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光の樹氷  作者: 井槻世菜
1/3

一話

かなり季節外れですみません。よろしくお願いします。


 世界が白く染まる吹雪の日には、山から美しい歌声が響いてくる。

 けれど、決してその魔性に惹かれてはいけない――。


『マナ! こんな吹雪の日に窓の外ばかり見るんじゃないよ!』

 突然祖母から発せられた鋭い声に、マナと呼ばれた幼い少女はびくりと肩を震わせた。のぞき込んでいた窓枠から体を離して振り返ると、暖炉の淡い炎に照らされた薄暗い部屋の中に、肘掛け椅子に座った祖母の厳しい表情が浮かんでいた。

『だめだよ。こっちにおいで、マナ』

 優しい祖母のいつになく厳しい様子に、マナは素直に祖母の手まねきに従った。暖炉の側に腰かけた彼女の膝下まで行くと、ようやく祖母は、ふんわりとしたいつもの笑みを見せた。

 外では真っ白な雪たちが、荒れ狂わんばかりの勢いで、窓から見える視界をすべて白く閉ざそうとしてた。その荒々しい音に混ざって、ぽーっという低めの音がマナの耳に響いてくる。

 ――笛のようにも歌のようにも聞こえる、不思議に澄んだ音だった。誰かの声のようにも聞こえるそれは、なぜだか嵐の音にも決してかき消されずにマナの鼓膜を打つのだった。

『どうして外を見たらいけないの? ずっと誰かの歌が聞こえているの。誰が歌っているの?』

 好奇心のままに尋ねたマナだったが、祖母はたしなめるように、しっと人差し指を口元にあてる。

『そんなこと、大きな声でお言いでないよ。あれは、北の山にすむ雪の精霊が歌う歌。吹雪の日に雪の精霊に見つかると、連れ去られて二度と帰ってこられないよ』

 だから、絶対に吹雪の日に外に出てはいけないし、山を見てもいけないよ。そう神妙に言った祖母に、マナは気圧されて無意識のうちにうなずいていた。

 けれど、その後で、どうしてだめなんだろうと心の中で首をかしげる。だって、精霊の歌はこんなにも綺麗で不思議な音色なのに。雪は、こんなにも白くて美しいのに。

(こんなこと言ったら、おばあちゃんはまた怒る)

 優しい祖母を怒らせたくなくて、マナは無言のうちに祖母の骨ばった膝によじ登る。ケープに頬をくっつけると、少しほこりっぽい香りがして、ひどく安心して目を閉じた。

 遠くから聞こえる不思議な歌声は、いつの間にかまどろみの中に溶けていった。


 雪の白さを綺麗と無邪気に思っていた、まだ少しの汚れも知らぬ、幼い冬の夜のことだった。



 真冬にしては珍しく、からりと晴れた昼下がりだった。木々の合間から明るく差し込む日差しは、冬中かけて深く降り積もった山の雪を、久方ぶりに解かした。解けて氷のようになった雪の表面で暖かな光は反射され、無数の粒子を散らしてはきらめいていた。

 けれどそんな美しい光景でさえも、マナの心には届かない。じっと前をにらみつけるように一心不乱に歩を進めていく足元で、ざくざくと、獣靴の鳴らす音だけが冬の澄み切った空気を裂いた。

「きゃっ」

 思わず悲鳴が漏れた。山の急な斜面の途中で、あっと思った次の瞬間、足を滑らせて膝をついていた。雪の厚さのおかげで痛みはなかったけれど、膝から伝わってくる雪の冷たさに思わず顔をしかめる。だがそれもわずかな間だけで、すぐに立ち上がってはまるで何事もなかったかのように黙々と歩を進め始める。吐き出した白い息は、日の光の中にじんわりとかき消えていった。

 ざくざくと、再び自分の靴音だけが響き始める。それ以外は何の音もしない冬の世界は静かすぎて、何も考えないようにしていたはずの頭に、思わず余計な思考が紛れ込む。

(誰も、いない)

