I
天才とは往々にして奇人である。
いや、そもそも語意として紙一重なのかもしれない。
何かに秀でているということは、つまり天才であるということは、その何かに対して一意専心に励むことができるということだ。同時にそれは、ほかの一部あるいは全部が疎かになってもかまわないという意味でもある。
一方で、意識や情熱を集中させる一点を持たない人物――秀才とか、一般庶民であるとか――は、言い換えれば複数の物事に関心を振り分けることになる。尖った個性は持ちえない。そういった尖りのない人物は基本的に多数であり、集合の中で平均が生まれる。
その「平均」を一切気に留めずに、自らの関心や使命感で以て自らを磨いていける人物、かつ生まれ持った才能を研ぎすました人物。それが天才だ。
ただし、天才は平均を外れている。その意味で、奇人なのだ。
天才であるには奇人でなくてはならない、ということかもしれない。
平均を外れていても意に介さない感性の持ち主は、一般に「変」と受け止められる。大多数が平均なのだから、少なくとも不便がないよう生活するには、平均を保つことが行動基準となるはずだ。ところが、天才たちはそうしない。他人と同じではない。ただし、それゆえに抜きんでている。
たとえば家入才華という天才は「気になる」が行動基準である。気にならなければ、捨て置く。たとえそれが平均的な趣味であり、娯楽であり、ライフスタイルであったとしても。でも、ひとたび気になったなら、もしそれが平均を大きく外れたニッチな知識であったり、面倒な仮説であったり、不要な邪推だったりしても絶対に放っておけない。
そういう「気になる」に遭遇した回数と、解決した回数との繰り返しが現在の才華の推理力なのだ。思考の瞬発力や展開力は、常人のものとは一線を画す。そのかわり、才華は「変」な子ということになる。
振り返って、ぼくはどうだろう?
抜きんでたものなど何もない。かつては学力がそうだと周囲から言われたものだが、それが誤りであったことは受験のときに明らかになった。
それどころか、何もかも中途半端だ。中学のときのプライドをへし折られ、かといって捨てきれていない気がする。全国トップクラスの高校の、成績最下層予備軍。将棋も、経験年数にしては弱すぎる。喋ることばだって、似非の大阪弁が東京弁とちゃんぽんになっている。
こんな中途半端は、平均に回収される。ゆえに、ぼくは凡才だ。
少しも特別なところがない、偽物の天才。
ところで、上向きに抜きでたものはなくても、最近、下向きに抜きでたものができてしまった。
「よし、久米。ここ答えろ」
「ええと……(2x+9y)(x-12y)です」
「……ううん、違う」
数学だ。
数学の授業にまったくついていけない。まだ五月になったばかりという時期なのに。
原因は何となくわかっている。単純な計算力不足だ。加えて、中学時代に受験勉強の時間が短かったことによるスタミナ不足。そして、プライドの高い心の奥底の自分が「わからない」と諦めることを許さない、我慢不足。
ただ、ひとつだけ人のせいにしたいのは、
「じゃあ、平馬、答えてくれ」
「(x-2y)(2x+54y)です」
「そう、正解。じゃあ、次の問題。誰に答えてもらおうか、きょうは二二日だから……あ、二三日か。日にちといえば、そういや、うちのカミさんがなぁ……」
と、数学の担任である駒場先生がぼくのフォローをしてくれそうにないことだ。全体に授業ペースが速い。乗り遅れているのはぼくだけのようだけれど。
先生は回答を黒板に書くことなく、次の問題のために板書をデリートしようとする。ぼくは大慌てでクラスメイトの回答を思い出しながら、ノートに書きこんでいく。ここで間に合わないと事態は悪化していく一方だ。先生は気がつくと自分の家庭生活の愚痴を語りはじめてしまうから。なるほど、これもぼくの数学力低下の原因だ。
そんなこんなで気分の落ち着かないうちに、チャイムが鳴った。数学の時間は終了、次は確か……体育だ。逆三角形のムキムキ体育教師が遅刻を許してくれない。数学の復習なんてする暇がなく、というか、もともとぼくに復習の習慣もなく、せっせとジャージの支度を始めることになる。
劣等感と目まぐるしさに、毎日心が押し流されていく。早く慣れないと、そう思いながらも刻一刻と中間テストが近づいてきている。このザマでは、連休中はずっと勉強して過ごすしかないかな。
ただ、ひとつせめてもの救いというべきことがある――毎日話せるクラスメイトができた。
「久米、準備できたか?」
平馬だ。
入学してしばらく教室の移動に困ることがよくあったので、誰よりも早く授業に備える真面目な彼なら心配ないとついて歩いていたら、やがて言葉を交わすようになった。最初は堅物かと思っていたけれど、話してみればユニークな奴だった。「すぎる」くらいに。
