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テンサイ的少女のポートフォリオ  作者: 大和麻也
Episode.05 ふひょう
21/64

I

 天気予報が早ければ今週末にも梅雨入りをすると伝える時期。

 ぼくはこの微妙な期間が苦手で、ぐんぐん上がっていく気温と湿度にうんざりさせられる。とかく不快指数が高いのだ。一日汗をかいて帰ってくるのに、夜は蒸し暑くて寝付けない。そのせいで朝は起きられない。重苦しい身体を引きずって、怠惰な学校生活へと出かけていかなければならない。つらいったらない。

 そういう時期というのは、サボタージュが身体に馴染むころでもある。負の悪循環を抜け出すことは容易でなくても、マイナスの量を減らすことを図っていく。幸いテストが終わって一週間ほどだから、正直言ってさほど緊張感を必要としない。うまい具合にスイッチを切って、スタミナを温存するのだ。

 どの生徒も同じようなことを考えていて、教室は集中しているというより睡魔に呑まれて静まり返るようになる。特にいまは週末の六時間目、集中しているクラスメイトなど、ほんのひとりかふたりではないだろうか。

「それで、ここは未然形で――」

 これだけ気の緩んだ授業になったのも、前以て、今回の授業の内容がテストに出題されることはないと、古文の担任である目黒(めぐろ)先生から予告されていたからだ。本筋と違うことをやるので、テストに出題するとかえって不便なのだという。具体的には、中間テストが終わってからはずっと枕草子を扱ってきたのだけれど、きょうは特別に、今昔物語からピックアップした短い授業を扱う。五〇分間で読み切るそうだ。

 良くも悪くもテストに慣れた天保の生徒たちにとっては、絶好の休憩のチャンスである。もちろん、ぼくにとっても。

「ええと、じゃあこの一文の現代語訳を……塚田(つかだ)くんに」

 返事がない。塚田は机に突っ伏して眠っているようだ。

「あの、起こしてもらえる?」

 後ろの座席の女子が背中をペンで突っつく。塚田は顔を上げるものの、指示された文章がわからないので答えが出てこない。

 これには指名した側もあたふた。代わりに別の誰かを指名しようにも、また名簿を見直さなければならないから、せっかくの流れが切れてしまう。

 授業の進行がぎこちないのは、指導に当たる先生が目黒先生ではないからだ。彼のやり方はもっと天保臭いというべきか、寝ている生徒がいたところでまったく気にしない。そもそも、質問を振ることも滅多にない。まるで「俺はこれから子守歌を歌うから、学びたい者は各々励むように」とでも言うような感じだ。穏やかな顔の人なのに、結構むごいことをする。

 それとは対照的に、丁寧すぎて行き詰るのは、教育実習で天保高校を訪れている槇原(まきはら)先生だ。天保大学で教員を目指す彼女はこの天保高校の卒業生で、高校生のころ目黒先生に生徒として学び、いまは実習生として指導をしてもらっているそうだ。

 二週間の実習のうち、一週目の最後。ついに授業を任せられるようになったというが、言葉には詰まるし、黒板の字は綺麗に書けず何度も書き直すし、何より説明がわかり易いとは言い難い。残念ながら、もっぱら優しい為人とルックスくらいしか評判が良くない。

 特段の美人というほどではないのだろうけれど、高校生男子にとって女子大学生が物珍しいのは否定しない。地味だけど清楚というのか、人の好い性格をそのまま顔立ちで表現したような印象。元来目が大きくまつ毛も長いようで、化粧も無理をしていない。丸顔にボブカットがよく似合う。

 あくびを堪える。

 さすがに、一番前の座席のぼくが堂々とあくびを漏らしたら、実習中の先生にはかわいそうな気がする。初めての環境に身が縮まる思いというのは、ぼくにも共感できるところだ。

 あくびをする代わり、ちらりと教室の後ろを窺う。

 普段の古文の担任、目黒先生が実習生を見守っている。

 くたくたのグレーのスーツを身に纏う彼は、掃除用具の入った棚に寄り掛かって腕を組んでいる。心配とか、怒りとか、呆れとか、そういった表情はない。時折槇原先生から助けを懇願するような視線を飛ばされているが、無視を決め込んでいると見える。

 実習生への指導も天保流、ああ恐ろしい。

 教壇の槇原先生がふと腕時計を確認してはっとする。

「ええと、終わりの時間ですね。資料を使って紹介したいことがまだ少しあったんですが、本文は読み終わったのでここまでにします」



 目黒先生、槇原先生と入れ替えに、クラス担任たる駒場先生がやってくる。一日の授業が終わった気になったところで、「うちのカミさんがなぁ」などと愚痴が混ざる彼の長い終礼は、正直なかなかにきつい。それでも、「早く終わってくれよ」と念じて過ごすおよそ一〇分間に、一日の終わりを感じるくらいには慣れてきたところだ。

 慣れてきた?

 慣れてきた!

