その5
「姫川先輩って、『無敵』って感じですよね」
ぼくのふとした言葉に、はあ、と銀縁眼鏡の奥で目を丸くしながら、先輩は頭を左に一五度ほど傾げた。首の動きに合わせてポニーテールが揺れる。
「ええと……完璧すぎるというか、弱点がないというか」
「それは将棋の話ですか?」
手元では、矢倉囲いで固めていたはずのぼくの城がぼろぼろにされて、いまにも焼け落ちようとしている。一方で先輩の美濃囲いの城壁はほぼ無傷。この圧倒的劣勢を覆す手は見つかりそうにない。むしろ、読みの弱いぼくでさえ負けの筋がいくつも見えている。つやつやの新品の駒――今度の書体は鵞堂というらしい――が虚しい。
「確かに、先輩は将棋が強いです。一学期は結局、全敗ですから」
「いえ、一度持将棋がありますよ」
言われてみれば先輩のほうが正確で、引き分けが一度だけあったから、すべての対局で先輩が勝利したわけではない。
いつだったか、それは目黒先生が部室に闖入してきたときに起こった。最近白髪が増えたことを気にしている国語科教師かつ将棋部顧問が、国語科資料室に現れることなど滅多にないから驚いたものだ。
対局はぼくの敗色濃厚で進んでいて、ぼくの手番で長考しているときだった。
すると、目黒先生が勝手にぼくの歩を前進させた。突然の横槍にぼくは唖然としたが、同時に姫川先輩も「目から鱗」と言わんばかりの表情を浮かべていた。彼女に似合わない滑稽なその表情に、何事かと盤面をよく見たところ、なんということか、視界が一気に開けて、みるみるうちに続く手が思いついた。
目黒先生がその一手で気が済んだのか部室を去ったあと、ぼくは陣形を大きく崩されながらも、あれよあれよと入玉を果たし、挙句相入玉に至り、下校時刻になってしまったので仕方なく持将棋とした。
それが唯一、ぼくが負けなかった例だ。
「いや、でもあれはぼくの負けです。駒の点数計算をすれば確実に先輩の勝ちですし、相入玉になった時点で上手の勝ちにすることもあるらしいので」
「……自分で負けと認めるなら、私が認識を覆すべき積極的な理由はありませんが」
先輩の次の一手も恐ろしいものだった。ここで手を誤れば、ぼくの玉は十手もかからずに詰まされてしまうだろう。
「無理に平手で指さなくても、私は駒落ちでもいいのですよ?」
「いや、平手でお願いします。ハンデをもらうのはちょっと……」
「久米くんも大人しいようで、案外負けず嫌いですよね」
「そうですか? 確かに将棋となるとムキになりがち……と、そんなことはどうでもいいのですよ」
ふふ、と笑うあたり、先輩は話を誤魔化そうとしていたらしい。
「ぼくが先輩を『無敵』だと言うのは、何も将棋に限ったことではありません」
「いくつか例があると言うのですね? 私自身は決して『無敵』ではないので、どれも違うとは思いますが、まずは聞いてみないことにはいけませんね。いくつか例示してもらえますか?」
では、ご要望に応じて。検証の時間だ。
「まず、この前の期末テストの結果が貼りだされているのを見ましたが、どの教科についても上位五名には含まれていましたね。将棋も強いのに、勉強もできます」
天保高校では成績上位者五名が点数非公開で名前を掲示で公表される。反対に、赤点を取って補習が必要になった生徒も名前を晒される。教科別のそれを勉学に励むモチベーションにしようというのだ。さすが私立。
二年生の部の掲示を見ると、そこには必ず姫川英奈の名前がある。
「何もすごいことではありません。それに、総合成績では森崎くんが学年トップのはずですから」
「天才生徒会長とトップを争える余裕……それがすごいんですよ」
「私も久米くんの名前が掲示されているのを見ましたよ」
「……申し訳ございません」
数学Ⅰ、数学A、化学の三教科でぼくの名前は晒されてしまっていた。名誉ある成績上位者としてではなく、赤点を取った残念な生徒として。
気を取り直そう。ちょっと咳払いの演技を挟んでから。
「次に、先輩は部費の申請で一万円を勝ち取ってしまいました。将棋も強いのに、勉強もできるのに、駆け引きもできます」
これには明らかに先輩は眉を顰めた。
「駆け引きと言われると、私が博奕をしているようで気に入りませんね」
「すみません。では、交渉力とでも。何にせよ、一万円を勝ち取れるとは思いもしませんでした」
毎年のようにゼロ円で部費を申請している将棋部が、駒を紛失したことにかこつけて、一万円を申請したところ、それが見事通ってしまったのだ。いま使っているピカピカの駒も、その一万円のおかげで手に入れたものだ。
申請書の記入を任されたぼくは、最初五千円で申請しようと考えていた。それだけあれば、常識的な質を備えた安い駒なら二組手に入る。ところが、申請書をチェックした先輩はこう言った。
