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光の樹氷  作者: 井槻世菜
3/3

三話

 ぽー――……っ


 最初に感覚が戻ったのは耳だったように思う。薄ぼんやりとした意識の中、遠鳴りのように、低く透き通った不思議な歌が聞こえてくる。それは大地の底から響いてくるように、地面に倒れ伏したマナの体に重い響きを残して通り過ぎていく。じんわりとした重さが響いた場所から少しずつ感覚が戻ってきて、手足を微かに動かしてみてようやく、まだ自分が生きていることを知った。

 死んでないのか。と、浮かんできたのはそんな何の感慨もない言葉だった。

 瞼は凍り付いたように張り付いてどうしても開かない。その上に吹き付ける雪と風はいくらか弱まったようで、感じるのは、マナの顔と体に降り積もっていくさらさらとした冷たい感触だけだった。

 そうやって雪が触れたところから、静かに静かに冷たさがマナの胸の奥に染みこんで、ゆっくりと凍り付いていくような錯覚を受ける。だからここが自分の終わりなのだと思った。あれほど憎んだ雪の白さに(うず)もれて、誰一人知らないままに朽ち果てていくのだと。

(眠い……)

 ひどく眠くて、体中が鉛のように重い。周りの感覚が再び遠のき始めて、ただでさえはっきりしない思考もまどろみの中に落ちようとしていた。

 だから、どこかからタッタッと足音のような音が聞こえてきても、マナはそれが何なのか確かめようともしなかった。


 くぅ。


 突然、耳元でこの場に似つかわしくない可愛らしい鳴き声がした。少なくともマナには鳴き声のように聞こえた。そして次の瞬間、ざらりとしたあたたかな感触がマナの頬に押し当てられる。驚いて、思わず小さな悲鳴が漏れた。

 恐る恐る、動かない瞼を無理矢理こじ開ける。すぐには戻りきらない視界の中、二つの夜空色の宝石の存在だけがはっきりとわかった。

「リル……?」

 無意識に嫌いなはずの少女の名を口にしていた。それほどにその色は彼女の瞳と同じ色だった。

 徐々にはっきりし始める視界に、よりくっきりと二つの夜空色の瞳が映る。そしてその周りの白銀の毛並みと、下には大きな切れ長の口が――

「な――!?」

 途端、はっと息をのんで目を見開き、鼓動は倍ほどに跳ね上がった。反射的に身を起こして後ろに下がる。

 肩で息を繰り返しながら、目の前の生き物をまじまじと見つめる。それはマナが昼間に山で出会った、リルと同じ瞳を持つ小さな白狼だった。

「どうして……」

 マナは戸惑いを含んだつぶやきを漏らしながら、舌でなめられたらしい自分の頬に手を置いていた。狼は昼間と同様に少しの敵意もなく、ただじっとマナを見つめて「くぅ」と鳴いた。

「どうして、ここにいるの」

 思いつくままに口が動く。戸惑いは、焦りにも似た苛立ちに変わり始めていた。

 これは何。大嫌いな白銀で、リルと同じ瞳で、マナを見るこの獣はいったい何。

「どうしてここにいるの? あなたは何なの!?」

 リルとあまりに同じ。でもリルなはずがない。リルなら――彼女を見殺しにしたマナをこんな静かな目で見るはずがない。

「私を笑いに来たの? バカにしに来たの? それとも、その牙で私を噛み殺しに来たの!?」

 戸惑いと焦燥と嫌悪と恐怖と、ない交ぜになった感情が胸の奥で黒々と渦を巻いて、叫んだ声は震えていた。

 それでも、狼はどこまでも澄み切った藍の目で、マナをただ見つめるだけだった。その瞳の中に映り込んだマナの姿は地味な黒髪と黒い瞳、この美しい夜空の中にあってさえ、決して何にも染まらない醜い色。

「え……?」

 何の反応もないまま、ふいに狼はすっとマナに背を向ける。そのまますたすたと歩き始める小さな姿を、マナが呆然と見送りかけたその時だった。


 ぽー――……っ


 ひときわ大きく、雪の精霊の歌声が響く。遠くから聞こえているはずなのに、まるですぐそこで歌っているかのような明瞭さにはっとしたマナの前で、狼はくるりと振り向く。

 青い宝石のような瞳がマナを射ぬいた。そして、まるでマナに呼びかけるように、「ウォ」と鳴いたのだ。

「ついて、来いって……?」

 確信など一つもない。だが、そう言っているように思えて仕方なかった。

 再び背を抜けて歩き始めた狼の毛並みをしばらく見つめた後で、マナは決心したように両足に力を込めたのだった。



 白狼の後について、夜の山を無言で歩き続けた。狼は山の上へ上へと向かっているようだったが、崖から落ちた時点で方向感覚なんてとうに失っていたし、行く先なんてさっぱり検討もつかない。でも、どこに行くのとは一度も聞かなかった。どうせ行くところなんてない、どうにでもなればいいと、そんな投げやりな気持ちがマナの中の大半を占めていた。

