第4話 谷底から生まれた風
曙光が窓に差し始めるころ、寒さを覚えたサウレリは眼を覚ました。はっとして起き上がると、衾もかぶっていないまま、奥の間の入り口前にのびていたらしい。
昨夜は飲み過ぎて、前後不覚となって寝込んでしまった。それもこれも、弦朗君に上手く乗せられて度を過ごしたためで――。
「……顕秀?」
帳をめくって薄暗がりの奥の間に眼を凝らすと、彼がいない。見ると、床の上にはサウレリが貸したラゴの服と、最初に弦朗君が身に着けていた鎖帷子が、どちらも畳まれて置いてある。いっぽう、烏翠の服は影も形も見当たらない。だが、床自体に手を当て、燭の芯を手でつまんでみると、まだかすかに温もりがあった。
――しまった!体よく酔い潰されてしまって…。
彼が暗闇に紛れ、戸口をすり抜けたのも気が付かなかった。サウレリは剣と弓矢を掴むと、靴を履くのももどかしく邑長の家を飛び出す。邑の西側から、二廟に至る蓬莱北道が延びている。馬首を巡らせ、いっさんに駆った。
弦朗君が二廟にたどり着く前に、彼を引き戻さねば――。
東の空はしらじらとして、夜はすでに朝に追われようとしていた。程なく日輪が上るだろう。さほど時間もかからぬうちに、曙光を浴びながら、とぼとぼと街道を歩く人影が見えた。
「顕秀!」
馬を捨てて弓矢をつがえ、やや離れた場所から大声で呼ばわる。
「俺の許しも得ずにどこに行く、邑へ戻れ…!」
振り返った弦朗君は昨夜とは打って変わり、硬い表情だった。
「私が今日にでも烏翠に帰らねば、そなた達が死ぬことになる」
「こっちに戻って来い!戻らねば、お前を殺すぞ!」
弦朗君は、眼を細めて相手を見返すばかりだった。あちこち破れて傷んだ烏翠の服に、光山府の徽章をかけた彼は、サウレリにでさえ侵しがたい、王族としての誇りと高貴を全身にまとって見えた。たとえ殺されても烏翠に帰る――その強靭な意思が彼の頼りない身体を覆い、いまや鎧となってサウレリを拒んでいた。
「ああ、そなたは私を簡単に殺すことができる。だから、殺すが良い。遠慮はいらぬから。だが私がラゴの手で死んだとあらば、烏翠はすぐさま攻め寄せてくる。短慮と私情で一族を滅ぼすつもりか?」
「顕秀!」
「…二度と私を諱で呼ぶな」
言い捨てざま弦朗君はくるりと背を向け、歩き出す。サウレリは唇を噛みしめて見送っていたが、ぶるっと身震いすると矢を相手に向けた。どんどんと遠ざかるその後ろ姿に向けて、弓を引き絞る。
「帰って来い!来ないと…」
彼が振り返りなどしないことは明らかで、歩調は崩れず、またしっかりとしたものだった。だが、その頭がぐらりと揺れた。なぜならば一瞬前に、矢が弓から放たれ、弦朗君の右の肩甲骨の上部に突き立ったからである。
前のめりに倒れ込んだ彼に、サウレリは駆け寄った。
「馬鹿…!」
サウレリは矢の突き立った周囲の布地を、短剣で切り裂いた。そして、携帯用の煙管が入った木の筒を帯の隙間から抜き、呻く弦朗君の口に押し込んだ。
「抜いてやるから、噛んでいろ」
一瞬息を詰め、矢を引き抜く。
「――!」
声にならない、くぐもった悲鳴とともに弦朗君は木筒を吐き出し、荒い息をついている。
サウレリはほっとして、矢を放り投げた。ついで、傷を拭い、止血するため懐から布を取り出す。いっぽう、転がる矢尻を見つめた弦朗君の肩先が震えた。
「何だ?何が可笑しい」
痛みに涙を浮かべ、苦しげな呼吸の下からでも、弦朗君はかすかな笑いを漏らしている。
「やはりそなたは優しいな。いや、甘いというべきか…」
「何だと?」
