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第3話 月下の対酌、蛮族の涙

 干した鹿肉を火であぶり、椀の酒につけるとじゅっと音を立てる。もう一つの椀にも酒が溢れんばかりに注がれる。


「また良い酒のつまみがあったものだな」

「だろう?烏翠の酒には烏翠の肴があろうが、ラゴの酒にはラゴの肴が合う」

 男二人は軒下に場所を移し、先ほどから飽きることなくさしつさされつしているが、それを見下ろしているのは明るすぎるほどの月だけである。山間とあって、夏とはいえ冷え込むので、サウレリも弦朗君も肩に厚めの毛織物をはおっている。


「それにしても、俺もたいがい酒には強いと思っていたが、お前も相当なものだな」

 何気なく言ったサウレリは、思いもよらぬ相手の反応にどきりとした。弦朗君は辛そうな、また切なげな、何ともいえぬ眼差しで見返してきたからである。

「だが、いくら飲んでも酔えぬとは辛いものだな。……まるで、天が私により苦しめと命じているかのようだ」

「おかしなことを言う。ああ、したたかに飲まねばやり切れんことでもあったか?」

 弦朗君はわずかに顔を伏せたが、答えとしてはそれで十分だった。


「それで弦朗君、お前に家族は?」

 相手は笑みを浮かべたが、眼は笑っていない。

「酒を呑ませついでに尋問でもするつもりか?酔わせて烏翠のあれこれを探ろうとしても無駄というものだ。私は力のない一介の王族で、何も知らないのだから」

「尋問?俺がそんな野暮な真似をするとでも思っているのか、心外だな。月が美しい、酒がある、そして飲み比べをする相手もいて、よもやま話でもしたいだけだ」

 サウレリの真剣さに、それまでどこか鋭さを宿していた弦朗君の表情が、すっと和らいだ。

「疑ってすまぬ。確かに、今宵は月が美しい……恐ろしいくらいだ」

 使者はそう呟くと、天空の高みに視線を投げた。


「何か、月を詠じた烏翠の詩か歌でも聞かせてくれぬか?」

「いや。…ここまでの月には、古今の名高き詩歌でさえ邪魔となる」

「そうだな」

 二人はしばらく沈黙したまま月を眺め、虫の声に耳を澄ませていた。


「そなたが聞いたのは家族の話だったか…、父は先代の王の弟だが、私が十三のときに亡くなった。だから私は、ごく若くして山房の主となって今に至る。あとは母と、すでに嫁いだ姉と…」

 弦朗君が「母」という言葉を口にしたとき、その瞳に悲しみの色が宿ったように見えたのは、サウレリの気のせいだろうか。

「で、そなたは?やはり家族がいるのだろう。族長代理」

「サウレリと呼べば良い。ふむ、俺もすでに父がない。母も病で伏せっている」

「ああ、私も母が病で…」

 弦朗君はまた視線を月に向ける。

「そうか、同じだな。お前の歳は?」

「十八だ」

「では、俺より一つ下だな。妻はおらんのか?」

「いや、まだだ」

 サウレリは眉を上げた。

「俺もまだ独り身だが…意外だな、山房の当主、しかも二十歳近い王族とあれば、すでに婚姻していると思っていたが」

「……」

 弦朗君はそれには答えず、鹿肉に箸を伸ばしたが、ややあってサウレリに兄妹の有無を聞いてきた。


「うむ、妹がいる」

「妹?」

「ふふ、男勝りで、武芸も馬術も得意な娘だ。俺が父代わりになって教えたからな。今はツァングの邑にいて、俺の帰りを待ってくれている」

「可愛がっているのだな」

「もちろん。おまけになかなかの器量だ。あれは美人になるぞ、俺に似てな。性格も真っすぐで…」

 弦朗君はくくくっと笑い、空になった椀を差し出した。

「族長代理ともあろう者が、そのように相好を崩して……大切な妹御とて、いずれ嫁ぐ日も来よう。婿になる者が気の毒だな、このような気難し屋の兄の気に入る人間など、誰がいるというのか」

