第2話 烏翠の使者
客人を邑長の家の広間に案内すると、サウレリは弦朗君の持ち物を再度検めたうえで返し、薬師を呼んで彼の傷を手当てさせた。
次に、対面の席を整え、自ら北面して弦朗君を南面に据えた。烏翠を主、ラゴを従とするなら当然の作法であるが、険悪な間柄になっている今は腹立たしいことこの上ない。それでもサウレリは内心の憤懣を表情には出さずにいたが、部屋の隅に控えたオドアグは、嫌悪感を隠そうともしない。
いっぽう弦朗君はオドアグの眼差しに気づいていただろうに、平静な表情を崩さなかった。鎖帷子を脱いで身なりも整え、腰の帯こそ縄で代用していたが、肩掛けの若草色も鮮やかに剣を携えて、サウレリの挨拶を淡々と受けると、屏風を背後にした敷物に腰を下ろした。サウレリがその前に座るや否や、邑長の妻と娘達が、水瓶と椀二つ、それに軽食を盛った鉢を二人の脇に置いた。
使者が軽食はおろか水に眼もくれないのを見て、サウレリは苦笑を浮かべた。
「貴人が飲食には慎重であることは知ってはいるが、今はそのような時ではないだろう。腹はともかく、喉は乾いているはず。毒を警戒しているのであれば――」
サウレリは水を椀に注いで一気に飲み干すと、再びその椀を満たして弦朗君に突き付けた。
「我等は毒を盛るなど、まだるっこしいやり方は好まない。命を奪うのであれば、小刀の一本でもあれば事足りるからな。飲め」
相手は素直に椀を受け取った。
「すまない」
彼も一息に飲み干したが、やはりその挙措には優雅さがあり、平素武張った言動をしているサウレリも感心するものがあった。
「――それで、ラゴとの和平を望むのであれば、何らかの条件を携えてきているはず。それを聞こうか」
使者はふっと笑った。
「それが、私の手札は何もないんだ」
「何だと…?」
サウレリは言葉を失った。
「烏翠の要求を無条件で飲み、入境するすべての品に二割六分の税を納めること。呑めなければ…」
「ちょっと待て、それでは最初にお主たちが突き付けてきた条件と何も変わらんではないか。我等が何のために血を流してきたのか…」
「呑めぬか、烏翠の条件を」
「当たり前だ!従来の倍額など……そんなに税を取られては、ラゴは一族ぐるみ干乾しとなり、禿鷲に突かれる運命しか残されておらん。お前達烏翠は、使者を寄越したと思ったら馬鹿にして…」
弦朗君はまた口元を緩めた。
「何がおかしい」
「そうだろうと思って。まあ、そもそもは兵が使者の私に同行していたのではなく、私が兵に同行していたからな。烏翠は――というより、瑞慶宮は私に使者を命じこそすれ、役目を果たしおおせるなどとは最初から期待していない。話し合うための使者を立てたが、ラゴ族が肯んじ得なかったので討伐した――そういう大義名分に仕立て上げたいだけなのだ。私がさっき言った以上の手札を持たぬのは、そのためだ」
「では…」
言いさして、サウレリは黙り込んだ。
――最初からこちらが呑めぬ条件しか持ち合わせていなければ、死体となって送り返されてもおかしくない使者だ。なぜ烏翠はそんな役割を、よりによって直系王族に担わせるのだろうか?それとも、こやつは外見に似ず、交渉で辣腕を振るうような才能を持っているとでも?
