III
「ヒマ」
家に帰ると、先に帰宅していた才華がリビングのソファに寝転んでいた。すでに着替えも済ませていて、四月末にしては涼しい近頃の天候に抗うかのような薄着だ。Tシャツ一枚にスウェット――例の如く、ぼくの視線などまったく気にしていない。
行儀が悪いよ、と窘めるべきなのだろうけれど、ぼくは正直なところ面食らっていて、指摘すべきことも話すべきことも忘れてしまっていた。
「ヒマって、いつもみたいに気になることがないの?」
才華の態度は、普段とあまりにも違っている。なぜなら、彼女には退屈な時間など存在するはずがないからだ。それはもちろんおばさんの手伝いに忙しいという意味でもあるけれど、それ以上に、四六時中張られている好奇心のアンテナに自らが振り回されているからだ。そう、いつもなら、どんなにヒマであろうと何かしら「気になる」ものに没頭しているはず。
ぼくの本心から出た言葉を、才華は皮肉と受け取ったらしい。少しばかり眉根を寄せる。
「気になることなんてもう調べ尽くしちゃったよ」
彼女はうつ伏せの姿勢から身を捻って仰向けの姿勢になった。ぼくの視線はついつい彼女の身体の動きを追う。
「ねえ、弥。何か興味をそそられる話はない?」
間延びした言葉遣いで問い、ぼくの苦笑を受け取ると、はあ、と大きく息を漏らした。
とろん、とした両目。過ごし慣れた蛍光灯の下ですら眩しそうだ。両脚にはクッションを巻き込む。だらしなく口が薄っすら開いている。これほど脱力していたら、放っておけばすぐに眠れるだろう。呼吸と共に上下する胸が気になってしまうのは、ぼくが悪いのではなく才華のスタイルが良いせいだ。
暫定的結論として想像するに、彼女は目に入るものも耳に入るものもすべて「気になる」と「気にならない」とで瞬時に峻別しているのだ。「気になる」ものには全神経を集中させることになるが、一方で反動ともいうべきか、「気にならない」ものには一切注意を払わない。そのため、たまたま周囲に「気になる」ものが不足すると、途端に無気力になってしまうのだろう。
「でも、ちょうどよかった。才華のヒマ潰しにはいい話題があるんだ」
ぼくの言葉を聞いた途端、たちまち才華は身を起こした。
「早く、話して」
好奇心そそられることがあればなりふり構わず没頭し、さもなくば無気力に陥る。なんて気難しい子なんだ! ぼくの話を待って爛々と瞳を輝かせる様子は、まるで幼い子どものようで、かわいいところといえばそうかもしれない。
「ええと、話ってのは江里口さんのことなのだけれど――」
才華の双眼から興奮の色が引いていった。
それにしても運が良かった。
江里口さんを嫌うあまり、才華は彼女の話題というだけで興醒めするよう身体が慣れてしまっていた。相談された内容を本人の口ぶりや表情なども交えつつ説明しはじめた当初は、つまらなそうに口を尖らせていたが、やがて推理を求められていることに気がつくと、爛々と目を輝かせていった。好奇心に飢えている時分には、ライバルの痴話喧嘩でも充分だったらしい。
「ふうん……まあ、弥の話からもいくつかヒントがあったみたいだね」
才華の口ぶりにも覇気が戻ってきた。眼光にも普段通りの鋭さがある。
江里口さんの「依頼」は、尾行や説得など直接の手段を用いず、また、根本的な解決を求めるものではない。代わりに、推理によって平馬の疑惑の真相を突き止めることで達成される。つまり、依頼人には悪いけれど、解決の条件を設定されたゲームということもできる。ヒマを持て余していた才華にとってはうってつけだったのだ。
「ヒントって、もうだいたい見当がついたってこと?」
「いやいや、まだ気が早いよ。わたしはまだ平馬って人をよく知らないから、確認してみないと」
彼女はいったいどうやって記憶を整理しているのだろうか? いま、彼女は初めて聞く情報を集めながら、ぼくの話を思い出し、その関連性から平馬の行動の裏にある背景を描き出そうとしている。ぼくだって記憶力には自信があるけれど、才華のようにマルチタスクには対応しきれない。
こういうところに「天才」の素質を感じさせられる。
「とりあえず明確にしておきたいのだけれど、こういうことは珍しいことなんだよね?」
「こういうことってのは、ゲームセンターに行くこと? デートの誘いを断ること?」
「どっちも」
「まあ、どちらにしても珍しいんだろうね。江里口さんもそういう感じで話していたよ」
恋人同士と比べたら、ぼくと平馬との付き合いは浅くて短い。けれども、平馬がそういう性ではないことならわかる。たぶん、ゲームセンターで遊ぶことも、恋人の誘いを無下にすることも、彼は「面白くない」と表現するだろう。
「じゃあ、当然浮気をするような人でもない、と」
「うん……あ、でも、誤解はされるかも」
男友達が少なくて、女友達が多いようだから。傍目からは女好きと思われるかもしれない。ぼくだって、女好きというほど軽率な奴とは思っていない。とはいえ、充分そのように思えることがある。新谷さんとのノートのやり取りとか。
しかし、言葉では表現しにくい平馬の為人が才華に塩梅よく伝わっていればいいのだけれど。ぼくの伝え方で才華まで誤解してしまったら、問題が余計にこじれてしまいかねない。