「当たり前だ、下手な男に妹はくれてやれん。刀の露にしてくれよう。だが…」


 サウレリはふっと言葉をとぎらせ、弦朗君が先ほどしたように、夜空を見上げた。

「ラゴと烏翠の成り行き次第では、俺も妹もどうなるか…」

「そのように、心のうちを明かして――」

 咎めるような口調の弦朗君に、サウレリは鹿酒の椀を返した。

「隠していても仕方がないだろう。確かに俺はこう思っている、いざとなればラゴは北方の諸族を糾合して、烏翠に本格的な戦いを挑むことも辞せぬ、と」

「だが、そなた達は戦いには強くとも、絶対的に数が足りぬ」

「そうだ。ラゴは烏翠に隷属しているわけではないが、いまだ烏翠からのくびきを逃れることはできない」

「……」


「弦朗君、お前は我等に捕らえられたとき、轡は肯んぜなかったな。だが烏翠は、我等ラゴ族にいまだに轡をはめ、くびきを強いているように、俺には思えるがな」

「轡など……」

 眉根を寄せた弦朗君に対し、サウレリは皮肉交じりの笑みを浮かべる。

「違うのか?お前たち烏翠の者は、我等を平気で『蛮族』呼ばわりするではないか。我等は神と天朝の御祖みおやの勅令をもって、『白烏の神侍しんじ』として烏翠開国の祖に随従したが、いまは山間で暮らしているだけであって、お前たちに蛮族などと呼ばれる筋合いはない」

「蛮族とは、我等は…」

「思っていないか?お前達が本当に?では聞くが、烏翠の王族や高官のうちで、ラゴの言葉を解する者はどれだけいる?我等ラゴ族で統率の任にある者は、烏翠の言葉を話せるというのに」

「……」


 弦朗君は俯いた。彼自身はラゴ族のことも尊重しているようだが、同じ烏翠の者が往々にしてラゴ族のことを何と呼び、どう思っているのかもよく承知しているのだ。


「北方の商いに関しては、烏翠とラゴは持ちつ持たれつでやってきた。だが、これ以上税を重くし、通行の妨げを助長されれば、ラゴも今まで以上に苦しくなる。ただでさえ、ラゴのなかでもお前を襲ったごとき盗賊が増え、こちらも苦慮しているのだ」

「それは私もわかっている。だが…」

「悪いが、今の王は何を考えている?涼へつながる涼魏街道の桟道は崩れるにまかせるいっぽう、ラゴを通る蓬莱街道は南北両道にせっせと手を入れ、補修しているだろう?だが、それは我等北方との友好や取引を盛んにするためではないのは、火を見るよりも明らかだ。王…いや、お前達烏翠は何を企んでいる?」

「……詳しいな」

「蓬莱街道を吹き抜ける風は、さまざまな噂を運んでくる。しかも素早くな。知っているぞ、いまの烏翠の国君が厳しいまつりごとを行い、気に入らぬ者を片端から粛清していることも」

「……」

「まあ良い、此度の紛争もどう決着がつくかわからぬ。だが、いずれ我等は言葉通り、烏翠のくびきを断ち切って見せる」


 サウレリは不敵な笑みを浮かべると、複雑な表情をした相手に再び椀を渡した。

「さあ、これ以上つまらぬ話を続けると、酒の味が濁る。お前も、そんな顔はやめよ。飲み比べはこれからが本番だ、覚悟するがいい。万一にも酔い潰れなどしたら、寝首をかくからそう思え」


*****


 翌朝早く、サウレリが身じまいを済ませて奥の間を覗いてみたところ、弦朗君も既に起き上がっていた。ただ酒の気が身体から抜けきっていないのか、床に片膝を立てて座り、どことなくぼんやりとしている。


