始まった高校生活
一話目の分際でやたら長いです。
先に謝罪させてもらいます
人間の体の60パーセントは水である。
このことからも分かるように、人間にとって水分とは非常に重要な物だ。それだと言うのに、体育の教科担当はそれを知らないらしい。
春先だから、気温はそれほど高くないが、流石に30分に渡る持久走を始めの授業からやらせるのは頭がおかしいとしか言いようが無い。
救いと言えば、この高校が給食制ではない事と、体育の授業が4時限目だったことだ。おかげで、クラスの全員は荒れた息を整えるのに、貴重な昼休みの大半を費やそうとしていた。
だが、僕はそうもいかない。学校が自宅から遠いこともあって、僕は寮で生活をしている。朝、早起きをして弁当を作るなどという早起きと調理という2つのスキルを併せ持つ者にしか出来ない芸当を僕が出来るわけも無く、当然この日も購買へ行かないといけない。
僕は額の汗を、服の袖で拭き教室を出る。
正直言って食欲は無い。この上なく無い。そんな修行僧がうらやむような状態の胃袋であっても、奴は食べ物を望む。
とりあえず、腹にさえ入ればどんなに少量でも、どんな食べ物でもいいといった状況だったので、僕はちょうど目に入った『練乳イチゴプリン』に手を伸ばした。
疲労した体に、糖分とクエン酸という阿吽の如き援軍は相当嬉しい。プリンという比較的食べやすい形状にくわえて値段も安価で、飲み物を買っても300円に満たない。
僕は『練乳イチゴプリン』を手に取った。ついさっきまで、冷蔵庫に入れられていたのか、手に取ったそいつはひんやりと冷たかった。近くにあったコーヒー牛乳を一緒に買い、僕は教室へと戻った。
幸いなことに、教室は南棟1階にある。階段を登らなくて済んだ事に感謝し、僕は自分の席に着く。
大きく『イチゴ風味』と書かれている隣に、赤くて黒い斑点のある血濡にしか見えない牛の描かれた蓋を外し、紙パックのコーヒー牛乳にストローを挿した。
紙スプーンで、練乳滴る赤いプリンを掬い上げ、口に運ぼうとした所で……誰かに手首をつかまれた。
顔を上げると、そこには一人の女子が立っていた。白いショートの髪に褐色の肌、美しいでも可愛いでもなく、カッコいいという印象を受けるのは恐らく身長のせいもあるだろう。女子にしては相当高い。170はあるだろうか……。
この学校は、学年色が決められており、今年の一年生の学年色は青。二年はオレンジ。三年は黒だ。
「何の真似だ……」
僕は柄にも無く、声音を低くして言う。
その女子は、手首を掴んだまま、顔を寄せてきた。少し低く屈んだおかげで胸の辺りにある校章の色が見えた。青だ。
「男子がイチゴのプリンなんて可愛い物食べてちゃあれだろ? 私がもらってやるよ」
「生憎と僕は昔から男女における印象の違いをそう重要視していない。だからこれはあげない」
「いや、そうもいかないでだろ? 高校生にもなったのだから少しは意識した方がいい……」
優しく言ってくる彼女の顔は、その声音とは対照的で獲物を見つけた野生生物……いや、狩りに連続で失敗し、死にそうになっているところのちょうど子供のトムソンガゼルが現れた時の虎のような顔をしている。
「いいや、遠慮する。疲れた体にクエン酸と糖分を与えることは、地球温暖化が深刻化している時に、車の排気ガスを減らすぐらいに重要なことだ……」
いきなり理科か現代社会のどちらの分野に属するか分からない内容のたとえを出され、動揺しているように見える。
当然だ。僕が彼女の立場だったらまず間違いなく動揺する。
「そろそろ手を離してくれないか……トムソンガゼ……練乳イチゴプリンが食べられない」
だが、彼女は手を離さない。強情な奴め!
「な、名前を聞いてなかったな!」
意味が分からない。本能寺の変で、織田を殺したのが実は光秀ではなく光彦だったと聞かされた時の感情はこれに近いだろう。
「名乗れ!」
もはや、僕の理解可能な域を超えている。いや、むしろ超えているというよりは、理解可能区域を包もうとしていると言った方が正しいかもしれない。
「人に名を聞くときは、まず自分から名乗るのが礼儀だ小娘……」
声音を可能な限り低くし、小娘(同学年)に古来より培われて来た最低限のマナーを享受してやる。
本人も、自分が何を言っているのか分からなくなってきているらしい。目が泳いでいる。うぅ……となんと表現したものか迷う変な声……そう! 変な声だ! 変な声を上げて、自己紹介をはじめた。
「私の名前は凪木紗弥……クラスは三組で、入ろうと思っている部活は……未定」
未定だったらその自己紹介いらなくね? と思ったが、事が面倒な方向に向かいそうなので、言うのをやめておいた。
「さあ、名乗れ!」
掃除機……もとい、正直トムソン……練乳イチゴプリンをさっさと食べてしまいたい僕としては、この凪木という小娘(同学年)には早く、しかも迅速に何処かへ行って欲しかった。
「僕は宮森十……クラスは二組で出席番号は28番……希望部活は……未定」
「未定だったらその紹介いらないだろ」
……少しは、相手の心境を察して欲しい。タイツで戦っている悪の秘密結社の隊員をことごとくなぎ倒すバイク乗りのヒーローの様に、凪木は僕が触れなかった場所を蹴飛ばした。
あのバイク乗りは不思議である。強力なバイクと言う破壊兵器があるにも関わらず素手で戦うのだから。それより不思議なのは悪の秘密結社の方だ。総督は普通(?)の格好をしているのに、隊員は目だしの帽子に全身タイツなのだ。どう考えたっておかしい。これは最早パワーハラスメントの一種ではないだろうか。
「自己紹介は済んだんだから、そろそろ手を離してくれない? トムソ……練乳イチゴプリンを食べたいのだけど……」
ついにいうことが無くなったらしい。トムソーヤーを前にした虎は、低く唸ると、トムソーヤーを諦めて……ん? トムソーヤー? いや、トムソンガゼルだよ。何を言っているんだ僕は……。
トムソンガゼルを前にした虎は低く唸ると、トムソンガゼルを諦め、僕の手を離した。
「どうもありがとう」
僕は何事も無かったかのように、凪木に礼を言い、トムソーヤ……練乳イチゴプリンを食べ始めた。
練乳が非常に濃厚で、美味しいのだが……くどい。くどい。くどい。くどすぎる! 何だこのくどさは! アーノルドさんと、シルヴェスターさんが、映画に一緒に出てくるくらいに濃い。
「美味いか?」
凪木の質問に答えることもせずに、シルヴェスター・シュワルツェネッガーを、コーヒー牛乳で流し込んだ。
コーヒー牛乳に含まれる、コーヒーの香りと牛乳の濃厚さが相まってさらにくどい。最早これでは、アーノルドさんとスタローンさんの同時出演映画の吹き替えを、アナゴさんとスネークさんが行なうくらいに濃い。タイトルはどうするか……。
「凪木……」
「何だ? いきなり……」
「シルヴェスターさんとシュワルツェネッガーさんの同時出演作品……しかも吹き替えは、アナゴさんとスネークさんが行なう映画のタイトルはどんなのがいい?」
……自殺を考えたのはこの時が初めてだ。なに、出会って間もない女子にそんな筋肉と汗と血と機械とアナゴとダンボールの塊のような映画のタイトルを訊いているんだ! 僕は!