 じわり、と、まるで侵食するように、他所へ追いやっていたはずの孤独感が押し戻されてくる。とっさに「何を今さら」と振り切るようにつぶやいていた。

 ……本当に今さらだ。誰もいないのなんて当たり前。春や夏ならいざ知らず、この季節に、山に人がいるわけがないのだ。だって、


『冬に山に入ると、雪の精霊にさらわれてしまうよ』


 マナの耳の奥で、穏やかな祖母の声が再生される。物心ついた頃から何度も何度も祖母に聞かされた、この山のおとぎ話。マナの住む最北の辺境の村に伝わる一つの伝説――村の北にそびえたつ高い山の奥深くには、とても美しい雪の精霊が棲んでいるのだという。


『北の山の奥には雪の精霊がいるんだよ。吹雪の日に、時々笛のような不思議な音が聞こえることがあるだろう? あれは、雪の精霊が歌っている歌なんだ。雪の精霊は、姿かたちもそれはそれは美しくて、見る者を虜にしてしまうのだそうだよ』


 口癖のようにいつもそう言っていた祖母はもう、マナの記憶の中にしかいない。けれど、その物語は今でもマナの中に色濃く焼き付いて、決して消えないのだった。

 

『美しい雪の精霊は自身も美しいものが大好きで、美しいものを見つけると自分の住処に持ち帰ってしまうんだ。もし、美しい心を持つ人間が雪の精霊に出会ってしまうと、雪の精霊に連れ去られて二度と戻ってこれない。そして、美しい白い狼の姿に変えて、自分の側に置いておくのだよ』


 記憶の中の祖母は、いつもここで少し怖い顔をしてマナを見る。幼いマナは真剣な顔で彼女の話に耳を傾けている。


『逆に、雪の精霊は醜い物や汚い物は大嫌いさ。醜い心をもつ者に出会うと、連れ去らないかわりに呪いをかけてしまう。その呪いは、かけられた本人だけでなく周りの者たちにも災いをもたらすことになるんだよ――』


(……でも、もう私には、関係ない)

 雪の精霊に連れ去られてしまう。そうでなければ呪いをかけられてしまう。だから皆雪の精霊に出会うことを恐れて、冬は天気の良い日ですら山の裾野の辺りまでしか立ち入ろうとしない。

 でも、そんなことはもうマナには関係ない――結局、祖母の警告も無駄となってしまった。

「あった……薬草」

 頼りなげに視線を泳がせていた後、視界の中にそれを認めたマナは、ぽつりとつぶやきを漏らした。立ち止まったマナの数歩先で、たった今まで登り続けてきた山の急斜面は終わりをつげ、平坦な雪原へと姿を変えていた。まだ頂上にはほど遠く、雪原を抜ければまた斜面が姿を現すのだけれど、今はその先に用はない。

 雪原を少し進んだ先で、雪帽子をかぶった背の低い草が群生している場所があった。どうしてかわざわざ冬を選んで姿を現すこの草は、煎じて飲めば良い薬となる。

(こんな上に登ってこないと生えていないなんて)

 例年は山の麓の方でも当たり前に見られる草だった。だから、わざわざそのために奥地まで立ち入らずとも、何とかやってこられたのだ。

 それが、夏の異常気象のせいか、なぜか今年は麓にはほとんど生息しておらず、当然のようにすぐに必要量をまかなえなくなった。だから、

(私が、ここにいる)

 マナは真っさらな雪原に足跡をつけて薬草の場所へと近づいていく。そして背負っていたカゴを無造作に地面へと降ろし、手近の薬草を摘み取っては袋の中に差し込み始めた。

 手に取った薬草に目をやり、じっと見つめていると、ふいに心の隅がざわつく感覚がした。じわり、と思考の端から黒々とした感情が侵食し始める。

 こんなもの、見つからなければ良かったのに。どこを探しても見つからなくて、みんな困ってしまえばいいんだ。

(くだらない――)

 無意識のうちに握りしめてしまった手の中で、薬草がくしゃりと潰れた音がした。

 薬草は必要。でも雪の精霊は恐ろしい。薬草の生えている場所まで登ることはできない。そんな村人たちは、山へ入る役目を当然のようにマナへと押しつけた。村の役に立とうなんてつもりは欠片もないマナだったけれど、結局こうして山を登ってきたのは、皆の冷たい視線に押されてしまったのと、そして何でもいいから村を離れたかったからだ。

 でもこうして薬草を摘み終わってしまえば、もうマナは村へ戻らなければならない。山を下りずにいればじきに日が暮れる。暗闇の支配する雪山は、わずか十四ばかりの少女が一人で生き延びられる世界では、決してない。

