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光の樹氷  作者: 井槻世菜
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二話

 その夜、予想通り天気は大荒れとなった。轟々と荒れ狂う風の音に、マナは母と二人、暖炉の前で息を潜めていた。母は床に敷いた布の上に黙々と薬草を仕分けており、マナは石の肌寒い床の上に座り込んでその様子に黙って視線を傾けていた。

 マナはその中に、山から自分が採ってきた薬草も混ざっていたことを見逃さなかった。机の上に置きざりにした網かごの存在に、母は気付いたのだ。それでも何も言ってこなかった母に抱いた感情は、自分でも驚くほど冷淡なものだった。


 ぽーっ――……


 こんな嵐の中でも、雪の精霊の歌う奇妙に澄んだ音色は、何よりも強くマナの耳に届く。地を揺らすように重く、けれど硝子のように透き通った音色が、冷え切った空気を震わせて鼓膜を打つ。――この地に住む者が恐れ続ける、リルを連れ去った者の歌声。

(耳に痛い。黙って……)

 聴きたくない。マナは拒絶するように、部屋着の赤い巻きスカートごと、膝を抱きかかえて顔を埋める。

 家の外で、嵐の音とは別に人の声らしきものが聞こえた気がしたのは、丁度その時だった。


「開けろ! タリアの娘のマナに用がある!」


 野太い男の声。それとほぼ同時に、扉を叩く乱暴な音がした。自分の名を呼ばれ、マナはびくりと顔をあげる。

「開けろ! 留守なはずはないぞ!」

 なおも追及は止まない。問いかけているというよりは、命令に近い攻撃的な口調。鼓動が早鐘を打ち始める、決して良い案件ではないだろう。

 思わず母を見たマナの顔は、恐らく怯えを含んでいた。目の合った母の瞳の奥で、一瞬だけ躊躇の色が揺れた――ような気がした。

 視線を外して母が立ち上がる。扉に近づいて掛金を外すなり、扉は外から押し開けられた。

「タリアの娘、いるな?」

 猛烈な冷気が開いた扉から吹き込んできて、暖炉の火は一瞬で掻き消えた。身を震わせながら見上げた入口には、体格の良い赤毛の男が立っている。大通りで最初に「呪いの子」と叫んだのと同じ男だと、マナはすぐに気付いてしまった。

 射るような視線にとらえられて、マナはおずおずと立ち上がる。赤毛の男の後ろには、見覚えのある男女が五人は立っていた。

「タリアの娘だな」

 含みのある言い方。知らないはずはないのに、なぜマナ自身の名前を言わないのか。

 ぎゅっと両手を握りしめ、にらむように見上げたマナに男が口を開く。

「大工のトーダの娘のサシャが、昼間に出かけたきり帰ってこない」

「え――?」

 思いもかけない言葉に、戸惑った声が漏れた。サシャは今年九歳になったばかりの可愛らしい女の子だ。栗色のおさげをゆらゆらと遊ばせながら、仕事に向かうトーダの後ろをひょこひょこついて回っていたのを思い出す。

 昼間からいないなんて――まさか、この吹雪の中を?

「皆で村中を探したが、村の中にはいなかった。山から帰ってこれなくなった可能性がある」

 山という言葉にどきりとする。嫌な、予感がした。

「ひょっとしたらもう雪の精霊にさらわれてしまったかもしれない。しかし、奥地まで行っていなければぎりぎりで間に合うかもしれない。だが、探しに行った者までさらわれてしまったら意味がない」

 男の瞳はひどく冷たい。まるで、家畜を見るような目。

「お前が適任だ――呪われた娘」

 時間が止まった気がした。射すくめられて息ができない。

「……こんな吹雪の中、無事に帰ってこれるわけない」

 やっとのことで絞り出した反論は、誰の心も動かさなかった。助けを求めて思わず見やった母は、けれどマナの前でそっと視線を外した。

 ――すっと感情が消えていくのが、奇妙なほどによくわかった。吸い込んだ息の冷たさとともに、心が静かに凍っていく。打ち付ける雪の冷たさでさえも、だんだん良く分からなくなる。

 だから、誰かがマナの腕をつかんで強引に外へ引きずり出した時も、もう抗う気さえ起きなかった。降り積もった雪の上に投げ出された素足の冷たさも何もかも、どこか遠くの出来事のような気がしていた。

