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テンサイ的少女のポートフォリオ  作者: 大和麻也
Episode.05 ふひょう
24/64

IV

「あ、将棋部の活動? お疲れさま」

 槇原先生が国語科資料室にやって来た。

 きょうは古文の時間がなかったので、会うのは金曜日の放課後以来だ。これが案外久しぶりに感じるもので、いつになくシャツの白色がキレイに映えて見える。

「はい、きょうはいつもより長めに指していました」

「じゃあ、邪魔しないように資料を見させてもらうね」

 目黒先生と一緒でないからか、肩の力が抜けて、しばし仕事モードから普通の女子大学生の気分に戻っている様子だ。口調はリラックスしていて、感じが良い。ぼくと姫川先輩が教えたことのある生徒だからかもしれない。

 長めに対局していたというのは、半分本当で、半分嘘だ。

 嘘とは、別に長時間指していたのではなくて、指しはじめが遅かっただけということだ。五時を回ってから指しはじめるなんて、滅多にない。駒の行方についての議論は、それだけ長引いていた。

 もう半分の事実は、本当に良い勝負をしているということだ。何度やっても瞬殺されていたけれど、きょうは調子がいいのか、もっと粘れる手ごたえがある。姫川先輩の手順に慣れてきたからと考えられる。慣れとはどれだけ気分の良いものなのだろう!

 盤面は、中盤戦から終盤戦に差し掛かろうとしている。やや押され気味なところ、いま思浮かべている手筋がうまくハマれば、終盤の優位はぼくのものだ。きょうこそ初勝利を掴むことができるかもしれない。

 でも、ここで一旦盤面から目を切って、やらなくてはならないことがある。姫川先輩が小さく口角を上げるのが合図だ。それを認めたぼくは、持ち駒の歩を一枚手に取り、ぼくの背後に向かってわざと手を放す。

 狙い通り、歩が槇原先生の足元へと転がった。彼女はすぐに気がついて、駒を拾ってぼくに手渡してくれる。

「あ、ありがとうございます。手が滑って」

 彼女の視線がちらりと盤面に向かったところを見逃さず、ぼくはまた先生に声をかける。

「先生は将棋、わかります?」

「へ? ……いやね、それがわからなくて。山崩ししかやったことがないの」

 恥ずかしそうに苦笑い。

 この笑顔なら、男子からの人気にも頷ける。

 盤の反対側でやり取りを見ていた姫川先輩は、再び合図の微笑みを湛えた。これでぼくの演技は終了。どうやらこれで、すべての疑問は解消されたようだ。

 どうせならその合図、ウインクにしてほしかったな。

 頑張って、と残して部屋を出ようとした先生をもう一度引き留めて、最後は姫川先輩が質問した。

「以前この部屋で駒をばら撒いてしまったことはありませんか?」

 ドアを引こうとしていた手が止まり、ぱっとこちらを振り返った。

「え、どうしてわかったの? ちゃんと片づけたのに……」



 教育実習生は、駒を散らかしてしまったこと、それを片づけてはみたけれど間違っていた可能性が否めないこと、そしてその事実を隠そうとしたことについて詫びた。曰く、いっぱいの教材を身体の前に抱えて資料室に入ったところ、思っていたよりもせり出していた棚に気がつかずぶつかってしまったのだという。

「ああ、あの先輩たちが」

「棚を動かしたからですね」

 対局するふたりで合点する。

 その盤面に直角に椅子を運んで座る第三の人物は、話を理解していないようではあったが、とにかく手を合わせていた。

「本当に、ごめんなさい!」

 お詫びの言葉はたくさん並べられたけれど、正直、形ばかりという印象が否めなかった。理由のひとつには、彼女が自分はしっかり片づけを済ませたと思っていたから。もうひとつには、どうしてばらまいたことが知られていたのか気になって仕方がないからだ。

