その4
「ああ、あとちょっとで死ぬところやったわ!」
昼休み、ぼくはへとへとになって机に突っ伏した。
そこに平馬がやって来て、ぼくを急かす。彼の表情も疲れを隠せず、元気がない。
「ほら、食堂に行くぞ。列が長くなる」
「そうやね、行こうか。ああ、お昼は粉物がいいなぁ、それかうどん。あ、でもダシが黒いやつはあかん。綺麗に透きとおった上品なやつ、ぼくはあれやないと嫌やで」
廊下を歩きながら、平馬は苦笑いする。
「そんなものがあるか、学食に期待をしすぎだ。急にどうした、ホームシックか?」
ホームシックではないつもりだ。もちろん、大阪での生活や友達は懐かしいのだけれど、それ以上に東京での暮らしにワクワクを感じている。
「死にかけたら大阪が恋しくなったんや」
中間テストは赤点を抱えながらも乗り越えた。喉元過ぎれば熱さ忘れるというもので、あの恐怖も終わってしまえばどうということはない。しかし、安心しきっていたぼくにさらなる恐怖が待ち受けているとは思いもしなかった。
それは――水泳の授業だ。
体育の授業は、中学のときと比べてかなり強度が上がったと感じる。高校生の体力とは、中学生よりもずっと上の水準にあるのだと、ハードな授業で何度も思い知らされた。
とはいえプールは盲点だった。基本の泳ぎは中学生のうちに心得ていたから、多少体力は必要になっても大丈夫だろうと思っていた。
「甘かった……プールそのものが脅威やったなんて」
天保高校は部活でも全国レベル。当然、競泳部や水球部もかなりの実力で、それに見合った設備が用意されている。
とても、深かった。
思っていたよりもずっとずっと、深かった。
「足がつかないプールって、疲れるんだね……生まれて初めて、溺れそうになったよ」
プールの縁にしがみつく以外に体を休める方法がない。最初はちょっと不安というだけでたいしたことはなかろうと高をくくっていたけれど、そう甘いものではなかった。目測を誤ったときや、前後で泳ぐ人とぶつかったときなど、ふと身体のバランスを整えようとすると、足がつかないのでふっと沈んでしまう。その瞬間の恐怖ときたら、よう言わん。
何度か繰り返すうちにどんどん疲れてしまって、疲れるとまた沈みかけて、だんだん溺れているのと大差なくなっていった。
「まあ、おれも中学に入りたてのころは殺されたと思ったな」急ぎ足で廊下を歩きながら、平馬はぼくをからかう笑顔を浮かべる。「まあ、慣れればそう恐ろしいものでもない。おれは地上を走るほうがよっぽど嫌いだ」
運動が苦手な平馬にそう言われると、いつかこなせるようになるという期待と、現時点で負けているという悔しさが入り混じる。勉強では敵わないことがわかっているだけに、彼の苦手なものには勝ってみたい気がしないでもない。
冬の持久走がいまから憂鬱だ、という平馬の呟きが恐ろしい。
体育の授業後だから急いだが、幸い食堂はまだ人が入りはじめたころだった。さっそくカレーを注文し、調味料コーナーでソースをかけてから席に着く。学食でも生卵を入れられたらいいのに、と思いつつ、ラーメンを求めて並ぶ行列に足止めを食う平馬を待っていると、平馬ではなく二人組の女子がやって来る。
「あ、才華。それに江里口さんも」
才華はぼくを見つけ、江里口さんは平馬に声をかけられたのだろう。相変わらず犬猿の仲のふたりは睨みあってばかりだけれど、平馬とぼくが一緒に行動することが多いので、このごろ、毎日ではないにせよこの四人で昼食をとる機会も増えていた。
ふと江里口さんを見る。明太子パスタの皿を前にぼうっと頬杖をついて、平馬がいるのであろう料理待ちの列を眺めている。ボブカットに似た短めの髪は、わずかばかり湿っているように見える。
「江里口さん、午前中プール入った?」
「うん? ああ、三時間目の体育がそうだったよ。まだ髪濡れてる? 短いからいつもすぐ乾くのに」
そう言って口を尖らせ、後頭部を撫でたり、前髪をいじったり。立場が違えば、この仕草にときめくこともあったのだろうか。
「ぼくも四限が体育でさ……あのプール、溺れ死にしそうにならない?」
この高校にプールはふたつあり、男女で別れて使う。片方は屋内、もう片方は屋外。どちらも公式戦仕様の深さがある。
しかし、江里口さんは賛同しかねるようで、
「ごめん、水泳得意だから共感できないわ」
と言って苦笑を浮かべた。
「あ、そうなの?」
「うん、得意。あたし、確かに運動音痴で、走ったりボール使ったりはからっきしだけど、泳ぎなら小さいころに習ったから泳げるよ」
語り口からして、彼女にとってはちょっと自慢したいポイントらしい。
「でも、なぜか泳げないと思われることが多いんだよね」