 雪は小降りになっていて、一時的に月も雲の合間から顔をのぞかせていたから、一歩一歩進むのにさほど苦労はしなかった。でも、厚い雪に足をとられてマナが立ち止まったりよろめいたりする度に、狼も足を止めてマナの方を振り向く。やはり、マナをどこかに案内しているとしか思えない挙動だった。

 途中で、もう一つ奇妙なことに気付いた。山がなんだかおかしいのだ。

(どうしてこんなに道が続くのかしら……)

 狼はずっと登り続けている。歩き始めてからほぼ真っ直ぐに曲がることなく、だ。それなのに、今まで来た経路には木も生えていなければ岩や崖にぶつかったりもしなかった。その上、マナたちの歩く場所だけは何も生えていないのに、その周囲には背丈の低い木々たちがひしめき合って立っている。

 まるで道ができているかのようだった。狼が歩くのに合わせて木が避けているみたいだと、自分でもばかばかしいと感じる考えを捨てられない。

 その、薄明かりに照らされた奇妙な山道を、一匹と一人で黙々と歩き続けるのだった。

(あれは……?)

 一刻――いや、二刻も三刻も経った頃だろうか、そろそろ頂上にも近づいたかという時だった。雪の斜面に大きな岩山が突き出しているのが目に入る。徐々に近づいてくるその姿に目を凝らすと、どうやらただの岩山ではなく、洞穴(ほらあな)の入り口のような空洞が見えるのだった。

 そして、狼はその前までたどり着くと、マナを振り返って「ウォ」と短く鳴いた。マナは恐る恐る洞穴の入り口から中をのぞき込む。下へ下へと斜めに降りていくような形で奥へと細い横穴が伸びていたが、月明かりだけでは大して中は見透かせなかった。

「この中に、用があるの……?」

 白狼からは何の反応もない。その瞳に映った感情を読み取ることも、できなかった。

(どこまで続いているんだろう……)

 マナがそっと中に足を踏み入れると、こつりと硬い石の音がした。中は、風のない分外よりは冷気が弱まったように感じられる。そのかわり、体のしんまで染みこんできそうな暗い静寂に満ちていた。

 ふらふらと数歩進んだところで、マナの足下でやわらかい何かにつまずいた。転けそうになりながら振り返り、マナは小さく声をあげる。洞窟の地面に倒れ伏したこの陰は、まるで、人影……?

「誰かいるの……?」

 しゃがみ込んで確認しようとしたところで、雲の加減かちょうど月明かりが洞内を照らし出す。露わになったその顔を見て、マナは目を見開いていた。

「サシャ……!」

 栗色のおさげ髪の少女――行方不明だったはずのサシャが、ぐったりと地面に倒れ伏していた。揺り動かしても気が付く気配はなかったが、規則正しい寝息の音ははっきりと聞こえており、無事なのは確かなようだった。

 どうしてか毛布でくるまれており、凍えた様子はない。その毛布をそっとどけた下にあったものを見て、マナは背筋がすっと寒くなるのを感じた。

 サシャの小さな両手は、皮縄で後ろ手に縛られていた。ただ山に迷い込んで行方不明になっただけで、こんなことになるはずがない。

(どうしよう)

 うろたえて辺りを見回すと、毛布やカバンにたき火の跡と、洞窟内には人の臭いのする物が散乱している。なぜ最初に気付かなかったのか。

(縛った人が、いる)