 姫川先輩は自慢するふうでも、奇を衒うふうでもなく、淡々と語る。

「将棋に関心のない先生は気がつかなかったのかもしれませんが、駒の書体には違いがあります。錦旗というこちらの書体は、シンプルで風格のある字形が特徴です。もう一方の水無瀬はダイナミックでありながら、軽快な筆遣いが見てとれると思います」

 大学生は高校生の講釈に耳を傾けつつ、駒を凝視する。何秒か見比べて、「まあ、確かに違うね」とぼんやりした感想を述べた。妥当な反応だと思う。

 将棋部部長は、手元ではぼくとの対局を続けながらも、槇原先生と言葉を交わす。

「駒が混ざることになったのは、単刀直入に言ってしまえば、先生の片づけ方に問題があったからです。まず先生、駒箱ひとつあたり、駒が何枚入っているかはご存知ですか?」

 きまり悪そうな苦笑を浮かべる。

「対局するときは、八種類二〇枚の駒を動かします」ぼくの一手を一瞥してから、姫川先輩は先生の回答権を奪って語る。自分が訊いたのに。「それが相手ぶんも入って、四〇枚。多くの場合、予備の駒がこれに加わります。一枚が最も一般的で、滅多にありませんが、私の知る限りでは最多で四枚あります」

 将棋部の駒箱の事情についても説明を付け足す。予備の駒が入っているのは、B――錦旗――の駒箱だけで、歩兵が一枚だ。

「さて、先生は駒箱に入っている枚数も書体の違いも知りませんから、散らばった駒を原状回復するとき、方法はふたつにひとつです。私たちが普段駒を区別するのとは別の手掛かりを頼りにするか、駒に関する正確な資料を参照するかです」

 槇原先生は口元に手を当て、思い出しながら話す。

「駒の書体は知らないけれど、材質の違いならわかる。プラスチック製のものは明らかに違っていたから、まず、それはそれで片づけたの。木のほうは、スマホで駒の組み合わせを検索して、それを見ながら」

 でしょうね、と姫川先輩は静かに頷いた。ついでに一手、ぼくの玉将を攻める。

「見ながら片づける方法なら、確実に一組を揃えることができます。しかし、書体については区別がつけられない先生の場合その限りではなく、また、もう一組について疎かになりやすくなります」

 語り手を除くふたりは首を傾げた。ちょっと話がややこしい。

 よく目立って選別しやすいプラスチックの駒は、最初に駒箱に戻した。次に意識が向くのは、残された大量の木製の駒。槇原先生は木製の駒に書かれた字体の区別ができない。区別がつかないからには、それがふたつの箱にどうやって分配されるのかわからない。

 そこで奥の手、スマホだ。スマホで検索して見つかった、駒一式四〇枚の組み合わせに従って駒を拾う。いつか一式揃うけれど、床にはもう一式ぶん駒が残されている。おそらく先生は、ここで「もう一組あったのか!」と気がついたことだろう。せっかく片づけられたと思ったのに、これは面倒くさい。

 ……面倒くさい?

 いや、そんなこともないはずだ。

 ショートカットする手がないでもない。

「先生、もしかしてプラスチックの駒を揃えたあと、スマホを見ながら集めたのは、一組だけでした?」

 残りの駒箱がふたつであることはわかるのだから、わざわざ二度も丁寧に駒を調べながら片づける必要はない。二組駒を揃えたあとに、床に残る駒をひとつの箱に入れれば、自動的に一式の駒を揃えることになる。

 ぼくの問いに、答えは小さな声だった。

「あ、はい……そうしました」

 ですよね。

 時間に追われる実習中、駒をばらまくアクシデントに時間を取られたくはなかったはずだ。

 手掛かりなしにただ落ちていた駒を集めると、駒が本当に揃っているかとか、ほかに落ちている駒がないかとかをあまり調べなくなってしまう。それゆえ、木製の駒ばかり五枚も不足することになった。

