、おばさんの意見は間違っていて、自分で質問を考えるほうが舞華ちゃんには面倒だったらしい。
「久米くんは……」
それでも舞華ちゃんが問いを投げかけてくれる。聞き逃さないように傾聴する。何を訊かれるだろうか、学校生活のことだろうか。下宿生活のことだろうか。好きな食べ物や動物のような他愛無いことでもいい。もちろん趣味や大阪でのエピソードだって答える準備がある。
「……お好み焼きと一緒にご飯を食べるって聞いた」
食べ物のことを訊かれたには違いないが、想像の斜め上であった。
「それがどうかしたの?」
「お姉ちゃんが言ってた」
ぼくが訊き返すと、舞華ちゃんは納得したように頷いた。才華から噂で聞いていたぼくのことを確かめられて満足しているのだろうが、どうしてそのことに興味を持ったのか、ぼくには正直よくわからない。
素直になぜ問うのか尋ねると、舞華ちゃんもまた自分が問われているのがわからない、という顔だ。
「自分も相当偏食なくせに……ナポリタンの味付けにソースは使うのは変だと思っているみたいだったから……」
気になったの、という最後の言葉はほとんど消えかかっていた。
「ぼくが偏食? お好み焼きにご飯くらい、普通だよね? 麗もそうしていたし」
小さく首を横に振る。
「……炭水化物摂りすぎ」
「ええ? それを言うなら焼きそばパンもサツマイモの天ぷらもアウトだよ」
「同罪の例というだけで、無罪にはならない……」
「じゃあ、お好み焼きに入っている餅は?」
舞華ちゃんにはこれが最も大きな衝撃だったようで、唖然として目を見開く。
「信じられない……炭水化物が三種類…………」
小麦粉、餅、ごはん。
これが高カロリーであることは充分承知している。それを大量に食してもなお痩せている麗のほうが例外で、ぼくやその他一般的な人が毎日そうやって食べたら体を壊すに違いない。でも、時々そうするくらいなのだから悪いことのように言われるのはちょっと納得できないし、おいしいのだからむしろ勧めたいくらいだ。
舞華ちゃんは病院に通っているから、もしかすると健康志向なのかもしれない。きっと真面目なだけだ。
「まあ、ナポリタンにソースだって変なんだから、この件についてはお相子じゃないかい?」
同意を求めたが、おばさんも才華も否定する向きに首を振った。なんということだ。推理対決のようにはいかないらしい。
旗色が悪い、話題を変えてみよう。
「ほかに何かないの?」
「……カレーにソース」
「また食べ物の話か!」
声が大きくなったので、驚いた舞華ちゃんは身を縮めた。だってお姉ちゃんが、と口が動いているように見える。ということで、お姉ちゃんのほうに訴えかけてみる。
「才華、結構ぼくのことを面白おかしく話してくれたようだね」
彼女は冷水の入ったコップを片手に、澄ました顔。
「まあ、求められたから?」悪びれるふうも恥ずかしがるふうもない。ただそうしようと思ったからそうしただけ、というつもりのようだ。「食の話題が一番目につくし、よく憶えているところだし」
言っていることは否定しないけれど、舞華ちゃんに変な人と認定されてしまったのは悔しい。最も目立つ差異は話題にしやすい一方で、インパクトの強さのあまり、しっかりと脳裏に刻印されてしまう。
でも、ぼくも大阪に帰って麗に才華のことを話していた。食事の話題でこそなかったものの、才華を知った気になって大げさに伝えていたとしても自分で気がついていない。因果応報というと少し違うのかもしれないけれど、ぼくが才華のことを他人に話しているのなら、才華がぼくのことを話していても当然である。
それに、嫌でもない。才華がぼくのいないところでぼくのことを思い出しているなら、それはそれで正直ちょっと嬉しい。
「ぼくの話をするのはいいけれど、自分も噂されていると思ってよね」
「何を言われていても、別にわたしは気にしないから」
ふっと才華は鼻で笑い、つん、として皮肉を返した。「気にしない」と言うからには、どうやら、ぼくにいろいろと言いふらされていることは感じ取っていたらしい。怒られないようにほどほどにしなくては。
その横で、舞華ちゃんが大きく頷いている。
「……お姉ちゃんも変な人」
誰の口が、と才華もおばさんも心の中で突っ込んでいたことだろう。
【登場人物 File.07】
○家入舞華
才華の妹。中学二年生。テストのたび画数の多い名前に苛まれる。中学生離れした才色兼備の彼女に好かれるべく、同級生たちはいろいろと忖度した挙句、彼女を生徒会長に祀りあげてしまった。役員たちも気を遣いっぱなしで、生徒会室内では彼女に話しかけてはいけないと思っている。
「…………『お姉ちゃん』呼びって、子どもっぽい……?」
☆家入(←ホームズ)+舞華(←マイクロフト)