III
「駒を散らかした誰かは、つまりこの国語科資料室に出入りする誰かです」
将棋部部長は、自身の心当たりをかなり初歩的なところから語りはじめた。ぼくにだってそのくらいの絞り込みは思いつく。
「この部屋に出入りする人と言えば、まず、当然ですが国語科の先生方がいます。それから、将棋部の部員」
「ぼくと先輩ですね」
「いえ、それが実は、ほかにも二年生の部員がこの部屋の鍵を借りて、入室することがあります。将棋を指すことは滅多になくて、充電をしながらゲームをするためですがね」
それはひどい。
部長曰く、男子部員が四人所属しているそうだ。そのうち三名は元来将棋に興味を持っていたそうだが、無敵の女子部員に何度もコテンパンにされ続けた結果情熱を失ってしまったらしい。
将棋をしなくなった彼らは、時々、月曜と木曜以外の曜日に部員として職員室で鍵を借りて入室、こっそりとゲームに興じる。大胆なことをする割には小心なようで、資料室に長居すると先生と鉢合わせて怒られるため、長くても小一時間、五時になる前には帰る。
そんな先輩たちでも将棋部が部活動として承認されるためには欠かせない。部員が五人を下回ると同好会に格下げされて、部費の申請が不可能になってしまう。
だから、姫川先輩は彼らの悪癖を黙認している。ただし、もし問題になっても自分は関係ないと主張するつもりだそうだ。
「実はいま床を探していたときに、ひとつ、彼らがやって来た証拠を見つけています」
そう言うと、将棋道具が置かれている部活用の棚に歩み寄る。
「ここを見てください」
言われた通り覗き込む。その棚は板と柱だけで組まれた金属製で、かなり古いものなのか、錆が目立つ。ちょっと触って揺すってみると、ガタガタとうるさく音が鳴る。ただ、さほど重くもなさそうで、力を入れれば引きずることなく動かせそうだ。
「これがどうかしました?」
「少しばかり、動かされています」
もう一度見直すと、確かに、ちょっと動かされたらしい痕跡がある。床のタイルにできた正方形の跡と、実際に支柱が置かれている位置とが重なっていないのだ。
「先輩たちがゲームをしに来て、動かしたんですか?」
「そうです。彼らはコンセントに充電器を差し込むため、棚を動かします」
柱がいつもの位置にあった場合、コンセントと柱が重なるようだ。これだと、柱が邪魔をして充電器のプラグが入らない。
「私が気づけば戻しておくことが多いのですが、気づいていなかったということは、先週の金曜日に動かしたのでしょう」
「金曜日に駒を紛失したと思っているのですか?」
「おそらくそうだろうと思います。先週木曜日に対局したとき、私たちが使ったのはBの駒だったと記憶しています。その駒箱から最も多く三つの駒を失くしたのですから、その翌日の金曜日と考えるのが妥当かと。土曜日も可能性がないではありませんが、彼らの場合、土曜日は居残らずすぐに帰ると思います」
才華に比べて推論の重ね方や説明の仕方が丁寧だ。ぼくにもわかりやすい。
ということは、ゲームをしに来た先輩たちが棚を動かしたときに駒箱を落としたのだな。それが結論かと先輩に問うと、彼女は首を横に振った。
「そうではないでしょう。この駒を使って対局をしたこともあります。もしひっくり返すようなことがあっても、もう少し丁寧に片づけができるはずです。ABCの駒を別々に仕舞うくらいは気を遣うでしょう」
部長が同級生部員のことをそう言うのであれば、将棋への情熱を失った彼らでもそうするのだろう。対局したことがあるからか、一定の信頼はあるらしい。会ったことのないぼくはまだまだ信用できないけれど。
「焦っていたとかは?」
「そういうことも多少あったとは思いますが、それならもっと乱雑に入れられたのではないでしょうか? 混ざって駒箱に入っているとき、王将が三枚あるとか、桂馬が一枚もないとか、そういう過不足は見られませんでした。このことから、対局できる元通りの状態にしようとしていたことは明らかです。焦っていたなら、その余裕もないでしょう」
はあ、なるほど。
丁寧に片づけてはいたけれど、紛失した五枚の駒を見つけることは諦めて仕舞っておいたということだろう。
「先輩たちでないとすると、国語科の先生のうちの誰かですか?」
「いえ、その可能性も低いかと。この棚に置かれているのは主に将棋部の備品と、前にこの部屋を部室としていた文芸部が残していった過去の文集の一部です。授業で使う資料のほとんどは別の棚に整理されていて、この棚には古いものが少ししか置いてありません。いつもこの部屋を使っている先生方ならそのことを知っていますから、この棚に近づいてうっかり駒をこぼす人はいないでしょう」
「じゃあ、誰がそのうっかりさんなんです?」
ふふ、と先輩は笑った。
「一年B組でも授業をしたと聞いていますよ」
ぼくのクラスで授業をした? いつもは国語科資料室を利用していない? 金曜日の放課後か土曜日にここを出入りした?