 これで、駒箱から消えた五枚がどのようにして生じたかはわかった。

 では、失くした駒はどうなってしまったのか。

「その五枚は見つかったの?」槇原先生も心配している。「見つからないままだと、使えなくなっちゃうんだよね? 買いなおしになったら申し訳ないよ」

 不安な問いに対して、先輩は首を横に振る。

「残念ながら、五枚はもう戻ってこないと思います」

「そんな! わたしのせいだから、弁償するよ」

 弁償を提案するとは驚いたが、槇原先生は実習生だ。学校の備品を紛失してしまったなら気が気でないのも当然である。

 けれども、先輩は再び首を振った。

「必要ありません。どうせ部費を申請するところでしたから」

 なおも槇原先生は食い下がったが、彼女のせいと学校に報せることはしないと説明して落ち着いてもらった。駒は古いから替え時と言って嘘ではないし、紛失が起こりそうな状態で保存してあったのも確かだ。先生に不利なことを言うつもりは一切なかった。

 先生が不完全な片づけをしたあとの経緯も、姫川先輩は見通していた。

「先ほど清掃の方がいらっしゃったので、お話を聞いたんです」

 そう、天保高校では放課後になると、外部の業者の清掃員さんがやってきて学内を綺麗に掃除してくれる。さすが私立。

「清掃の方? まさか……掃除機に吸われちゃったってこと?」

「そうです、そのまさかです」

 槇原先生と会う前、廊下で掃除機をかけていた清掃員の方に声をかけ、姫川先輩はいくつか質問をした。

 まずは清掃のスケジュール。四時半ごろから掃除機をかけて校舎を回っている。いつもホームルームから始めて、特別棟を回る。それから五時過ぎごろに国語科資料室の近くを回る順番だとか。

 続いて、先週金曜日に国語科資料室を掃除したか尋ねた。清掃のおばさんは頷いた。普段は施錠されていない部屋しか掃除していないが、鍵が開いていればその部屋も綺麗にする。先週金曜日は槇原先生が授業の準備のため鍵を開けていたので、先生に声をかけ、掃除機をかけたのだという。

「嘘……確かに掃除の方と会ったけど、かけてもらったらまずかったってこと?」

 部員ふたりは素直に頷く。実習生は「そんなぁ」と漏らし、頭を抱えた。

「ごめん、それは本当に考えが浅かった。駒はちゃんと元通りにできたと思っていたし、準備を早く進めなきゃと思ったら、気が回らなくて」

 言い訳がましく弁明しなくなって、事実が確認できたと心の中で頷く。彼女の失敗を許すとか許さないとかいう判断は必要なくて、ただどうして将棋の駒五つが消えてしまったのかを明らかにできたことに、気分は晴れやかだった。

 先生には謝罪を止めてもらって、授業の準備に戻ってもらうことにした。準備という単語を聞いた途端先生は顔を真っ青にして、時計を見ると恐ろしい表情になり、何冊か資料集を抱えると資料室を飛び出していった。ぼくたちと話し込んで、目黒先生との打ち合わせでもすっぽかしてしまったのだろうか。

 初々しくて微笑ましい。

 高校生がそう思うのは本当に失礼なのだけれど、たぶん、姫川先輩も同じことを思っているのだろう。天保の先生は天保高校に慣れすぎていて、生徒もそのような先生たちとの高校生活に馴染んでいる。天才の巣窟に投げ落とされた凡人のぼくだって、慣れを感じる機会が増えた。だから、教育実習生があたふたしているのを見ると、初心を思い出すような素敵な刺激を得られる。

 槇原先生には良い先生になってもらいたいものだ。

 いや、ぼくがそう思うのはやっぱり失礼なのだけれども。

「ところで先輩、訊いてもいいですか?」

「はい、どうぞ。何でしょう?」

「いつの間にかぼくの玉が詰まされていますね」

「槇原先生相手に芝居をしているとき、致命的な悪手が久米くんにありましたよ。気がつきませんでしたか?」

「……かなわんわ」

 敗けることにも慣れてきた。これはあかん。

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