I
いつだったか、平馬が「事実は小説より奇なり、とは言うが、事実は小説ほど気を張って読み解くものじゃない」と口にした。
「面白い」を第一の基準として、自分の感性を信じる彼だからこその言葉なのだろう。その意味で彼は天才的で、だからこそ見えている世界がちょっと違っている。ぼくと違って勉学に秀でているのも、見え方の違いによるのかもしれない。
ぼくと違う世界を見ているのは、何も彼だけではない。彼とは対照的な感覚を抱いている家入才華という少女もまた然り。彼女に言わせれば、奇なるものは、リアルであろうとフィクションであろうと関係ない。解き明かせない謎が許されないのだ。
でも、平馬の言葉に顕著だが、ふたりの逆向きの発想にも根底に通ずるところはあるように思う。すなわちそれは、現実と虚構――話を大きくすれば、真実と嘘――というものがはっきりと区別できるということだ。
フィクションとはつまり、どこかに嘘が含まれる。嘘というものは、何か別にある真実を覆い隠すものであるから、嘘が嘘と明らかになった瞬間、隠されたものが疑問として浮上する。才華と平馬の考えというのは裏表の関係で、才華は真実を常に欲していて、平馬は嘘ほど緻密に作りこまれていない真実には考察を求めない。
現実と虚構とは峻別できるとぼんやり信じ込んでいるぼくにしてみれば、ふたりの発想のいずれにも頷いてしまう。しかし、その揺らいだことのない、揺らぐはずのなかった前提を一度に覆されるのではないかという危機感を、高校一年生の夏にして感じている。
「はあ、愛莉先輩すごかったぁ……」
斜め向かいの席に座る蓮田さんは、休憩時間になるたびそう言って嘆息する。彼女は感嘆するばかりで昼食も喉を通らないようで、ハンバーガーもポテトも全然減っていない。この調子ではいつ食べ終わるかわからない。
「食べなよ、蓮田さん。午後のプログラムも見ていくんでしょ?」
「わかってるよ。いいじゃん、感動して気持ちよくなって何が悪いのさ」
蓮田さんはいつもぼくに対して当たりが強い。もう少し優しく接してくれてもいいのに。彼女にとってぼくは才華のオマケに過ぎない。
「それに、あれだけすごいものを見て、平然としていられるほうがおかしいよ」
苦笑い。
そうでもないよ、ぼくも相当、頭がおかしくなりそうだ。
「午後も見ていくんだ……」
ここで遅れて才華が会話に参加する。お昼を食べたら解散するつもりでいたらしい。
「ええ、いいじゃん! 見ていこうよ。もとはそういう約束だったんだし」
蓮田さんが甘えた声でまとわりつこうとするものだから、才華はドリンクを左手に持ち替えて身体を捻り、逃げ切ろうとする。結局抱きつかれて眉を顰めるが、クラスメイトは気にしない。
確かに、最初の約束では午後も見ていく予定だった。もとはといえば午前ではなく午後のプログラムを見る予定だった。午前は興味があれば見るとして、メインは午後だと話していた。状況が変わってしまったのは、蓮田さんがプログラムを見間違えたせいだ。天保高校と天保大学とを見間違えて、午後に高校演劇部を見るつもりがその逆だったのだ。
「私、演劇見るの初めてだったけど、ハマっちゃいそう」
才華から離れても、蓮田さんは食事そっちのけで惚れ惚れと語る。早く食べてくれへん?
「才華さんもそう思わない? 愛莉先輩の演技見たら、一気に演劇好きになっちゃった」
それは足立愛理先輩が好きなのであって、演劇が好きになったのではない気もする。ただ、足立先輩がそれだけの力を持っているということならば、ぼくも同意せざるをえない。天保高校演劇部史上ナンバーワンと名高い名女優たる彼女のおかげで演劇を好きになることは、充分ありうる話だ。
同意を求められた才華は、蓮田さんのほうを見ていなかった。反対を向いて、窓から外を見ている。
「ねえ、その愛莉先輩とやらが……藤宮さんだっけ? その人と喧嘩しているみたいだけれど」
ぼくたちが昼食をとっているファストフード店は、ついさっきまで演劇部の公演を見ていた劇場の、ちょうど道を挟んで向かい側にある。その劇場のすぐ前で男女が言い争いをしていれば、窓際のぼくたちの席から丸見えだ。
口論といっても、どちらかと言えば足立先輩の優勢に思われる。携帯電話――彼女のものはスマートフォンだ――の液晶を見せつけて、何かを示しながら詰っているらしい。藤宮先輩のほうは、それに反論しているか、弁明しているかというふうである。
「あのふたりも終わりが近いみたいだね。というか、明らかに釣り合っていないからさっさと別れたらいいのに」
蓮田さんは吹奏楽部の先輩を躊躇いなく罵る。
「あ、終わったみたいだね」
足立先輩が指を立てて何か二、三言い放つと、踵を返して離れていってしまった。別れを切り出したというよりは、最後通牒となる警告でもしたのだろう。「また同じようなことしたら許さないから」といった具合に。
藤宮先輩も捨て台詞のように何か言い返すと、一転して大きなため息。興奮が冷めて、頬の紅潮がすっと引いていく。文化部とあり決して大柄ではない彼が肩を落としていると、とても小さく見えてしまう。口喧嘩の中で、がっかりすることを言われたのだろうか。
「やばい、こっち見た」
蓮田さんが困った声を上げる。
「うわあ、こっち来た」
藤宮先輩がつかつかと歩み寄って来て、店のドアをくぐった。一緒に昼食をとる約束はしていないから、後輩である蓮田さんに話があるのだろう。思った通り、カウンターに行くことはせずに、ぼくたちのテーブルを見つけると一直線にやって来た。蓮田さんは心底嫌そうな顔をしている。
正直、面倒そうな先輩だとは、ぼくも少しばかり感じている。
「祥子、困ったことになった!」
彼は白い顔をして、問うこともなくぼくの隣、すなわち蓮田さんの正面の席に座った。炎天下で口論をしたものだから、汗は流れるし息も上がっている。それでも顔が白くなるほどだから、よほど肝を冷やしているに違いない。「困った」と言う彼の声色からするに、事を大げさに言っているわけではなさそうだ。
身を乗り出してくる藤宮先輩に蓮田さんは身を反らしながら、「何があったんですか?」と他人事のように形だけ問う。
しかし、彼の「困ったこと」を聞いた瞬間、蓮田さんも同じように表情から血の気を失った。
「俺とお前で浮気を疑われたんだ!」