 マナは震える手でポケットから小刀を取りだし、サシャの縄を切った。嫌な予感がして、とりあえず洞窟を出ようと、サシャを抱えて入り口を仰ぎ見た時だった。

 すっと、入り口に数人の影が立ったのだ。


「あー、やっぱ無理っすねえ、夜の山を越えるのは」


 影は三つ。一緒に宙に揺れるランタンの明かりも三つ。ちょうど影になって顔は見えない。でも、知らない声だった。

「ほら見ろ、だから言ったんだ。なのに一応確認して来たいなんて、ただの無駄足だ。今夜はおとなしくここで野宿だな」

「一人しか捕まらないし、吹雪にはぶちあたるし、あー今年はついてねぇなあ」

「まあまあ兄貴たちそう言わずに……ほら、収穫もなかったわけじゃないですし、ね?」

 格下らしい口調の、ひょろりとした男がマナたちの方を指さす。逃げられない、と身を強ばらせたマナの前で、男は「あれ?」と間の抜けた声をあげた。

「あれ、二人になってる?」

「はぁ? 何をバカなことを……ん?」

「え?」

 他の二人も次々とマナを見て驚きの表情になる。だが、真ん中に立つ体格の良い男はすぐに、にやりと気味の悪い笑顔を作った。

「ふーん、よくわからないが、これはラッキーだ。いつの間にか商品が増えてるじゃないか」

 〝商品〟。その言葉にマナははっとした。縛られていたサシャ、山向こうから来たような口ぶりの知らない男たち、そしてマナたちのことを商品と言う。

「人、さらい……?」

 呆然とつぶやいたマナに、男は笑って側近くまで寄ってくる。後ろに下がる間もなく、マナはのぞき込んできた男の顔をにらみ返すことしかできなかった。

「お察しの通り、俺たちは山の向こうから来た人さらいさ。お前たちの村、冬に人がいなくなっても全部雪の精霊のせいになるから、いいカモでさぁ」

「な……!」

「んー、お前地味な顔だなぁ。まあ、下働きくらいにはなるだろう、適当なところに売っぱらってやる」 

 ぞくりと鳥肌がたった。逃げなきゃ、と頭の中で警鐘がこだましている。でもどこに、どうやって……?

「とりあえず二人とも縛っとこうぜぇ」

 三人目の中肉中背の男がマナに向かって手を伸ばしてくる。マナは身を縮めることしかできず、サシャの体をぎゅっと抱きしめた。

 その時だった。マナの横を、弾丸のような白い影が通り過ぎていったのは。

「うわぁっ!?」

 男たちの声には恐怖の色がうかがえた。はっとして顔を上げたマナの目に映ったのは、怯えた顔で洞窟の入り口に向かって後退する男たちと、その前でうなり声を上げる小柄な白狼の姿だった。

 今までどこにいたんだろうとか、どうして助けてくれるのだろうとか、そんなことを考える余裕はなかった。反射的にサシャを抱えて立ち上がり、全力で洞窟の奥へと走り始める。

 しかし、

「行き止まり……!」

 狭い横穴は、すぐに冷たい石の壁に姿を変えていた。逃げ場を失って立ち尽くすマナの耳に、狼の遠吠えの声がすぐ後ろで聞こえる。見れば、数歩戻っただけのところに、いつの間に追いついていたのか白狼が立っている。そして狼は、一瞬のうちに洞窟の壁に吸い込まれるように姿を消した。

「え……?」

 駆け寄ると、壁には小さな穴が開いていて奥へ奥へと続いているようだった。こんな入り口、最初からあっただろうか、それとも見落としただけ……? 一瞬そんな疑問が頭をかすめたが、こちらへ走ってくる人さらいの男たちの姿が見えた途端、何も考えずにその穴に飛び込んでいた。

 中は思ったより広く、人一人は優に通れる横穴が続いている。明かりもなく視界はほぼ利かなかったが、直感だけで前に走り続けた。

「きゃっ!」

 ふいに足下が滑り、尻餅をつくような格好で体が斜めになる。手をつこうとしたが、サシャを抱えているせいでそれもままならない。

 尻餅をついた先で、再度湿った床に滑る。支えようとした足も大した助けにはならず、真っ暗闇の中で自分の体の向きすらよくわからなくなる。

 そうしてマナは、どこに続くかもわからない闇の底に、滑り落ちるように吸い込まれていったのだった。

 


「痛い……」

 散々滑り落ち、ようやく止まった先でマナはゆっくりと体を起こした。何度もぶつけて体中が痛かったが、手足はちゃんと全部動いた。

(どこまで落ちてきたんだろう)