「え……っと……」
ほら! 動揺しているじゃないか! こんな筋肉と汗と血と機械とアナゴとダンボールの塊のような映画のタイトルを考えろなんて言われたらこうなるのが普――
「『ランターミギアナゴ〜ロッキーの逆襲〜』……とかか?」
「いや待て……ここは『ラッキープレデギア〜アナゴの謎〜』なんかはどうだろう……」
「ちょっと待て『プレギア〜ロッキーVSランボーVSアナゴ〜』も言い案だと思うぞ……」
「シルヴェスターさん同士が戦っているぞ? ここは……」
カオス談議は延々と続き、結局これだけで昼休みが終ってしまい、近々決着をつけようという形で和解になった。
学校に入って最初のテスト……それがこの高校……井ノ継高校では『実力査定テスト』と言う形で入学直後に行なわれる。
先生曰く、そんなに難しいテストではないとの話だが……大嘘つきめ。この5時限目は英語のテストを行なっていたのだが、出てくる問題がどう考えてもおかしい。
リスニング問題のスピードが日本人高校生が聞き取れるスピードではない。How Machが、ハマチにしか聞こえない始末だ。何でもリスニング問題の放送をしている先生が、全米一の早口王で、どうしてもその癖が出てしまうのだそうだ。
そんな奴を放送問題の担当に配置しているだけで、問題があると思うのだが、この先生が本当にしょっちゅう噛むのね……。
『アイアム』っていう短い単語なのにこの先生にかかると『アア……アイ……アイア、アイアミウ……アイアム』ってこんな感じに仕上がる。早口な上噛みまくるリスニングだけで英語のテストの時間を大半使いやがって、その後の一年生は、皆して何かに取り憑かれた様にシャーペンを振るっていた。
「宮森、英語のテストはどうだった?」
僕の席は廊下側で、窓越しに話しかける事が可能な場所に居る。凪木もその窓から話しかけてきた。
「どうもこうもないよ……リスニングが酷すぎる……」
シャーペンの過剰使用で痛くなった手首を揉みながら、僕は席を立った。立つ時に脛を机にぶつけた。痛かった。
「どこへ行く?」
「水分の補給だよ……階段の近くにある給水機にね……」
ゆっくりと歩く僕の隣を、同じくゆっくりと凪木が歩く。
「そうか……確かにリスニングは……なぁ?」
手首を親指で押さえている様子を見ると、彼女もハンドデストロイヤーリスニングテストの被害を受けたようだ。
「おい! 何言ってんだよ!」
不意に階段の方から声が聞こえてきた。給水機で水を飲んでいる時に急に聞こえてきたので、水が喉に詰まりそうになった。
「なんだろう……」
「口元を拭うことを進言する」
口元を袖で拭いながら、僕は階段の方を見た。同じ階には声の主を見つけられなかったので、僕は階段の下――踊り場――を覗く。
正直、声の主が上の階か下の階のどっちに居るか分からなかったが、偶然覗いた下の階に声の主が居たのはラッキーだった。
そこに居たのは、短髪の男と金の肩まである長髪の男。恐らく先程声を張り上げていたのは短髪の男だろう。金髪の男は、眼を瞑ったまま、小さな声で何かを言っている。
「お前なぁ!」
短髪の男が掴みかかる。金髪の男は抵抗すらせずに、何かを言っている。掴みかかった男が首の辺りを掴むのに随分と腕を高く上げているので金髪の男の身長の高さがよく分かった。
「おい、あの金髪……大丈夫なのか……?」
凪木の言葉に、僕は答えない。疑問系の文章にはなっているが、恐らく彼女は僕には言っていないだろうと思ったからだ。
「まぁいい……いずれ公開する破目になるぞ……?」
短髪の男は、それだけ言い残し踊り場から姿を消した。
金髪の男は垂れた目を悲しそうに細め、その場に立ったまま動かない。僕と凪木が、その光景から目を離したのは、授業の始まる直前だった。
下校……全ての学生が学校から解放される瞬間である。だが、今日は部活動の見学が可能だ。それだからか、面白そうな部活が無いか……とか、カッコいいまたは可愛い先輩はいないか……とか、俺の屍を超えて行け……とか、部活動見学に行く生徒の喧騒で学校中が賑わっている。
無論、僕も部活には入るつもりなのだが、どういうわけかこの井ノ継高校には部活動説明会が無い。おかげでどんな部活があるかすら分からない……といった状況であるため、面白そうな部活または同好会の勧誘があれば入ってしまおう……的心境である。
恐らく同じ心境の人間がもう一人いる……僕の隣に。
「ねえ、宮森君は部活決まった?」
と君付けで呼ばれて、「いいや、まだ」と答えたのが運の尽きだ。凪木はそれを好都合と思ったらしい。僕と一緒に行動し、同じ部活に入ろうと思っているようだ。
「ところで、『アナゴギアソリッド〜T-850VS陰陽師〜』ってのはどうだ?」
最早シルヴェスターさんがいない。彼なくして、どうやってT-850に勝とうと言うのか。
「『アナゴの28日戦争2〜蛇とマッチョの恐怖〜』の方がいい……」
「何で1が無いのに勝手に2出してんだ? 第一、アナゴ戦争って何だよ!」
カオス談議再来……僕の頭にそんな言葉が浮かんだ。
「ちょっといいかい……?」
いきなり聞こえてきた男の声に、2人が同時に振り向く。そこに居たのは、先程短髪の男と揉めていた金髪の男。
男は、この学校にある最大の桜の木……通称『ジャイアント桜木』の真下で横になっている。校章の色は黒、つまり先輩だ。
金髪の先輩がゆっくりと立ち上がる。近くで見るとやはりでかい。一九〇程あるように見える。
「入る部活迷ってんだったら、俺のところに来てくれねえかなぁ?」
「来るって……部活の事ですか?」
隣では、凪木がシルヴェスターさんとツェネッガーさんとアナゴさんとスネークさんをどう組み合わせた物か、手で何かを描くように思考している。
「文学研究部……つっても、活動は『書』の類なら、何でもオッケーの陽気な部活さ……」
確かに楽しそうな部活だ。もともと、シナリオを考えるのが好きで、昔からその類の事にはちょくちょく手を出していた。
「いいですね……楽しそうな部活だ」
「そういってくれると嬉しいね」
「『ゴリランボギアANAGO』!」
僕と先輩は突如聞こえてきた不穏な声の方を見た。凪木が何かをやり遂げたと言った顔でガッツポーズをしている。
僕と先輩が、一瞬の沈黙の後僕と先輩は『無視』という手段をとった。
