第1話 若草色の蝶
金属の響き合う鈍い音、軍馬のいななき、人間の怒声や呻き声、濃厚な血の匂い――青年が身を置く空間は、そんなもので満たされていた。
「サウレリ!左翼が退き始めました!」
自分を呼ぶ声に青年は振り向くこともなく、眼前の敵の胴を剣で薙ぎ払った。そのまま馬首を翻し、後ろから切りつけてきた別の兵と、刃をがつんと合わせる。
「…この」
自分の味方が総崩れとなる前に、敵勢を何とか追い払わなくてはならないが、敵将はなかなかに老練な戦い方を仕掛けてくるので、戦闘力は高くとも経験と数で劣る彼の手勢は、押され気味となっている。おまけに戦っているのは足元の悪い岩場で、雨まで降り出してきた。
このまま勝負をかけ、敵陣に切り込んで敵将の首を挙げれば――。
だが、青年はすぐにその考えを捨てた。敵将は老人であったが、鋭い眼光といい、堂々たる体躯といい、そして自ら先陣に立って自分達ラゴ族を蹴散らした技量といい、明らかに只者ではないようだった。
群がる兵の刃を掻い潜り、頭を一振りした青年は、視界の隅に奇妙なものを捕らえた。
「――?」
若草色もあざやかな一羽の蝶――。ひらりと翻り、だがそれは一瞬にして消えた。
――なんだ?
「くそっ…」
常ならぬものに気を取られていたせいで、わずかに鬢を削がれてしまった。ラゴ族随一の腕を誇る自分が、何という不覚か。
敵軍に思うさま後退させられ、自陣が総崩れとなる寸前、敵の老将が大音声で呼ばわった。
「良い、しんがりにはわしが立つゆえ、ひとまず退け!ラゴ族よ、今日のところ命は預けておいてやるが、わが烏翠の要求を呑むべく返事をせねば、今度は殲滅してくれるぞ」
敗色の濃い敵を深追いせず、巧みに自軍を操りながら追撃を防ぎ、鮮やかに退却していく手腕。
――情けでもかけるつもりか。皆殺しにされるほうが、ましだ。
青年は斬られた左腕を押さえ、屈辱に身を震わせながら、敵将の後ろ姿を見送っていた。
*******
早朝の戦闘から、すでに半日が経っている。
「ふう……」
サウレリは大きな息をつき、遥かな谷底を見下ろした。浅黒い肌に皓歯、筋肉質の体格を持ち、いかにも精悍そうな顔つきの、二十に満たぬほどの若い男である。
蒼穹の下、雲なす山間を縫って走る蓬莱北道は、蓬莱山から山岳部の民族が暮らす領域を経て、はるか烏翠とその王都にも続く路である。彼はその北道を、数騎を引き連れて南下しているところだった。
「あいつらは、『二廟』までは後退しただろうか?オドアグ」
若者の問いに、オドアグと呼ばれた部下が首を捻る。
「どうでしょうか、また遠からず攻め上がってくると思いますが…。サウレリ、二廟まで足を延ばして巡回しましょう」
「あいつら」とは、もっか彼等が係争中の烏翠の兵士たちである。いっぽうサウレリやオドアグ等は「ラゴ族」と呼ばれ、北部の諸族のなかでももっとも数が多く、また勇猛果敢な一族としても知られていた。
彼等は、もとは隣接する烏翠国が天子の末子によって開かれたとき、その随従として天朝から付き従い、途中この地に留まって邑を営んだという伝説を持っている。ゆえに、いまでも烏翠には従うばかりではなく、かの国に岩塩や鉄鉱石、宝石のみならず、他の地域からの商品をも中継ぎで売り、また烏翠からは小麦や茶などを買うという関係を保ってきた。
だが、そんなラゴと烏翠の間には、いまや暗雲が立ち込めている。
「サウレリ、あそこに人が…」
ラゴと烏翠との境界である「二廟」まであと少しというところで、オドアグが異変に気が付いたようである。サウレリが眩しげに額に手を当て、指さされた方角を見やった。岩場に誰かが倒れている。近づいて馬を降り、歩いて行くと、その者は頭を斜面の下に向け、腕を左右に投げ出していた。