 天井を見上げても、一番上まではよくわからない。マナが座り込んだところから急斜面の岩壁が上に伸びていて、どうやらここを滑り落ちてきたようだった。

 表の横穴よりは随分と広い通路が、先の方までずっと伸びていた。天井からは鍾乳石が幾つも垂れ下がっているのが見え、時折水のしたたり落ちる音が辺りに反響する。

「うーん……」

「サシャ!」

 腕の中で幼い体がごそごそと動き、名前を呼ぶと、とろんとした目がマナの方を見た。

「あれ、マナおねえちゃん……?」

「サシャ! 怪我はない?」

 状況がわからず混乱しているようだったが、問われるままに「大丈夫」と帰ってきた返事に、ひとまずマナはほっとする。

「おねえちゃん……ここどこ?」

「洞窟の中よ。落ちてきてしまったの」

 答えてから、これからどうしたら良いのだろう途方にくれてしまう。黙り込んだマナに、おさげの少女はこくりと首をかしげた。

「洞窟の中なのに、あかるいね?」

 その、ぽつりと問われた無邪気な声に、マナははっとした。

 その通りだ。さっきからどうして、周りが全部見えているんだろう。サシャの栗色の髪も大きな瞳も、どうしてこんなにはっきりと見えているんだろう。


 ぽー――……


 雪の精霊の澄んだ歌が、周囲に反響し、長く尾を引いて染みこむように消えていく。不安そうにマナを見上げるサシャの肩にそっと手を置きながら、マナの目は音が聞こえた方をじっと見つめていた。

 広い横穴を進んだ先に、ぽっかりと出口のような穴が見えた。ゆらゆら揺れる淡い光がその穴から漏れ出しており、それが洞窟全体の薄暗い明るさを保っている。

(風が、吹いている)

 そこから漏れ出すのは光だけではなく、精霊の歌声と、そしてまた微かな風がそよそよとマナの髪を揺らすのを感じていた。

 意を決したように、マナはサシャを膝から下ろして立ち上がる。

「サシャ、歩ける?」

 伸ばした右手を、幼い少女はうなずきとともに握り返した。

 ぎゅっと繋いだ手のあたたかさを感じながら、マナはサシャと二人、淡い光に向かって歩いて行く。近づくにつれ、次第に歌が強くなっていくことに途中で気付いたが、立ち止まりはしなかった。

 そして明滅する淡い光に誘われるように、マナは通路の出口をくぐる。


 ざっ――――


 瞬間、強い風がすぐ側を通り抜けていって、マナの短い髪を散らした。言葉を失ってただただ目を見開いたマナの耳に、ぽーっとひときわ大きく透き通った歌は、ほんのすぐ間近で聞こえていた。

 思わず、握っていたサシャの手を力なく落とし、マナは呆然と前に進み出る。頼りない足音は、あっという間に周りの空間に霧散して消えていった。

 ――それは大きな、あまりに大きな空間だった。細い横穴を抜けた先には、縦横に広がる巨大な縦穴が広がっていた。縦穴と言ってよいのかもわからない、丸みを帯びて広がる広大な空間だった。

 そしてその中央に、大きな空間を覆わんばかりに広がる、氷でできた白銀の巨大樹の姿があったのだ。

(氷の、樹……)

 果たして本当に氷であったのかはわからない。ただ、樹全体が澄んだ水を一瞬で氷結させたかのごとく淡く透き通っていて、それでいて確かな質感と硬さをもってそこに立っていた。洞窟の床に深く食い込んだ根から、ずっしりとした太い幹が伸び、そこから縦穴の天井を覆い尽くすように無数の枝が広がる。その一つ一つの先には、葉のようにも実のようにも見える、宝石のような膨らみが幾つも芽吹いていた。

 太い幹には、大きな(うろ)がぽっかりと口を開けていた。そして、まさにその洞から、ぽーっという笛のような歌のような音は鳴り続けている。洞を風が通り抜ける度に、低く透き通った不思議な風鳴りの音をたてるのだ。――それは、マナたちが雪の精霊の歌と呼び続けてきたものだった。

「おねえちゃん、なんでこの木きらきらひかってるの?」

 足下で無邪気な声が聞こえる。その小さな肩を、マナは無言でぎゅっとたぐり寄せた。

 縦穴にはいくつか地上と交通する小さな穴が開いているようで、そこから細い光が幾つもの筋を引いて差し込んでいる。その光は巨大樹の表面で四方に反射され、樹全体が光をまとっているかのように、きらきら輝く微粒子に覆われていた。

 時折、樹の枝が生き物のように大きな音を立ててしなる。その度に、枝先の宝石の動きに沿って光の粒子が舞い踊り、洞窟の中はまるで真昼のような明るさに包まれるのだった。

 マナは何度も何度も、何かしら言葉に出そうとした。けれどどんな言葉でさえも、光の中にかがやく氷の樹を瞳に映すたびに、吸い込まれるように虚空へと消えていった。この樹を表現する人の言葉を、マナは何一つ持ち合わせてはいなかった。

 ただ、美しい、と。それだけを思ったのだ。

「おねえちゃん、これが精霊様なの……?」

 やはり、マナは何も答えられなかった。

 美しい以外の感情は、そぎ落とされてしまったように思考の中にさえ浮かんでこなかった。喜びも驚きも――嫉妬も増悪も嫌悪も、何一つマナの中には残っていなかった。

 本当に、空っぽだった。空っぽになった心でただ、透明に透き通った光の樹を見つめ続けていた。

 ――その状態でどれだけの時間がたったのかはわからない。気が付けば、マナの頬をひとしずくの水滴が跡を引いていた。

 そして、こぼれ落ちるように出てきた言葉は、


「お願い、リルを、返して……」

  

