II
「久しぶり、弥」
新大阪から車で小一時間、到着した懐かしの我が家の前には、予想していたとおり大阪生活をともに楽しんでいた幼馴染が立っていた。
ただ、そこに見慣れた彼女はいなかった。
「麗! 髪の毛染めたの?」
肩より少し下まで伸びる長い髪が明るい茶色に変わっている。先日中学校の同窓会があったとメールで送ってもらった写真では、髪はまだ黒かったはずだ。
「春の連休ごろに。悪い?」
「悪いなんて言うてへんって。意外と似合うてるみたいやし」
「……そう」
もとより釣り目がちで視線が鋭く、威嚇的に感じられることがあったので、茶髪にするとヤンキーっぽくなりそうなものだが、実際は違った。明るい色のおかげで雰囲気が柔らかくなって見えたし、短い前髪と丸顔による幼さがガラの悪さを中和している。正直に言って、幸運にも彼女は茶髪との相性が抜群に良いらしい。
失礼な感想は、心の中に留めておこう。
「へんてこな大阪弁も相変わらずか」麗はどこか嬉しそうに呆れてみせる。「気持ち悪いって何度も言うてるのに。東京に行っても必要なん?」
「ええやろ、真似くらい」似非大阪弁をめぐるやり取りは、上京以前のお決まりのやり取りだった。「大阪ではこれが友達づくりのきっかけになったし、東京では心の支えになるんやから」
才華と一緒に過ごしている時間が当たり前になってきたから、才華との生活が始まる前にまで長い時間一緒に過ごした麗との再会は、ちょっとこそばゆい。それでも久しぶりの彼女の些細なところまでもが懐かしく、高い声や刺々しい言葉遣い、向かい合うと少し下を向く感覚さえも自然とぼくの口角を緩ませる。
思えば、天保高校で才華との関係を問われ、「幼馴染」と答えるときに覚えた違和感は、ぼくにとって幼馴染といえば二ツ木麗という意識に由来するのかもしれない。より長く一緒に過ごしたのは、やはり麗のほうだから。
いろいろと才華と比べてしまうけれど、いまは東京の同居人のことは忘れなくては。麗にスキを見せることになる。
「ねえ、あれ、置き忘れてへん?」
再会の感動に浸るのもそこそこに、彼女はさっそくぼくの最初の作戦を見破った。車の中を指さして、ぼくの忘れ物を指摘する。いや、成功するとは思っていなかったけれど。
「あ、注文通り買うてきてくれたん?」
取りだした黄色の紙袋に、麗の声は心躍るのを隠せていない。さて、乗り越えるべき最初のステップだ。
「それが……ごめん。実は買ってこられなくて」
「はあ? ほんならその袋は?」
「下宿している家にたまたまあったから、入りきらなかった荷物を入れてきたんだ」
「何それ、わけわからん」
麗はぼくの予想と違って怒りはしなかったが、代わりにぼくを詰問すべく袋の中を覗きこもうとする。想像していたよりもずっと早く、このときが来てしまった。しかし、ここで怯んで不自然な振る舞いをしてはならない。覚悟を決めて、自分から袋の口を開いて中身を見せる。
「勉強道具? 宿題持ってきたん?」
最も恐れていた危険を早い段階で除去できた。
麗との駆け引きが非常にうまく進んでいるといっていい。
お菓子を期待していた麗には、黄色い紙袋は非常によく目につくことだろう。まず間違いなく、一度は中身を覗く。そこに才華の下着が入っていたから、それを見つけられては大変だと危惧していた。
でも、それを回避する方法を思いつくのは、それほど難しくないことだった。単純なことで、そもそも袋の中に下着が入っていなければいいのだ。麗が袋の中を見ると予想できているなら、袋から下着を取りだせばいい。
そう気がついたぼくは、新幹線の座席で周囲の視線に気を付けながら、荷物を整理しはじめた。できることならボストンバッグに入れてしまいたかったけれど、座席の上の棚に置いてしまったため、リュックサックと中身を入れ替えることに決める。そして、紙袋の衣類をリュックに、リュックのノートやペンケースを紙袋に入れなおした。
二度までも下着に触れてしまったことは、本当に申し訳なく思っている。東京に戻ったら土下座して謝ってもいい。
麗がぼくのリュックの中を漁るとは思えない。夜ぼくが着替えを取りだすまでリュックに触れなければ、気にされることはないだろう。となれば、下着を発見されるリスクはほとんど去ってしまったということだ!
残る問題は、才華との同居をどう明かすかだが、その不安はさほどのものではない。大阪滞在はまだしばらく続く。下着類を才華の実家かおばさんの家に送ってしまって、不安を完全に解消してからでも遅くない。そもそも、この問題は下着の発見と重なってしまうとまずいのであって、下着の問題が解決されているならどうということはない。
それでも念のため両親には根回ししてある。母さん曰く「そういえば麗ちゃんは知らないかも」とのことだったので、そのことについてはぼくから話すと釘を刺しておいた。ぼくのことを何かにつけて面白がる両親だけれど、約束したのだからさすがに黙っていてくれるはずだ。
もう大丈夫!
