IV
『はあ、そんなことでわざわざ電話をするとは』
夕食中も続いた推理対決の判定がぼくの手には負えないものになってしまったので、食後、仕方なく作者さまにお伺いを立てることにした。
「すみません。せっかく犯人を言い当てようというところで、物語が終わっているからどうしても気になってしまって」
『いえ、謝る必要はありませんよ。楽しんでもらえたなら嬉しいですし』
姫川先輩の小説は、ぼくが推理対決の問題として提示した文章ですべてだった。増川が語りはじめたであろう事件の真相は、一切描かれていない。部誌に落丁があるわけでもなかったから、作者が意図的に、真相を語るシーンを削除してしまったか、初めから用意していなかったということだ。
そのため、家入姉妹が推理して絞りこんだ、堂前を犯人とする説が妥当かどうかは姫川先輩本人に尋ねてみるしかない。ぼくはふたりの意見を自分が読んで思ったことにして、姫川先輩にずばり訊いた。堂前は犯人なのか、と。
『最初は堂前を犯人にするつもりで書き進めていました。しかし、設定に無理がありましたね。いろいろと書いてみても、どこかに矛盾が生じてしまって。本当は車の中を探るシーンで、堂前が犯人とわかる証拠が出てくるはずだったのですがね。考えてみた動機もつまらなくて、これは推理小説としては欠陥品になるとわかりました。そこで、増川と塩崎の関係にフォーカスすることで、物語にとって事件の真相それ自体はたいした意味を持たないよう書き換えたんです。だから、真相が明らかになるシーンはすべて削りました。要らないので』
安い手ですみませんね、と付け加えて、ふふ、と笑う声が続いた。
才華は堂前を犯人とする筋書きの「名残」に気がついていたのだ。堂前が転落後に包丁が落下したことを知っていた描写は、その後真相が語られない方針に変わってもそのまま残されていた。そして、才華はそこから展開させて、姫川先輩の物語が中途半端に完結していると感づいた――舞華ちゃんはミステリとしての欠陥には気づいても、物語の構造にまでは発想が至らなかったようだけれど。
試しに、舞華ちゃんが語った増川犯人説を姫川先輩に話してみる。
『なるほど、確かにそう言われると増川も犯人として書けそうですね。その発想は私にはありませんでした』
なんと、作者を上回ってしまったか。トンデモ推理というだけある。
「こういう結論をあえて書かない物語って、どう呼ぶんでしたっけ? リドルストーリー?」
『私はそう思っていません。リドルストーリーというには乱暴すぎます。ミステリとして、真実を書くことを放棄しただけですから。それに、増川と塩崎の物語については描きたいことをすべて描けたと思っています。物語は結論に至っています』
「ええと、増川が塩崎に失望するっていう?」
『ふふ、それ以上は久米くんが考えてください。物語の構造についてならともかく、内容と意味については作者が出しゃばるべきではないと思います』
また新学期に会いましょう、と言って先輩は電話を切ってしまった。
階段を下りていると、リビングから美しい音色が聞こえてきた。舞華ちゃんが持ってきたヴァイオリンを才華が弾いているのだろう。
夏の夜の蒸し暑い空気をも心地よく感じさせる爽やかな旋律だ。心を奪われ耳を傾けているのか、蝉の声も聞こえなくなったような。ひと夏が終わる哀愁を優しく包みこみ、残り幾ばくとなった夏休みの夜を楽しみたい気持ちになる。
素敵な音楽を中断するのは忍びなかったが、ドアを開けてリビングに入った。
「訊いてきてくれた?」
演奏の手を止めた才華が目を輝かせる。彼女にとっては、「気になる」推理対決の続きのほうがヴァイオリンより重要なのだろう。
「うん、犯人はもともと堂前のつもりだったけど、書くのをやめたらしい」
ソファはおばさんと舞華ちゃんが座って埋まっていたので、ダイニングの椅子に腰かける。いつもなら三人でテレビを見るときにこうやって座っているが、きょうはそのテレビの前に才華が立って即席のリサイタルが催されていた。
やっぱりね、と演奏者は胸を張る。
「おかしいと思ったの。言及される証拠はどれも決定的でなくて、むしろ犯人がはっきりしないように書かれていた。それだけでも結末がないと予想できるし、その曖昧な推理小説を対決の題材として認めた弥が変だと感じた。一度読んでいたら、勝負に不向きだってわかっていたはずでしょ? それでも構わなかったのは、勝負以外に目的があったということ」
才華の言う通り、ぼくの出題意図は彼女たちがどのような推理をするかに関心が置かれていた。犯人を言い当ててしまったり、推理対決に勝ち負けをつけたりするよりは、ワクワクする物語の可能性を見せてほしかったのだ。
それを見破っていた才華は、ダメ押しにぼくのミスを指摘する。
「弥の審判としての態度は不思議だった。どうして『読んでいるけれど、読んでいないことにして』わたしたちに勝負させたのか? それも、わたしと舞華が犯人は堂前と回答しているのに、それを正解とも不正解とも言わないで。回答が物語に沿って正しいかどうかよりも、納得できるかを優先させる問題なんてある? わたしたちのどちらかが間違ったことを言ったなら、説明云々なしに負けでいいでしょ? つまり弥は、マルかバツかの答えを最初から持っていなくて、むしろ説明を欲しがる側だった――物語に結末がないせいで、自分も真犯人を知りえなかったから。弥の目的は、わたしたちの推理対決を通して、物語では伏せられていた犯人を指摘させること」
まさしくその通り。
小説に書かれていることだけでなく、ぼくの態度まで見ているあたりさすがとしか言いようがない。
「……増川が犯人の可能性は?」
舞華ちゃんが口を挟む。姫川先輩にあのトンデモ推理がありうるのか訊いてほしいと頼まれていたのだ。
「すごいよ、先輩も思いつかなかったって」
満足そうに微笑んで頷いた。姉が自分の気づかなかった事実を指摘したものだから、自分が姉に勝ったと思えるトンデモ推理について作者に訊いてみたかったのだろう。才華にはできなかった推理を成し遂げたことがよっぽど嬉しいようだ。
「それじゃあ、推理対決の勝ち負けはどうするの?」
おばさんが問う。確かに、犯人をどちらが当てるかという勝負では、両者とも正解してしまったから勝敗が決められない。犯人を堂前とした根拠でもふたりは一致している。
加点要素を挙げるなら、才華は物語の構造を見抜いた。舞華ちゃんは作者を上回る、増川真犯人説を打ち立てた。ぼくは審判として、これを比較し勝者を発表しなくてはならない。
姉妹の視線がぼくに集まる。
結果は、ぼくでなくともそう言うに違いない。
「引き分けだね」