倒れているのはやはり若い男だった。ざっと見たところ衣服はラゴ族のではなく烏翠のもので、脚絆と手甲はつけているが、武装と呼ぶには軽い。奇妙なことに、胸元は大きくはだけられて軽い鎖帷子が覗き、帯も断ち切られていた。サウレリが短刀を抜き、男の鼻の下に当てると曇った。
「――息はある」
敵のことながらサウレリは安堵の息を漏らし、あらためて男を検分する。帯に提げ緒が巻き付いているところを見ると、剣を提げていたと思われるが、現物が見当たらないので、盗賊に襲われて持ち去られたか。
オドアグも膝をつき、サウレリとともに男の身体を改める。
「サウレリ。おそらく盗賊に懐を探られたのでしょう。奴らは金目のものを剥ぐだけ剥いで、持って行ったと見えます」
「うむ。だが、この者は誰だろう…」
ただの兵士ではなく、着ているものからして、身分か階級の高いものであることは容易に想像がついた。だが、武官という雰囲気でもない。
「どうする?このままにしておくわけにはいかない」
「連れて帰りましょう。身分の高い者であれば、良き人質になります」
人質――サウレリはその言葉に頷くことはなかったが、相手の身体を検分した。そこかしこの傷はごく軽いものだが、背中に腕を回してそっと裏返したとき、サウレリは息を呑んだ。背中を斜めに斬られ、服が破けている。だが全く運がいいことに、鎖帷子のおかげで、無傷で済んだものと見える。男をうつ伏せの体勢から、再び上向きに戻したその瞬間。
「……ん」
意識を取り戻したとみえ、男がうっすらと眼を開けた。サウレリは覗き込み、はっとする。
――「神の眼」。
その澄んだ瞳に、一瞬、ラゴ族の守りである青い湖を連想してしまった。サウレリが眼をしばたたかせると、水面の幻影は消えてしまったが。
男はサウレリ達を見上げたまま、しばらく呆然としていた。状況を把握するまで時間がかかったものの、目の前にいる者たちの服装を見て敵の手に落ちたことを悟るや否や、頭をゆるく振り、起き上がりざま腰に手を伸ばした。だが、サウレリより一瞬早く、オドアグが男の衿に手をかけ、首筋に自らの剣を当てた。
「動くな。お前――烏翠の者だな?名と身分を言え」
追い詰められているというのに、男は唇を引き結び、答えようとしない。サウレリの見たところ、傷つき頭髪も衣も乱れてはいたが、自分と同じ年頃で、落ちつきと気品を備えた若者であった。
「言わぬか、でないと――」
焦れたオドアグが首に傷をつけようとするのをサウレリは「よせ」と制止した。
「我等の言葉が通じないだけだ」
そして、若い男の傍らに膝をつき、烏翠の言葉で話しかけた。
「名乗るがよい、烏翠の公子よ。身分高き者と見受けられるが?」
若者の表情が一瞬だけ動いたが、返事をしようとしない。サウレリは軽く溜息をついて立ち上がった。
「……」
舌打ちしたオドアグは、沈黙する男の両手首を、刀の提げ緒で後ろ手に縛りあげる。相手は痛みを覚えたのか、顔をしかめた。
「サウレリ、舌でも噛んで死なれたら面倒だ、猿轡か縄を口に…」
オドアグが縄と布を鞍の袋から出したのを見て、言葉はわからずとも成り行きを察したのか、男は眼光を鋭くしてサウレリを見据えた。
「死んだりなどせぬ、だが轡は受けぬ…」
その瞬間、オドアグが若者のうなじをしたたか剣の柄で殴りつけたので、彼は口がきけなくなった。岩場に倒れ伏し、咳き込む。
「オドアグ!」
「何を言っているのか知らんが、人質のくせに反抗的な目つきを…」
「とにかく、やめろ」
不満げな部下を制し、サウレリは男の前に膝をついた。
「死なぬという約を守れるのであれば、轡は免じてやる。逃げぬと誓うのであれば、縄もかけぬ。それでいいな?お前の先祖と父母の名にかけて誓えるか?」
「むろんのことだ。――かたじけない」
