I
『たとえ無意味だったとしても、真相を知る自分が語らなければならないのだ』
夏休み終盤の土曜日。大阪にいるうちに宿題を片づけてしまったぼくは、タイガーズのナイター中継まで、ひと足早い読書の秋と洒落こむ。猛暑をエアコンの効いた部屋でやり過ごし、シーズン終盤に差しかかる大事な試合に備える。きのうカード初戦を落としたのちの第二戦には、熱い応援が欠かせない。
短編を読み終えて心地よい読後感を味わっていると、来客を知らせるチャイムに邪魔される。この秦野家の主人たるおばさんは、現在買い物に外出中だ。下宿とはいえ留守番をするからには、ぼくが来客を迎えなければならない。急ぎの配達だったら大変だ。
「はい、どなたですか?」
ドアを開けると、薄いピンク色のワンピースを身に纏った、スレンダーな女の子がひとり佇んでいた。
ぼくとあまり変わらないくらい背は高いけれど、あどけない表情を見るに中学生だろうか。長い睫毛を備えた大きな丸い目や、控えめな口許あたりに、大人っぽさと子どもっぽさが混在している。正直言ってかわいい女の子だと思う。
よく見ると大荷物だ。手提げ鞄は膨れていて、肩には楽器を運ぶような大きなケースを担いでいる。
「ええと……きみは?」
「…………」
女の子はぼくの問いに答えず、黙って困惑した表情を浮かべている。
戸惑った様子と所持品から察するに、お泊り会でもするため近くに住む友達の家を訪ねようとして、間違えてこの家のインターホンを鳴らしてしまったのかもしれない。
「間違えちゃったかな? どこの家に行きたいの? ぼくもあんまりわからないけれど、聞いてみたら知っている家ってこともあるから」
ところが、心配は不要だったらしい。彼女はゆっくりと小さく首を振った。それから、蚊の鳴くような声で「あ」と漏らし、何かに気づいたような表情を浮かべる。
「何かな?」
「……ここです」
「へ?」
「……この家です」
「道を間違えたわけではないってこと?」
こくりと頷いた。意図が伝わって緊張がほぐれたのか、わずかばかり、数ミリほど口角が緩んだ。
おや、この顔――誰かに似ているぞ?
「…………会いに来ました」
「え? 誰に?」
「……お姉ちゃん」
ふとした気づきに間違いがなかったと確信して、ぼくは問いかける。
「きみ、もしかして才華の妹さん?」
まるでそういう人形かの如く、彼女はまたこくりと首を縦に振った。
「家入舞華……です」
ぼくの留守番中に来てしまうとは運が悪かった。姉の才華は、目下敵前逃亡中。やり残した宿題を放って、おばさんの買い物についていった。
「ごめん、ぼくしかいないから待っていてもらうことになるんだけど」
麦茶と、たまたま見つけた煎餅をテーブルに置く。粗末な歓迎にも、ソファに座った舞華ちゃんは無言で小さく頷いた。家に上がってふたりきりだとわかったせいか、彼女の表情はまた硬くなってしまい、いまさっき見せてくれた魅力的な微笑みは失われてしまっている。
「ぼくのこと、わかる?」
「……久米さん?」
「そうそう、久米。久米弥。才華とおばさんと、四月から一緒に下宿している、才華ときみのはとこ」
「…………」
にこやかに話題を提示しても、彼女は視線で了承を示すだけ。声に出して返事をしてくれない。あまり他人と話したがらないシャイな子のようだ。目配せや頷きといった、最低限かつ非言語のコミュニケーションが彼女の意思表示の主体となっている。
ぼくと目を合わせたくないのか、冷たい麦茶で結露するコップを包み込むように手に持つと、ちびちびと飲みはじめた。小動物、あるいは人見知りしはじめた子どもみたいな仕草だ。
才華の妹と知ってみると、姉妹が瓜二つに思えてくる。目元がちょっと違うくらいで、全体の雰囲気としては、才華を年相応に幼くしたら舞華ちゃんの顔とまったく同じになるといっていい。まさに中学生版の才華。年齢が同じだったら双子と見紛うに違いない。
才華が下宿をはじめて地元を離れるまで、美人姉妹と騒がれていたのだろうと想像できる。扱いの難しい姉と違って物静かな妹は、中学校ではさぞモテモテなのではないか。
「…………」
「…………」
それにしても沈黙が重い。あ、視線がエアコンに向かっている。きっと寒いのだろう、設定温度を上げておくか。
リモコンを手にして立ち上がったそのとき、「ただいま」の声が玄関から響いた。頼りのお姉ちゃんがご帰宅だ。
「あれ、舞華? 何しに来たの?」
家に帰ったら突然妹がいるなんて、さすがの才華も驚いた様子だ。「そういえば今年はまだ来てなかったか」と呟いているから、おそらく舞華ちゃんは毎年この家を訪れていたのだろう。
舞華ちゃんは傍らに置いたケースに手を触れて、来訪の理由を姉に伝える。
「わたしのヴァイオリン? 持ってきたの?」
才華のヴァイオリン! そんな趣味があったとは知らなかった。そういえば以前吹奏楽部の演奏を聴いていたことがあったから、音楽には興味があったのだろう。
妹はぼそぼそと説明を付け加える。
「弾いていたから……」
「ああ、そういえば前に家に帰ったときにね。久々だったから弾いてみたかっただけで、別に持ってきてもらうことなかったのに」
つまり、舞華ちゃんがやってきた一番の目的は、ヴァイオリンを懐かしんでいた才華が実家にそれを置いたまま下宿へと戻ったので、寂しかろうと察してヴァイオリンを届けに来たということか。
「……あとね」
今度は、ソファの横に置いておいたバッグに触れる。
「朝子おばちゃんがついでだから泊まっていけって言ったのね?」