 そしてようやく、今さらのようにマナは悟る。味方なんて誰一人いやしない。誰も自分を助けてなんかくれない。

 なんてくだらなくて醜い人たち。なんて醜い世界。

 全部全部、凍って消えてしまえばいいのに。全部、なくなってしまえばいいのに。

 


 顔に吹き付ける風が痛い。その強さは、山に立ち入ろうとする者を全力で拒否するかのようで、目の前に巨大な風の壁があるようにさえ思われた。やっとの思いで一歩前進するたびに、膝まで雪の深さに埋まる。冷え切った足は、徐々に感覚も麻痺しつつあった。

 山の麓のゆるやかな斜面に差し掛かってから、まだいくらも登っていないはずなのに、もう何時間も過ぎてしまったような感覚に襲われる。実際は今どのあたりにいるのだろう。まったく利かない視界の中で、方向感覚さえとっくに手放していた。

(無理だ、こんな中山を登るなんて)

 かろうじて身支度だけは許されたが、獣皮の厚い服も帽子も耳当ても靴も、とうていこの寒さを防ぎえない。なによりこんな暴風の中、身長も伸び切っていない十四歳の子どもにどうしろというのだろう。

 できるわけがない。マナ一人で吹雪の中山を登るなんて。ましてや、小さな幼子を探すなんて。――多分、それはあの場の全員がわかっていたことだ。

(誰も、そんなこと期待してない)

 答えなんて最初から知っている。誰もマナにサシャを見つけられるなんて思っていない。マナが無事に帰ってくることさえ、少しだって期待していない。

 ――これは間引きだ。村から呪いの子を追放するための。そして、呪いの子が村に存在した事実さえ消すための。

 こうしてマナが帰ってこなかったら、きっとあの人たちは言うのだ。『あの子は二度目は帰ってこなかった。きっと改心して美しい心を取り戻したから、今度は雪の精霊に連れ去られたのだ』と。

 消えた呪いは誰にも不幸をもたらさない。もう何の影にも怯えることはない。みんなの幸せのために、あの人たちはマナ一人を切り捨てることを選んだ。

 だったらどうして、

「さっさと殺してくれないのよ……!」

「――望み通りにしてやろうか」

(な――!?)

 後ろからした声と気配に、マナは反射的に右へ体を傾ける。マナの体をわずかにかすめて雪ごと地面に突き刺さったそれを見て、凍え切ったはずの体に言いようのない寒気が走った。

(くわ)……?」

「なんで避ける、さっさと殺してくれと言ったくせに」

 冷たい声がした瞬間、蹴り飛ばされるような衝撃があり、マナの小さな体は冷たい雪の上に転がっていた。その上にも容赦なく吹き付ける吹雪の中、必死で振り返った白い世界に、ひどく目立つ赤毛の姿があった。

「何、を」

 男はにこりとも笑わない能面のような顔で、ただただマナを見下ろしていた。

「吹雪の中を這いずり回るのはつらいだろう。ここで眠っていれば、知らないうちにすべてが終わっている」

 つらいだろうと言いつつ、この男は少しもマナのことなんて考えていない。この男がみているのはマナではなくて、村に災いをもたらす〝呪いの娘〟だった。――ああ、最初からこうするつもりだったのだ。吹雪の日にマナを村から消して、呪いも何もかも山に(うず)めてしまうつもりだったのだ。

 そして、すべては雪の白さに消えていく。

「さあ、観念しな」

 男が再び鍬に手をかける。それを雪の地面から抜き取った音は、あまりに軽い響きだった。

 振り上げられた先端を頭上に見上げながら、確かに男の言うとおり、このまま眠ってしまえば全部終わるのかもしれないと思う。

 けれど、

「……っ!」

「おい!」

 どうしてか、体は反射的に鍬をよけて冷たい地面に転がる。そのまま必死で目の前の厚い雪をかきわけて、一寸先さえ見えない嵐の中に飛び込んでいく。

「はあっ、はあ……っ」

 這うようにして進む足は鉛のように重い。それでも、逃げずにはいられなかった。

 さっさと殺してくれと自分でも言ったし、終わってしまえば楽なのにとも思った。けれど、それでも最後に勝ったのは村人たちへの憎悪と嫌悪だった。こんな時ですら、そうだった。