 なぜその時そう言ったのかはわからない。けれど、空っぽになった頭に最初に浮かんできた言葉がそれだった。

「リルを返して……」

 駄々っ子のように、懇願の言葉をくり返す。静かにたたずむ氷の樹からも、他のどこからも反応なんてなかったけれど、堰を切ったようにあふれる言葉は止まらなかった。

 自分にそんなことを言う資格なんてないのはわかっている。――でも、あなたが雪の精霊だというのなら。まだリルが、あなたの側にいるというのなら。

「違うの、死んでほしかったわけじゃない……。だって私は、リルのこと、憎んでいたわけじゃない……っ」

 するすると感情の糸は解けていく。

 本当はどうなのか、心のどこかでは理解していたと思う。けれどマナは、自分でその思いに蓋をしたのだ。

「わかっていたの……私が憎んでいたのはリルじゃない。リルじゃなくて……」

 マナが本当に憎んでいたのは、決してリルではなかった。ましてや、母でも村人でもなく、他の誰でもなくて、本当に憎んでいたのは、

「自分が一番嫌いだった……」

 ――マナが本当に憎み嫌悪していたのは、マナ自身だ。

 地味な自分の容姿も、ろくに会話にも入れない内気さも、愛想笑いさえできない不器用さも、自分で自分が一番嫌いだった。リルの愛らしさに触れる度に、黒々とした思いを抱いていたのはリルに対してではない。それらはすべて自分自身に向けられたものだった。まるで正反対の自分が疎ましくて、心の底から嫌悪して、憎んだのだ。

 でもマナは、その思いを心の底の底に埋めて、閉じ込めて気が付かないふりをした。

 そうやって自分を守るためについた嘘は、いつからか他人への、リルへの悪意にすり替わっていた。

「嫌ってなんかなかったの、リルのこと、本当は好きだったの……っ」

 愛らしくて美しくて、どこまでも底抜けに明るい少女。自分の殻に閉じこもっていたマナの、そんな壁さえも飛び越えてきてくれた、たった一人。

「可愛いリルが好きだった。明るいリルといるのは楽しかった。話しかけてくれて、本当は嬉しかった……! でも……」

 そんなリルを見る度に、

「こんな自分を受け入れられなかった――」

 向けてくれた好意のかわりにマナがリルに返したのは、黒い黒い、冷たい刃だった。それは取り返しのつかないほどにリルを傷つけて、そして彼女はマナの隣には戻らない。――もう二度と。

「お願い、私はどうなってもいい。だから、リルを返して……お願い……」

 その虚空に消えていった言葉は、果たして誰かに届いたのだろうか。

 それでもマナは、何度も何度も懇願するように返してという言葉を繰り返す。

 そんなマナなど知らぬかのように、揺れる光は何も変わらずに、静かに洞窟中に降り注ぎ続けていた。

 


「おねえちゃん!」

 突然、サシャがマナの服の裾をぎゅっとつかむ。はっと我に返って足下を見下ろすと、サシャが怯えた顔で入り口の方を指さしていた。

 何が言いたいかはすぐにわかった。入り口の向こうから、コツコツと数人の足音が聞こえてくる。

「あー! こんなとこにいた! いましたよ兄貴!」

 現れたのは三人の男たち、その背丈と口調には覚えたがあった。真昼のような明るさの中で、今度こそはっきりと顔立ちも見える。皆どことなく似た黒髪と細い目をした、異国風の顔の男たち――表で出会った、人さらいの男たちだ。

「このガキ、手間かけさせやがって! 散々探したぞ!」

「でもおっかしぃなー。この洞窟、奥は行き止まりだったはずじゃねぇか?」

 マナはサシャの手をぎゅっと握りしめながら、じりじりと後ろに後退する。

 だめだ、今度こそ捕まってしまう。そうしたら、知らない国で売られてしまう。

(私は、別にいいよね)

 自分は売られてしまってもいいか、と思った。もう村にも帰れず、行く当てもない。いっそ違う国に行った方がましかもしれない。

 でも、サシャは――。

「おねえちゃん……」

 不安げに見上げるおさげの少女をみやる。わけもわからずここに連れてこられてしまった、なんの罪もない少女。売られてしまったら、この子の人生はどうなってしまうのだろう。

