II
『ハンドルを握りながら、来なければよかったと思った。
ヘッドライトをハイビームにして、木の枝や石を蹴散らし、尻の痛くなるような道を進む。向かう先に明かりはない。獣道を抜けて目指すは、さらなる暗闇だ。
「こんなことになるなんて……」
幹事長の塩崎が頭を抱えている。宿舎に残したほかのメンバーたちには、星を見に出かけた小森たちに合流しにいくとしか伝えていない。トラブルが苦手な彼には、本当のことを言って車を発進させる勇気はなかった。
「なあ、増川……ま、万一にも、死んでいたら大変だ。実は今回、所有者に許可が取れていなくて。警察が来たら、サークル全員前科者だ」
これまで無許可で活動したことがないのに、よりにもよってそんなときに事故とは。せめて自分のいないときならよかったものを。
「不法侵入がバレたら、サークルが積み上げたものは台無しだ。もう仕事もできなくなる。ああ……なんてことだ」
本当だ、なんてことだ。
本当に、来なければよかった。
退廃趣味と言われると悔しい気持ちになるが、歴史好きが高じて廃墟を好きになった。人間が作り、人間が手放した廃墟というものは、静かに時間の流れを物語る。歴史の語り方としては傍流だ。でも、ひとりでそれを愉しむぶんには、自分は時を肌で感じられる優れた歴史家の気分でいられた。
しかし高校生の身分では、法を犯すことなく訪ねることのできる廃墟は多くなかった。廃墟は放置されていたとしても所有者がいるものだ。勝手に入れば罰を受ける。そのような制約があると、近場はだいたい抑えてしまい、もっと遠くへ行きたくなった。
だから大学進学を機に仲間を探すことにした。幸いにも同じ趣味を持つ人々が集まったサークルがあった。活動が活動だけに怪しいところではないかと警戒して調べてみれば、違法な手は用ず、大学からの公認も受けた「まとも」な団体だった。特に、幹事長の塩崎が雑誌の取材を受けた記事を見て、ここなら良いものが見られそうだと加入を決めた。
「廃墟写真同好会」を名乗るそこでは、メンバーに写真好きや心霊マニアも混ざっていて、少々雑音を感じることもあったが、おかげで独力では満たせなかった欲求を満足させることができた。サークルの名があれば、所有者の許可を得やすかったし、遠出の計画も楽だった。
幽霊部員も多い団体でしょっちゅう顔を出したことから、二年になると三役に次ぐような立ち位置になった。後輩からは頼られ、先輩からは仕事を任される。その面倒な立ち位置が趣味としての楽しみを奪おうとするので、バイトで資金も稼いだからそろそろ個人の活動に戻ろうかと考えた始めた矢先だった。
『真木が落ちた! 来てくれ!』
鉱山跡を見物する合宿の初日は、宿舎に到着するだけで夜になっていた。翌日車でさらに山を登り、鉱山跡に赴く予定だったが、堂前悠人、小森丈、菅野亜実、真木詩織の四人がこの日たまたま見ごろを迎えていた流星群を見たいからと、無理を言って夜中に鉱山跡へと向かった。
その後飛び込んできた報せが真木の転落だ。電話を受けた塩崎はほかのメンバーには秘密にしたうえで、二台借りていたレンタカーのもう一台で急行すると約束。塩崎に事情を明かされ、運転免許を持たない塩崎からドライバーを任された。
しかし、塩崎の願いは流れ星にも聞き入れられなかった。
「……ダメだよ、塩崎。詩織はもう死んでる」
ヘッドライトに照らされた四人は、輪を作ってそこにいた。ただし、真木だけは横たわっている。頭部から流血し、止血しようとしたタオルがいくらか転がっている。暗い中でも地面が真っ赤に染まっているのがわかるほどだから、無駄な努力だったか。
刺し傷やひっかき傷のようなものは見られず、衣服も整っている。争った末の転落や、殺してから遺体を落としたのではないことは、素人目にもわかる。
菅野は冷静に真木の死を伝えていたが、小森は憔悴しきって呼吸を乱し、堂前は衝撃を処理しきれないふうに呆然としていた。
塩崎も初めて目にする死体に恐ろしくなったのか、その場を離れて嘔吐した。
役に立たない幹事長に代わって、自分が話を聞くことにした。
「どういう状況で?」
殺したんですか、とは訊かないでおいた。
「最初はここで星を見ていたの」まともに話せるのは菅野だけだった。「でも、途中で小森くんと詩織が上に行ってね。危ないって言って止めたんだけど」