カナヅチと決めつけたつもりはない。とはいえ確かに、水の中で身体を動かすのは苦手そうだという無意識なイメージがあって、江里口さんに同意を求める問いを投げていた。
彼女が泳げないように見えるとしたら……あ、ちょっとわかってしまったが、言ってはいけない気がする。
「おお、穂波はよく泳げないと思われるよな。チビだから」
言っちゃった。
平馬が味噌ラーメンを盆に載せて現れたのだ。
彼が恋人をからかうのはいつものこと。犬も食わない言い争いが始まる。「チビって言うな」「チビは事実だろ。身長言ってやろうか?」「は? 知らないだろ?」「だいたいわかるぞ、いつも頭触っているし」「おいやめろ」――ううん、終わりそうにない。
背が低いからプールが苦手そうなイメージを持ったことは謝ります。ごめんなさい。
というか、ぼくが人のことを言えない。足のつかないプールなんて、小学生のとき以来だった。背が低いと損ばかり。大きい人は吊革が頭にぶつかるとか目立つとか贅沢な不満をすぐ口にするけれど、一度溺れてみればいいと思う。
ところで。
「才華は水泳、得意なの?」
尋ねられた長身の天才少女は、隣で始まった痴話喧嘩が終わらないとみて、すでに箸を手に取り味噌汁を啜っていた。
「ううん……別に得意でも苦手でもないかな」
その答えでは元も子もないというか。
才華とひとつ屋根の下の下宿生活も二か月以上が経っているけれど、クラスが離れていることもあって学校での才華の様子についてあまり知らない。宿題の進捗など見れば想像のつく勉強面はまだしも、体育の授業での姿は想像しにくい。一緒に住んでいても、運動しているところを見る機会は滅多にないから。
競泳水着を身に纏い、プールサイドを歩く才華――あ、いや、想像できない。できないよ。まったく思い浮かばない。
「家入は結構泳げるぞ」
才華の運動神経についてコメントしたのは、平馬との口論を一段落させた江里口さんだった。そういえば、ふたりは中等部の三年間を同じクラスで過ごしたのだった。
「というか運動全般得意なほうだよな。中の上くらい。小学生のころ、なんか武術をやってたんだろ? 合気道だっけ?」
「空手ね。好きじゃなかったから低学年のうちにやめちゃった」
これには男子二名、感心して「へえ」と声が漏れる。
気になることがあると書斎に飛び込む習慣の彼女だから、インドア派という印象を勝手に抱いてしまっていた。ただそれは一緒に暮らしているからこそかえって持ってしまった偏見であって、スポーツで活躍する場面はそれなりにあるのだろう。背の高さなど体格には恵まれているし、コツを掴むための探求心と直感もありそうだ。
加えて武道の心得とは。道着に帯を締めた才華――おお、強そうだ。
「でもさ」江里口さんは褒めたばかりの才華を指さし、嘲った笑いを浮かべる。「家入は国語と英語くらいしか成績取れないんだから、体育あたり点数稼げないとね」
そう言われると男子ふたりは心にグサッと刺さるところがある。ぼくの成績は体育を含めても救いのない有様だし、平馬は机に向っての勉強以外強みがない。そう考えてみると、江里口さんが最も高校生活をそつなくこなしているといえそうだ。
しかし才華も負けていない。
「江里口こそ、目黒先生の教え方のせいにしている場合なの?」
低い声での反撃に、江里口さんの眉が動く。
「ああ、確かに穂波は、いわゆる文系の科目に弱いよな。古文とか、歴史とか。暗記はできても、読解と記述の問題になると……」
彼氏にまで加勢されると、江里口さんは「うるさい」と言ってパスタを大きく口に頬張った。こういう小動物っぽいところが平馬にとってツボなのだろう、「面白い」という声を震わせ、隣で笑いを堪えている。
そういえば、授業の得手不得手を友達と話すなんて、久しぶりな気がする。大阪では「テンサイ」呼ばわりのせいで、苦手なものを苦手と言っても聞いてもらえなかった。天保高校にいると自分が凡人であることを思い知らされるけれど、凡人は凡人なりに過ごせる喜びもある。有名無実な「テンサイ」よりはずっとマシ。
カレーを頬張る。うん、疲れた身体にはソースのコクが効いた濃い味がおいしい。
それにしても。
「江里口さんも才華も、お互いよく知っているよね。伊達に三年間クラスメイトをやっていない」
ぼくの呟きに、ふたりは声を重ねる。
「江里口なんか願い下げ」
「家入なんてお断りだ」
ほら、息ぴったり。
【登場人物の通学方法と所要時間】
久米弥……徒歩 10分
(大阪の実家からは新幹線を用いても3時間以上)
家入才華……徒歩 10分
江里口穂波……バス 20分
平馬梓……自転車 25分
姫川英奈……電車(乗換1回) 45分