 また――傷つけるのか。なんの罪もない人間を、マナの弱さで傷つけるのか。

 リルのように。

「サシャ、聞いて」

 サシャを後ろ手に隠しながら押さえた声で話しかける。

 それはだめだと、心の底から思った。こんな胸の熱さは、いったいいつぶりだっただろうか。

「合図したら、洞窟の奥まで真っ直ぐ走るのよ。さっき見てた分には、下の方からも光が差し込んでるから、きっと何本か外に繋がる通路が伸びてると思う」

「うん、おねえちゃんは……?」

「私はいいの。サシャは捕まったらだめよ」

 マナの声色に押されるように、サシャがこくりとうなずいた。

 そしてマナは、すぅっと大きく息を吸い込む。

「あっ! さっきの狼!!」

 思いっきり叫びながら、男たちの後ろの入り口の方を指さした。ぎょっとして男たちが振り返るが早いか、サシャを後ろに向かって押し出す。男たちはまだ入り口の向こうをきょろきょろしていたが、何もいないことに気付いてこちらを振り向こうとする。そこに、飛びつくようにしてマナは男たちの服をつかんでいた。

「狼こわい! 助けて!」

 予想しない反応だったのか思わず男たちがひるんだところに、マナは目の前の一番大きな男の股間を思いっきり蹴り上げた。

「がぁっ!」

「おい、このガキ!」

「見ろ、もう一人が逃げてんぞ!」

 さすがにこれ以上はごまかせず、中肉中背の男がサシャの方へと走り始める。マナはとっさに足下の石を拾い上げ、その頭部目がけて思いっきり放り投げた。

「いたっ!」

「こいつ!」

 目の前のひょろ長い男が掴みかかってくる。時間稼ぎをすることしか考えていないマナは、その腰にひたすらしがみついて男の足を止めようとする。しかし、髪の毛をきつく引っ張られてひるんだところに、一瞬で地面に組み伏せられていた。

 衝撃に意識が遠のきかける。少し離れたところで、サシャを追いかけていった男が再び走りだしているのが見える。どうしよう、このままではじきに追いついてしまう。

 また何もできない。また――、


 ザ――――っ


 轟音のような強さで風が通り抜けていった。その、すさまじい速さでマナの前を駆け抜けていった白い影がなんなのか、とっさには理解できなかった。気が付けば、サシャを追いかけていた中肉中背の男は勢いよく跳ね飛ばされて地面に伸びており、その白い影はゆっくりとマナたちの方を向く。

「ひっ!」

 背後で男が悲鳴をあげ、マナを拘束していた手がゆるんだ。マナはもはや呆然としていて少しも動けなかった。

 金色の鋭い眼光を光らせてマナたちの方を見るそれは、今までとうてい見たこともない、人の背丈ほどもある巨大な白狼だったのだ。

「おい! こっちもだ!」

 しばらく動けなくなっていたはずの背の高い男が、情けない悲鳴をあげる。見ると男の片足に、マナを洞窟まで案内してきた小さな狼が食らいついていた。

 ひょろ長い男がマナを離して縦穴の入り口まで走り始める。その背に、巨大な白い塊が襲いかかるのは一瞬だった。白狼の巨体に突き飛ばされ、男が入り口の外へと消えていく。そして、そこから動き出す気配は少しもなかった。

「や、やめろ……!」

 背の高い男が食いついている狼を振り払って逃げようとしているが、小さな白狼はてこでも男の足を離そうとしない。そこに、うなり声とともに突風を従えて巨狼が牙をむく。男の姿が宙に跳ね飛ばされ、地面に倒れ伏すまではあまりに一瞬のことだった。

 男たちはもう誰一人として、ぴくりとも動こうとはしなかった。

 しん、と押し戻されてきた静寂の中、マナは言葉さえ失って呆然と座り込んでいた。そんな動けないマナの方に、巨大な狼の黄金の目と、小さな狼の夜空色の瞳が、静かに注がれる。男たちに向けられた獰猛なうなり声とは対照的に、それは一切の敵意もない、穏やかな瞳だった。

 ――やがて、小さな狼が、大きな狼の方を何かを問うように仰ぎ見る。それに、黄金の瞳を持つ狼は小さく鳴いて、そして、まるでうなずいたように見えた。


 タッタッタッ


 静かな空間に、小さな狼の軽い足音が響く。マナに向かって小走りで近づいてきた夜空色の目の小さな姿に、マナは自然と両手を伸ばしていた。

「リル……? リルなのね……!?」

 ぎゅっと全身で抱きしめたその感触は、リルの長い髪のようにふわふわで、そしてあたたかなぬくもりが伝わってくる。そのやわらかさをしがみつくように抱きしめるマナに、狼もまた鼻筋をこすりつけてくるのがわかった。