小森を一瞥する。
「ま、まさか! つ、つ、突き落としてなんて! 足を滑らせて落ちたんだよ!」
耳を衝くほどの大声で事件性を否定する。まあ、殺したとしてもこう言って否定するところだろう。
「でも、先週から小森は詩織と別れ話をしてたんでしょ?」
「だ、だからって殺すことがあるか!」
なるほど、どうりで菅野は冷静でいられたわけだ。仲間の死に自分は責任がなく、むしろ小森の罪を糾弾できるのは自分だと感じているのだろう。
「う、上に行ったのは小森と真木だけなのか?」
ふらふらと戻ってきた塩崎が尋ねる。
「みんな上にいましたよ……」かすれた声で堂前が語る。状況を語れるくらいには落ち着いていた。「でも、上に行って足元を確認してからは、星を見ようと懐中電灯を消していたので」
「つまり」話を引き継ぐ。「ちょっと押して突き落とすくらいだったら、誰がやったとしても見えていなかったと」
これに怒った菅野が反応する。
「冗談じゃない! どう考えたって小森でしょ? そもそも、私や堂前にどんな理由があって詩織を殺すことがあるっていうの?」
これに対し、堂前は菅野を突き放す。
「でも、菅野先輩、真木先輩から強請られていましたよね? 聞いたんです。会計の先輩が団体のカネをくすねているのを秘密にする代わりに、自分にもカネを渡せってこそこそ話しているところを」
口籠る菅野の反応を見るに、事実だったようだ。
信頼する三役のひとりの裏切りが発覚しても、塩崎は「まあまあ」と強引に話を切り上げた。
「こ、ここは……事故だったことにして、どう収めるかのほうが……」
間髪入れず菅野と小森が話を遮った。
「バカ言わないで! いまこの場を丸く収めたところで、詩織は死んだんだよ! これで堂前が私のことを言いふらそうものなら、私の人生お終いよ!」
「お、俺だって疑われたままじゃないか! ぜ、絶対、誰も事故のままにしようなんて思わない! 菅野みたいに、ゴシップじみた噂を流すに決まっている!」
ふたりとも塩崎を殺してしまいそうな勢いである。三者三様の保身には、呆れるばかり。事故で話を終わらせると自分に悪い噂が降りかかるかもわからないから、いるかどうかもわからない殺人犯を見つけだそうだなんて。
「とは言っても、落ちたところは誰も見ていないんでしょう?」落ち着かせるため、三人への尋問を再開させてもらう。「悲鳴とかは聞かなかったんですか?」
三人は首を横に振る。暗闇でよく見えないのだから、ジェスチャーではなく言葉で伝えてほしいのだが。
「気がついたら真木さんの姿が見えなくなっていた、と」当時の状況を想像して説明を補う。「で、いないと思って下りてみたら、落ちて死んでいたんですね」
「じゃ、じゃあ本当に不意に落ちたんだな。声も出ないなんて」塩崎は慌てふためいたままだが、少しずつ落ち着いてきているように見える。その証拠に、殺人犯の存在を明かそうという態度に向かいはじめた。「いや、声を出す間もなく、不意に突き落とされたとも考えられるのか」
三人の「被疑者」たちの表情には敵意の色が浮かびだした。場の混乱は収まっていく代わりに、敵対の空気に包まれていく。
不意の出来事だったのでなくとも、本当に恐ろしい目に遭ったときに声が出せない人もいる。真木もそうだった可能性は充分にある。それを踏まえれば、不意打ちに突き落としたとも限らないから、事故の可能性も消えたわけではないのだが。
「たとえばの話」この場の誰も事故にしたくないようなので、自分も事件として話を進める。そうすれば、口を滑らせる者がいるかもわからない。「刃物で脅して追い詰めた。だから声を出せなかった」
菅野がすぐに否定する――「デタラメ言って攪乱しようっていうの?」
「いいや、デタラメなんかじゃない。金属の音を聞いたんだ」自分の適当な仮説に乗っかったのは、小森だった。「それも、散らばっている鉄くずのものではなくて、もっと大きなものが何度か跳ねるような音を。真木を転落させて、用済みになった刃物を犯人が捨てた音に違いない」
論理が補強されてもなお菅野は否定的な態度を示したが、堂前の証言に黙らされる。
「転落から少しあと、俺にも聞こえました。金属の類の音を」