「それで? どうする? 誘っといてあれだが、活動の様子も見ないで決めさせる訳にも行かないからな……」
「よーっし! それじゃあ部活動見学だな!」
凪木が張り切っている理由が分からないが、とりあえずその意見には賛成だ。『ジャイアント桜木』を後にし、僕ら一同は先輩の所属する部活……文学研究部の部室へと向かった。
「そういえば、先輩の名前を聞いてませんでしたね」
先輩は、ん? とこっちに顔だけ向ける。が、名前は教えてもらえなかった。何でも「毎年この時期になると、新入生とそういった情報を交換するイベントの様な物がある」らしい。
部室は学校の領地には無く、部費で借りている学校のすぐ近くのアパートを一部屋借りて、そこを部室にしているのだそうだ。確かに、高校の教室の一つを借りるより、こっちの方が静かなところで活動できる。同じアパートに暮らしている人もいるが、部の2、3年生はその人たちとも既に馴染みだ。
さて……と先輩は部室の前で一息つき、ドアノブを持ってこちらを向いた。
「ようこそ……俺たちの部活……文学研究部へ……」
先輩は、口元に微笑みを浮かべて扉を開いた。
凪木は感嘆の声を上げ、僕は恥ずかしながらその部室に興奮を覚えた。そこにあったのは、昔ゲームや漫画、アニメで見た秘密基地にそっくりの部屋だった。
「凄い……」
それしか言えなかった。アパート自体ぼろくは無いが、中に入るとまるで別世界だ。
床には赤い絨毯が敷かれ、その上には丸い机を中心に、革製の黒いソファが部屋の南側に配置されている。
北側……玄関の方には、冷蔵庫や電子レンジなどの家庭用電化製品があり……極めつけは、部屋にある窓を背に配置されている机と、椅子だ。豪華な装飾が施されたそれは、ドラマなんかで見る社長室のそれを髣髴とさせる。
「そういってもらえると嬉しいね……だが、見た目ほど金はかかってない」
「え?」
「高校生の部室だぜ? 粗大ゴミの業者に知り合いが居てね……その人にバイトの給料の代わりに気に入った家具をもらってきて修理してね……そんなのが増えてこんなわけさ」
僕は言われてもう一度室内を見渡した。確かに、どの家具も多少の傷はついている物の、どれもゴミだったとは思えない。
「あ、部長! いらしてたんですか?」
「よう、新入生を連れてきた」
部室の奥の部屋から眼鏡の女性が現れた。校章は青。この奥は資料室と倉庫……それからお手洗いと風呂場があると金髪の先輩は言っていた。
黒い、腰より肩よりすこし低い位置までの長が特徴的な女性を含め、身長の順位としては、金髪の先輩、僕、凪木、眼鏡の先輩……の順に低くなる。
眼鏡の先輩は、僕と凪木を見るとゆっくりと口を開いた。
「ようこそ、文学研究部へ」
金髪の先輩と同じ事を言い、眼鏡の先輩は僕らに微笑みかけた。
「先輩。そろそろ名前くらいは教えてくれてもいいじゃないですか?」
「うーん……そうしてあげたいんだけどね……」
凪木の言葉に眼鏡の先輩が申し訳なさそうに言う。
「僕達二人の他に、あと一人二年生の女の子がいてね……その子が来ないと――」
「少し遅れました……すみません……」
眼鏡の先輩が、そこまで言いかけたときに玄関が開き、件の女生徒が入ってきた。凪木がカッコいいといった印象で、眼鏡の先輩は美しいという言葉がぴったり当てはまる。
そして、最後に入ってきたこの女生徒は、身長の低さも相まって可愛いといった印象を受ける。
凪木と同じ銀色の髪だが、何かおどおどしている所を見ると、うっすらと笑えてきてしまうから不思議だ。
「お、全員揃ったみたいだね。それじゃあ、俺から自己紹介させてもらおうか?」
金髪の先輩が椅子に座り、背もたれに背を預けて続ける。
「俺の名前は、佐々(さざ)峰龍哉。一応この文学研究部の部長だ。葉烏高校で俺の名前は言い意味ではあまり聞かないと思うが、まあよろしくな」
最後の言い意味で名前を聞かないと言ったのがどうにも気になったが、まあ気にしなくていいだろう……いいのか?
「次は僕だね……文学研究部副部長の御崎涼子っていいます。属性は多分ツッコミ属性の方だと――」
「はい、次!」
「ちょっと部長!」
あ〜……この人間違いなくボケ属性だ……。しかもかなり天然だ……。
「ど、どうも……華岡川香と……いいます……よ、よろしく御願いします……」
何だろう……嫌な予感がする……。なんていうか……疲れそうっていうか……。この嫌な予感を例えるならあれだ。ロールプレイングゲーム中盤で、滅茶苦茶育てていたキャラクターがパーティから永続的に外れるのをほのめかすイベントを見たときのあれに近い。
「次は進入部員の自己紹介〜……まずは君から頼むよ」
龍哉先輩が、僕を指差す。僕っすか!?
「えーっと……」
こういう時、主にどんなことを話せばいいのか分からない。あれか? 趣味とか、好きな食べ物とか、好きなアーノルド様の出演作品とか、ターミネーターの好きな型とかか?
そうだ、そうに違いない! だとしたら、後は言う順序だ。
僕は緻密に頭の中で文章の構成を練り、言葉を紡ぎ出した。
「僕の名前は宮森十と言います。宮殿の宮に森林の森で宮森、漢数字の十と書いて十です。好きな物はコーヒー牛乳で、趣味は映画鑑賞と読書及び執筆。好きなツェネッガー知事の出演作品はプレデターで、ターミネーターの好きな型はT-1000!」
……言い切った……。僕の頭の中を達成感が蹂躙した。何故だろう。龍哉先輩が苦笑していて、川香先輩と涼子先輩が若干引いているように見える。見えるだけだ。そうだ。そうに違いない!
「じゃ、じゃあ最後は君だね」
凪木に視線が集中し、彼女が少し困ったような表情を浮かべる。
何を迷う。自己紹介なんて、趣味とか、好きな食べ物とか、好きなシュワちゃんの出演作品とか、ターミネーターの好きな型を言えば言いだけだろう。早く言え!
「私は……」
そうだ、早く言うんだ。趣味とか、好きな食べ物とか、好きな――以下略を。
「私の名前は凪木紗弥。友達からは、紗弥とか凪木って呼ばれます。で、出来ればちゃんをつけて呼んでくれると……嬉しいです……」
凪木ちゃん……? ない。ないない。ないないないないないないない! まかり違っても、こいつをちゃんで呼ぶなんてありえない。
「何か今物凄く礼儀を知らない事を考えていないか?」
「そんなことは無い」
あっさりと言ってやると、凪木は僕を睨みつけてきた。何だというのだ! 全く!