 結局戻るしかない。どこにも逃げられやしない。

 そうため息をついたマナが、無言のままきびすを返そうとした、その時だった。


 さらっ――……。


「え――?」

 やわらかな雪の音。鼓膜をくすぐっていったそれに、マナははっとして顔を上げていた。驚いたように辺りを見回して――そして気付いた。雪原の中央に、何かがいるということに。

 目を凝らすが、いったい何がいるのかまでは雪の白さに紛れてしまってよくわからない。何だろうという好奇心に誘われて、マナの足は自然に前へと進み出ていた。

(何、あれ……)

 白い雪原の中を、白い影が横切っていく。おぼろげな姿をじっと見つめるうちに、次第に輪郭がはっきりしてくる。そしてマナは小さく悲鳴を上げていた。

 踏み出そうとしていた足が固まる。血の気がさっと引いた。

「お、狼……!」

 白狼。そうつぶやいた声には、明らかな震えが混じった。雪原の中、マナの視線の先に立つそれは、マナが今まで見たこともないほど見事な、白い毛並みを持つ狼だったのだ。

 どうしてこんな昼間から、そんな声が心の中で響く。正面きって狼と対面したのなんて初めてだ。それも、畏怖さえ抱かせるほどに美しい白銀の狼なんて。

 動けないマナに、やがて白い獣はゆっくりと顔を向ける。瞬間――青い二つの瞳が、真っ直ぐにマナを見すえたような気がした。

「いや……っ」

 小さく叫んで、必死の思いで硬直している両膝をほどく。そしてマナは、身を翻して脇目もふらずに駆けだしていた。



「はっ、はっ……」

 マナは半ば滑り落ちるようにして山を下っていく。風鳴とともに頬を打つ冷たさが痛い。

 走りすぎて心臓は早鐘を打ち続けている。足はもはや鉛のようにも感じられたが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。耳をそばだてると、自分の足音と吐息以外に聞こえる音がもう一つ。

(ついてきてる……!)

 雪を踏み抜く軽い足音が、後ろから次第に近づいてくる。焦りと恐怖はじりじりとマナを追いつめていく。だってどれだけ本気で走ったところで、人の身で狼に競り勝てるとは思えなかった。でも、それではいつか――、

「きゃあっ!」

 悲鳴が漏れ出た次の瞬間、マナの視界が大きく揺れる。足下がもたついていたマナは、厚く降り積もった雪に足をとられ、あっという間に前のめりに倒れ込んでいた。

 慌てて手を突いたまさにその時、すぐ後ろで雪を踏む音がして心臓が跳ね上がる。そこで振り返る勇気は、マナにはなかった。

 思わずきつく目を閉じる。もう駄目かと、一瞬本気で覚悟した。

(……あれ……?)

 けれど、どれだけたっても静かなままだった。気配は依然として真後ろに感じられたが、それ以上のことは何も起こらなかった。

 それでも動くことはできずに硬直していると、後ろでさくりと足音がして身を強ばらせる。しかし小さな足音は何事もなくマナの真横を通り過ぎて行き、そして目を開けられずにいるマナの前で、さくっと軽い音を鳴らせて止まったのだ。

 瞬間、一気に静寂が押し戻されてきた。マナの耳に届くのは、時折雪が木々から滑り落ちる音だけ。そのあまりの静けさに、耐えきれなくなったマナはそろそろと顔を上げたのだった。

「……っ!」

 一瞬呼吸を忘れた。今度こそ本当に間違いなく、二つの瞳と目が合った。

 白い獣は、座り込んだままのマナの目と鼻の先で、静かにマナを見つめてたたずんでいた。雪に埋もれるようにして地面に突き立てられた、その鋭い爪が光る。いますぐにでもマナの息の根を止められる距離に、それはいたのだ。

 ――けれど何とも奇妙なことに、襲ってくる様子は全く見られなかった。白狼の瞳には少しの敵意もなく、ただただ静かに凪いで、マナの姿を二つの珠へと映し込む。その中では、肩上で切りそろえた短い髪の少女が、怯えた様子でこちらを見つめていた。少女の冴えない黒色の目と髪に対し、狼の瞳は息をのむほど美しい、清純な藍の色だった。

 青と言うには深く、黒と言うには優しい、どこかで見たような色――そう、これは夜空の色だとマナは思う。

(同じだ)