「撃ったのは右の肩だし、返しのついた矢尻を使わなかったろう。だから…」
「このごに及んで減らず口を……本当に心の臓を射抜いてやっても良かったんだぞ」
サウレリはかっとなって、思わず傷を押さえる力を強くし、再び相手に声を上げさせた。
「…歩けるか?」
「どうにか」
「お前が強情だから、こんなことに…」
「そなたも人のことが言えるか?」
サウレリの帯を解き、腋窩から肩、そして胸に回して縛り、間に合わせの手当が終わった。しばらく経過を見た後、弦朗君はサウレリに寄りかかり、ゆっくりと歩き出した。彼を馬に乗せて自分が綱を引いていけば、時間はかかるだろうが、日が高くなる前に邑には戻れるだろう。
だが、サウレリは背後に人馬の気配を感じて振り返った。堂々とした軍馬に、堂々とした甲冑の男。過日の戦闘で、烏翠の軍を指揮していたあの老人だった。
*****
「…劉将軍」
弦朗君の呟きに、将軍と呼ばれた男は眉を上げた。
「お迎えに参じました、弦朗君さま。ご無事で何よりです」
「…サウレリ、この者は私を殺すつもりはない。古い年上の友人だ」
その「友人」は、単騎で国境を越え、密かに彼を探しに来たらしい。いっぽう、サウレリは弦朗君をそっと脇におしやると、腰の剣を抜き放ち、獲物を見つけた狩人のごとき笑みを浮かべる。
「老いぼれが……あの戦闘では不覚を取ったが、ここで会ったが百年目だ」
そこまで言うと、ラゴ族の若者はふと眉をひそめた。
「二廟にはラゴの見張りがいただろう。どうやって越えてきた?」
将軍は答える代わりに、剣を一度大きく振って見せた。サウレリの両眼に、怒りが燃え上がる。
「おのれ…ラゴの土地にのこのこ出てきたこと、後悔させてやる!」
「小僧、後悔するのはお前のほうだ。その御方から離れろ、大人しく引っ込んでおれ。さすれば命までは取らぬ」
「…サウレリ、彼を侮って剣を交えるな。ここは…」
「うるさい!」
冷静さを失ったサウレリは耳元で囁く弦朗君を突き飛ばし、剣を構えて将軍を窺う。弦朗君は地面に転がり、立とうとしたが肩の傷が堪えるらしい。動けぬまま左手を反対側の肩口に伸ばし、額に汗を浮かべ唇を噛んだ。
「年寄りの冷や水が、笑わせてくれる。馬を降りろ!」
「面白い、一騎打ちということか、受けて立ってやる。お前さえ殺せば、ラゴなど烏合の衆にすぎん」
「サウレリ……劉将軍!」
弦朗君の止める声など聞かず、軽々と馬を飛び降りた劉将軍にサウエリが突進した。素早い身のこなしと鋭い剣さばきがサウレリの戦い方とすれば、将軍はやや重いが力みなぎる刃を縦横に駆使し、容赦なく敵に打ち込んでくる。
剣を合わせるのは初めてだったが、サウレリの予想以上に老人は手強かった。剣戟の音が空谷にこだまする。加齢による膂力の衰えは技量が十分に補い、サウレリは劉将軍の鉄壁な構えを崩すことができない。ついには懐に飛び込もうとしたが、難なくはじき返され、思わずよろめいた。
「くっ…」
すかさず襲い掛かる刃をすれすれにかわすのがやっとで、反撃の糸口を掴めぬままサウレリは間合いを詰められ、ついに片膝をついてしまった。自分の頭上に鈍く光る剣が迫って見える。
刹那。
また、あの若草色の蝶が視界をかすめ、何かが自分に覆いかぶさった。
「なっ……」
鳥が羽交いのもとに小鳥を庇うように、自分の頭を抱え込むがごとく守ってくれているのは、弦朗君だった。サウレリの襟元にばらばらと落ちてきたのは、斬られた彼の髪――。
「光山さま!」
劉将軍も驚きの声を発し、剣を引いた。弦朗君は身体をサウレリから離したが、なおも彼の前で左腕を広げ、劉将軍を遮っている。