 いつの間にか戻ってきていたサシャも、「おねえちゃん!」と泣きべそ顔で飛びついてくる。その二人の姿をマナはきつくきつく抱きしめた。

 そして、そんな全員の様子を見届けたかのように、黄金の瞳の狼は静かにマナたちに背を向けた。

「まっ……」

 待って、とは言えなかった。助けてくれたのか、と聞くこともできなかった。人の声をかけることがはばかられるほど、その白銀に輝く背は堂々としていて、あまりに悠然としていたのだ。

 そして狼とサシャを抱きしめたままじっと見守るマナの前で、巨大な狼は静かに巨大樹の側へとたどり着く。振り返って、黄金の瞳がもう一度だけマナの方を見たような気がした。

 淡い光に包まれた、透明に澄んだ大木の下で、狼の毛並みもまた銀色の光の粉を散らす。それは本当に、あまりに美しい光景だった。

「おねえちゃん、木が……」

 サシャが氷の巨大樹の方を指さす。マナは小さくうなずいていた。

 ぴしっぴしっと、樹の枝がしなる音が幾つもこだまする。まるで生き物のように枝々が跳躍するのに合わせて、よりいっそう密度を増して光の粒子が乱舞する。重なるように、木の(うろ)から鳴る低く澄んだ歌がマナの鼓膜を強く打った。

 気が付けば、洞窟全体に眩しい光が満ちていて、まるで意思があるかのような動きでマナたちの周りを光の渦が覆おうとしていた。

 光の向こうに最後に見えたのは、静かな洞窟の中に悠然とたたずむ巨大樹と白狼の姿だった。

 そして、その姿も洞窟の景色もすべて、光の中に吸い込まれていったのだった。

 



 はっと目が覚めた時には、マナは冷たい洞窟の床に頬を付けて倒れ伏していた。飛び起きて辺りを見回すと、少し行っただけのところに、うっすらと明るみを帯びてきた夜明け前の雪山の風景が見える。

 はっとして振り返ると、そこには洞窟の横穴がしばらく続いて――そして、少しも行かないところで、行き止まりになっていた。人さらいの男たちの姿も、あの氷の巨大樹も白狼の姿も、もうどこにも見えなかった。

「サシャ……? しっかりしてサシャ!」

 すぐ横で同じように寝ていた幼い少女を揺り動かす。すると、ゆっくりと瞼が開けられて、眠そうな両目が現れた。単に寝ていただけのようで、マナがほっと胸をなで下ろしたその時だった。

「う……ん」

 聞こえてきた可愛い鈴のような声は少し離れたところから。マナが驚いて振り向いた先では、銀色がかった長い金髪の少女が、身を起こそうととしている最中だった。

「リ、ル……?」

 呆然とつぶやいた声に反応して、少女の目がぱちりとマナの方に向けられる。晴れた日の夜空の色のような、とても綺麗な瞳だった。本当に、綺麗な色だった。

「あれ、マナ? ここどこ? なんで私ここにいるの?」

 明るく元気な、状況からするととぼけた言葉に、マナの両肩の力がどっと抜ける。そのまま堰を切ったように両目から涙があふれ出すのを、もうどうやっても止められそうになかった。

「え、マナ!? 何で泣いてるの? 大丈夫?」

 慌ててリルがマナの側まで寄ってくる。そうして彼女がしゃがみ込むが早いか、マナはその姿に両手を伸ばして勢いよく飛びついていた。

「リル……っ、良かった。ごめんね、ごめんね……っ」

「えぇ、マナ本当にどうしたの? 何で謝るの?」

 慌てふためくリルにしがみついて、マナは子どものように泣きじゃくる。最初はそれをなだめていたリルだったが、気付けば彼女まで泣きべそ顔になっていて、「よくわからないけど私まで泣きたくなってきた」なんてこれまたとぼけたことを言う。

 その愛らしい姿に、マナはますます強く抱きついては泣くのだった。



 マナとリル、二人して幼い子どものようにわんわん泣いた。するといつの間にかサシャまでつられて泣き始め、気付けば三人とも疲れて身を寄せ合うようにして眠っていた。

 目が覚めてから、三人で手を取り合って村に帰った。驚く村人たちに、マナは山での出来事を、少し作り話も交えながらではあったが、ゆっくりと話した。サシャは人さらいに捕まっていたこと、洞窟の中でリルを見つけたこと――これについては、リルも人さらいに捕まっていたということにした――、運良く逃げられて三人で帰ってきたこと。