うんうんと舞華ちゃんが嬉しそうに頷く。
それにしても、才華がすごい。少ししか話してくれない舞華ちゃんの意図を完璧に汲んでいる。これは推理ではなく家族の呼吸に違いない。さすが姉妹。
「あら、舞華ちゃん。いらっしゃい、待っていたのよ」
遅れて、ネギやら牛乳パックやらが覗くビニール袋を持ったおばさんがリビングに現れる。ぼくや才華と違って、舞華ちゃんの訪問を事前に知っていた様子だ。
「あれ? 話してなかったっけ? きょう舞華ちゃんが来て一晩泊まっていくって」
聞いてへんで。
そろそろ来るだろうと予想していた才華も、まさかきょうやって来るとは知らなかったらしく、呆れる視線をおばさんに向ける。それを気にしないおばさんは「弥くんに紹介しないとね」と明るい声で切り出す。
「本人からもう聞いたかもしれないけれど、こちら家入舞華ちゃん。天保じゃなくて地元の中学校に通っていて、いまは二年生かな? 物静かでも才華ちゃんに負けず劣らず『天才』タイプの子よね」
ほう、天才か。
「宿題をサボるお姉ちゃんと違って成績優秀で、生徒会長もやっているのよ」
おばさんにチクリとやられて、お姉ちゃんは妹から目を逸らす。ぼくにはきょうだいがいないからわからないけれど、自分より評判のいい家族がいると気分がよくないものなのだろうか。
おばさんは冷蔵庫に食材を片づけながら紹介を続ける。
「この通り物静かであまり喋らない子だけれど、これでもイライラしているとか落ち込んでいるとかってわけではないし、他人を嫌ったり嫌がったりもしないから、仲良くしてあげてね」
こんな小恥ずかしいことを言われても、舞華ちゃんは文句を言わないどころか顔色ひとつ変えない。ある種の取扱説明書のように、本人も口下手であると自覚しているのだろうか。
「通訳なら才華ちゃんができるから」
あ、いま嫌そうな顔をした気がする。
「それじゃあ、私は舞華ちゃんのためにお夕飯頑張っちゃうから、しばしご歓談を」
おばさんは鼻歌を歌いながら台所で作業を始めた。リビングに残された三人で夕食まで楽しく……いや、絶対盛り上がらない。
普段だって、才華は気になったことがあれば没頭してしまい、そうでなければ静かにしているので、おばさんとぼくとが話すばっかり。三人で会話が弾むことは珍しい。そのぼくと才華に、無口な舞華ちゃんが混じったところで沈黙が続くだけだ。
そういえば、舞華ちゃんも才華のように好奇心に忠実なタイプなのだろうか? 疑問に思うことがあったら夢中で調べ、そういうことがないから口数が少ないということもあるかもしれない。だとすれば彼女の興味を引く何かがあればいいのだけれど、果たしてそれを見つけられるのか。そもそも才華と性格が異なっていた場合、舞華ちゃんはずっと静かなままということで、楽しませる術を見つけるのは困難だ。
寡黙な少女には何が面白いのかわからず、はてこのごろの中学生の流行は何だろうかと思案を巡らせていると、舞華ちゃんの視線がやや下に向いていることに気づく。その先、テーブルの上には、さっきまでぼくが読んでいた冊子が置かれている。
まあ、とりあえずの話題になるか。
「これは天保高校文芸部の部誌でね、将棋部の姫川先輩が中学三年生のときに書いた小説が載っているんだ。借りてきて読んでいたところ」
最悪、これを言い訳に会話から離脱してしまおう。
すると、幸いにして舞華ちゃんが興味を持ってくれた。
「……ジャンルは?」
「あ、本読むの好きなの?」
「…………」
頷いた気がする。わずかに。
「ミステリだったよ。推理ものというか、殺人事件の類の」
姫川先輩が部員ではないのに文芸部に小説を寄稿したことがあるとは聞いていたけれど、まさかそれがミステリだとは思っていなかった。難しそうなジャンルにわざわざ足を突っ込むあたり、趣味に生きる彼女らしいか。
ミステリといえば、と話を聞いていたおばさんがキッチンから口を挟む。
「刑事ドラマをふたりと見ると、いつも半分も見ないうちに、どちらかが犯人を言い当てちゃうからつまらないのよ」野菜を洗いつつ、思い出し笑い。「舞華ちゃんは推理ものが好きなのよね、才華ちゃんより早く当てちゃうこともあるもの。その小説を使って推理対決でもしてみたら盛り上がるんじゃない?」
おばさんはちょっとした冗談のつもりで言ったのかもしれないが、正直ぼくは興味を持ってしまった。天才姉妹の推理勝負――なんだかワクワクするものが待っている気がするではないか。時間潰しにはもったいないくらいの良い話題にもなる。
ミステリ好きというのは本当だったようで、舞華ちゃんの表情はどこか期待感を持っているように見える。案外乗り気なのか?
どうする? と視線で才華に問うと、彼女も結構乗り気の様子。
「弥は一度読んだんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、審判も兼ねて読んで」
「え、音読しろってこと?」
確かに、紙面に問題文があってその先には解答まで印刷されているのだから、公平を期すにはふたりが自分で読んではならない。音読なんて小学生のとき以来だ。一度読んでいるとはいえ、上手に読めるだろうか。
ふとまた舞華ちゃんに視線を向けてみると、期待に胸を膨らませた笑顔で身を乗りだし、ぼくからの出題を待っている。
この笑顔に背徳的なかわいらしさを感じてしまったぼくは、自分に負けた気持ちになって部誌のページをめくるのだった。
タイトルは、『闇に紛れて』だ。