二対一だ。ここは小森と堂前の証言を信じることにして、周囲を懐中電灯で照らし、真木を脅せるような凶器らしいものがないか探してみる。
まもなく、草陰に輝くものを見つけた。
「包丁だ。しかも、宿舎の台所のものじゃないか」ある程度の平静を取り戻した塩崎が驚きながらも分析を述べる。「きょうは当番しか台所には入っていなかったはずだ。きょう食事の準備の当番だったのは、真木と増川はともかく、ここにいる中では……」
視線は菅野に注がれる。
「台所当番でなくても、包丁くらい隙を見て持ちだせるでしょ? 包丁を持ってきたのは私じゃない。それに、包丁を殺しに使ったと決まったわけではない」
言っていることはもっともだが、当然、犯人が自分にかかる疑いを逸らそうとしていると周囲には受け取られる。包丁の落ちる音を聞いていないと主張する彼女であるから、俄然怪しい。
追い込まれたと焦る菅野は、また声を荒らげる。
「で、でも小森の疑いが晴れたわけではないから!」
転落の瞬間が暗闇に包まれていた以上、状況証拠を頼りにしないとものは語れない。動機の面でそれらしい小森はそれだけ立場が悪いものの、菅野にも疑いがかかりはじめれば、反論の余裕を取り戻す。
「いや、物的証拠がない」
包丁を調べて指紋が出るまでは、だが。
では別の証拠が出ればどうかと、試しに小森たちが乗ってきた車を調べてみることにする。期待はできないが、何か見つけられるとすれば車内だろう。犯人が闇に紛れて証拠を捨てていたなら、包丁のようには簡単に見つからない。流れる血を跨いで車に近寄ると、塩崎も駆け寄ってきた。
ドアを開けて中を調べても、これといって殺人の物証になるようなものはない。灰皿やくず入れは空。続いて車内を這うように床を探す塩崎も、何も見つからないと言う。
ドリンクポケットに入っていた缶を取りだしてみても、何の変哲もない缶ジュースだ。足元の危険な炭鉱跡に行くことを踏まえて、酒は飲んでいないらしい。
「座席の位置は?」
助手席にあったそれを見せると、「それは詩織の」と菅野が述べる。宴会の序盤で抜け出した彼女は、飲みかけのそれを持っていたそうだ。
「助手席は真木、運転席の後ろが菅野、その隣が悠人。運転は俺」
小森が淡々と答えた。
すると、車内を調べていた塩崎が体を起こした。急だったものだから、背中が肘にぶつかって缶に残っていたコーラをこぼしてしまう。
「ちょっと、先輩。手に引っかかったじゃないですか」
しかし抗議の声は届いていない。
何かおかしい、そういえば包丁は?
そう感じたときにはもう遅かった。
サークルの幹事長は突然駆けだして、メンバーの男に突進していた。不意を突かれた小森丈は、抵抗するも素早く動いた塩崎に背後を取られ、そのまま右手に包丁を握らされ、手首を握られて掴まされたその刃を首筋に運ばれる。
「済まない小森……ここは、一番もっともらしいお前に……」
血が噴き出して、驚く間もなく小森は倒れた。
遺体はふたつになる。
「こ、これは心中だったんだ……これなら、ありそうな話だろう? 誰がやったとかじゃない。小森が真木を殺して、小森は自殺する前に俺たちを呼んだ。だから俺たちは事件のあとここに来た。いいな? こ、これで警察に通報すれば丸く収まるだろう?」
全身に血を浴びていることを棚に上げて、塩崎はそう述べた。
絶望した。
塩崎という男を信頼に足ると思った自分が馬鹿だった。
この男は自分のためなら真実を捨てる男だ。それだけでこの男を見誤ったと頭を抱えたくなるが、そればかりでなく、真実を塗りつぶそうと余計なことをする人間だったのだ。たとえそれが自分をさらに不利な状況に追いやるとしても。
「ほ、ほら、通報するぞ……!」
「人殺しは大人しくしていろ!」
狼狽える塩崎を蹴り飛ばして黙らせる。包丁を手放したので、今度は自分がそれを手にする。話を聞かせるため、三人に順番に刃先を向けて見せた。
「お前らの嘘は全部わかった。全部話してやるからじっとしていろ。そして、それが警察に話すべき真実だ。いいな?」
三人は黙ってこちらを見つめている。深呼吸してみたが、血液の臭いのせいでちっとも心が落ち着かない。真実を語るには似つかわしくない真っ暗闇――それでも、塩崎のような輩を前にしたいま、たとえ無意味だったとしても、真相を知る自分が語らなければならないのだ。
――ああ、来なければよかった』