顕秀けんしゅう、起きていたのか。まだ寝ているかと思ったのに」

 弦朗君は相手を見上げ、怪訝な顔をした。

「なぜ私のいみなを?」

「なんだ、覚えていないのか。昨夜のこと」

「昨夜?」

「酒を酌み交わしていたとき、お前は私に諱を明かして、『以後は諱で呼んでくれてかまわない』と言っていたぞ」

「私が?」

「本当に覚えがないのか」

「ある段階からの記憶がない…」


 額に指をあて、昨晩のことを懸命に思い出そうとする弦朗君とは対照的に、サウレリは笑いをこらえている風だった。酒と肴を楽しみ、煙管を吸い、月下の歓談は尽きることがなかった。

「酒で正体がなくなるなどと…」

 彼は意識を失うほどに酔うという、王族としての、否、敵陣にある身としての不用意な振舞を恥じているかのようである。

「まあ、記憶にないのなら仕方がない。嫌なら、諱で呼ぶことはなしにする。諱は大切なものなのだろう?だから、君号のままで…」

「あ、いや」

 急き込むように、弦朗君は言った。

「呼んでくれて、かまわない。その……そなたは私より年上であるばかりか、いわば命の恩人ゆえ」

「…ふん」

 鼻を鳴らしたサウレリに、今度は弦朗君が笑いを噛み殺す番だった。

「それはともかく、寝首をかくだの何だの、恐ろしいことを言っていた割にそなたは優しいのだな。いや、甘いというべきか……酔い潰れたのに、言葉通りには私の寝首をかかなかった」

「不満か?今からでもその細首をかっ切ってやってもよいのだぞ?」

 不機嫌になったサウレリを、王族の双眸がやさしく見つめていた。


 軽口の叩き合いはそこまでとして、サウレリは今日までには弦朗君への返答をしなければならないと考えていた。要求を拒むか、もしくは、彼を人質にして交渉の打開策を探るか――。

 前者の場合、いよいよもって本格的な戦を覚悟せねばならない。だが、地の利はこちらにあったとしても、兵力の差はいかんともしがたく、一族の命運が尽きることにもなりかねない。また、彼を人質にして時間稼ぎをするにしても、新たな条件や譲歩を、烏翠とラゴが相互に開陳できるかというと――。


 そんなことで頭を悩ませながらも、サウレリは弦朗君を襲った盗賊を処分するため、彼等が囚われている村はずれのあばら家に自ら足を向けた。邑長の家に連行させなかったのは、弦朗君にラゴ族の裁きを見られるのを憚ったためである。


 庭に引き出された三人の盗賊は、最低限の食事だけでもだいぶ気力を回復したようであり、尋問には素直に答えた。

 サウレリは、盗賊に身を落とした彼等のやむにやまれぬ事情を汲んで、処刑だけは免じてやるつもりだったが、気になることがあったので一つの問いを発した。

「あの軟弱野郎に斬りつけたかって?背中?いいえ、そんなことをしやしません。ぶった斬ってしまう前に、あっちが気絶してたんで、すんなり用が済んでしまったんでさあ」

「本当だな?」

 サウレリは念を押したが、彼等の反応を見て、嘘は言っていないと確信した。


 ――では、彼の背中を斬りつけたのは誰だ?


