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III

「はあ、あしたは麗のを見せてもらうからね」

 通知表を入れたファイルは荷物の傍に放っておく。嘆息するぼくとは対照的に、茶髪の幼馴染は部屋の真ん中にちょこんと女の子座りをして、へらへらといやらしい笑みを浮かべている。

「ええけど、優等生やからおもろくないで」

「ぼくのがおもろくて悪かったね」

「まあまあ若者、座ろう。積もる話もあるやろ?」

 言われた通り、自分の部屋のようにくつろぐ彼女の前にぼくも腰を下ろす。背後には件のブツが入ったぼくの荷物、彼女とぼくとのあいだには、母さんが準備してくれたアイスコーヒーとちょっとしたお菓子が置かれている。

「大阪帰ったらタイガーズの中継見ようと思っていたのに」

「夏やからナイターやん」

 おっと、そうだった。麗は、ぼくがタイガーズ、タイガーズと連呼していたものだから、野球に興味がない割にはいろいろと詳しくなっている。

 麗を避けたいからとうっかり妙な会話にならないよう気を付けなければ。さもないと、気を付けられないような些細なところからボロが出てしまうものだ。油断大敵、でも日常生活に戻ったほうがかえって怪しまれないはず。

 自然体、自然体。

「あ、暑いね」

「そうやね」

「台所のほうが涼しかったかな。麗もちょっと顔赤くない?」

「……さあ」

「エアコンの設定下げる?」

「二五度より低くするん?」

 あかん! 不自然や! 天気や気温の話など、不自然の最たるもの。話題に困っていると正直に告白しているようなものではないか。自然に話そうと意識すればするほど、麗とどのように話していたか全然思い出せなくなってしまった。

 どうしよう、幼馴染に対してこの緊張は普通ではない。すぐ三歩後ろに鞄があるからに違いないけれど、当たり前に話せる相手とうまく話せないという状況に内心はパニックに近い。

 すると、麗が唐突にくすりと笑った。

「なんや、案外話せへんもんやな」

「え? ああ、麗も?」

 運が良かった。麗も麗で久しぶりにふたりきりになって困っていたらしい。緊張をごまかすように、麗はお茶菓子に手を伸ばし、包装を破く。

「ぼくも正直困ったよ。普通だったことが普通でなくなるなんて。いままでどうしていたかなぁと」

「わかる、わかる。そうや、久々に勝負するのはどう?」

 彼女はクッキーを咀嚼しながらきょろきょろと部屋を見回しはじめ、おもむろに立ち上がる。その視線がぼくの背後に向かっているものだから、心臓の挙動が忙しない。まさか気づかれてはないはずだと自分に言い聞かせ、自分はじっと座って我慢する。

 彼女が目をつけていたのは荷物ではなくて、それらが寄り掛かっている棚だった。

「一〇秒将棋、三番勝負で負けたほうがアイスおごり」

 将棋盤を一番上の段から取りだした。



 麗とはよく将棋を指して遊んでいた。負けたほうがアイスやジュースなどを奢るルールで対局したことだって何度もある。棋力もちょうど五分五分くらいだったので、中学生になっても飽きずに対戦していたものだ。ぼくたちにとって暇な時間には将棋がうってつけで、足りない話題を補って余りある楽しみであった。

 盤を挟むことでただ向き合うよりも緊張しないで済んだことも、麗の提案には感謝しなければならない。

「よし、これで五分や。将棋部舐めたらあかんで」

 二局を指し終えて、お互いに白星ひとつずつ。一局目は久々の手合わせに双方出方を窺ったところがあり、警戒しすぎたぼくが自滅して一敗。しかし二局目には、ブランクのある麗と部活で指し続けているぼくとで集中力の差が浮き彫りになり、ワンサイドゲームの様相で麗を投了に追いこんだ。

 胡坐をかいた麗は前のめりになって、悔しそうに盤面を睨みつける。

「むむ……最後は時間制限なしにせえへん?」

「いいよ、ぼくを有利にしてくれるんだね」

「ちゃうわ、三〇分後炎天下をコンビニまで歩いてるのは弥や」

 炎天下をコンビニまで――あっ。

 趣味に浮かれて重大なことを忘れていた。いや、当然わかっていたのに、負けたときのリスクを深く考えていなかった。

 ぼくはこの三局目、絶対に負けてはならない! もし負けたら、麗を家に残して外出しなければならなくなる。麗が荷物を漁るようなことはしないと信じてはいるけれど、そう、ぼくはいま、あくまで最悪の状況を考慮しながら動くべきときにある。