『ここは一万円で申請してしまいましょう。生徒会が駒の値段にまでケチをつけられるとは思えません。もし一万円が却下でも、それこそ久米くんの言う通り、五千円なら手に入るでしょうから、もらえるものはもらっておくべきです』
清楚な外見に似合わず、図太くしたたかな人だ。
まあ、本人の前でそう評価するのも失礼と思って「交渉力がある」と言ってみたのだけれど。
「やはりピンときませんが……」
先輩はぼくの手を待ちながら、水筒を取りだす。対局が最終盤に入って決着がほぼ決まると、集中する必要がなくなったと言わんばかりにそれを持ちだすのが彼女の癖だ。ポーカーフェイスな彼女が対局中に唯一見せるスキではあるが、それを見たときにはもう勝てなくなっているので仕方がない。
その水筒からは紅茶が香る。とても上品な香りだ。
「アイスでもよく香りますよね、それ」
「ええ、茶葉にはこだわっていますので。私は、紅茶の良し悪しは香りで決まると信じています」
「……こういうところも、先輩のすごいところですよ」
「はあ……?」
「将棋も強いのに、勉強もできるのに、駆け引きもできるのに、趣味に没頭することができます。一学期のあいだ、対局しながら色々なことを話して思ったんです。先輩、いったいどれだけ趣味があるんですか?」
紅茶は彼女が特に没入している趣味だ。ひとつ質問すれば、おいしい淹れ方から変わった工夫まで、訊いた以上の回答が返ってくる。「ペットボトルのレモンティーくらいしか飲みません」と言ってみると、「甘味料の後味が悪いので好きませんね」と言ってそれから甘味料がいかに紅茶をダメにするか語りだしてしまった。
音楽プレイヤーを持っているところを見つけたとき、好きな音楽について尋ねたことがある。ぼく自身流行りの音楽には詳しくなかったけれど、よっぽど有名なら話を盛り上げる自信はあった――しかし、そうはいかなかった。だって、クラシックが好きだと言うんだもの。有名だけれど、わからないよ。
小説も趣味だということも聞いた。読む本はミステリからロマンスまで雑食だという。それほどたくさん読むほうではないと謙遜するが、それでも文庫を週に一冊は読むと話していた。そして驚かされるのは、書くこともあるということだ。中等部三年生のとき、高等部文芸部の部誌にミステリの短編を寄稿したことがあるらしい。
これだけでも、彼女がぼくとは異なる時間の感覚のなかで生きているのだろうと想像がつくけれど、彼女の引き出しはもっと多かった。鉄道旅行や落語、サッカー観戦なども趣味として語っていたことがある。
一体どこにそんな時間があるのだろうか? 宿題や予習復習に追われてそれどころではないはずなのに。
「多趣味なのは自分でもそうだと思いますが、すごいことなのでしょうか?」
謙遜が過ぎる。ぼくは、否定する向きに大きく首を振った。
「すごいことです。見習いたいと思います」
「それほどの人間とは思っていませんが……」
「何か弱点とかないんですか? 苦手なこととか」
人間たるもの、欠点があってこそ輝くものなのではないだろうか! ……いや、これも先輩の前では言い訳がましくなってしまうのが恐ろしい。
ふふ、と先輩はいつものように笑う。
「私、レモンが苦手です」
「え」
「はい。小さなころから酸味の強いものにどうしても慣れなくて。レモンティーにしても飲めません」
にこやかに弱点を語る彼女に、ぼくは唖然とするほかない。
あまりにもあっさりと弱点を認め、しかもその弱点がかくも素朴なものとは思わなかった。落差のために気が抜けてしまって、何のために彼女を褒め殺していたのかわからなくなる。
「さあ、気は済みましたか?」
とても楽しそうだ。
ああ、わかった気がする。
この人は、他者に称えられることが苦手なのだ。誰かに褒められるくらいなら、自分が相手を褒めるか、からかっていたいのだろう。時々自画自賛するのも、相手をからかっているうちともいえる。
そういう意味では、ぼくが思い描いた通り「無敵」なのかもしれない。弱点を突かれる前に自分から攻勢に出てしまうのだから。
「ええと、たぶん、ぼくの中で解決しました。それで対局は――」
「詰んでいます」
「ですよね」
【登場人物 File.04】
○姫川英奈 ――2年E組 将棋部部長
弥の将棋部の先輩。振り飛車党。成績優秀ながら趣味に多くの時間を割いているとみられ、私生活は謎に包まれている。眼鏡をかけるようになったのは、幼いころのテレビの見すぎが原因。幼き日にテレビから吸収したものが現在の多趣味につながったのかもしれないと自己分析している。
「向かい飛車は好きですね。指されたら嫌でしょう?」
☆姫川(←クイーン)+英奈(←エラリー)