 そうか、ぼくは天保の高校生活に慣れてきたのか。授業であくびができるようになったのも、学校生活に抱く不安が減ってきた、あるいは、うまくこなしていく自信がついたということかもしれない。褒められたことではないのかもしれないけれど。

「よし、終わり」

 特に礼をするでもなく、駒場先生は終礼を切り上げる。級友たちは立ち上がり、部活なり家路なり思い思いに移動しはじめる。ぼくはどうしようか。将棋部は活動日ではない――活動日だとしても、姫川先輩とふたりで一、二時間ほど対局するだけだが――から、平馬と少し話して帰ろうか。あいつ、帰るのが早いからさっと捕まえないと。

 平馬を振り返ろうとしたとき、駒場先生から「あ、久米」と呼び止められる。

「はい、何でしょう?」

 返事は冷静にできたが……まずい、きょうの数学の小テスト、ゼロ点でも取ってしまったのだろうか?

「お前、確か将棋部だったよな」

「はい、そうです」

 部活の話?

「将棋部って目黒先生が顧問だよな。これさ、目黒先生――というか、槇原先生――に届けておいて。六時間目の忘れ物みたいだな」

 彼が教卓の下から取り出したのは、B4サイズのハンドアウト。教科書ではない別の資料集か何かのページが印刷されている。内容は今昔物語。そういえば、槇原先生が授業の最後にやり残しがあったようなことを言っていた。なるほど確かに、これは授業の忘れ物のようだ。

「それじゃ、よろしく……さてさて学年会議だ、急がないと」

 ぼくの机にプリントの山を置くと、ご丁寧なことにぼくにも聞こえるよう忙しい旨呟いて、担任教師はしゃかしゃかとジャージの擦れる音を鳴らしながら教室を去った。

 再び教室を見回したときには、平馬はもう見当たらなかった。

 仕方がない、届け物をさっさと片づけて帰ることにしよう。

「平馬の奴、もう帰っちゃったか」

 取り残されたぼくに声をかけてきたのは、ショートカットと眼鏡がトレードマーク、江里口さんだ。

「借りた教科書返しに来たのに。貸したこと自体忘れたみたいだな」

 よくあるんだけどさ、と呆れ顔。

 駒場先生の終礼が長いからいつも放課後は平馬に会えるはずが、きょうは彼女のクラスでお説教があったせいで遅れてしまっていた。曰く、数日前の放課後に廊下をひどく汚した不届きな輩がいたらしい。「清掃員さんに綺麗にしてもらっているのに何事だ!」と担任教師はかんかんで、なかなか解放されなかった。

 ちなみに、平馬は携帯電話を持っていないから、江里口さんは彼に伝えたいことがあると学校で会わなくてはならない。放課後にチャンスを逃すと、次の登校日を待つことになる。

 彼氏と一緒に帰ったりしないんだね、とからかってみると、そっちこそ、と返された。まあ、ぼくと才華が一緒に帰ると同じ家に向かって歩くことになるから、見られたりするとちょっと問題がある。才華のほうは「気にしない」のだろうけれど。

「あ、それ。槇原センセーのやつだ」

 江里口さんがぼくの手元にあるプリントに気がついた。

「忘れ物。これから槇原先生のところに届けに行くんだ」

「そっか」

「どこに行けば会えるのかな?」

「槇原センセー、目黒先生のクラスの終礼に出てるらしいよ」

 へえ、そうなんだ。

「二年生の……何組だったっけ?」

「E組じゃなかった?」

 お、姫川先輩のクラスだ。部活の顧問の先生が担任でもあったのか。

「で、どんなもん?」

 何が? と訊き返すと、友人の恋人は、もちろん槇原先生のことだ、と答える。

「上手な授業ではなかったよね。緊張していたみたい。この通り、プリントを配れずに終わったくらいで」

「ああ、うちのクラスでもギリギリで、そのプリントを配りはしたよ。でも、説明は時間切れ。配って終わりだった」

「江里口さんのクラスでも授業をしたんだね」

 肩を竦める。中等部から天保の授業を受けてきた彼女の評価は辛口だ。

「はっきり言って段取りが悪いっていうか。真面目でも柔軟性がないんだろうなって」

 的確な分析を述べたあとに、「だいたい寝てたわ」と笑って付け足す。居眠りしていても評価ができてしまうほど、槇原先生の弱点は歴然としていたということだ。

 まあ、実習生に融通を利かせろとは、さすがに酷なのかもしれない。

「あと、名前は憶えてほしいかな。締まらない」

「名前を憶えるのが苦手というようなことは、自己紹介のときだったかにぽろっと言っていた気がするよ。まだ一週間だし、クラスもいくつか見ているんだから、難しいだろうね」

 それもそうか、と江里口さんは呟く。

「槇原センセーが目黒先生と話しているところを小耳に挟んだんだけど、B組とC組、それから二年E組で三クラス、三回ずつ授業するらしいよ」

 教える生徒は全部でざっと一二〇人超か。頭に入らなくても仕方がなかろう。

「それにしても、全部で九回? たった二週間なのに」

「うん。だから放課後は準備で忙しいんだって。帰りはいままで毎日、九時とか一〇時に学校を出るって話」

 ぼくなら我慢できない気がする。将来の進路に教員は考えないことにしようか。

 真面目で優しい性格らしく、準備にも一生懸命。とても良い人だから、授業でも成功してほしいのだけれど。気負って余計に力が入って身体を壊してしまったら申し訳ない。もっと真剣に授業を受けるべきだったと後悔するだろう。

「あ、そういうことなら早く会いに行かないと!」

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