 ぼくは二局目に勝ったから、次は後手だ。将棋部ではいつも先手だったから、そのときと同じ感覚で指していると後れを取ってしまう。ここは反対に、どん、と構えて攻めを受けきるつもりで指すときだ。時間を稼げば、いらちな麗が墓穴を掘ってくれる可能性もある。

「四間飛車? 弥が振り飛車なんて珍しい」

 一〇秒の時間制限がなくなった麗は、余裕ぶって身体を揺らしながらぼくの手に感心している。確かにぼくが飛車を振ることは珍しい。でも、ただ気まぐれに戦法を変えるほどぼくもアホではない。

 見ていろよ、麗。これから地獄を見せてやろう。一学期中何度も負かされた先輩の持久戦、ぼくが再現してみせる。

「麗は相変わらず中飛車で攻撃一辺倒だね。三局とも同じ戦法で来るなんて、親切すぎやしないかい?」

 にっと麗は口角を上げ、歯を見せる。戦いに血が騒ぐ、といったところか。無心で盤面に没頭できる早指しもいいものだが、声をかけ挑発しながらの長期戦もまた興奮するものだ。集中力が勝負の将棋にあるまじきことも、親しい仲なら許される。

 向こうがその気なら、ぼくはむしろ冷静になるべきだ。コーヒーで喉を潤し、頭を冷やす。まだまだ序盤も序盤、それでも麗の前線への圧力はなかなかの脅威である。慎重を期さないとすぐに危険が迫ってくるだろう。

 対策は二段階。まずはぼくも守備を高めに引き上げる。相手のプレッシャーを無効化するのだ。次に、高い位置の壁を利用しながら、自陣のスペースを利用して素早く囲いを完成させる。麗の攻撃をしのぐには、王の守りはできるだけ堅く――穴熊が最善とみた。

 鉄壁の守りで粘って麗を焦らし、最後は背後を衝く! これで勝てる!

 窓の外から響く蝉の声が頭の中の雑念を押し流してくれる。エアコンによる快適な室温に、手元のクッキーによる糖分補給。集中を保つための環境は充分だ。

 飛車先の歩が交換されてから、麗は次の一手をことごとく攻撃に費やすようになる。ぼくは姫川先輩の手筋を思い出しながら、かわしつつ自分の戦力を蓄えていく。戦略は見事にハマり、彼女の攻撃は次第に鈍り、ぼくの反撃が徐々に始まった。

「攻め手を欠いてきたんじゃない?」

「うるさい」

 麗は明らかに余裕を失っている。クッキーを食べようと袋を破く手もどこか乱雑になっている。袋の中でクッキーを砕いてしまうことも。彼女がお菓子やコーヒーに手を伸ばす頻度はますます増えて、やがてお菓子を載せていた皿は空っぽになってしまった。

「ぼくのぶんまで食べたな……」

「うるさい」

 流れはもうぼくが掴んでしまった。麗が指しそうな手は何通りか思い浮かんでいて、そのいずれに対しても何手か先まで展開が読めている。

 ぼくは悠長に麗の手を待っていた。

「ねえ、携帯鳴ってへん?」

 バイブレーションの音はしばし続いている。メールではなくて、電話だ。

「麗のじゃなくて?」

 麗はぼくのベッドの上を指さした。彼女の所有物であるピンク色の筐体が放り投げてある。

 ということは、着信はぼくのケータイだ。リュックサックに入れていたはず。

「出れば?」

「ああ……うん。大丈夫だから」

 まずいまずいまずいまずいまずいまずい。

 きっと才華からに違いない。袋を取り違えたことを伝えようとしているのだ。でも、才華の存在は下着の問題が解決するまで秘密にしておかなければならない。通話に応じてしまうと、才華のことがバレてしまう。それに、リュックにはできるだけ触りたくない状況だ。

 やがてバイブレーションは止んだ。

「さ、対局に集中しないと」

「ホンマにええの? ……そやったら、弥の番やで」

 麗の一手を確認し、自分の想定した通りだと確信する。これなら、持ち駒から歩兵を打つ一手で対応できる。

 ぱちん。

「あ」

「何?」

「二歩」

 ありえない反則負けに、ぼくは自分でも聞いたことのない声で叫んでいた。

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