「部室の見学でもしてくるといい。俺たちは、いつもの活動に取り掛かるから」
龍哉先輩は、そういうとノートパソコンを開き、コンセントにプラグを繋げた。す、凄い! ノートパソコンを起動させてからの龍哉先輩の手の動きは信じられないほどの機敏だ。何一つ無駄の無いその動作は、母を髣髴とさせた。
母は、仕事柄パソコンをいじる事が多く、よく変なサイトへハッキングし、そこを壊滅的に荒らしていた。ん? 考えてみたらそれってヤバイ事なんじゃないか? いや、僕は母を信じる。母は僕に言ったんだ。「世の中には消えた方が良いものが多すぎる……そうは思わない?」と……。
「奥の部屋に過去の作品がいくつか置いてある。文学研究部として作った物もあるが、俺が個人の趣味で作った映像作品もある。学校の文化祭なんかのイベント事の映像の作成は大体俺に回ってくる。本当はパソコン部の連中に頼めばいいのにな……。気になるタイトルがあったら言いな。見せてやるよ」
龍哉先輩が、その垂れた目をうっすらと微笑ませながら言う。
涼子先輩と川香先輩は、二人でホワイトボードを引いてきて、なにやら会議じみた事を始めた。
「どうする? 見に行くか?」
「他にやる事も無いしね……僕は行かせてもらうよ」
「じゃあ、私も行くか……」
じゃあって事は僕が行くから行くって言ってくれたかと思い、少し嬉しかったが恐らく凪木はそこまで考えていないだろうと察し、少しがっかりだ。
奥へと続く扉を開け、照明を点ける。蛍光灯の明かりが暗い部屋を明るく照らす。これでもかというほど短い廊下――せいぜい3メートル程――を抜け、僕と凪木は倉庫へ入った。
「この部室に来てから驚かされてばかりだ……」
「うん、僕も同じだよ……さっきから驚いてばかりだ……」
倉庫と呼ばれる部屋には、いくつもの棚が置かれていて、そこにはびっしりとファイルや手作りの本、ディスクが置かれていた。
それの全てが五十音順に並べられ、汚れどころか埃もほとんど付着していない管理の徹底様だ。
しかも、もっと凄いのが、それらの全てが作成者の名前が書かれたステッカーが貼られているところだ。
ちなみに、『卒業生』と書かれた棚にも大量に作品が置かれ、『在校生』の棚にある作品はほとんどが『佐々峰龍哉』と書かれている。
「何か気になった物でもあったかい?」
部屋の中の棚をひとしきり見終わった辺りで、龍哉先輩が様子を見に来た。
「いえ……一つ見るだけでも骨が折れそうなので……それより凄い量ですね……」
龍哉先輩が笑う。そのまま部屋の中に入り、一枚のディスクを取り出した。
「こいつが俺の傑作の一つだ。去年の文化祭で発表したんだがな……これが好評でねぇ。ちょっと来てくれ」
思うのだが、この人は体育会系の部活に入った方がいいと思う。身長はあるし、捲り上げた腕を見る限り筋肉も付いている。それにこの人柄だ。団体種目でもチームの人と上手くやっていけると思う。
龍哉先輩が、元居た場所……部屋の居間に当たる場所へ僕たちを連れてきてくれた。
「ちょっと待ってろよ? 今からこいつを起動させるから……」
龍哉先輩が慣れた手つきで、パソコンを操作する。
プロジェクターが古いものらしく、メンテナンスに三分くらいかかるそうなので、僕は適当に室内をぶらつく事にした。凪木は、機械が好きらしく、龍哉先輩の操作を眺めている。結構マニアックな趣味だ。
「あ、宮下……君……」
恐らく僕を呼んだのだろう。名前を間違えて呼んだ川香先輩の方を見ながら、僕は訂正した。
「宮森です」
「そ、そうでした……宮下君」
「宮森です」
「す、すみません! 宮下君」
わざとやっているとしか思えないほどに人の名前を間違えて連呼する川香先輩だが、顔を真赤にしているところからどうやら故意があっての事ではないようだ。
「あ、あの……宮下君?」
「もう……それでいいです……」
何時から僕は宮下になってしまったのだと思いつつも、僕は川香先輩のそれを受け入れてしまった。何故だ。
「それで? 何か? 川香先輩?」
何故だ。何故だ。何故だ。何故僕は宮下なんだ。誰か教えてくれ。
「……わ、私のことは先輩以外で呼んでください……」
「えーっと……ぶっ!」
頬に激痛が走る。理由は簡単だ。川香先輩が、「あの、えっと」と連呼しながら振り回していた手が見事な直線を描き僕の頬にぶつかったからだ。
「だ、大丈夫ですか!」
「……いいから……理由を教えてください……」
口の中を切ったかもしれない。何か鉄の味がする。
「せんかせんぱい……って言いづらいじゃないですか……なので」
「分かりました……じゃあ、『川香さん』って呼びます」
口の中にフワー……と鉄の味が広がる。優しさとは無縁のこの鉄味は、本当は不良やヤクザの味わうべき物なのではないだろうか。
「いいパンチ持ってますね……」
「あ、ありがとうございます! 宮野君!」
僕は褒めたのだろうか……。そして宮下が宮野になっていたのは気のせいだろうか。
「おーい、メンテナンス終了だ。上映を開始するから、ホワイトボード貸してくれ」
「あ、はい! じゃあ、向こうで待っていてください。宮下君」
どうやら気のせいだったようだ。気のせいだったのか? 恐らく永遠に答えの見つからない疑問を抱きつつ、僕は龍哉先輩の下へ向かった。気のせいだったのだろうか……。
「お、来たな? そこの椅子使ってくれ」
指差された所に積まれていた椅子から、僕は適当に椅子を持つと川香さんが持ってきたホワイトボードが見える位置に座った。
凪木も僕の隣に座り、カーテンが閉められた後部屋の照明が消された。
「上映……開始」
プロジェクターから発せられた映像が、ホワイトボードに写った。
「たった去年の奴なのに……懐かしいな……」
龍哉先輩のその言葉を最後に、およそ十分間の映像が終るまで誰も喋らなかった。
彼は窓に映った自分を見て嘲笑していた。
醜く歪んだ顔。自分がそんな顔をしている理由は簡単だ。あの男……佐々峰龍哉の事を思い出していたからだ。
「なんて顔してんだよ……俺は……」
ここが学校でなく、自分の家であれば恐らくこのガラス窓を叩き割っていた所だろう。彼はそんな表情をしている自分に嫌気が差した。
井ノ継高校最強の不良篠岬慶吾。入学したばかりの頃に、先輩を5人同時に叩きのめした際にそう呼ばれるようになった。だが、それも彼の『過去』の異名だ。
「龍哉……手前……」
そこには居ないかつての悪友を思い浮かべながら、慶吾は苦笑を浮かべた。自分の中で滾る憎悪の炎は一瞬の例外なく彼の身を焼く。だが、それにも慣れた。
「いつか後悔する事になる。いや、後悔させてやる……」
本当に嫌気が差す……。慶吾は、自分の醜く歪んだ顔を普段の表情という名の仮面で隠すと、自宅へと向かった。部活にも所属しているが、行く気にはなれなかった。
およそ五分の映像が終わり、明かりが点けられた。
龍哉先輩は懐かしむように目を細め、川香さんと涼子先輩は何か拍手している。んで、凪木は感極まったのか、目尻に涙を浮かべている。
「良かった……」
「涙を拭くことを進言するよ」
涙を袖で拭いながら凪木は龍哉先輩に何か言っている。
「どうだった? 宮森君?」
「え? あ、凄かったです」
確かに十分という非常に短い時間だったが、この学校の面白さを前面に押し出すための素材の良質さと、それを編集した技術者――龍哉先輩――の腕の良さがひしひしと伝わってくる。
肝心の内容だが、これも文句のつけ様が無い。文化祭で発表したと言っていたが、ぴったりだったと思う。
先生方と全校生徒にとったアンケートの集計結果や、各部活の部長のインタビュー。何より凄かったのが、龍哉先輩がパソコンで作ったアニメーションだ。
これらの全てを寸分の無駄なく、しかもそれぞれの良さを最大限に発揮できるタイミングに配置し、十分という時間を短いと思わせずにぴったりだと感じさせられた。
まさに……ターミネーターに並ぶ傑作だ。
