その7
「なんか、調子狂うなぁ」
サインだのコサインだのとよくわからない数列やグラフが並ぶノートやプリントを広げ、頭痛とも闘いながら宿題を片づけていく昼下がり。涼しい部屋に冷たい麦茶、糖分補給用のチョコレートまで揃った、最善の環境で難問たちに立ち向かう。それでも行き詰まりを感じはじめたころ、麗は床に身を投げ出した。
「調子狂うって、ぼくの部屋で勉強を始めたのは麗のほうじゃないか。それに天保の宿題のほうがよっぽど難しいんだから、麗が先に嫌になるんじゃぼくのやる気が続かないよ」
自分の部屋のように体をカーペットにこすりつける幼馴染は、天井を仰いで不満そうな声を上げる。
「そうやなくて、なんか弥が変な気がするねん」
「変? ぼくが?」
黙って勉強をしていたぼくのどこが変だというのか。真面目に勉強しているところを捕まえてそんなことを言われては、正直それこそぼくのモチベーションに響く。
どうして急にぼくが変だと言い出したのか、理由を問う必要がありそうだ。
いや、宿題をやりたくないわけではなくて。
「ぼくが何をしたから変だと言っているの?」
「ああ……そう、それ! 弥そのもの。喋り方というか、勉強中の振る舞いというか」
「ええ? それじゃ完全否定と変わらないじゃないか。もっと具体的に言ってくれよ」
直感的にものを言うきらいのある麗だ。特にこれといった理由もなく、ただぼくを詰ってみたかったという可能性さえ考えられる。
よいしょ、と腕を振って体を起こした麗は、チョコレートを手に取って包み紙を剥がしながら、自分の思いついたことを言葉にしていく。
「強いて言うなら……弥が黙って勉強するなんて考えられへん。一緒に勉強をしているときは決まって『そんな問題も解けへんの?』とか言うて、上から目線でちょっかいをかけてくる」
「いまやぼくより麗のほうが成績優秀なのは疑いないけれどね」
「勉強の出来不出来の話ちゃう。弥が丸うなった気がするねん」
「ぼく、太ったかな?」
「ああ! そういうところや! へらへらしとる弥なんて気持ち悪いわ」
やっぱり完全否定ではないか。どうして突然そう感じるようになったのかは知らないけれど、しばらく会わないうちに、麗はぼくを生理的に受け付けなくなってしまったのだ。ああ、これでぼくたちの長い友情も終わりを迎えてしまうのか。
――という気持ちを表情で表現してみるも、麗はそれよりも手元のチョコレートを注視していて、気づいてもらえない。そのひと粒を口に放り込むと、麗は説明を付け足す。
「弥はもっと尖っていた気がするわ。ちょっといじっただけでイライラして、反対に褒めれば調子に乗る。それが弥や。へらへらしてはぐらかしたり、からかったりなんて、弥のやることやない」
せめてニコニコしていると言ってほしい。努めてにこやかにしているわけではないけれど。
でも、麗の言いたいことの輪郭はなんとなくわかった。要するに、同級生たちから「テンサイ」と言われて浮かれていたころのぼくはどうしたのだ、という違和感を覚えているのだろう。
「まあ、高校生にもなれば成長するってことやないの?」
ぼくなりに考えられる妥当な回答をしてみるが、幼馴染の同意は得られない。
「これは高校デビューに間違いないな。女と同居しはじめたんやろ? 怪しい……東京に行って軟派でも覚えたんか? 女と暮らしてこなれたか?」
「いくらなんでも言い方がひどすぎない?」
口が過ぎたことを反省するつもりはないらしく、麗はまたチョコレートに手を伸ばす。機嫌の良くないときに食べはじめると手が止まらない、彼女の悪い癖だ。ただし、それを止めるとかえって怒りを爆発させるから、少し食べさせるくらいがちょうどいい。食べれば機嫌が直る、単純なところのある女の子だ。
部屋に広がる甘い香りとは対照的に、麗は語気を強め、穏やかならざる話題を継続する。
「なあ、同居してる女はどんな女なん? いやらしい関係とちゃうやろな?」
さしずめこれは尋問である。才華の下着を間違えて持ち帰った件もあって、彼女の疑心暗鬼は根深い。
「少なくとも不適切な関係ではないことを保証するよ。それは信じてもらうしかないとして……ううん、才華がどんな女の子か、どう言ったら伝わるかなぁ」
ふとしたぼくの言葉尻に、麗はさらに表情を険しくする。そういえば、ぼくが才華のことを呼び捨てにすることから関係を疑っているのだった。