正直、彼には外見的にこれといって目を引く特徴がない。ぼくより背は高いけれど、目立って長身でもなければ、筋肉質でもない。制服を無難に着こなし、眼鏡はかけず、清潔な短髪はむしろ個性を失わせている。顔も、特別濃いとか、醤油顔だとかを言えるものはない。
それでも、彼は彼で天保に適応した人間なのか、勉強でいえばクラス内でも目立っている。数学も国語も英語も、彼はそれなりにこなせてしまう。テスト前には頼らせてもらおうと思っている。
実際に、彼はすでに自分のノートをクラスメイトに貸すことがあり、
「あ、平馬くん。ありがとね」
と、いまも新谷さんから礼を言われている。新谷さんは大人しげな女の子で、平馬とも特別に親しいわけでもない。そんな同級生にもノートを貸しているのだから、ぼくにも提供してくれるだろうと勝手に期待している。
「意外と隅におけないんだね、平馬は」
新谷さんが離れてから、ちょっとからかってみたくなった。
「……久米もそういう冗談を言うんだな」
少し面白がっただけなのに、皮肉で返された。
良くも悪くも、ぼくは才華との仲を噂されている。
「年相応にはね」
「まあ、新谷は運悪く数学の欠席が多いからな。人助けだよ、人助け」
ほら行くぞ、とせっかちな彼は、まだ鞄に教科書を押し込んでいる最中のぼくを置いて踵を返してしまった。
ぼくの新しい友人は、正直ちょっとズレていると思う。
端的に言って、「変人」である。
「平馬は何でも早いよね。時間が余っちゃうよ」
更衣室にはまだ誰も来ていない。ぼくたちが早すぎるのだ。きょうの授業が体育館ではなくてグラウンドで行われるのではないかと心配になるほどだ。でも、平馬がそれを間違えたことは一度もない。
彼は、ぼくの質問にこう答える。
「早くて怒られることはないからな。遅刻よりずっとマシ」
何を尋ねても、彼は正論で返す。一般にはこういう相手を、良く言えばマジメ、ということになるのだけれど――彼の場合そう単純でもない。
冗談を言うときにはしばしば強烈なものが含まれる一方で、性質の悪い嘘を吐くようなことはない。皮肉屋な面もあるけれど、常に本心で発言しているようにも聞こえる。完璧主義ともとれる言動からは、プライドが高いのだろうかと思うときがある。また、新谷さんが例となるように、女友達の多さは軟派な性格を表しているのかもしれない。
いろいろな性質がごちゃごちゃになっていて、ひとことでは言い表せない。
何より特徴的なのは、「面白い」を連呼することだ。
ちょうど、才華が「気になる」と口走るように。
「体育の授業が特別好きってわけではないんだね?」
「それほど好きではないな。あまり面白いと思わない」
ほら言った。
勉強はそれなりに好きなようだが、運動はいまひとつで、手先も不器用な彼は、いわゆる実技と呼ばれる音楽や家庭科の授業はあまり好かないらしい。こういうところから、彼の「面白い」とは自分の好き嫌いのことを言っているのではないかと予想されるけれど、やっぱりその基準は測定不能である。
ところで、いまはそれとは別に気になったことがある。才華ではないけれど。
「そういえば、平馬。その右腕、どうした?」
彼はちょうどワイシャツの袖から両腕を抜いたところだった。
見ると、そこには二、三か所の痣がある。
「うん? ああ、いつできたんだろうな?」
いつ負ったかを忘れてしまう程度の怪我ではないことくらい、ぼくの目でもすぐにわかった。ワイシャツを脱ぐと、腕以外にさらに数か所同様に打撲の痕があると明らかになったのだ。
もう一度問うと、彼はいくらか唸って、
「この前自転車で転んだときかもしれない。擦り傷と違って、打撲は痛く感じても痣になったとは気がつかないものだな。そうだ――思い出した。雨の次の日で、転んで泥だらけになって大変だんだった」
確かに、平馬は自転車通学をしているから、そのような状況がありうることは嘘ではない。痣は身体の右側だけにあり、左側は無傷であることを考えれば、自転車で倒れたというのも合点がいく。怪我の程度からして、受け身は充分に取れていなかったとみえるから、不意のことだったのだろう。走行中に何かでバランスを崩してしまい、右を下にして倒れたということか。
いや、そうだとしたら擦り傷が少ない。スピードはあまり出ていなかったということだろうか? ふらふらっと横に揺れて、自転車から落車するような恰好? それに、泥だらけになって焦ったことを忘れるだろうか?
「先、行くぞ」
ぼくが思案を巡らせたところで才華のようにはいかず、ジャージ姿になった平馬は更衣室を出て行った。所詮ぼくには発言や行動の裏を探る実力はないのだから、平馬の発言をわざわざ疑うだけ最初から無駄なことだった。
そのうちクラスメイトがぞろぞろと更衣室に入ってきて、ぼくも着替えを終えた。