「入部……するんです……か? 宮下君……」
「え?」
この非常に小さな声の主は川香さんだ。なぜ頬を赤らめているのか全く分からないまま、僕は一文字の疑問文で聞き返す。
「入部……しますか……?」
そんな事か。それだったらもう答えは出ている。こんなにすばらしい作品を手がける先輩達と一緒に活動できたら楽しいに違いない。答えは迷わずイエスだ。
「はい、ぜひ入部させてもらいます。」
川香さんの表情が急に明るくなる。何故だ。
「おっと、いい答えを聞かせてもらった。二人とも明日からここの部室は勝手に使ってくれていいからな」
どうやら凪木も僕と同じ答だったらしい。そして、どういうわけか凪木は僕に掌底を食らわしてきた。腹に当たった。痛かった。
「す、すまん!」
僕は地面をのた打ち回る。痛い。本当に痛い。呼吸が出来ない。僕、このまま死ぬのか的な事を思ったぐらいだ。
「……いき……なり……何……?」
命からがら言葉をひねり出す。
「今のは本当に不可抗力だ。何かふらついていた川香さんの前を通り過ぎて、宮森の所に向かっていたら、倒れた川香さんが背中にぶつかって、反射的に手を地面につける状態にしたところ宮森の腹部にクリーンヒットだ」
凄い。奇跡としか言いようが無い。そして痛い。こんなことが起こり得るのだろうか。部活動の見学に行き、ターミネーターに並ぶ感動的な映像作品を見せてもらい、入部の返事をしたところ、ふらついていた先輩の前を通り過ぎた同学年の女子がそのふらついていた先輩が倒れたのに巻き込まれ、手を地面につける常態にしてそのまま腹部へ掌低を放つ。
統計学的に言ったら多分、海にラクダの上からダイブした後、下にあった若布に絡まって溺れるペンギンを目撃するような奇跡だろう。そして痛い。
「すみません……先輩……僕……今日はこれで失礼します……」
腹部に手を当てて、龍哉先輩に言う。まだ呼吸が正常に戻らない。
「あ、ああ……気をつけてな」
もう、どうしたらいいのか分からないのか、龍哉先輩が苦笑している。全ての元凶……川香さんも、僕の事を気遣ってくれているらしい。僕を送ると言ってくれた。
本当だったら、ここで『いえ、一人で帰れますから』と言いたいところだが、今の状態は洒落にならない。川香さんのありがたい申し出をありがたく受け取り、僕は部室を後にした。そして痛い。
「本当にすみませんでした」
「いや、いいよ……もう」
僕の自宅――寮――までは徒歩で大体三十分程かかるのだが、歩き始めてから十分間……ずっと謝り続けている。
「いいから……本当に」
「そう……ですか? 本当に大丈夫ですか?」
川香さんが本当にすまなそうに頭を下げる。その度に長めの白い髪が揺れる、その様は本当に綺麗だ。
「大丈夫です」
「あの……えっと……私と話すときは敬語じゃ……す……」
最後の方は声があまりに小さくって聞こえなかった。仕方が無いので聞き返す。
「私と話すときは……敬語じゃなくってもいい……です……」
「あ、そう……かい? 分かったよ。今度から意識する」
どういうわけか、この人には逆らうことが出来ないオーラ的なものを感じる。カリスマ性という奴か……? いや、違うな。
「あー……お腹空いたな……」
何気なく呟いただけなのだが、隣にいた川香さんに聞こえてしまったようだ。
「えっと……この後宮下さんの家に寄ってもいい……ですか? ご飯作りますから……」
。そして、宮下さんなんて人は僕の住む寮には居ない。
「あのぉ……」
「あ! 料理は得意なので任せてください!」
「川香さん?」
「い、色々作れますよ! 得意なのは魚料理ですけど!」
「…………」
「あ、でも! シチューとかも出来ますね……。他には……」
駄目だこりゃ……。今の心境を語る言葉はこれに尽きる。
「あ、でもここは鱈子と明太子を……」
もう、何を言っているのか分からない。鱈子と明太子をどうしようというのか。混ぜるのか?
いや、しかしあの二つを混ぜた所で、明太子が増えるだけではないか? 『鱈明太子と言う食品はこの世に存在することを許されない。いや、存在できないのだ』と父が真顔で言っていた。何を言っているのだ。我が父よ。
「『納豆鱈明太子スパゲッティ』!」
川香さんが隣で何かをやり遂げたような顔をしてガッツポーズをしている。何処かでこの光景を見た気がするが……気のせいだ。気のせいか?
そんなことより今重要なのは、彼女の言う『納豆鱈明太子スパゲッティ』だ。そんなキメラティック料理を食える人間は居るのだろうか。僕は無理だ。いや、この世に生けとし生ける全ての葉烏高校一年二組、出席番号二十八番の宮森十は無理だ。
「川香さん……何? そのキメラティック料理は……」
「は! す、すみません。宮森君の家で何を作ろうか考えていまして……」
待て。僕が食べるのか? そのキメラティックカオス料理を……。無理だ。この世に生けとし生きる全ての……もういいや。長いから。
「味見……するんだよね……もちろん」
「え? あ、いや……」
しねえのかよ! 思いっきり大声で叫んでやりたかった。でも叫ばなかった。何故だ。
そんなこんなでもう既に寮の前にたどり着いていた。で、隣に居る川香さんは何か唖然としている。
「宮森君……も……ここに住んでいるんですか?」
「『も』っていうことは……まさか……」
「302号室です……」
302号室……僕が301号室だから……隣の部屋だ。
「エレヴェーター使おうか……」
「いえ、階段を使いましょう……」
「でもエレヴェーター使った方が……」
「あの、一ついいですか?」
川香さんが手を挙げて、言う。
「なんで『エレヴェーター』なんですか? 普通は『エレベーター』だと思いますが……」
何!? それは聞き捨てならん! 我が家は代々エレヴェーターなのだ!
「せ、川香さんこそ何言っているんですか? 『エレヴェーター』でいいんですよ……」
「え? でも龍哉先輩も、御崎先輩も『エレベーター』って言ってますし……」
「いえいえ、家の人間は皆『エレヴェーター』だから」
そうだ! 『エレヴェーター』が正しいのだ! 『エレヴェーター』が……。『エレヴェーター』……。なんか心配になってきた。
「ま、まあいいや。日本全国共通の階段を使おう」
僕は、自分の中の疑問から逃げるように階段へ向かった。いや、逃げてなどいない! 戦略的撤退だ! そうだ。これは戦略的撤退なのだ!
「宮森君……?」
「戦略的撤退だ!」
自殺を考えたのはこれが二度目だ。この平和主義の日本国で何を叫んでいるんだ僕は。あ、ほら、言わんこっちゃ無いよ。川香さんがキョトンとしてんじゃん。そりゃそうだ。いきなり目の前で話しかけた相手がその質問に対して戦略的撤退と大声で叫んだのだ。僕だったら間違いなく唖然とする。川香さんもしている。
「うおおおぉぉおぉおおおぉぉおぉぉぉ!」
僕は大声で叫んだ。叫びながら階段を駆け上がった。寮の生徒が数人何事かと部屋から出てきて僕を見ている気がする。気のせいだ。川香さんが呆然と僕を見ている気がする。気のせいだ。足を攣った気がする。気のせいだ。痛い。
「まってくださーい……」
どうにも力の入らない声で川香さんが階段を駆け上がってきた。
僕と川香さんは、二人して息を切らせてその場に座り込んだ。僕はいつの間にか足を攣ったようで立てない。気のせいではなかったのか?
「は、はは……」
「あはは……」
何故か意味無く笑えて仕方が無かった。変なキノコでも食べたかと思ったが、どうやら、思いっきり――叫びながら――階段を駆け上がった事による酸素不足の疑いが強い。脳に酸素が行き渡ってないようだ。ん? それって拙くないか? いや、母は僕に言ったんだ。『歯を磨くとつるつるになる』と……。関係ないか……。
「あははははは」
母はドラマを見ながら僕に言った。『保険金殺人は完璧じゃないと駄目なのに……馬鹿ねこの女』と……。母さん。貴女はどこへ向かっているのですか?