 最初は誰もが不審な目を向けてくるばかりだったが、リルも一緒になって一生懸命話すうちに、いつの間にか信じる者の方が多くなっていた。

 母にはごめんなさいと何度も謝られた。何を今更という気持ちがないわけではなかったが、良くも悪くも普通の女であった母を、少なくともマナは憎むことはできなかった。

 氷の樹と巨大な白狼のことは、結局誰にも一言も言わなかった。

 あの美しさは人が触れてはいけないものだと、そんな思いがマナの中にこびり付いて離れなかったのだ。人の伝説と、不思議な力と、白い狼に守られた美しい樹は、きっとあの洞窟で永遠にそこに在り続けるのだと――それはもはや、確信にも近い思いだった。それはひょっとしたら、本当に伝説の中の雪の精霊だったのかもしれないし、もしかすると〝山の意思〟のような、何か大きな力だったのかもしれない。

 もちろんリルには何度も聞いてみたのだが、リルの行方不明だった七日間の記憶は、きれいに彼女の中から抜け落ちていた。リルが覚えていたのは、雪の精霊の歌が聞こえていたような気がすること、そんな中ずっとマナの心配をしていたような気がすること、何度かマナのつらそうな顔を見たような気がすること、たったそれだけだった。

 だから結局、樹の正体はおろか、狼は何物だったのか、小さな狼には本当にリルの魂が宿っていたのか、だとすればどうして戻ってくることができたのか、マナには何もわからなかった。けれど、マナの黒い心でさえも拭い去っていった光の樹の美しさと、そしてリルを好きだと、帰ってきてほしいと叫んだ思いだけは、確かなもののように思われた。――そしてそれは、きっと雪の精霊にも届いたのだと信じている。それだけで、十分だった。

 村人は、前よりも幾分態度がやわらかくなった。謝ってくれる人もいたが、いまだに辛辣な台詞を吐く人もまだいる。けれど、もう以前のように黒々とした憎しみを抱くことはなかった。誰かを疎ましく思う心、自分を守るために誰かを憎み貶める心――それはマナの中にもあったものだ。醜く汚い自分も、けれどリルを好きだと叫ぶ自分も、確かに自分自身だった。


「――ねえ、リル。どうして私と一緒にいるの?」


 そしてマナは、幾度目かになる問いを再び口にする。マナの隣で、虚を突かれたように、リルの夜空色の瞳がくりっと丸くなる。

「言ったでしょ、マナが好きだって。だってね……」

 リルはやはり気恥ずかしそうだったけれど、今度はごまかそうとはしなかった。

「マナは、誰に対しても、おべっかを使ったり、ごまかしたり、変な気を使ったりしない。だからマナだけは、本当の私を見ていてくれるような気がしてた。……マナの前では『いい子』でいなくてもよくて、それが楽だった」

 そしてリルは、困ったような、少し自嘲するような、そんな複雑な色の見え隠れする顔で笑った。――誰からも愛される幸せな少女だと思っていた彼女だって、こんな顔をすることもあるのだ。きっとマナは、リルが思うほど、少しも本質なんて見えてはいなかった。

「だから私、マナが好きよ」

 そんな自分の幼さが、きっとたくさんの人を傷つけた。罪は、親友の言うことも、自分の思いでさえも信じられなかった、マナの弱さの中にも確かにあったのだ。

 呪いが人を傷つけるもので、誰かを傷つけるのが人の心だというならば、真実にマナは呪いの娘だった。

「リル、聞いて」

 そしてマナは、一つの決心をしていた。

 まだリルにしか言っていないことだけれども、雪が解けて街への街道が開けば、村を出て街の学校に入るつもりだった。村から逃げるわけではない。もう二度と自分の醜い思いで誰かを傷つけたりなどしないように、呪いの子になどならないように、強くなりたいと思ったのだ。

 そうやって離ればなれになっても、切れない絆があると信じたい。――この思いを、手放さずにさえいれば。

「私も、リルが好きよ」

 静かに告げた言葉に、リルが嬉しそうにふわりと笑う。

 まだ薄い雪に覆われた二人の足元で、早春の小さな花がそっとつぼみをつけていた。


 そして、この最北の村にも春がやってくる。

 雪解けは、もうすぐそこだった。


(終)

二話くらいまで鬱々としておりますが、最後は一応ハッピーエンドのつもりです。

書きませんでしたが、多分男たちは山の全然違う場所に放り出されていることと思います。

命まではとられないでしょうが、醜い者には厳しい雪の精霊なので、何かしら不幸な出来事がこの先続くかもしれませんね。


よろしければ、何でもご意見いただければと思います。

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