その2
とある日曜日、朝食の席でおばさんからまたも唐突なお達しがあった。そういうとき、おばさんはほとんど必ず手を叩いて注目を集めてから、手を重ね合わせたまま猫なで声で言う。
「きょうはね、学校も始まったことだし、才華ちゃんの進級祝いと弥くんの歓迎会をやろうと思うの。どうかしら?」
祝われ歓迎されるぼくと才華は互いの顔を見あわせた。歓迎会というと遅い気もするし、才華の内部進学は祝われるまでもないような気もするけれど、確かに高校に通うようになったのを機にちょっとしたイベントがあると嬉しい。
とりあえず、何をする予定なのかおばさんに訊いてみる。
「ふたりはもう高校生なんだから、タダで祝われようなんて思っちゃダメよ」
要するに手伝えということか。それこそぼくたちも高校生だ、手伝いくらいやぶさかではない。
「お夕飯にね、久米くんに教えてもらってお好み焼きを焼くのはどうかしら?」
「お好み焼き! ええなぁ!」
声が大きくなり、驚いた才華がパンを取り落とす。大阪の経験をアピールできる久々のチャンスに、つい興奮してしまった。ごめんなさい。
「じゃあ、久米くんはお好み焼き担当ね。任せたわ」
喜ぶおばさんとは反対に、才華のほうは首を傾ぐ。
「弥の歓迎会なら、弥が焼くのも変じゃない?」
「いや、家ごとに焼き方がちゃうやん? ぼくの好きなようにできるならそれがええな」
「ふうん」
相談の結果、材料までぼくの思い通りにしたほうがいいと決まった。いくらかお金をもらって、食材の準備もぼくが担当する。予算内ならぼくの勝手――餅を刻んで入れるのが好きなんだよなぁ。あと、玉ねぎを入れないと。入れない家もあるようだけれど、ぼくは食感が賑やかなほうが好きだ。
買い出しはぼくひとりで出かけることになった。今後おつかいを頼まれてもいいように、道を憶えるためだ。では、ぼくの外出中、才華は何を手伝うのか?
「久米くんが買い物に行っているあいだ、手作りでケーキを作りましょう。頑張ろうね、才華ちゃん?」
「え」
幸い、迷子になることなく無事にスーパーに到着した。
店内を歩いて食材を集めながら、ちょっとした妄想というか、野心のようなものが胸の中で膨らんでいく。今夜のお好み焼きは、良いところを見せるチャンスだ。本場大阪仕込みの誇りを満たすためには絶好の機会である。
しかしそれ以前に、ぼくの料理のセンスを見せつけたいのだ。
というのも、才華が料理上手だからだ。下宿生活では、おばさんの家事を手伝うことがよくある。掃除や洗濯、そしてご飯の支度も。そうした料理の場面で、才華は存分に実力を発揮して、ときに一品か二品くらい自分ひとりで作り上げて食卓に並べてしまう。しかもそれがサラダや酢の物のようなちょっとしたものに留まらず、肉じゃがや麻婆豆腐なども作ることができる。おばさんが外出した際に焼きそばを作ってもらったこともある。どの料理も、出来栄えには素直に「うまい」と言うほかなかった。女の子の手料理という贔屓目なしに。
料理上手という意外な一面を知って何か得した気分だったし、おいしいものが食べられるならそれも嬉しいのだけれど、正直ちょっと腑に落ちない。彼女にばかり良いところを見せられて、悔しいではないか。ぼくだって両親が共働きだったためにひとりで食事の準備をしたことは何度もあって、腕にはそれなりの自信がある。
人に見せて恥ずかしくないものは持っている。このまま「料理担当は才華」となる前に、ぼくの実力を示しておかなければならない!
帰る途中しばし道に迷いながらも無事に戻ると、おばさんも才華もぼくを迎えることはなかった。これはつまりケーキを作っている最中だろうと踏んで、台所に足を踏み入れる。
「おばさん、ただいま。残ったら困るって言うんで餅ではなくてちくわを……」
またしても返答はなく、代わりにかちゃかちゃと金属のぶつかる音が聞こえてくる。それがどうもぎこちなく、テンポが悪い。
「ああ、才華ちゃん。もう少し要領よくできないかしら?」
そこには、眉間にしわを寄せ力の入った様子の才華と、傍らで頬に手を当てて心配そうに見守るおばさんがいた。
才華は泡だて器で以て生クリームと格闘しているが、どうにも手際が良くない。空回りしているというと大げさにしても、充分に攪拌が進んでいるようには見えず、空気を含んでふんわりと仕上げる理想には程遠い。コツが掴めないようで、半固体のそれをただかき回すばかり。
ボウルの縁や底に泡だて器がぶつかるとクリームが手の甲やテーブルに跳ねる。彼女はそのたび苛立ちを募らせるようで、正直言って見ていられない。お好み焼きの食材を冷蔵庫に片づけても同じ調子だったので、声をかけてみる。
「交代しようか?」
「いい、わたしがやる」
即答だ。
隣のおばさんが首を横に振り、言葉はなしに「こうなったらダメなのよ」とぼくに知らせてくれる。上手くできないものだから意地になって、ずっとひとりでかき回しているのだろう。そのためよほど長時間苦戦していると見えて、まだ四月の頭だというのに首筋やこめかみに汗が浮かんでいる。
ぼくの同居人は、何事も気になることは気が済むまで調べてみないとフラストレーションを溜めてしまう性分である。この強烈な知的好奇心や探求心を言い換えるなら、「知らない」ことが気に入らないということで、すなわち負けず嫌いな性格の表れなのかもしれない。自分が始めたことや任されたことに関しては、失敗を認めたくないし、誰かに頼りたくもない。