 ――そしてあの時ですら、そうだったのだ。

「きゃ……っ」

 一歩前の雪の上を踏み抜いた瞬間、底の抜けそうな感触がしてとっさに後ろに下がる。目を凝らすと、雪の斜面はまさに目前で途切れていた。

「崖……!」

 振り返ると、男はすぐ後ろを追ってきている。周囲を見渡して思いついた方に飛び込んだが、結局すぐに崖に阻まれて進めなくなる。そしてとうとう、分厚い雪に足をとられて倒れ込んでしまった。

「無駄だ、大人の足から逃げられるものか」

 すぐに男の声が頭上に追いつく。這いつくばったマナを見て、初めてその能面のような顔がくすりと歪められた。冷たい、体に触れる雪よりも冷たい、嘲笑だった。

「みじめだな。リルとは全然違う」

「……」

「本当にみじめだ。親友だったのに、リルは誰からも愛されて、対してお前は……」

「違うわ」

 低く押し殺したマナの声。その強さに男が思わず瞠目する。

「違う、親友じゃない」

「何……?」

「親友なんかじゃなかった。だって私は、」

 うわごとのように否定の言葉が口をついた。繰り返しながら、マナはじりじりと後ろに下がる。逃げ道はもう完全に後がなかった。少しでも視線をずらせば、そこには底さえ見えぬ真っ白な谷が口を開けて待っている。

(同じだ)

 なんて既視感。この吹雪も、この崖も、すべてがあの日と同じ。あの日――リルとマナが、掟を破って吹雪の雪山に雪の精霊を探しに来たあの時と。

(同じように、私も終わるのか)

 するすると、解けるように記憶が遡っていく。寒さでぼうっとする頭も相まって、もう何が現実で何が幻なのかもわからなくなっていく。

 マナの中に、否が応でも焼き付いて離れない光景がある。あの日、あの夜、やはりこんな崖の真上だった。視界の利かない中、崖の存在がわからず、気付けばリルが足を滑らせていた。思わずリルに向かって崖から身を乗り出したマナの前で、白銀のような金髪の少女がゆっくりと落ちていく。〝マナ!〟と差し出される手と、そして恐怖で歪んだ夜空色の瞳。そして、その手をマナは――

「私はリルなんか、大っ嫌いだったのよ!!」

 ――マナはその手を取らなかった。 

 マナの目の前でリルは谷底に消えていき、そして二度と戻らなかった。

 リルがいなくなったのは雪の精霊にさらわれたからなどではない。マナが――リルを見殺しにしたからだ。

「嫌いだったのよ……」

 ずっと嫌いだった。ずっと憎らしかった。愛らしい少女、愛らしい容姿で才能にあふれた、皆から愛される夜空の星のような少女。

 例えるならその色は染み一つない白だった。リル以外とはろくに会話もできず、変わり者と後ろ指をさされる自分とは、あまりに違う無垢な白。――まるで、大嫌いなこの雪と同じ色。

 そのすべてが、憎らしくて仕方なかった。

「だから……っ」

 あの時、手を取らなければと思った。落ちてしまう、と思った。それでも最後に勝ったのは、リルを憎む黒々とした感情だった。

 多分、マナは本当に呪いの子だ。いつだって誰かを憎んで、周りに怨嗟をまき散らしては、黒く黒く染めていく。これが呪いでなくてなんなのだろう。

「黙れ、終わりだ〝呪いの娘〟」

 そうして、男が再び鍬を振り上げたその瞬間だった。マナの足下で、重さに耐えきれなくなった雪が軽い音たてて崩れ落ちる。ふわっとした感覚とともにマナの小さな体が宙に舞ったのはほんの一瞬のことだった。

 すぐに重い重力が体全体にのしかかり、男の姿は一瞬で視界から消え去った。耳元で空気を切り裂く風鳴りが痛い。風の寒さはもう麻痺してわからない。

 思わず伸ばした右手は、当然のように誰にも受け取ってはもらえなかった。

 そうして視界も意識も何もかも、すべてが真っ白に塗りつぶされていったのだった。

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