誰だろう? ――あ、そうか。
「槇原先生だ!」
先輩は大きくゆっくりと首肯した。
教育実習生の槇原先生は、授業の準備に熱心だ。国語科資料室を活用することもあるだろう。でも、実習に来てまだ数日。この棚には使える資料が少ない、という事実をまだ憶えていないこともあろう。
ついでに、失礼ながら、うっかり駒をぶちまけることもありそうだ。
槇原先生といえば、思い出すことがある。
「槇原先生なら、少なくとも先週金曜日は、ここに来ていると思います」
姫川先輩は目を輝かせ、ぼくの話の続きを促した。
「放課後にプリントを届けに行ったんです。授業後に、教室に置き忘れていったから。そのときちょうど目黒先生と授業について打ち合わせをしている最中で、資料室の話をしていました。『こんな資料を使いたいのですが良いものはありますか?』『おお、それなら資料室にあるだろうから、あとで見にいけばいい』って感じで」
あのときの槇原先生の表情は、やる気に満ちているように見えた。授業はうまくいかなかったが、それで心が折れるようなことはなく、次の授業の展望に打ち込む心の準備ができていたのだろう。その表情を見て、ほっとしたのを憶えている。高校生が安堵するなんて、生意気だったかな。
そんな槇原先生なら、目黒先生と話した通り、金曜日の放課後に国語科資料室を訪れたことだろう。駒箱をひっくり返したのはそのときに違いない。
「じゃあ、仮に槇原先生が駒をおかしくしたとして、どうしてあんなふうになったんでしょうね?」
駒の種類が混ざっていたり、紛失した駒に気づいていなかったり。
「それなら、ひとつ条件は付きますが、どのような経緯があったかは見当がついています」姫川先輩は自信満々な様子で微笑んでいる。この人の振る舞いは、槇原先生よりも先生っぽいかもしれない。「ただ、それだけでは駒がどこにいってしまったのかは確認できません。槇原先生が駒をこぼしたというのは、あくまで『仮』とカッコをつけていないと」
先輩の言う通り、不足した駒を見つけることができずに諦めただけならば、それらは床に転がっていて然るべきだ。ぼくたちがいまそれを見つけられないのなら、何かしら理由がないと。
才華のように、可能性を列挙して、消去法で絞り込んでみようか。
資料室の外まで駒が転がり出てしまったというのはどうだろう? いや、変だ。廊下に落ちていたほうがよっぽど目立つから、気がついて箱に戻しておいてくれそうなものだ。
実は失くしたのではなくて、持ち出したとか? 隠したとか? いや、まさか。理由がない。
あかん。うまく説明できそうな仮説が立てられない。
そう、なんだか集中できないのだ。
ああ、そうか。廊下がうるさいのか。
「ドア、さっき探したときからちょっとだけ開けっ放しにしていましたね。掃除機の音がうるさいので、閉めますね」
すると、姫川先輩は肩に触れてぼくを引き留めた。
「もうそんな時間でしたか。ちょうどいいので、廊下に出てみましょう」