「どうしても苦手よねぇ、お菓子は。これじゃ午前中には完成しないわね。もうお昼の支度をしないと。ラーメンでいい? 久米くん、手伝って」
「あ、はい。もちろん!」
麺が煮えてどんぶりが食卓に並べられるころには、ようやくそれらしいものができて、三人揃って昼食をとることができた。うっかり「コツさえ掴めばなぁ」と呟いてしまったことで、ああ、才華の顔が怖い。
それにしても、才華にその「コツ」が備わっていないとは思わなかった。料理が上達したのはおばさんの料理を手伝い始めた、つまり下宿を始めた中学一年生からだとすると、生活の用としては重要度の低いお菓子作りに慣れていないことも考えられる。でも、単なる経験不足にしては、今朝の「え」というリアクションが引っかかる。あの引きつった表情は、自分の好奇心を第一の判断基準とする才華のそれではなかった。
要するに彼女はお菓子を作るのが苦手なのだろう。
「才華ちゃんも不器用ってわけではないのにねぇ」
当人が不機嫌そうなのを気にせず、家主は彼女のお菓子作りの課題について語りだす。
「別に料理それ自体はとっても得意なんだものね。私が思うにね、才華ちゃんは家庭的な料理をしすぎたんじゃないかと思うの、私と一緒に料理しているうちに」
才華はむっつりと黙って応じようとしない。おばさんは話し相手を欲している様子なので、空気が悪くならないよう気を遣いながら相槌を打つ。
「家庭的な料理ってどういうことですか? 素うどんとか?」
「何それ、酸っぱそうね」
酢うどんやないで。
「私が言いたいのは、作るものじゃなくて、作り方のことね。素朴で、家庭的な作り方をしてきたのよ」
「よくわかりませんが、そうするとどうなるんですか?」
「自分で段取りして料理するようになるのよ」
つまりおばさんが言いたいのは、自分の作れるものや作り慣れたものをさっと自分で工夫して作る仕方であって、レシピを見ながらする料理とは違っていたということだ。
それを「家庭的」というと上手く表現できているかは微妙だけれど、言わんとすることはわかる。何々をしている時間にあれをやろうとか、これを冷ますあいだにあっちを済まそうとか、そういうことはレシピに書かれていない。誰かが作っているのを横で見て憶えるか、自分でやってみて効率のよい方法を身に付けるのだ。
それこそ、おばさんとの下宿生活で次第に慣れていったように。
「思うんだけど、才華ちゃんは段取りを自分でできないのが嫌なのよね。お菓子って、順番が肝心できっちり決まっているし、計量も正確にしないと失敗しちゃうでしょ? 目分量でも平気な料理に慣れた才華ちゃんには、もうレシピなんて鬱陶しいのよ」
そうでしょ、と同意を求められた才華は、「ごちそうさま」とぶっきらぼうに言って立ち上がってしまった。「気にならない」ことなら物静かな彼女がこれほど悔しがり、苛立っているだから、よほど「気になる」のだろう。正直ちょっとかわいいな、と思ってしまうのは、ぼくが意地悪すぎるのだろうか。
おばさんが楽しそうに笑っているのを見るに、まあ怒らせておいていいらしい。たまには才華をからかうのも、同居生活の楽しみだということだ。
そういえば。
ぼくはお菓子作りが苦手ということはない。レシピを見て、計量を間違えなければ普通に作れる。この点において、ぼくは才華よりも料理上手ということになりはしないか。これはちょっとばかり嬉しい。
でも一方で。
レシピに囚われることを嫌うなんて、才華の天才肌を示す例をまたひとつ知ってしまった。対してぼくはレシピを見ることによって上手に料理ができる。
まあ、勝負がつけられることでもないか。
夕飯では、ぼくの実力を遺憾なく発揮させてもらった。久しぶりに自慢できるものを見つけた気分だ。
しかし引っかかったのは、おばさんがご飯を炊こうとしなかったことだ。才華もそれでいいというのだけれど、ぼくが食い下がってお願いしてご飯を炊いてもらった。お好み焼きを焼くなら、白米があって当然なのに。
夕食後には、正直なところお世辞にも綺麗とは言えない、見てくれの悪いケーキを賞味した。才華がスポンジにクリームを上手く塗れなかったり、装飾に失敗したりと、午後から再開したケーキ作りでも困難が続いて、外見は残念なものになってしまった。味は良かったんだけれどね。
きょう一日すごく楽しかったのだけれど、結局どうしてケーキを作ったりお好み焼きを焼いたりと張り切ったのだったか? はて、さっぱり思い出すことができない。ひとつ確かに言えることがあるならば、おばさんが一番楽しそうだったということだろう。
【登場人物 File.02】
○江里口穂波 ――1年C組 美術部
背が低くて口が汚い眼鏡っ子。才華とは中等部三年間同じクラスで、喧嘩するほど仲がいい。弟がふたりいるお姉さんなのに、十中八九「末っ子か一人っ子でしょ?」と言われる。常識人ぶっているが、根っこは子どもっぽい。好きな食べ物はカレーライス、嫌いな食べ物は辛いもの。
「サビ入りのお寿司くらい食べられるよ……頑張れば」
☆江里口(←エルキュール)+穂波(←ポアロ)