貴公子らしき男は頷いた。そこでサウレリは、男にかけた縄を解くようオドアグに命じた。
「どちらにせよ、お前は我等の手のうちにある。これから一緒に来てもらおうか」
*******
実のところ、ラゴ族と烏翠の関係が軋んでいるのは、ラゴ族出身の盗賊が辺境を荒らしたとの名目で、烏翠が「討伐」と称してラゴの地に兵を進めたばかりか、ラゴから烏翠に入る品物に今までより遥かに高い入境税をかけてきたからである。
ラゴ族もラゴ族で、ここ数年は雑穀の収穫高が低いばかりか狩りの獲物も減り、飢えた者が盗賊に変ずるという事態に、サウレリ達ラゴの統率者も頭を抱えていたところであった。そこへ烏翠から兵を送られ税を重くされては、一族ぐるみで立ちいかなくなってしまう。
はじめはささいな小競り合いから始まった両者の対立も、段々と大ごとになり、ついには死者も出る事態となった。数で勝る烏翠の軍も、ラゴ族の遊撃戦と勇猛さには手を焼いている。サウレリが男を拾ったのも、二廟付近での戦いが混戦となり、烏翠が退却した後の見回りに出ている最中のことであった。
「――立てるか?」
サウレリに声をかけられた若者はやっとのことで立ち上がったが、すぐに頭を押さえて蹲った。眩暈がするらしく、気分の悪さを耐えているようであった。差し伸べたサウレリの手を振り払い、きつい視線を相手に投げかけて、再び立とうとする。だが、できない。
「意地を張るな」
サウレリは彼をたすけ起こし、だが思案気な表情になった。どうやって彼を連れ帰ろうか?この様子では、歩くのはおろか、一人で馬に乗るのも難しそうである。そこでオドアグに自分の愛馬を引いて来させ、馬の耳に囁いた。
「サライ、悪いな。少々重いかもしれんが、我慢してくれ」
「サウレリ。後ろに乗せて万一…」
部下の警戒する声に、サウレリは一笑した。
「襲われたらどうすると?気になるならば、お前が斜め後ろからついて見張ればよい」
そしてオドアグに手伝わせ、馬に二人乗りとなった。後ろの若者は言われるがままサウレリの身体に腕を回し体重をその背に預けたが、ぐったりとしていて、ひどく気分が悪そうである。
「大丈夫か?揺られて辛いだろうが、我慢せよ」
背後の人質に注意し、ゆっくりと慎重に手綱を操りながらサウレリは長い坂を下っていく。
――それにしても、ふらりと戦場に紛れ込んできたような……。いったい何者だ?
「神の眼」にほど近いラウニャの邑は、今回の紛争における前線の砦となっていて、サウレリも本来の族長治所のツァングではなく、ここを拠点に陣頭指揮を執っていた。
サウレリ等が邑の門をくぐると、人々が集まってきた。みな安堵した様子で、一族を守るサウレリに感謝と労いの視線を向けたが、彼が後ろに乗せている人物の風体を見るや、空気があっという間に硬く、重苦しいものに変わった。しかし注目されている当の本人は、眼を閉じたきり周囲の刺々しい視線に気づいてもいないようだった。
「族長代理、お帰りなさいませ。して、後ろに乗っている者は?」
年老いた邑長の出迎えと疑問に、サウレリは頷いた。
「『神の眼』の近くで拾った。おそらく烏翠の者だが…」
邑長は眼を細めた。
「身分の高い者に見えますな、人質になさるつもりで?」
「そうなるだろうな」
「…どうなさるかはむろんサウレリさまにお任せしますが、この邑に長く置かれぬほうがよろしいかと」
「何故だ……ああ、そうか」
ラウニャは五日ほど前、烏翠の兵に急襲され、邑人を十人以上も喪っているからであった。
「どうするかはまだ決めておらんが、長居はさせぬつもりだから安心するが良い」
ほっとした様子の邑長の後ろから、息せき切って走ってきた中年の男がある。
「邑長、族長代理――盗賊を捕らえました!」
「おお…」
