IV
液晶を注視していても、「振替」のフレーズだけは聞き逃さないように意識していたのだろう。人々はそれまでずっといじっていたケータイを鞄やポケットに仕舞うと、階段へ向かって移動を始める。
ぼくたちも階段を下りた。才華は最後に聞いた放送のおかげでホームに居残る未練がなくなったらしく、すんなりとぼくを案内してくれた。代替ルートが非常に面倒であることには違いなかったようで、一度駅を出て、五分ほど歩いたところにある私鉄の駅に向かうことになった。平馬が帰った電車とも違うようで、東京が大阪よりも巨大な迷路であることを思い知らされる。
その路線は振替輸送に名前が挙げられていたが、定期券で乗車しないため身軽なぼくらのほうが大挙する人々を先回りしたようで、車内はさほど混雑していなかった。適当な座席に隣り合って座る。
「それでさ、何が起こっていたかわかったの?」
何時間か立ちっぱなしだったので、柔らかい椅子に腰かけてから眠気がじわじわと這い上がってきていたのだけれど、それよりも先に疑問を晴らしてすっきりしたかった。
才華はさほど眠気を感じていないようで、ぼくの問いににっと口角を上げた。
「わたしの仮説が妥当だったとはわかったよ」
そう、彼女は事の原因を解き明かすというよりは、放送を手掛かりに「ありそうなこと」を考え出そうとしていた。
「よっぽど特別なことが起こっていたの? 才華は、放送で言っていた通りに、不運が続いたとは思っていないの?」
「すべてはひとつの出来事に起因している。たまたま別々のトラブルが連続したわけではないんじゃないかな。その出来事を特別と思うかは、弥次第かもしれないけれど」
そういうことなら、どうして隣の駅で続発したトラブルがひとつの出来事によって起こされたと考えたか、ということから説明が始められて然るべきだろう。
問うてみると、すべて事を確信しているとばかり、自信満々に彼女は語りだす。
「今回の件でなかなか掴めなかったのは、下り線の些細な緊急対応だったはずが上り線まで影響してしまうほど拡大したのはなぜか、ということ。これを真正面から、下り線の面倒ごとがどんどん大きくなって上り線まで止めてしまったと考えると、ちょっと難しい。車内で起こる事態にそれほどのことがあるとは考えにくいからね。
だから考え方を変える。まず仮説を立ててみるの――最初から上下線とも停止しないといけないようなことが起こっていたんじゃないかって。放送では最初言われていなかったけれど、上り線も早い段階で運転が止まっていでしょ? この時点では、仮説に根本的な矛盾はない。
さらに考えをスムーズにするには、逆算から。トラブルは最終的に、線路に人が立ち入るほどの事態に陥った。ホームから下りていくとは考えにくいから、車内から非常用の操作をしてドアを開けた人がいたんだろうね。ここからわかるように、車内で何か『身の危険を感じる』ことがあった。弥もそうするんでしょ?
駅員の公式の放送は、まあ、全部は伝えない。客を混乱させてはいけない立場だし、嘘を言っちゃいけないから、報告された確かなことだけを伝えるようにする。だとすれば、線路に人が下りるような事態が最初から発生していたと考えても、論理の飛躍にはあたらない。少なくとも、それを招くだけの大事が起ころうとしていて、初めのうちはその一部――急病人とか、ドアの故障とか――しかわかっていなかったの。ただし現場では、上下線とも運行を見合わせる判断に至る。ホームで見るに、相当危なそうだったから」
乗客が危険を感じるような事態が最初から発生していた、という仮説は決して無理やりな説明ではなさそうだ。
ただし、才華はその危険な事態そのものが何事であったのかをまだ説明していない。もったいぶるのは彼女の無意識の悪い癖である。
「で、何が起こっていたっていうの?」
「ここまでの説明では、具体的な事件は想定していない段階。だから、もう少し外堀を埋めていかないといけない。
そこで何が起こっていたかを振り返ると、事の最初は非常停止ボタンが押されたことだった。このときのことは、さっきも話したよね? 非常停止ボタンが押され、そのあとの原因究明に時間がかかっている状況……ここから言えそうなのは、非常停止に値する何事かが車内で起こっていて、それが車外に伝えられたか、あるいは明らかに車外からも把握できるほどの事態だったということ。
さて、これをもとに話を総合していくよ。それは車内で起こって、ホームの人たちにもその異常が伝わっていて、車内の人の一部には車両から脱出するほどの危険と感じられるような出来事。何だと思う?」
おっと、問い返された。
正直ぼくとしてはイメージがあまり浮かんでこない。それほどの差し迫った危険というものに出くわした経験はないし、普段安心して利用している電車にそのようなことが起こるという想像が浮かんでこないのだ。