隠しきった!
「ごめんね、レンジでチンするだけの手抜きで」
母さんが食卓で麗に詫びる。時刻は正午、二階の自室に荷物を置いたらまずは腹ごしらえだ。
「いえいえ、豚まん好きやし」
「麗なら五個くらいいけるんちゃう? ……痛っ!」
テーブルの下で脛を蹴飛ばされた。本当のことを言っただけなのに。
「それで、麗はいつまでいるの?」
「はあ、帰れと?」
「いや、そうやなくて」
否定するのは言葉だけ。正直なところ、麗には早く家に帰ってもらったほうがありがたい。無二の幼馴染に悪いけれど、残念ながら隠し事をするとはそういうことだ。それに、隠し通せれば彼女だって余計に腹を立てないで済む。知らぬが仏、言わぬが花というやつだ。
「親は遠出して帰ってけぇへんから、寝るとき以外はお世話になるつもり」
「え」
「もちろん弥のお父ちゃんとお母ちゃんの許可済み」
家にずっといるだって? 最悪の可能性を考えると……お風呂の時間を別にして、寝るまで彼女と一緒ということが絶対にないとはいえない。あと一〇時間近く、常に麗の視線がどこに向いているかを意識していなければならないなんて。
勝負は長丁場になりそうだ。
昔からそういう日は時々あった。麗の両親は知り合いが多く、仕事でも私用でも何かと家を留守にする。娘が同行せず留守番するときはすぐ隣のぼくの家にやって来て食事をしたり、泊まっていったり。反対にぼくが麗の家にお世話になったこともある。
昔は麗が来ると母さんが食事の準備をちょっと張り切ったものだが、いまではレンジで食べられる豚まんか。お客様ではなく実の娘扱いだ。
「ところで弥。成績表を見せてくれる約束でしょ?」
母さんの言葉に背筋が震える。
天保高校で受け取ったそれは、目を覆いたくなるほど無惨なものだった。ここにいる両親と幼馴染の三人は、当然中学生のころのぼくのイメージを持っているだろう。受験に失敗した経緯を知っているだけ同情してもらえるかもしれないが、失望は甘んじて受け入れなくてならない。
「見たいなぁ」
食いしん坊が食べる手を休めてまでぼくにいやらしい笑顔を向ける。まったく、あしたには麗の通信簿も見せてもらうぞ。
約束は約束だから、仕方なく席を立って二階に向かった。通知表を入れてあるファイルは、さっき勉強道具とともに黄色いお菓子の袋に移し替えたはず……あれ? 入っていない。ボストンバッグの中ということはありえないから、リュックに入れっぱなしだったか。そうだ、この紙袋の大きさではファイルの端を丸めて無理に入れなければならなかったから、そのままリュックに残しておいたのだった。
才華の衣類が入るそれを開けるのは気が重いが、仕方ない。ファスナーを開けると、入れ替えたブツが一番上にある。そこからファイルは見えないから、奥まで手を突っ込むことになる。ああ、三度触ってしまうとは。本当に申し訳ない。
それにしても、奥のほうにあるだけあって手間どる。ちょっと引っ張ったくらいでは出てこなさそうだ。
「いつまで探しとるん? 見せたらやばいことでもあるんか?」
ぼくを嘲笑う麗の声、彼女が部屋の前に立っているらしい。ここに長くいすぎてはまずい、少しならぼくが渋っていることにできるが、ちょっかいをかけられてからも渋っていると不自然だ。ちょっと手荒になるのも仕方なしとして、ファイルを引っ張りだす。
かさばるプリントの中から通知表を見つけて抜きとった。
「よし、戻るか……あ、まずいな」
鞄の口は閉じておくべきだ。しかし、ぎゅうぎゅう詰めでもリュックに収まっていた塩梅を、ファイルを取りだすために崩してしまった。そのせいで、才華の衣類の一部――しかも最も気まずいもの――が入りきらない。うまく整理しないと、通知表を片づけるときなどに麗に見つかってしまう。でも、丁寧に元通りにしていては時間がかかりすぎる。
咄嗟の代替案として、ボストンバッグにそれを押しこむ。悪いことに、もう触るのにも慣れてきてしまった。
「まだぁ?」
麗に急かされ、急いでリュックを放り投げて部屋を飛びだした。
「アホになったね」
両親と麗の感想はまったく一致していて、嘲った笑いとともに伝えられた。この生ぬるいリアクションがなんとも心に堪える。がっかりされたり、しっかりしろと叱られたりするほうがまだ張り合いがあった。天保だから仕方ない、とは、励ましというより諦めだ。
でも、四月時点ぼくだったらもっと落ち込んでいたに違いない。天保が似合わないことを自覚し、開き直れていたからよかった。そういう意味でも、大阪に帰るのがこのタイミングになったのは幸運だったと思う。
見栄を張って受験に大敗した大阪と、才能の差に泣かされる東京。ともすれば行くも帰るも地獄となりかねなかったが、そのどちらにも苛まれずに済んだぼくは、とても恵まれたアホだったのだ。