 すぐにそう思った。抱いたのは強烈な既視感だった。マナは知っているのだ、こうしてじっと見つめてくる夜空の瞳を。だってこの目はあの子と同じだ、同じなんだ。

「まさか、リル、なの……?」

 その名を口にするのは、随分と久しぶりに思われた。そしてその瞬間、マナの胸は黒々とした疼きを覚える。恐怖や驚きや色々なものがない交ぜになった、痛みにも似た感覚だった。


 ――山で真っ白な狼に出会ったなら、決して関わってはならない。

 なぜならそれは、雪の精霊に魅入られたかつての人間たちの姿。

 だから絶対に関わってはいけないよ――。


(でも、まさか……)

 脳裏に祖母の声が響く。でもまさかそんな、そんなはずない、そんなはずはないんだ。

(違う、きっと違う)

 マナの頭の中では、そんな言葉がぐるぐると回り続けていた。あまりに澄んだ瞳に射すくめられて足が立たない。それなのに、その色から――リルと同じ夜空色の瞳から、目を離すこともできない。

「リル、なの……?」

 掠れた声でもう一度問いかけた。狼から反応は、なかった。

 リル。昔からいつもマナと一緒にいた、同い年の可愛らしい少女。彼女は七日前の吹雪の夜、山に出かけたきり帰ってこなかった。――だから村人たちは言う。リルは、雪の精霊に連れて行かれてしまったのだと。

 そして今、その彼女と同じ瞳の狼が目の前にいる。伝説の中の、雪の精霊のお付きの狼と同じ、一点の汚れもない白銀の毛並みをたずさえて。

「リルなわけない……」

 押し殺した声でつぶやいた。自分の中で渦巻く感情が、徐々に抑えきれない熱を持ち始めるのがわかった。

「ありえない。だってリルが、私の前に出てくるわけないじゃない……!」

 声を荒げるマナの様子とは対照的に、白銀の毛並みの中で、静かに澄んだ青がマナを見つめ続けている。それがますます、マナの心をざわつかせた。

「違う。違う……!」

 胸の奥に鈍痛が響く。黒々とした思いが頭をもたげる。

 その時狼が、ふいに一歩前へと踏み出した。その、かさりと鳴った雪の音で、とっさにマナの体の硬直はとける。身を震わせて反射的に後ろへ下がるなり、マナは身を翻して立ち上がっていた。

 もうマナには、それ以上狼の瞳を見つめ続けることはできなかった。脇目もふらず、必死でその場を後にする。そして、ただただ無心で山の斜面を駆け下りていった。冷たい風が耳元を切り裂いていく音にかき消えてしまって、狼がついてきているのかどうかはわからない。けれどマナは決して振り返ることなく走り続け、息が切れても立ち止まろうとしなかった。

 頭の中では、同じ言葉を何度も何度も呪文のように繰り返し続けていた。

 リルなわけがない。リルがマナの前に現れるはずがない。

 だってマナは、醜い呪いの子だから。

 

 

『こんにちは、何をしているの?』

 ややセピア色がかった記憶の中で、鈴のような綺麗な声が降り注いだ。木陰に座り込んで一人で本を読んでいたマナは、驚いてさっと顔を上げる。夢中になりすぎて、人が近づいていたことに全然気付いていなかった。

『別に、ただ本を……』

『何の本?』

 口ごもったマナに、目の前の少女は屈託なく笑ってなおも問いかけてくる。その笑顔の美しさに、思わず見とれてマナは言葉を失った。

 本当に美しい少女だった――銀色のようにも見える金髪に、二つの宝石のような藍色の瞳。まるで、夜空のような色だとマナは思う。

 いつまでも答えないマナに、少女は不思議そうに小首を傾げたかと思うと、いきなりマナの横にしゃがみこんできた。そして気付けばマナの膝の上の本をぐいっとのぞき込んでいる。なんて遠慮のない子なんだろうと、ますますマナは返す言葉が見つからない。