「使者の言い分はわかった、諾否の返答を致すゆえ、少々時間が欲しい」
弦朗君は頷いた。
「承知した。ただ、烏翠は私の行方がわからぬゆえに、それを口実に返答の前に討伐の兵を起こすこともあり得る。時間の猶予はあまりない」
*****
サウレリはオドアグを弦朗君の見張りに残して、もう一度邑の近辺から烏翠との境近くを巡回したが、枯れ木は息をひそめ、岩は沈黙し、不気味なほどに周囲は静かだった。
彼は「神の眼」の淵に立って、青い湖面を飽かず眺めた。すでにツァングの邑には、自分の補佐達を呼び寄せるべく使いを走らせた。彼らは明日には到着するから、烏翠の要求をどうするかを話し合う。族長代理として、物事に対する最終的な決断は自分に委ねられているが、この度のことは一族の命運を左右しかねないため、サウレリは独断で決めることはしたくなかった。
――すっきりしない。
戦場に全く似合つかわしくない「彼」のことも、自分達を追い詰めずに退いたあの老将のことも。
ラゴ族を実質的に率いる者としては、弦朗君の持ってきた条件を呑むわけにはいかなかった。今回呑んで持ちこたえたとしても、来年には烏翠は必ず税率を上げてくるだろう。小指の爪の先を恵んでやれば手首ごと食いちぎられる、そのことをサウレリは十分に承知していた。
――しかし、烏翠の王はなかなかの暴君だと聞く。役目を果たさせずに彼を帰したら、罪に問われるだろうか。ひょっとすると、彼の命も危うくなるかもしれない。
そこまで思いが至り、サウレリは苛立たしげに首を振った。
――何だというのだ。だからといって、要求をそのまま受け入れるわけにはいかない。わが一族の命運と秤にかけたら、敵同然の王族が生きようと、死のうと…。
だが、殺すには惜しい、むざむざと死なせるには忍びない。そう思わせる雰囲気を、あの飄々とした男は持っていた。
結論が出ないままサウレリは馬首を返し、ラウニャに戻った。すでに日は傾き、愛馬サライの影が長く岩場に伸びる。かつてないほど長い一日だった。朝まだきの戦闘、思わぬ拾いものと交渉――。
しかし邑の門の前で、サウレリの考えごとは途切れた。誰かがサウレリを見るなり中に駆け込み、そうかと思うと邑長が転がり出てきたからだ。
「タフラ・マージャ、大変です!男たちが烏翠の使者を殺そうと……取り囲んで」
「何だって…!」
馬を飛び降り、邑長の指さす先に猛然と走る。ラゴの神を祀る廟の裏手に回り、陰から様子を窺うと、目の前は三丈ほどの低い崖の下になっており、弦朗君はそこに追い詰められていた。周囲には邑の男が数人取り巻き、何とオドアグもその一人となっている。
――いかんな。
烏翠の王族は自分の剣を構えていたが、剣術の基本だけ手ほどきされたといった体で、技量は皆無に近いのが見て取れる。髪は乱れ、服はそこかしこ斬られ、肩で大きく息をしているのが憐憫の情さえ呼び起こす。
――嬲り殺しにするつもりだな。
服は破れているが、身体に傷はついていない。ラゴの男ならば、殺そうと思えば一撃で相手の息の根を止められるはずなのだ。だが男たちの表情は、明らかに仇敵を前にした憤怒のほか、獲物をいたぶる昏い快楽にも満ちていた。
「何をしている!」
大声で呼ばわりざま、サウレリは飛鳥のように男達に迫り、次々と当て身を食らわせる。
「族長代理である俺が礼儀をもって遇した使者を殺すとは、俺を貶めることに他ならんぞ、オドアグ、見張りのお前まで一体…」
名指しされた部下はぐっと言葉に詰まったが、顔を真っ赤にしながら唸るように声を出した。
「烏翠のせいで、この邑でも死者が出て、俺達も仲間や血縁を失った。ルロイ、パージャ、ウッダル……彼等の無念を晴らすため、敵討ちをして何が悪い!のほほんとしたこいつを見ると吐き気がする、殺させてくれ、サウレリ!こいつの首を烏翠に送って…」
サウレリは一瞬絶句したが、すぐに気を取り直してオドアグを殴りつけた。
「馬鹿!お前達の軽率な行動が、一族を滅ぼすのだ」
そして剣をすらりと抜くや、弦朗君を庇うように立ちはだかった。
「どうしてもこの男を殺したければ、俺を倒してからにするがいい。一時にかかってきても良いぞ」
「――すまんな」
「ん?」
太陽も山の稜線の下に落ちた。邑長宅の奥まった部屋、獣脂を使った燭台の脇で、弦朗君は盥の水で顔を洗って自ら髷を結い直し、斬り裂かれた服を脱いだ。
「お前を危うく殺してしまうところだった。確かに、使者の命は保障できぬと言ったのは俺だが、あのような形では…」
「わかっている」
弦朗君は穏やかな表情をしていた。
「彼等も烏翠に家族や同朋を殺されているのだろう、私を亡き者にしようとするのも、無理からぬこと」
「これを――」
サウレリが差し出したのは、ラゴ族の服である。
「俺のものだが、着ていてくれ。丈はさほど変わらぬゆえ…」
弦朗君はすっと眼を細めた。
「それとも、我等『蛮族』の服は着られぬか?」
サウレリの問いに、相手は微笑を返した。
「そうではない、かたじけないと思っている」