「はははは……宮森君、そろそろ部屋入りません?」
「あ、うん、そうだね」
笑いすぎで、お腹が痛い。攣って足が痛い。そんな前者のみ幸せな状態で、僕は部屋へ――足を引きずりながら――入った。
居間へ行き、僕はとりあえず鞄を下ろした。川香さんにはそこに居てもらい、お茶を出す。本当はコーヒー牛乳を飲みたかったのだが、この時間にカフェインを取るとちょうどいい時間に体に回り、眠れなくなる。
「じゃ、じゃあ台所お借りしますね」
今気付いたのだが、川香さんがだんだんと喋るようになってきている気がする。まあ、元があれなのだから、喋るようになってきたと言ってもそれほどではないが。
台所から、包丁とまな板のぶつかる軽快な音が聞こえ出した。あの川香さんだ。指を切らないか心配でならないのは僕だけだろうか。いや、きっと僕だけではない。この世に生けとし生ける全ての葉烏高校一年二組、出席番号二十八番の宮森十は思っているだろう。
そして、幸運にも僕の部屋の冷蔵庫には現在、明太子と鱈子と納豆は入っていない。スパッゲティはあるが……。
午後11時……今日も龍哉は部室に残っていた。
近くのスーパーで買い物をし、冷蔵庫に食料を入れておいた。ついでに買った大福をかじりながら、龍哉は映像の編集を行なっていた。
「ふう……もうこんな時間か……」
月が出ている。龍哉は雲の間から覗く月が好きだった。大福も好きだった。
涼子は三時間ほど前に新入部員の紗弥とともに、帰宅したので今は彼一人でこの部室に居る。
大福一つでは、空腹に勝てなかったので龍哉は冷蔵庫から『カレー風味海老ピラフ』を取り出し、レンジで温めた。
カレーの香がすぐに部屋中を包み込む。
「あー……疲れた……」
首を左右に捻ると、グキリと軽快な音を数回鳴らした。龍哉は再び月を見る。今夜は満月だ。雲の間から、僅かな光でちじょうを照らす。
月から地球までは随分と距離がある。歩いていくなんて出来はしない距離だ。龍哉は、月をただ眺めていた。
「出来ない事もあるんだよ……この世界にはさ……」
龍哉は、昼間見た映像作品を再び再生することにした。月の光を遮るようにカーテンをし、ホワイトボードを引いてくる。すぐにプロジェクターのメンテナンスを始めた。
「そろそろプロジェクター買ったほうがいいか……」
メンテナンスを終え、パソコンに繋ぐ。と同時に、電子レンジから温め終わったのを告げる音が聞こえた。
黄色く色づいた海老ピラフを持って、彼は映像を再生した。そこに映るかつての自分と卒業した先輩。そして……悪友、篠岬慶吾の姿。
涙を流すことはしない。した事は無いし、仕方も分らないからだ。
だが、確実に心とやらは泣いていた。楽しかった去年を思い出し、今は卒業した部長の後ろで肩を組んで笑う自分と慶吾を眺めることで、龍哉は自分の中の『虚』を見ていた。
人間の体の60パーセントは水である。
このことからも分るように、水分と言うのは体を作るのに非常に重要な役割を果たしている。だが、体育の教科担当はそれを本当に知らないらしい。
三時限目の理科が先生の出張で潰れたせいで、その時間を体育の教科担当が貰った。普通、こういう場合は自習になるのだろうが、奴は常識を知らないらしい。
次の時間の体育と二時間連続で使えると訳の分らない事を言って、なんと二時間をまたにかけた持久走を決行しやがった。
あ、ほら、もうクラスで一番ぽっちゃりな木下君なんて水分が減りすぎて二回りくらい縮んでんじゃん。
もっと信じられないことがある。体育の教科担当は、僕達と一緒に走っている。しかもその前の四組の体育でも走っていたらしい。奴は人間か?
そんな人間かどうかも不明な教師との地獄の『魔』ラソンも終わり、僕達は教室へ戻った。だが、僕に休んでいる暇はない。購買に行かなくてはならないからだ。
僕は、昨日の失敗を考慮し、今日は『練乳イチゴプリン』ではなく『激甘! 蜂蜜マンゴープリン』と、コーヒー牛乳ではなくカフェオレを買った。
教室に戻ると、木下君が白目を剥いて泡を吹きながら机に倒れ付していた。その周りで数人『木下ー!』と泣きながら叫んでいる。さらに数人、合掌してぶつぶつ言っている。
「よう、待っていたぞ……」
「悪いが今日も僕の糖分は渡さないよ……」
待っていたように凪木が僕の席に座って居た。……てか待っていたって言っていた。何か木下君が腕をピクピクさせている。
「要らん! そんな筋肉と汗と血と機械とアナゴとダンボールの塊のような映画を食品にしたような物は!」
どうやら凪木も『練乳イチゴプリン』を食べたようだ。あれ? 後半のアナゴとダンボールはコーヒー牛乳によるものだったはずだ。……どうでもいいか。
「じゃあ何の用?」
僕は、カフェオレにストローを挿し、『激甘! 蜂蜜マンゴープリン』の蓋を開けた。白目を剥き、泡を口の周りにつけたまま木下君が上半身を起こした。今から何が始まると言うのだ!
「いや、たいした用事ではないのだが昨日の――」
「や、やめろ! 木下!」
いきなり聞こえてきた悲鳴じみたクラスメイトの声。僕と凪木はそっちを見た。
「そんなことをしたら死んじまう! やめるんだ!」
そこには信じられない光景が広がっていた。木下君が、信じられない勢いで腕立て伏せを始めていた。しかし、彼の目は相変わらず白目を剥いていて、泡を吹き続けている。んごー!とか言っている。
「何だ……あれは……」
「木下君だよ」
木下君は腕立て伏せを続ける。クラスの男子が止めようとするも、彼は止まらない。「僕は止まるわけには行かない! 僕は勝つんだー!」と叫びながら、腕立てを続けていた。
僕はそんな彼を見て、『激甘! 蜂蜜マンゴープリン』を食べた。甘かった。くどかった。なので、カフェオレを飲んだ。カフェオレの味が相まってさらにくどい。何故だ。昨日の事を生かして、昨日とは違う物を選んだのに!
「木下ー!」
再び聞こえてきたクラスメイトの悲鳴じみた声。僕の口の中に広がるこれでもかと言うほどの甘さ。そして、止まらない木下君。
全ての要素が、この昼休みと言う時間に、この教室に一度に在る。僕達の教室に。
「くそー! 木下だけに無理はさせねえ! オレもやってやるぜ!」
「き、木村! お前って奴は! お、オレもやってやる!」
なんかクラスの男子が集団催眠に罹ったように一斉に腕立て伏せを始めた。僕は甘さと戦っている。君たちも頑張れ! 影ながら応援するぞ!
