II
人間関係の面倒にはあまり巻き込まれたくないものだ。特に色恋沙汰は周囲に与える迷惑の度合いが大きい。
中学生のころ、クラスメイト同士で付き合って、半年足らずで別れたせいで、そのふたりのためにクラスメイトたちがどれだけ腐心したことか。さらに、進級したクラスでもふたりは同じ教室で過ごすことになり、運悪く二年連続で級友となったぼくはできるだけふたりに近づかないようにして過ごしたものだ。
色恋の云々で声を大きくする蓮田さんと藤宮先輩を前に、ぼくの意識はこの場から離れようとする。面倒に巻き込まれたくないからと、自己の思惟の中に一時的に逃げ込むのだ。そうして、どうしてこうなってしまったのだろうかと、蓮田さんと出会って、演劇を見に出かける約束をした数日前まで記憶を遡る――
ワクワクドキドキ、高校生活初めての夏休みのスケジュールが「補習」で塗り潰されて数日目。化学の補講で以てその日の時間割をすべて終え、さて、ほかの生徒が残る教室で、才華に「帰ろう」と声をかけていいものか考えているときだった。
「才華さん!」
女子生徒が才華の机に手を置いて、逃がさないと言わんばかりにぐっと顔を寄せた。
まだまだ学校に知り合いの少ないぼくは、才華がどのような交友関係を持っているのかよく知らない。しかし、そのときフランクに声をかけた彼女のことを、才華が友人と認識していないことはすぐにわかった。「誰だっけ?」と問いかける表情を隠そうともしなかったから。
長い黒髪をハーフアップに結んだ彼女は、引きつった笑いを浮かべて自分の顔を指さす。
「ええと、わからない? 同じF組、クラスメイトなんだけど」
「さあ」
才華も容赦がない。
これでは相手を困らせると思って、ぼくはそっとふたりの近くに歩み寄る。でも、クラスメイトの彼女の気持ちはまだ折れていなかった。
「蓮田祥子だよ。れんだ、しょうこ。私、才華さんと話せるチャンスを伺ってたんだよねぇ。いつも緊張しちゃって声かけられなかったんだけど、補習で一緒になれて良かった」
「自分も補習になって喜ぶって、何か変だけれどね」
我慢ならずつい口を挟むと、蓮田という女子生徒はぼくを睨みつけた。「誰? 才華さんの彼氏か何か?」とお決まりのことを訊かれるので、「幼馴染みたいなものかな」と答える。嘘ではないし、答え慣れてきたのだけれど、未だに違和感の消えないやり取りだ。
向こうのほうが好戦的な気がするので、ぼくのほうも少しやり返す気持ちで「才華に何か用があるの?」と問う。
すると彼女は、待ってましたと言わんばかりに鞄から紙切れを取り出す。
「これこれ。近くの劇場の、演劇のイベントなんだけど、愛莉先輩が出演するの! 一緒に行こうよ、才華さん」
ビラによると、電車で数駅のところにある劇場のようだ。学生中心のイベントで、一日間有効なチケットを購入できるらしく、出入り自由で数団体の公演を見られる。イベントの初日にあたる今週土曜日、天保高校演劇部がプログラムされている。
それにしても、愛莉先輩とは誰だったか? 話からするに、演劇部の人だろう。記憶を辿ると、そういえば、先日の生徒総会のときに演説をしていた人だ。
「なんか有名だよね、その人」
またぼくが邪魔をして問いかけたものだから、蓮田さんは一層敵意をあらわにする。今度は誘いを中断させたぼくが悪いのだけれど、おそらく、才華も足立愛莉という人をわかっていない。
「知らないの? あ、もしかして高校から? 足立愛莉といえば、天保ナンバーワンの人気者、演劇部のスターで文化祭実行委員長! ルックスもスタイルも演技力も、天保の女子の中には右に出る者はいないよね」
あ、才華さんはいいトコロまで行けているよ、とよくわからないことも付け足す。いくらか素っ気なく振る舞って見せても距離を詰めてくる相手に、才華はもう怯んでしまっている。
「愛莉先輩の行くところには必ず男子がついてくるもの。告白なんて日常茶飯事だし、授業で着替えるときは覗きも横行。愛莉先輩に興味のない男子がいるなんて、信じられない」
別に悪いことでもなかろうに。興味のない男子なら、ぼくともうひとり心当たりがある。まあ、いまは関係ないことだろう。