『トウゲンソウ、ユキノクサ……これなあに?』

 夜空色の瞳がマナを見上げてくりっと動いた。吸い込まれそうな色の二つの宝石をぼうっと眺めていたマナは、慌てて口を開く。

『や、薬草の本。私の家が薬草屋で……』

『へえーじゃあこれは何の薬草?』

 本に絵付きで書き並べられた薬草のうちの一つを、少女が指し示した。

『それはトウゲンソウって言って、春に水辺に生えるの。すり潰して薬にすると、風邪薬になるのよ』

『へえー! すごい、すごいのねマナ!』

 少女の顔がぱっと輝いた。彼女が笑うと、まるで夜空に星が輝くかのようだった。

『え、なんで私の名前……』

『他のみんなに聞いたの。あそこでいつも本を読んでいる子は誰? って。とても熱心に読んでいるから、ずっと気になっていたの』

 意外な言葉に、思わずマナは目を見開いた。真っ黒な髪に真っ黒な目、全く目立たない地味な容姿に加え、人の輪に入りたがらず本ばかり読んでいたマナを、他の皆は根暗だの地味だのと馬鹿にするばかりだったのに。

『ずっと話してみたかったの。私の名前は――』

『リルでしょう。知ってる』

 知らない者などいないだろう。美しくて気立てが良くて、誰からも愛される、まるで空の一等星のような少女。――ああ、なんて自分とは正反対なんだろう。

『知ってたの? わあ嬉しい!』

 けれどリルは、とても嬉しそうに――本当に嬉しそうに、一点の傷もない笑みを振りまく。

『そうよ、私リルっていうの。友達になろうよ、マナ!』


 

「はぁ……はぁ……」

 狼から逃げて脇目も降らずに走り続け、村の風景が遠目に見え始めたところでようやくマナは立ち止った。背後の気配は――もう感じられなかった。

(いない……)

 おそるおそる振り返っても、広がっているのは山の麓のなだらかな斜面と、まばらに生える雪帽子をかぶった木々だけだった。動く物の姿は一つもない、真っ白な光景だった。

 無意識に、ふっと白いため息が漏れる。それが安堵からくるものなのか、マナにはわからなかった。

 ついさっきまでカラリと晴れていたはずの空は、気付けばいつのまにかどんより薄暗い灰色に変わっていた。そのうち雪が降りだしそうな、暗鬱な濁った色だった。心なしか、空気もよりいっそう肌寒い。山の澄んだ冷たさとは違う、まとわりついてくるような重苦しい寒々しさだった。

(帰りたくない……でも、ならどこへ)

 なるべく何も考えないように、なるべく何も見ないように。そうやってマナはただただ足を急がせる。柵の切れ目から村の中に入り、石造りの家々の間の狭い路地を通り抜け、人目を避けた場所ばかりを選んで自分の家へと急いだ。一度だけ大通りを横切らねばならないけれど、さっと通り抜けてしまえばほら誰にも会わずとも――


「……おい、呪いの子がいるぞ!」


 ぴきっと、空気が凍る音がするようだった。――いや、最初からマナを囲む空気は冷たく重く硬い。それに、たった今まで気付かないようにしていただけだ。

 よせばいいのに、マナはとっさに声につられて振り返ってしまう。その先にあったのは、体格の良い赤毛の男の、ひどく冷徹な眼差しだった。

(だめだ、動けなくなる)

 男の声に同調して、大通りの人々の目線が一斉にこちらを向くのがわかった。厚着に身を埋めて、足早に通り抜けていく人たち。家の石扉や窓を開けて顔を出してくる人たち。その誰もが一様にマナを見て、そしてその瞳は気味が悪いほどに全員同じ色を帯びていた。純粋な悪意、敵意を向けるべき相手に対しての、紛れもない嫌悪の感情だった。それらに射すくめられて、マナは息もできずに立ちすくむ。

 皆、変わってしまった。以前は本ばかり読んでいたマナを変わり者扱いはすれど、呆れたような目線しか向けてこなかった。それがいつしか射るような悪意の色へと変わったのだ。――そう、リルがいなくなったあの日から。

「ねえ見て、呪いの子よ」

「気味が悪い、何でこんなところにいるの」

 ざわざわ、ざわざわと、辺りに黒々とした影が落ち始める。マナ一人に向けられた、ろくに話したこともない人たちからの敵意と侮蔑の視線は、ますますマナの足を動けなくしていく。吐き気がしそうだ、そのまとわりつくような重苦しさと凍てつく寒さに。