「あいつら……馬鹿だろ……」
凪木が冷たい声音で言う。もっともだと僕は思う。そしてくどい。なのでカフェオレで流し込む。カフェオレのあれがああなってさらにくどい。
木下君が雄叫びを上げる。可哀想だと僕は思う。そしてくどい。なのでプリンを一気に口の中に掻き込み、カフェオレを一息に飲み干した。お腹が痛くなった。
「本題に戻ろう。昨日の、龍哉先輩に掴みかかっていた男だが、この学校では結構有名な奴らしい」
ふぅんと僕は短く先を促す。喋りたくなかったのだ。腹痛で。カフェオレマンゴーの恐ろしさをその身で知っただけでも価値があったかもしれない。いや、無い。
「篠岬慶吾という3年生の先輩だ。何でも少し前まで『井ノ継高校の鬼神』の異名を持つ最強の不良だったらしい」
鬼神……その言葉が僕の頭の中で何度も反芻される。カフェオレマンゴー……その二つが僕の胃で暴れまわる。落ち着けよ! カフェオレマンゴー略してカフェマン!
「何だろうね……あの龍哉先輩が掴みかかられる理由って……」
「その前にお前の額の脂汗は何だ?」
僕は額を袖で拭った。しかし考えれば考えるほどに分からない。カフェオレとマンゴーの相乗効果によってここまで腹痛が酷くなる理由が。……いや、違う。分からないのはそんな事ではない。何言っているんだ僕! 龍哉先輩が掴みかかられる理由だよ! 分からないのは!
「うごぉぉぉぉぉぉおおおぉぉ!」
木下君がいきなり雄叫びを上げた。何事かと見れば、木下君が何故か半裸で回転していた。回るたびに、彼の腹がプルプルと揺れる。フルフルシェイカーみたいだ。
「うごおおおおお――あ、あれ? 僕は一体何を……」
木下君が正気を取り戻した。周りの生徒が一様に歓喜の叫びを上げる。やったね。木下君!
「あ、あのぉ……」
教室のドアがガララ……と小さな音を立てて開けられた。そこに立っていたのは川香さんだ。川香さんは教室を一通り見回した後僕の下へ小走りに走ってきた。
途中、クラスの男子の一人にぶつかった。ぶつかった男子が倒れ、その前に居た別の男子にぶつかる。そのままドミノ形式に次々とクラスの男子が倒れ、ついにそのドミノは終着点……木下君に行き当たった。
倒れた木下君は、床に頭をぶつけ、再び雄叫びを上げると今度はスクワットを始めた。しかも、今度は白目を剥いているだけではなく、その目が血走っている。
「あ、川香さん……。どうかした?」
「あの、えっと、昨日はありがとうございました」
ああ、と僕はとりあえずそのお礼の言葉を受け取っておいた。どういうわけか川香さんはあの後僕に鮭のムニエルをご馳走してくれた後、しばらく僕の部屋でくつろぎ、少し目を離した隙に寝てしまったのだ。
正直、そのまま泊めてしまっても良かったのだが、女子を泊めるのはどうかと思い、彼女を背負いそのまま彼女の部屋まで運んだのだ。部屋の前に着くいた時、前もって鍵を開けておいたらしく少し罪悪感はあったものの、彼女の家に上がり、ベッドの上に寝かせておいたのだ。
「ごめんね。勝手に上がっちゃって……」
「あ、いえ、気にしないで下さい。私のほうこそ寝てしまって……」
木下君がスクワットをしながら回転を始めた。何かの世界記録にでも挑戦しているのだろうか……。水分の補給なしにこんなとんでもない運動をしているせいで、体育の始まる前より体積が四分の一程度に縮んで見える。
「何があったんだ?」
「ん? ああ、昨日川香さんが家に遊びに来てね。ご飯をご馳走になったんだけど、川香さん、そのまま寝ちゃって……」
「……何か変な事しなかっただろうな?」
「君は僕をどういう目で見ているんだ?」
僕を見る凪木の目は、なんか酷く侮蔑するような目だった。何を考えているんだ? こいつは。
「……いい加減その目で僕を見るのをやめてくれないか?」
「あ、ああ……すまない……」
で、一方の川香さんの方はといえば、回り続ける木下君に「ごめんなさい! ごめんなさい!」と頭を下げ続けている。
今思ったのだが、僕の高校生活はこの先恐らくもっと大変な方向に転がると思う。何か、こう……いきなり全員で異世界に飛ばされたり、大きな会社の陰謀に巻き込まれていつの間にか化け物の製造プラントを旅する……ってな感じの事が起きても不思議じゃない気がするから怖い。
「……でもそんなことは起きない。それが現実だ」
「なに言ってるんだ?」
「異世界なんて存在しないし、化け物の製造プラントは旅を出来るほど広くないんだ」
「…………」
「第一、日本にはそんな工場を作れる大企業は無いし、あったとしても作るのだったら化け物よりプレデターを作って欲しい」
「思ったんだが……」
腹部に激痛を感じた。拳が僕の腹にめり込んでいる。凪木の拳が。
「お前って何でそこまでツェネッガー知事が好きなんだ?」
答えられる訳が無いだろう。僕は、現在進行形で君の放ったジャイロパンチ(仮)のダメージに苦しんでいるんだ。というより何だ? 何でお前はそこまで攻撃力が高いんだ?
「まあ、いいや……興味も無いし……」
興味の無いことを質問するために、お前は僕にジャイロパンチを放ったのか。やってくれる……。いや待て……冗談抜きに痛いんだけど……。
カフェマンとジャイロパンチのダブルアタックで、僕の痛覚神経は一瞬の休みも貰えずに、働き続けている。
「うおごおおおおおお!」
木下君の雄叫びが聞こえる……気がする。で、凪木が木下君に歩み寄っている気がする。
「……おい、うるさいぞ」
「うおうおうおおおおおおお!」
「…………」
凪木が木下君(現在進行形で回転中)を――薄い笑いを浮かべながら――見た後……
「はぁ!」
殴った。腹を。捻りを加えて。
自らの回転と、凪木が拳に加えた回転が相乗効果を生み、木下君の意識はそのまま刈り取られた。ごと……と、音を立てて木下君の体が床に倒れる。
「そこの男子で、処分しといて? 保健室連れてってもいいし、そこに寝かせておいてもいい。何なら、山に捨ててもいいが……」
「おい、待て! 何で俺たちがそんな……」
「処分しておいてくれるか……?」
凪木の目が反論を許さない。反論しようものなら、木下を殺った様にお前たちも狩る……と言っているように見える。いや、恐らく言っているだろう。
凪木は、おどおどしている川香さんを引っ張って、教室から出て行った。その日、木下君が早退したのには誰も驚かなかった。
思うのだが、僕の家の人間……特に両親は少しおかしい。
例として挙げれば、昨日川香さんが作ってくれた鮭のムニエルについてのエピソードだ。母が、料理が全然……もうそれは全然としかいえない程に全然駄目で、父が作ってくれていたのだが、ある日母が突然「ムニエルを作るよー」などという、「核爆弾の発射ボタン押しちゃうよー」と並ぶやばいセリフを口にした。
言うまでも無いとは思うが、母が料理をした回数なんて数える程しかない。なので当然ムニエルなんて小洒落た料理など作れるはずも無かった。
僕達家族――父を除く――は、刻一刻と迫る最後の時を居間の机の前で正座しながら待っていた。台所からは、そんな僕たちの絶望をさらに確立したものにする、おぞましい音が聞こえてくる。弟の九十九が、不安そう……というより、諦めにも似た表情を浮かべていた。ここは兄として「大丈夫だ。兄さんが守ってやる」とでも言ってやりたかったが、僕には出来なかった。