背中をこちらに見せ、服に袖を通そうとする弦朗君に、サウレリは声をかけた。背には斬りつけられた跡がはっきりとした痣として走っていた。
「今朝は鎖帷子を着こんでいて、助かったな。混戦になったときに斬られたのか?それとも盗賊に?」
だが、相手からは返事が返ってこない。気のせいか、ぴくりとその肩先が震えたようだがサウレリは気をとめず、帯を結んで向き直った弦朗君に思わず破顔した。
「何が可笑しい」
眉根を寄せた相手を前にサウレリは首を横に振ったが、なおも口もとがほころんでしまう。
「似合わぬな」
確かに、色遣いが烏翠の服よりも濃厚ではっきりとしたラゴの服は、日焼けしたラゴ族の者だから似合うのであって、柔和な顔つきの、どちらかと言えば肌の色の白い烏翠の王族には、ちぐはぐに見えた。
「そうか、似合わぬか」
弦朗君も顰め顔を崩し、ふふふ、と声を立てた。
使者の会見のとき供された軽食を夕餉の代わりとし、サウレリは奥の間に弦朗君の床を整えさせたが、部屋の出入り口には自分が陣取って見張りをつとめることにした。弦朗君が勝手な真似をせぬよう、そして同胞の弦朗君への襲撃を防ぐためである。弦朗君は床につくにあたり、自分の剣を差し出したが、サウレリは受け取らなかった。
「使者としての体面もあろうし、お前ごときの剣ではラゴ族の誰をも倒せぬ」
「そうか、それはそうだろうな」
「言っておくが、俺の寝首をかこうとしても無駄なことだぞ」
「わかっている」
きょう一日で死線を越えてきたラゴの青年と烏翠の若者は、少しく離れたところにめいめい横たわり、ほどなく寝息を立て始めた。
*****
翌日の昼下がり、サウエリは大木の下で、ツァングから到着した補佐たちと烏翠の件について話し合った。みなは口をそろえて「烏翠側の条件は断固として呑めぬ」と言い、ただし老練な者が多い補佐たちは感情的になるでもなく、サウレリに判断を一任してきた。
――それはそれで、難しいな。
弦朗君から、何とかして他に譲歩を引き出せないだろうか。だが、どうやって引き出す?彼とて手札は皆無なのだ。
邑長の家に戻る途中のサウレリは、自分の名を呼びながら走ってきた者に気がついた。盗賊の捕縛の折、袋を担いでいた少年である。彼は邑長の孫で、自分が不在の間、弦朗君の見張りを頼んでいた。
「邑の男たちが、あの使者に『謝罪』と称して酒を呑ませています。おそらくは酔い潰して良からぬことを…」
「またか!」
サウレリは舌打ちして、ちょうど視界に入ったどこぞの馬に飛び乗り、邑長の家に急いだ。
「弦朗君――!」
奥の間に駆け込み、ばさっと音と立てて帳をめくると、サウレリの予想を超える光景がそこに広がっていた。
すなわち、強い酒の匂いが充満するその場には、ラゴ族の男たちが数人倒れていた。彼等は思い思いの姿勢でだらしなく寝そべり、うち二人は大鼾をかいている。その周囲には、盃や椀、酒瓶が散乱していた。囲むように寝ている男たちの中心では、弦朗君が姿勢正しく座り、盃を口に近づけたままサウレリを見上げている。彼もそうとう飲んだであろうに、全く乱れず、顔色も変じていない。
「この者達の好意により馳走になったが、――噂にきくラゴ族といえども、酒にはあまり強くないのだな」
「なっ……」
サウレリは言葉を失った。彼等が飲んでいたのは甜菜の酒で、ラゴ族の酒のなかでも最も強い類のものである。それを――。
「何か酒に仕込んだか?」
腰の剣の柄に手をかけたまま、自分を鋭く見据えるサウエリに、弦朗君は両の口角を上げた。
「薬を隠し持っていたとでも…?私の身体は、ここに連れて来るときすっかり改めただろう?」
「ああ、だが…」
サウレリは黙り込んだ。これ以上言うと、自分達の単純さ加減を冷笑される…そんな気がしたからだった。その代わり、どっかりと弦朗君の前に腰を下ろし、まだ立ったままの酒瓶を振って中身を確かめ、なみなみと椀についだ。
「さあ、俺の酒を受けてくれ。今度は俺と飲み比べといこう」
弦朗君はふっと息をつくと穏やかな眼をして、差し出された椀を眺めた。
「敵討ちの果し合いというわけか。だが、不公平とは思わないか?私はすでにかなり飲んでいるというのに」
そこでサウレリは椀の酒を一気に飲み、底を下に向けて見せた。
「これでも、不公平というわけか?」
「ああ、私はそれより飲んでいる」
サウレリはむっとして、また椀に酒を満たしてあおった。
「これでもか?」
「まだまだ」
相手の言い方にからかいの色を感じたので、サウレリは怒りを見せる。
「ふざけているのか?敵の陣中にあるというのに、命が惜しくないようだな」
「使者かつ人質となったその時から、命はなきものと心得ている」
さらりと答えて、弦朗君は椀を受け取った。縁に唇をつけ、相手を勝負に誘うかのごとく上目遣いで微笑む。
「それはそれとして……戦いは打ち物をとってのみにあらず。果し合いを挑まれれば、男として受けねばなるまいな?」
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