「どっか行けよ、皆にまで呪いを移す気か?」

「そうよ、さっさと行けよ」

 次第に攻撃の色を帯び始めた敵意が、鋭くマナを射抜いていく。対抗するようにじっと辺りをにらみつけたけれど、塊となった悪意はそれくらいで薄まらない。

 そして、ひときわ大きな男の声がした。

「出て行けよ――この村から出て行けよ呪いの子!!」

 ――ようやく、固まっていた足に力が入った。はじかれるように身をひるがえし、目の前の路地へと夢中で飛び込む。その背後から、馬鹿にしたような嘲笑がふってきたけれど、振り切るように走り続けた。

「くだらない……くだらないくだらないっ」

 唇をぐっと噛み締めて、呪文のように繰り返す。マナの中にあったのは悲しみや孤独感ではなく、皆がマナに向けてくるのと同じくらいの、ひょっとしたらそれ以上の、強い嫌悪と憎しみだった。

 皆で同じ顔をして。皆で同じように怖がって恐れて嫌悪して、なんて愚かなんだろう、なんてくだらないんだろう。なんて、醜いんだろう。

(消えてしまえばいいのに。みんなみんな、消えてしまえばいいのに――!)



 『友達になろう』とリルに初めて声をかけられたのは、いったい何年前の話だっただろうか。それ以来、なんとなくマナとリルは一緒にいるようになった。

 主には、マナがいつもの木陰で本を読んでいるところにリルが押しかけてきて、好き勝手におしゃべりしては去っていく。そのうち、マナもつられたように色んな話をするようになった。

 本ばかり読んでいたおかげで知識だけは多かったから、話し始めてみれば意外と話題は尽きなかった。見たこともない異国の街の話、海とかいう大きな水たまり、はたまた物語の中の王女様と王子様の悲しい恋。そんなマナが話す本の中の話を、リルは夜空色の瞳をきらきらさせて聞いていた。

 誰からも愛されていたリルが、なぜマナを選んだのかはわからない。どうせ珍しい話に飽きたら他の場所に行くのだろうと、最初は適当に相手をしていただけだったのだが、なぜだか一向にそんな気配は見られなかった。

 不釣り合いな自覚はあったし、「おかしな二人組」と村人からも首をかしげられていたのは知っている。でもリルは全くマナから離れなかったし、マナもそれをわざわざ拒否しようとは思えなかった。最初のうちは、可愛らしいリルのくるくる変わる表情を見ているのは嫌ではなかった。

 どうして自分なんかといるのかと、面と向かって聞いてみたことがある。

『何で、いつも私と一緒にいるの? 嫌じゃないの?』

『どうしてそんなこと聞くの? 私、マナが好きよ』

『だってみんな、私のこと変だとか、暗いとか、地味だって言うのに』

 うーん、とリルは困ったような顔になる。

『そんなことない。マナは素敵よ、こんなに色々なことを知ってるじゃない。それに――』

 ふとリルが口ごもった。いつもはきはき物を言うリルにしては、珍しいことだった。

 しかしすぐに、その愛らしい顔に悪戯めいた笑みが乗る。

『うーん、やっぱりこれは恥ずかしいから秘密。……ともかく私、マナが好きよ』

 マナが好き。リルにそう言われる度に、マナの心はざわつきを覚えた。こんな自分のどこがいいのだと、反発さえ感じることもあった。

 けれど、そんな自分の思いに名前を付けることが怖くて、いつもマナは心の隅をじわじわ侵食し始める感情に蓋をする。だから、『私もリルが好きだよ』と、その一言はいつまでたっても返せないままだった。

 一緒にいるのは嫌じゃない。嫌じゃないはずなのに、どうしても好きだとその一言が言えない――その理由さえも、なんとなく考えてはいけないもののような気がしていた。



「……ただいま」

 家の扉を開けて、薄暗い部屋へと足を踏み入れる。母の姿はまだない、この時間なら表の店に出ているはずだった。

 いなくて良かったと、とっさにそう思った。こんな汗だくで息を切らしているところなんて、見られたら困らせるだけだとわかっている。

 さすがに母だけは表立ってマナを責めるようなことはしない。けれど、村人皆に疎まれているマナの存在を、持て余しているのは確かだった。

「ふう……」

 手に持った薬草入りの網かごを、部屋に一つだけの木机の上にのせる。そして寒々しい部屋を通り抜け、二階の自分の寝室へと向かった。コツリと音をたてて踏み入れた小さな部屋の先は、やはり冷気で満ちていた。