遅れて、十数人の集団が遅れてやってくる。馬上のサウレリには彼等が良く見えた。真ん中に取り囲まれているのは、縄をかけられた男が三人、その縄の端を持ち武器を手にした邑の男が十人ばかり、その後から大きな袋をかついだ少年が小走りについてきている。
サウレリはオドアグに背後の若者を降ろさせ、自分も馬から飛び降りた。目の前に連れて来られた盗賊たちはやはりラゴ族で、捕り物で傷を負い精魂尽き果てたのか、揃って悄然としている。
「ラゴ族だな、どこの邑の者か」
「アンバヤです」
縄を持った男が代わりに答えた。
「アンバヤか――」
サウレリの顔が曇ったのは、そこがとりわけ飢えの厳しい邑であることを知っていたからである。交易の安全を脅かす盗賊は重罪だから、本来は処刑すべきであるが、しかし――。
「わかった。処決はひとまず猶予し、すまないが彼等を閉じ込めておいてくれぬか。この邑も苦しいだろうが、彼等にも食べ物を分けてやって欲しい」
それから袋の中身を問うと、持っている少年は返事の代わりに袋を逆さにした。いくつもの品がこぼれ出て、地面に転がる。
「あっ…」
声を上げたのはサウレリと、いつの間にか眼を開けたのか、オドアグに身体を支えられた若者であった。
「よもや…お前のものか?」
振り返って問うサウレリに、男は肯定の返事をした。
そこで改めて品々を検分すると、まずサウレリに眼を止めさせたのは、銀の留め具がついた、若草色の細長い布である。
――戦場の蝶。
幻影かと思ったあの羽ばたきは、幻影ではなかった。さらに布を手に取って目を凝らすと、質の良い厚手の絹地に、山と日輪を戴く白い烏の徽章が刺繍されている。ついで立派な拵えの佩剣、翡翠の佩玉、銀の煙管、そして節。サウレリの記憶によれば、白烏の紋章は官もしくは王家のものだったはずである。
「――ではお前は王族か?」
問いかけるサウレリに、ややあって男が口を開いた。
「そうだ。……私は現王の従弟にして、光山房の当主である。君号は『弦朗』という」
正直に名乗ったことには感心させられたが、山房の当主すなわち直系王族と聞いてサウレリは眉をひそめた。一方、男は安堵の吐息を漏らす。
「ああ、良かった。国君よりじきじきに命を賜った節が…」
「節?ということは、お前の役目は…」
若者すなわち弦朗君は頷いた。彼は自分の持ち物、特に節を見て気力を取り戻したようだった。
「私は烏翠の王の命を受け、ラゴ族に遣わされた交渉の使者だ」
「本当か?では、出会ったときなぜ言わなかった?」
問われた者は、肩をすくめた。
「節も何も、身の証しを持っていないのに、使者と言って信用してくれるだろうか?それに、そなた達の正体もわからぬとあっては…」
それもそうだと呟き、節を片手にサウレリは考え込む。となれば、彼を虜囚扱いすることはできない。多少は烏翠の言葉を解す邑長はもとより、解さぬ人々も、かたずを飲んで二人のやりとりを見守っている。
「わかった。俺はサウレリ・トジン・パーリ、先代の族長の甥にして、『タフラ・マージャ』すなわち族長代理だ。先代の遺児、つまり従弟が成人するまでは代理として一族を統べている。ふむ、かくなるうえは、お前を虜囚としては扱わず、使者として遇しよう。だが――」
サウレリは挑むような目つきをした。
「我等はお前達に『蛮族』とも揶揄されるラゴ族だ。そして烏翠とラゴはいまや断交寸前、使者とはいえ、事ここに至っては手段を選んでおられん。お前を人質とするか、もしくは首を落として烏翠に送る可能性があることを承知しているな?」
「無論のことだ、覚悟はできている」
一向に動じず微笑む若者を見て、邑人も彼の命が助かったらしきことを知り、その場には微妙な空気が満ちた。
「邑長、そなたの家を我が宿りにしているが、この者も連れて行くぞ。まずは話してみないことには…」