ちょっと大げさなところから挙げてみようか。
「……誰かが凶器を取り出した?」
「最悪の事態を想定するなら外せないけれど、だとしたら駅員は悠長だよね」
大げさすぎた。
才華は首を横に振って、ぼくを諭すような口調でアドバイスを加える。
「ここまで考えが進んだら、簡単な話。大げさな想定を含む消去法は要らないよ。危険を感じる人たちは、何も危険な事態を目の当たりにしているとは限らない。危険であると感じるに足る情報を得ていればいい」
なるほど、もっと些細なことでもいいのか。
「大きな音が聞こえたとか、何かがはじけて光ったとか?」
大阪にいたころ、ひどく雨が降る日にたまたま電車に乗っていて、電線が火花を散らしたところを見たことがある。怖いとまでは思わなかったけれど、びっくりした。窓際にいたものだから眩しくて、咄嗟に目を閉じたのに、残像がちかちかと目に残ったのを憶えている。
今度のアイデアには、才華が頷いた。
「そうね、そういうことが起こったとも考えられる」
「音や光ではないの?」
「それだけではないと思っているの。わたしが思うには、そう……」
――煙。
「煙――そうか、確かに、煙を見れば何らかの危険を直感するよね。ショートしたとか、火がついたとかを示唆するものだから。ひと目でわかるし、臭いだってある。車両の外から見てもわかる」
煙を吸えば気分が悪くなる人もいるだろう。実際には手動でドアを開閉したせいだったけれど、機械が壊れたと想定してドアの故障を調べるのも当然だ。連鎖して起こったトラブルにも対応するところを見出しうる。
こじつけ? そうかもしれない。でも、ぼくは充分説得された気分になっている。
「ここまでくれば全部わかったようなものだね。車内の機械に故障があって煙をあげたんだ」
この結論には自信があったものの、天才少女は「ううん」と唸った。
「もっとそれらしいものがあるよ?」
それらしいもの?
ぼくも鉄道を信用しているから、機械トラブルがそう滅多に起こらないとは思っている。いや、それが起こったからこそこれだけ多くの人を巻き込む遅延騒動になってしまったのではないのだろうか? 煙に対する過剰な反応だとすれば、より些細なものが原因であっても構わないのはわかる。だとしても、何が?
才華を振り返って、無言で降参の意を伝える。
彼女は、いくらか乗客を見回す。手元に視線を落とす人を一瞥すると、顔をぼくのほうに向けなおす。それから、声を出すことなく、口を動かして自身の回答を伝える。
ス、マ、ホ。
……へえ?
いや、彼女の推理にケチをつける気はない。彼女の仮説は現実に起こる可能性の高い道を通っていこうとしている。事実からそう離れていないはずだ。それでも、ぼくは「そうなのかなぁ?」と言い返した。
探偵少女は眉を顰め、ぼくに向かって少しばかり前傾姿勢をとる。
「何? おかしい? ほかの何よりも高い可能性を挙げたつもりなのだけれど?」
近いよ、と優しく肩を押し返し、彼女の推論に決定的な矛盾はないと思っている旨伝えてから、ぼくの正直なところを伝える。
「いやね、どうにも、才華が単にスマホに文句を言いたいだけに聞こえるねん。ほら、商品として未熟とか、面倒くさいだけとか、いろいろ悪口を言うたやん? 要するに才華はスマホが気に入らへんねやろ? そういうのが出てるだけとちゃう?」
そんなことないけどな、と才華は口を尖らせた。
眠気がまた迫ってきたぼくは、仮説は仮説、と話を無理やりに切り上げたのだった。
思いのほか早く決着の時が来た。
日曜日の昼下がり、ぼくは一時間後にプレイボールとなるタイガーズの試合中継を待ちながら、大阪の友達とメールでやり取りしている最中だった。
『日頃の信用を裏切られた、そんな気がしても仕方がないですよ!』
テレビが映し出すワイドショーで、前日発生した数時間もの遅延について伝えられた。その原因がなんと、才華の言っていた通り、スマホの故障に起因する発煙だったそうだ。コメンテーターたちは辛口に、鉄道会社の対応の混乱を批判し、普及していくスマホにも懐疑的な見方を次々に述べていく。
「ほらね、わたしの言った通りだ」
才華がソファに深く腰掛けるぼくの真正面に仁王立ちしている。
「そう、そうだね。ホント、才華にはお手上げだよ。ぼくが才華を疑うのも、いわばスマホが羨ましいがための偏見だったということか」
ご機嫌取りに本心ではないことを言っておく。才華の言っていたことがテレビの報道によって裏づけられた以上、ぼくが何を言っても彼女は耳を傾けないだろう。
でも、わかってほしいよなぁ。
ぼくは泣く泣くメール交換を切り上げて、才華の相手をすることになったのだった。