「愛莉先輩に憧れて、私も実行委員になっちゃったんだけど……私のこと本当に憶えてない、才華さん? クラスの実行委員だよ?」
「まあ……そういえば?」
お茶を濁す天才少女。興味がないことはとことんどうでもいい性格でも、最低限蓮田さんを気遣って態度を曖昧にしているらしい。彼女にそうさせてしまう蓮田さんも恐ろしい。
しかし、その人当たり良さが今回は仇となる。
「ホント! 良かった、やっぱりクラスメイトだものね。もう、私のこと全然興味がなくて憶えていないなんてことがあったら、恥ずかしくて死んじゃうところだったよ! 嬉しいなぁ、私からの一方通行じゃなくて」
才華の善意を何倍も都合よく解釈して、蓮田さんはさらに顔を寄せた。お互いの鼻先がぶつかってしまうのではないかというほどに。
「ね、行こうよ?」
面倒な相手に強気に出られない才華は、ぼくのことを一瞥した。
そして、「演劇にはまったく興味がないし、あなたのことは苦手なので」という前置きを、微妙な口角の引きつりで以て暗に示しながら、ひとこと蓮田さんに返事する。
「弥も一緒なら……」
才華の紺色のワンピース姿に半ば見惚れながら劇場の前で待っていると、開演ギリギリの時間になって、蓮田さんが現れた。
「ごめん、道を間違えちゃって。才華さんと駅が違うから」水色のTシャツでぱたぱたと襟元を扇いで汗を鎮めながら、彼女は劇場の時計を確認する。「開演には間に合ったね。まあ、愛莉先輩の出番は午後のはずだから、大丈夫だったんだけど」
「あ、それなんだけど、勘違いや」安堵した様子の彼女には悪いが、足立先輩の出番を最も楽しみにしている彼女には早く間違いの訂正を伝えなければならない。「天保高校の出番、午後の最初って言っていたけれど、午前の最初みたい」
傍でぼくたちの話を聞いていた受付のお姉さんも頷いている。
「うそ! もしかして、午後と午前を見間違えちゃったの? もう、どうして教えてくれなかったのさ!」
自分の勘違いなのに人のせいにして、才華にすがりつく。この世の終わりのように焦燥している。
「いや、メアドも何も知らないから伝えようがなくて」
「そっか! じゃあ交換しよう!」
「そんなことより、早くチケット買って入場したほうが」
「ああ、そうだった!」
忙しないやり取りを見るに、蓮田さんの性質が少しわかった。彼女はおっちょこちょいで、ちょっと天然だ。自分では「ツイていない」くらいに思っているのだろうけれど。
全席自由の座席はそれほど混雑しているわけでもなく、真ん中とはいかなかったが、やや後方の席に三人並んで座ることができた。たまたま才華の隣に座ろうとすると、なぜか蓮田さんに睨まれて、ぼくと才華とのあいだには彼女が座った。
イベントの概要や出演団体についていくらかアナウンスされると、照明が暗くなって、さっそく天保高校演劇部の演技が始まろうとする。急いで座ったものだから慣れない演劇鑑賞に心の準備が間に合わず、期待感というより緊張でドキドキしてしまう。
演技は、主演女優たる足立先輩が舞台に姿を見せないまま台詞を読み上げて始まった。届けられた彼女の声は全身を這いまわるようにしてぼくの緊張を解きほぐし、それまでとは違った高揚感に塗りかえていく。鳥肌? いや、そんなものではない。身体の表面だけに起こっているのではない。胸の奥底、体中のあらゆる神経が震えている。
女優が姿を見せたとき、ある種の畏怖のような不思議な感覚がさらに高まって、自分の感情すら解釈できなくなった。すごいものを見ているのだという感嘆と、その背後には、なぜか不安のようなものがある。せめぎあう感情の正体が掴めない。
気がついたら演劇部の順番は終わっていて、ぼくは何もかもわからなくなってしまっていた。
どのような台詞があったか、どのような役者がいたか、どのような物語だったか、記憶が定かではなかった。思い出そうとしても、頭の中で再生される映像には、決まって、足立先輩ばかり際立って映しだされる。ほかのあらゆる要素が輝きすぎる彼女のノイズに荒らされている。
物語すら凌駕する彼女の演技は完璧で、物語を超える存在感には、もはやそれをフィクションであると距離を置いて見ることさえ不可能だった。彼女の演技の前では、夢も現も同じ。
全部、彼女に負けてしまう。