「そういうことなら気になるのは、最近よく話している女子って誰? 天保の生徒だとして、知っている人?」
「それがね、江里口さんは誰のことかはわかっていないみたいだった。噂話になっているのかな? だから、裏付けがはっきりしているわけではないけれど、心当たりがあるとすれば、同じクラスの新谷結良って子だと思う」
彼女の名前は興奮する江里口さんの前で出すわけにはいかなかったけれど、白黒はっきりさせようという才華には推理の材料として提示しておかないと。
とはいえ残念ながら、正直新谷さんについてぼくが知っている情報は乏しい。色白で眼鏡をかけた優しそうな顔と、新谷結良という名前とが一致するぐらいで、ほとんど言葉を交わしたことがない。新谷さんその人も、教室では地味で目立たない。
才華に伝えることができたのは、ただひとつ新谷さんが教室で目立った存在になれる情報である――というのも、小学校に入学したばかりの彼女の妹が病弱で、入退院を繰り返しているのだ。妹を思いやる姉としての姿がクラスで知られている。
「本当に妹想いでね、この前なんか大きな紙袋にフィギュアを入れて学校に持ってきてたんだ。妹が欲しがっていたから、苦労して手に入れたんだって」
姉の新谷さん自身は至って健康なのだけれど、年の離れた心配な妹の面倒をみるために欠席や早退をする日がしばしばある。まだ高校で同じクラスになって一ヶ月足らずでも、すでに三度はあったと記憶している。
新谷さんが欠席し、そのことで先生とクラスメイトとがやり取りすることになるので、教室での存在感とは対照的に、彼女の名前が挙げられる機会はそれなりに多い。「苦労人」というイメージも少なからず向けられているだろう。
だから平馬は、数学の授業に出る回数の少なかった彼女にノートを貸していたのだ。その善意がかえって悪い噂になってしまったのなら、奴も不運だったというべきか。
「なるほどね。そういうことなら、教室でのやり取りが増えることもあるかも。でも、どうしてゲームセンターに?」
「あの、ちょっと待って。少し詳しく説明して?」
才華の思考の片鱗を表す呟きに注意していないと、話についていけなくなる。
才華は少し面倒くさそうに、順を追って情報を並べなおす。
「この話でまず引っかかったのは、江里口が相手の女の子を把握していないってこと。嫉妬するにしても、曖昧じゃない? 要するに平馬と新谷さんは、勘違いされたところはあるかもしれないけれど、実際には、あっさりしたクラスメイトの関係だろう、ということでしょ?」
その通りだ。ぼくは頷いて見せた。
「でも、結局ゲームセンターに行くことが理解できない。遊びに行く関係ではないと考えるほうが自然だから。平馬くんと新谷さんの関係が噂になっているのは、遊びに行ったところを誰かが見たからだと思う。関係については潔白でも、遊びに行ったことはクロ。たぶん、江里口が警戒しているのはその点だね」
確かに、才華の言う通りならゲームセンターはおかしい。平馬からも新谷さんからも、正直、騒がしくてギラギラしたゲームセンターは連想されない。いくら噂に枝葉がついてしまったからといって、実際に本人たちがそこにいて、誰かに目撃されたわけでもなければ、イメージとは異なる逢瀬の仕方まで描写されるだろうか。
江里口さんもここまでは感づいていたのかもしれない。でも、ゲームセンターに行っている事実が噂の形でしか確認できないのでは、追求のしようがない。後をつけようにも、もし平馬に勘づかれたら仲がもつれるのは必至。だから、尾行せずとも理詰めでも真実を突き止められそうな才華に、多少のプライドを捨てて託したのか。
依頼された天才少女は、ソファに深く背中を預け、腕を組む。
「平馬がゲームセンターに行く必然性さえわかればいいんだね?」
「そういうことだね。まあ、そう言われてみれば……簡単な話だね」
そう言われたって、ゲームセンターには滅多に行かないぼくには想像が及ばない。小学校低学年のころは親にねだって遊ぶこともあったけれど、お金を使うそこに行かせるのを親が渋るのは幼いながらにわかっていたし、将棋を覚えてからはそういう遊びのほうが性に合っているとわかったから、正直ゲームセンターに楽しさを感じなくなった。
でも、何をできるのかはわかっている。そこへ行く必然性。ゲームセンターでしかできないこと、か。
「平馬はゲームセンターを『面白くない』って思っていると思うんだ。だから、ゲームセンターで遊ぶこと自体には興味がないと考えるのが妥当だよね。きっと、そこで何かを手に入れることができるんだよ。手元に何か残るのなら、否定的に思っているところでも足を運ぶかもしれない。そうだね、ゲームセンターで手に入るものといえば……」
才華の表情を伺うに、満足げな様子。おそらくぼくの推論は間違っていない。
ということは、やはりゲームセンターで何かを手に入れようとしているんだ。じゃあ、それって何だろう?
――もしかして。
「気がついたみたいだね、簡単な話だったでしょ? じゃあ、最後のステップ。全部の話を結びつけるには、最初のイベントが必要なはず。その出来事を示唆するような怪しげな様子――最近の平馬くんから思い当たることはないかな?」