まあ、呼び方まで麗に配慮することはなかろう。それも含めて友情関係だと伝わってくれればいい。才華を麗にもイメージしやすく紹介する術を考えた。
「一言で言うなら、才華は極端な子だよね」
「極端?」
「そう。原動力が好奇心なものだから、興味のあることにはとことん食らいつくし、それほどでもなければ捨て置く。何かを調べているときはとても活き活きとしているけれど、気になることがなければ無気力だ」
ふうん、とチョコレートを咀嚼しながら訝しがる視線を投げかける。
「その気難しい彼女のおかげで、弥はそうなったと」
「いや、彼女ではないし、そもそも麗の理屈なら誰でも何でもこじつけられるじゃないか……」
才華とコミュニケーションを上手に取るにはコツが要ったのは確かで、三月からいままでの生活でそれが身についてきたことは否定できないだろう。とはいえ、それだけ慣れるくらいだから恋仲だと言われるのでは堪らない。誰しも、その相手ごとにある程度違った態度で接するほうが誠実といえるのではないか。
人間関係の機微を恋愛感情で四捨五入して説明しようとする理屈は、短絡的だと言い返しても止めてもらえないのでより厄介だ。チョコレートを食べる手が止まらない茶髪の少女も、そのような態度でぼくにかかってくる。
「ホンマに恋人同士でなかったとしても、どうせ最初に会ったときなんか、めっちゃかわいいと思うたやろ?」
どきり。
図星である。
「そ、それは最初だけや! 顔見るたびドキドキしてたら、生活できへん」
焦って否定したものだから麗は見透かしたように口角を吊り上げる。嘘は言っていないし、それどころか丁寧に質問に答えているのに信じてもらえないのではどうしようもない。彼女に気に入らないと言われたばかりだが、どうにかして話をはぐらかせないものか。
そういえば、意地悪く笑う顔から思いつく疑問があった。
「……麗は才華の顔を見たことがあるの?」
今度は麗がどきりとする番だ。
才華の顔がわからなければ、ぼくの抱いた第一印象を推測するのも難しかろう。あてずっぽうで言ってそうでなかったら、麗にとっては詰問のカードを一枚失うことになる。
なるほど推測するに、ぼくと才華が一緒に下宿してることを聞いて気になったから、ぼくの目を盗んでぼくの母さんに頼んで写真を見たのだろう。麗の目で見ても才華がかなりの美人ということならば、勝手ながらぼくも誇らしい。
「そうか、麗の目で見ても、才華はうっかりすると惚れてしまうほどの美人だったのか。いやはや、身内だとわからなくなってしまうものだね!」
どうだ、これだけ言えば才華との関係を問うのもバカバカしくなるだろう。
そう思ったのに、麗の反応は少し違った。銀紙を剥がす手を止め、拍子抜けしたように、きょとん。
「何? ぼく変なこと言った?」
「そうやなくて、むしろ弥らしいことを言うた」
幼馴染の言うぼくとは、中学生のころ有頂天になっていたぼくのことだ。彼女の言うぼくらしい発言とは、つまりそういう意識で発せらる言葉である。
「弥と言えばそういう皮肉で憎たらしいことを言う奴やんか」
「嬉しくないんだけど」
とはいえ、ぼくも正直他人のことは言えないのだろう。
ふと見た視線の先には、麗が積み上げた銀紙があった。ぼくが食べるはずのぶんまで食べられてしまったそれに、ぼくはどこか懐かしい気持ちになっている。才華の下着を持っていることがバレたときにも、怒って声を上げる麗を期待していたのは否定できない。
目の前の幼馴染もぼくに期待しているということだ。それだけぼくとの再会を楽しみにしてくれていたのだと思えば、ちょっとくらい「変になった」と言われたところで、むしろ嬉しい話ではないか。
ふと漏れてしまう笑いに、彼女は呆れも混じった様子で唇を尖らせる。
「やっぱり調子狂うわ……」
それから再びペンを持って宿題に取りかかったが、二時間後にそれを終えるまで、麗はずっと同じ愚痴を言い続けたのだった。
【登場人物 File.06】
○二ツ木麗
大阪在住、弥の幼馴染。甘党にして大食い、しかし細身という奇跡の体質を同級生から羨ましがられている。二ツ木家でお好み焼きに餅を入れるのは、ひとり娘にお腹いっぱい食べさせるため。弥が東京で二ツ木家流のお好み焼きを作ろうとしたと知って、内心大喜びしている。
「茶髪褒めてくれた……ん、にやにやしたらあかん」
☆二ツ木(←ニッキイ)+麗(←ウェルト)