 そして、弦朗君はサウレリの逡巡を見透かすように、人質策をあっさりと粉砕した。

「サウレリ。私は人質としては、本当に何の役にも立たないよ」

「なぜそう言える?」

 彼等は昨晩と同じように、黄昏の去ったあとで酒膳を囲んでいた。といっても、ラウニャの邑でも酒の備蓄が尽き、今日が最後の酒となるだろう。

「瑞慶宮は、使者の件は失敗を見越しているばかりか、私のことは死んでもかまわないと思っているからだ、いや、是非にも死んでほしいと思っている……これが正しいかな」

「どういうことだ?」

「さあ、王宮にでも聞くがいい。だが、彼等は私の命は惜しまぬが、ラゴを掃討する口実にするかもしれん」

「顕秀、烏翠では一体何が起こっている?いや、王の政についての噂は聞いている。だが」

 サウレリはそこで一度言葉を切り、相手を鋭く見据えた。


「お前の背中に斬りつけたのは盗賊ではなく、――烏翠の者では?」


 弦朗君はそれに対して否定も肯定もせず、ただ大きく息をついた。

「私は太妃さま――祖母の保護をもって今まで山房の命脈を永らえさせてきた。だが、『彼等』は祖母の目の届かぬところで、私を亡き者にしたいのだ。王に跡継ぎとなる王子がまだおわさぬ以上、目立つ山房、近い血脈の王族は眼の障りとなるらしい。親しくしていた大きな山房がひとつ族滅となってまだ間もないが、繊細な性格だった母は耐えきれずに狂気を発した」

「何と…」

「いずれにせよ、次は私の山房の番かと」

「それを全て承知で…?」

 弦朗君は掌中の節をサウレリに見せた。

「他にどうせよと?この血脈をもって王に仕える身としては、王命を受けるしかないだろう?たとえそれがいかなる命であっても」

「お前が俺にここまで話すということは、烏翠に弓を引くのと同じことだぞ。それなのに敢えて…」

「ふふふ、月は恐ろしい。人はつい、秘め隠すべきものをその光にさらしたくなってしまう」

 人質にはなれぬうえ、交渉の果実を持たずに戻れば、弦朗君は身の危険に直面する。


「いや、やはりお前を烏翠に返すわけにはいかん。むざむざと――」

 殺されるのを知っていて彼を送り出すなど、できない。

「でも、結局はそうなるのだ。交渉の決裂は決まっていて、役目を果たせなかった私は罪に問われ、おそらく死ぬ。お祖母さまの取り成しとて、今回は役に立たないだろう。だが、烏翠の要求をラゴが呑むわけにはいかない。たとえそれを呑んだとしても、増すであろうラゴの苦しみと怒りは、今度は族長代理であるそなたに向く。私はそなたに死んでほしくはない。それに私が烏翠の陣に戻るのが遅れれば、烏翠の将官も罪に問われる」

 弦朗君は悲し気に微笑んだ。

「ただ、私が瑞慶府まで戻って復命するまでは間があるし、可能な限り王の処断を引き伸ばしてみせるから、それまで一族で知恵を絞り、できるだけの備えをしておくがいい」

「だからといって…、本当にどうにもならぬのか?」


 サウレリの左眼から一筋、温かいものが流れ出た。

「サウレリ・タフラ・マージャ。ラゴ族一の武勇を誇り、一族を統べる者が、これしきのことで泣くなどと……敵同然の者に情けをかけて…」

 自分を窘めるのが静かな口調であるだけ、サウレリの心には堪えた。気まずさをとりつくろうかのように弦朗君が差し出した椀を、族長代理は押し戻す。

「何を言う。お前は敵では…」

「味方でもないだろう?」

「敵でも味方でもどちらでも良い、お前を死なせたくない」

「でも仕方がない」

 弦朗君は、自分の着ているラゴ族の服の袖を引っ張って見せた。

「私がこの服を着て、ラゴの月を見て、ラゴの酒を飲んで暮らせるとでも?誰にでも、生きるべき場所と死ぬべき場所がある、それだけだ」

「お前は優しい顔をして残酷なことを言う、顕秀」

「――サウレリ」

 弦朗君の手で、再び椀が差し出される。


「礼を申す。まさかこの異郷の地で、私のために泣いてくれる者に巡り合えるとは思わなかった。生涯最後の酒の相手がそなたでよかったと――」


「礼などいらん、とにかく、俺はお前を烏翠には帰さんぞ」

 駄々をこねる年上の若者を、柔和な顏つきのまま年下の王族は手を振ってとどめた。

「わかった、わかった。とにかく、そのふてくされた顔を引っ込めねば、族長代理の威厳が台無しだ。さあ、気を取り直して私の献酬を受けてくれ、な?」


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