「劉将軍、駄目だ。私かサウレリかそなた、今ここで三人のうち誰が死んでもラゴと烏翠は泥沼の状態になる。だから…」
「その者から離れてください、生かしておいては……それに、弦朗君さま、あなたの肩の怪我は?まさかラゴ族にやられたわけではありますまいな?」
血がにじむ弦朗君の背中、劉将軍の疑惑に満ちた視線にサウレリは身を固くしたが、弦朗君が落ち着き払って答えた。
「むろん、過日の小競り合いで射られたものだ。傷口が開いてしまったが、大事ない。この者に手当を受けたのだ。それより将軍、そなたとてラゴと戦うのは本意ではないはずだし、いくらラゴ族が意に従わぬといっても、そして我が烏翠が数で勝るといっても、まさか本気で彼等を全滅に追いやるつもりではあるまい?」
「若君――」
劉将軍は迷っているようだったが、やがて剣を鞘に納めた。サウレリものろのろと身を起こす。
「顕秀――いや、烏翠の使者と二人きりにさせてもらえぬか?いまラゴ族からの返答を伝える。案ずるな、使者に危害は加えぬ。ラゴ族の名誉にかけて誓おう」
劉将軍は眼を細めて、諾否の返事をしなかったが、代わって弦朗君が答えた。
「もちろんだ。烏翠の使者として、族長代理からの返答を聞こう」
*****
声が聞こえぬほどの距離に将軍は退き、ただし弓矢をつがえた状態で二人を見守っている。
弦朗君は無事な左肩を岩場にもたせ掛けて座り、サウレリはその前に片膝をついた。
「大丈夫か?」
「ああ…」
「お前に嘘をつかせたな、肩の傷の件で――すまない」
「どうということはない」
言葉とは裏腹に蒼白な顔をした弦朗君を前に、サウレリはしばしの沈黙の後、やがて口を開いた。
「税率の件だが、やはり三割は無理だ。せめて二割五分に押さえて欲しい。だが、もしそれが認められたら――」
サウレリはためらっていたが、やがて苦し気な口調で続けた。
「妹が十五を過ぎたら、烏翠に送って王宮に仕えさせる」
――この兄を許してくれ。
サウレリは、ツァングで自分の帰りを待ちかねているであろう妹の顔を思い出し、胸が張り裂けそうだった。弦朗君も彼の気持ちが伝わったのか、眉根を寄せ、左手でサウレリの右手を取った。
「そなたが可愛がっている妹御を――瑞慶宮に送ったら最後、一生を王宮の籠の鳥として過ごさせることになる。大空を飛ぶ若鳥の翼を折って、籠に閉じ込めるのと同じことだ、サウレリ」
「わかっている」
「私は『山房』という名の籠の鳥だが、そのような運命だと諦めもついている。だが、妹御は違うだろう。人質として生きるには若過ぎる」
「言うな、俺の手札はそれしかないのだ。妹も、『姫』と呼ばれる身分に生まれた以上は、そのような運命をも甘受せねば。それに、瑞慶府にはお前がいる。もし将来、妹が瑞慶府に行ったら、俺の代わりに妹を守ってやってくれないか?」
サウレリは覚悟を決めているようだが、内心の辛さは覆い隠しようもなかった。彼の意を汲んだのか、弦朗君は劣らず真剣な顔で頷いた。
「その時が来て私がまだ生きていたら、必ず。だが、税率が二割五分に減ったとしても、厳しい条件には変わりがない」
「お前がラゴに来て三日経つが、やはり烏翠が主、ラゴ族が従である事実は動かない。悔しいことだが。そして、ラゴが烏翠に一歩でも譲ったことが北方一帯に知られれば、彼等のラゴを見る目も厳しく、侮りを込めたものになるかもしれない。だが、一時の屈辱を耐えてみせよう。そして、いずれは――」