「寒い……」

 火のない部屋の温度は外気とさほど変わらない。マナはベッドの上に腰かけ、膝を抱えてその身をぎゅっと丸め込んだ。ふと目をやった窓の外では、灰色の空から真っ白な切片が舞い降り始めていた。

 ――ふと、窓の外をのぞき込むリルの姿が脳裏に浮かんだ。それは目の前の部屋の光景と重なって、まるで幻視したような感覚を受ける。ここにいないはずのリルは、『綺麗ね』と星が輝くような笑顔を見せた。

 

『ねえマナ、雪、綺麗ね』

『そう? 私はあんまり好きじゃないかな……』

『えー、とっても綺麗じゃない。こんなに白くて美しくて――』


(リルは、雪が好きだった……)

 雪が降り始めると、いつも嬉しそうに空を見ていた。そんなリルを見るたびに、やっぱりマナの心はざわついた。綺麗じゃないとは思わない、でもマナは雪を好きとは言えなかった。

 そんなリルだから――雪を綺麗と言って、美しいと言ったリルだから、いなくなってしまったんだろうか。

(体の芯まで凍りそう……)

 寒さの増していく部屋の中、暖炉に火をくべることさえせずに、マナはぎゅっと膝を抱えなおす。

 外の白い雪は次第に激しさを増しており、荒々しい風の音に紛れて、どこか遠くからぽーっと笛のような低い音が耳に届く。――雪の精霊の歌だ。雪の精霊が、美しいものを求めて歌う魔性の歌だ。


 少しも収まる気配のない雪は、徐々に窓の外の視界を、世界を白く白く埋め尽くしていく。

 今夜は、吹雪になるだろうか。



 リルがとんでもないことを言い出したのは、いつも通りの晴れた冬の朝だった。

 マナの部屋で、窓から山並みを眺めていたリルは、その台詞を事も無げに言ってのけた。

『ねえマナ、私、雪の精霊に会ってみたいなあ』

『は……!?』

 いったい何てことを言うんだと、マナは仰天してしまった。

『なんてこと言うのリル!』

 不意打ちすぎて、何と言ったら良いかわからなかった。長い付き合いになって気付いたことだが、リルは時々突飛すぎることを言い出すきらいがあった。

『だって、雪ってこんなに綺麗なんだもの。雪の精霊はきっともっと綺麗だと思うわ。私、見てみたいなあ』

『でも会ったらさらわれてしまうって』

 実際、何人かいなくなってしまう者は毎年いた。姿を消すのは恐れを知らない子どもに多かったが、皆雪の精霊のせいだと言ってますます山を恐れた。リルだってそれを知らないはずはないのに。

 そんなマナの気も知らず、リルはかわいらしく小首をかしげる。

『そんなに綺麗なら、きっと良い精霊だと思うわ。お願いしたら、きっと大丈夫なんじゃないかしら』

『リル……』

 だめだ。こういう時のリルは妙に頑固で、全然人の話を聞いてくれない。他の人の前ではそうでもないのに、二人きりの時はなぜだか時々、リルは猛烈に駄々っ子になる。

 そうして、きらきら輝く目でリルは言うのだ。

『ね、だから探しに行ってみようよ』


 結局、どうしてもと言い張るリルをマナは止められず、他の村人へは内緒で、二人して雪山へと出かけていった。もちろんマナは雪の精霊に会えるなんて夢にも思っておらず、最初のうちは天気も良かったから、リルの気が済んでから帰ってこればいいと思っていた。

 けれど、途中から急激に天候が悪化し始め、最終的に前も見えないほどの猛吹雪となった。お互いの姿も見えづらい中、マナはリルとはぐれてしまい、やっとのことで見つけた洞窟で一夜を明かした。

 ――そして、翌朝村に帰って来たのは、マナ一人だけだった。

 それからだ、村の皆の目つきが変わったは。猛吹雪の中、リルは決して帰ってはこなかった。なぜならあの子の心は綺麗だから、見た目ばかりでなく心も美しかったから、雪の精霊に気に入られて連れ去られてしまったんだ。

 でもマナは帰ってきた。たった一人、返ってきてしまった。

 マナは雪の精霊に連れ去られず、呪いをかけられた心の醜い子。

 他の皆にまで不幸を呼ぶ、呪いの子――。


                        ◇

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