一族の矜持を押さえつけ、一時でも烏翠の前に膝を折らなければならないラゴ族の若者を、弦朗君は痛ましげに見つめていたが、何かを決意したかのような表情で、相手を引き寄せるとその耳元で囁いた。
「新たに押し付けられた割増しの分は、蓬莱南道のほうで補うがいい、サウレリ」
「…どういうことだ」
「蓬莱南道を通る来州は、臨州と並ぶ難治の地だ。瑞慶府に対する反感がもとから強い。開国以来従ってきたラゴ族も明州や来州の山間部に住んでいる。いよいよもって窮したら、私の名を出して彼等を頼れ。私自身にはさして力もないが、彼の地には知己もいるゆえ」
「いや、それは……」
密輸の教唆に他ならないが、そのようなことが漏れたら王への謀反と同じ、彼の命などあっというまに潰えてしまう。
「だめだ、それだけはできない。お前が死んでしまう。誠意だけは受け取るが、聞かなかったことにしておく」
「サウレリ…」
「もう言うな」
拒まれた弦朗君はしばらく下を向いていたが、やがて顔を上げ無理に微笑んだ。
「承知した。とにかく、そなた達の条件を、私は王に伝える。それで王が納得するかはわからぬが、我が命に代えても、最善を尽くそう。おそらく、妹御の瑞慶府行きという条件が加わったからには状況も変わり、王の側近たちが受け入れるべく動くだろう。もう不毛な争いは終わりにせねば……」
そして、弦朗君は懐から節を取り出し、水平に構えて宣言した。
「王命を賜りし烏翠の使者、すなわち光山弦朗君は、ラゴ族の族長代理サウレリ・トジン・パーリとここに仮の和約を結ぶ。これが正式な和約となるか、破約となって再び戦になるかは、瑞慶宮の判断を待ってのこととする」
サウレリは頷き、一度立ち上がると弦朗君に丁重な拝礼を行い、再び膝をついて口調を改めた。
「弦朗君さま」
「サウレリ」
族長代理は、はじめて敬語をもって相手の君号を呼んだ。
「仮に結びし烏翠との和約により、御身を烏翠にお返し申し上げる」
「……」
弦朗君は、寂しそうな目をしていた。
「諱で呼ぶなと言ったのは、確かに私だが…」
「そう、あなたを二度と諱で呼ぶことはしない。ラゴも烏翠もなく、等しく照らす月光のもとで過ごしたひと時は、生涯忘れぬ。だが、ひとたび別れたならば、遠く離れた場所で月を見上げて思い出す、互いにただそれだけの存在でいるのが、我等ふたりのあるべき姿だろう」
「あるべき姿か。……そなたと再び月を見ることができるかはわからぬが、もし叶うとすれば、そのときは詩歌を詠もう」
「ああ、お互いにできれば戦場ではなく、月下で見えたいものだ」
仮の和約が破れ、もし再び戦場で若草色の蝶が舞うのを見れば、今度はそれを踏みにじり殺してしまうかもしれない――。だが、サウレリはそれを口に出すことはしなかった。
弦朗君は劉将軍を呼んで証人とし、彼の前でラゴの条件を再び確認した。そして付き添われて将軍の馬に乗り、岩場を街道に向かって下りていく。馬上から何度も、弦朗君は振り返ってこちらを見ていた。彼の若草色の肩掛けが色のない街道に鮮やかに映え、まるで蝶がゆっくりと谷を渡って山を越え、自分の生まれたところに帰るようだった。
サウレリもやはり馬上から知己を見送っていたが、やがて相手が完全に視界から消えると「帰るぞ」とサライに呟き、ぽんぽんと胴を叩いてやりざま馬首を巡らした。
彼は、胸元がちくりとするのに気が付いた。襟に手を入れると、痛みの正体は彼の人の毛髪である。だが、それを取り去ってもなお、サウレリの胸の痛みは残っている。
谷底から生まれたばかりの乾いた風が、ふっとサウレリの脇を通り抜け、手のひらに乗せた髪を散らしていった。
【 了 】