言葉では表せないような音だったが、あえて言うなら……「ギョロギョロオロロロヴァヴァゴ」とか「アビャリャビャビャリュリャリュ」とか……だ。
そんな、深海魚を解体しているとしか思えない音を立てながら、完成へと近づく料理はムニエル……ムニエルと言う名前は、太古の神話に出てくる魚の怪物の名前ではないかと思った程だ。
首は四本でそれぞれの頭に今にも飛び出しそうな目が、七個ずつ……頭から尻尾までは大陸一つ分くらいあって、海の上を行く者を腹にある口で食べる怪物……ムニエル……。
これは、僕の妹である八百が考えた容姿だが、僕もこれに非常に酷似した物を想像していたため、簡単に同意できた。これがムニエルだと……。
出てきた料理も凄かった。頭が四つあって、左右両端の頭にはみ出しかけた目が一つずつあって……バターではなく、ごま油の香を漂わせながら、皿という名の陸に打ち上げられた神話の怪物がそこには居た。
食べた感想は……言うまでも無い。その身は、海の勇者ポセイドンにやられたかのようにボロボロで食感は無く、内蔵はリヴァイアサンに中途半端に食われたように、はみ出ていて、挙句口に入れた瞬間、強烈な生臭さとごま油が口の中を蹂躙する。
……人間の食べるものではない。と、思ったのも束の間、刹那に父が「あ、美味しいね母さん」と満面の笑みで言っているのを目撃した時は、本気で暴動を起こしてやろうと思った。
と言う話を部室に居た龍哉先輩と凪木に聞かせていた。
「ま、まぁ……ムニエルは怪物じゃあ……無いからな?」
「海にそんな生物はいないし、神話にも出てこないぞ?」
そんなことは分かっている。だが、あのムニエルを見て海の怪物……いや、海の悪霊が形を成した姿と思わない方がおかしい。
「あ、あのぉ……ムニエルって……私の作ったの……お口に合いませんでしたか……?」
「いや、川香さんのは本当に美味しかったよ……本当に……」
川香さんの顔がパッと明るくなるのが分かった。この人、本当に先輩か? と思えるような幼さを残した顔は、その白い髪とは相当ギャップがあったが、今ではそれほど違和感を感じなくなっていた。
凪木が、今した僕の話を川香さんにし始めたのが気になったが、止めはしなかった。
「料理か……僕も少しは出来るんだよ?」
「あ、涼子先輩。来てたんですか?」
涼子先輩はにっこりと笑う。この人が来たことで、とりあえずメンバーは全員揃った。
「嘘つくな涼子。お前の料理は料理なんかじゃねえ。ありゃ毒だ」
「酷いなぁ部長。じゃあ、今度ご馳走しますよ?」
龍哉先輩の顔が青ざめたのを見る限り、彼の言っていることは本当なのだろう。龍哉先輩を可哀想だと思っていると……
「宮森君にも食べてもらうからね?」
……死の宣告。三十カウント後に即死魔法をかけるこの技は喰らったが最後、速攻で戦闘を終らせるしかない、と八百が言っていた。
「あ、そうだ! 部長! お花見行きましょうよ。お花見!」
「ナイス! そうだな。時期も時期だし、メンバーの交流会にもなる。行くか。花見」
「よーし、じゃあ、張り切ってお弁当作らなくちゃね」
ああ、それが狙いか……と龍哉先輩。名案だ……と凪木。あはは……と僕。ムニエルって怪物なんだ……と川香さん。
「日程だが、……明日でいいか?」
「え、そんな急に?」
「ああ、明日だ。理由は……察しは付くと思うが、あえてヒントを出すなら……明日は世間は平日だが、俺たちは? ってとこだな」
明日は木曜日……龍哉先輩が言うとおり平日だ。僕達以外は……
「開校記念日ですか」
龍哉先輩がその垂れた目を少し細め、微笑みながら頷く。確かに開校記念日である明日なら人ごみを避けて花見を行なうことが可能だ。
「後はお前たちの都合だが……」
「僕は明日で構いませんよ?」
「わ、私も……です……」
「私も構わん」
「……どうやら、全員大丈夫みたいですよ? 部長?」
こういうって事は、涼子先輩も大丈夫の様だ。大丈夫の様なのだが、お弁当をこの人が担当するのはやめていただきたい。
「いいねぇ、簡単に決まって。じゃあ、明日この部室で」
「待ってくれ。時間は……?」
「いつでもいい。が、そうだな……八時まで」
これで重要事項は全て決まった。ので、龍哉先輩は、パソコンのワードソフトを起動させ、文章作成に取り掛かった。
川香さんと涼子さんはまたホワイトボードを二人で移動させていたので、僕と凪木はそれを手伝い、昨日やっていた会議じみたことに参加した。
「今日は、文章の構成についての復習ね。文章の構成の基本は『起承転結』で、これはそれぞれ――」
寝不足のせいか、涼子先輩の言っている内容を理解するにはいたらず、全て聞き流しているといった状態だ。いや、寝不足って言っても八時間きっちり寝たんだけどね……それでも『寝不足』って言葉は口実にするのに結構便利なもんだから……つい……
そんなこんなで、うとうとしていたら龍哉先輩の顔が目に入った。
正直、驚いた。その龍哉先輩の表情は、これまでの彼を見る限り想像できないほどに暗かった。いや、暗いと言うのは間違っているかもしれない。黄昏れている……というのが、ぴったりと当てはまる。そんな表情だ。
だが、それも一瞬だった。すぐにもとの表情に戻ると、彼は逃避するようにパソコンに顔を向ける。
「おい……おい!」
「がはぁ……」
腹部に激痛が走る。何か、こう滅茶苦茶太い鞭のような物で思いっきり腹を打たれたようなそんな痛みを感じた。
正体は、凪木のラリアットだ。太いと感じたのは、痛みゆえの錯覚だった。凪木の腕は、そこまで太くない。というより細い。こんな細い腕で、どうやったらここまで威力の高い攻撃を放てるんだ? という疑問を抱きつつ、僕は凪木のほうを見た。
「終ったぞ?」
「ご親切に……どうも……親切……でもないけど……」
最後の言葉を聞き逃さなかったらしい。第二撃が放たれ、僕の脛に凪木の踵がめり込む。あれ? 何か今、メキィ……って鳴らなかった? 鳴った! 絶対鳴った!
「この……鬼畜め……」
「お前がそこまで殴られるのが好きだとは思わなかったよ……」
床で悶絶する僕の背中に、彼女の第三、第四撃が放たれる。何て攻撃力してんだ。ロールプレイングゲームで勇者と共に世界を救うといいよ。僕は村人Aをやるから。
「だ、大丈夫ですか?」
「脛以外は大丈夫……」
呼吸が回復するのが早くなってきた気がする。慣れたか?
「すみませんが、今日はこれで失礼します……」
「あ、私も今日は……」
「おう、気を付けてな」
龍哉先輩に送り出されて、僕は踵を喰らった右足を引きずるように部室を後にした。
……僕は部活に殴られるために入ったのか? 応えは否。僕が部活動に入ったのは、学校生活を楽しむために他ならない。
他ならないはずなのだが……なんか、毎日殴られて帰ってない? まぁ、毎日って言ってもたった二日なのだが……。
そして思った。僕って部活に入ってから毎回――二回――この人と帰ってないか?
「ゴメンね? 何か二日連続で、つき合わせちゃって……」
「あ、いえ……結構楽しいので……」
何が楽しいのか、いささか疑問が残る。いや、多分深い意味は無いのだろうけど、僕が殴られているのを楽しんで見ているのではないか……というネガティブ思考が働く。
止まれ。ネガティブな僕。
「私ね……男の人と話をしたの、龍哉さんが初めて……だったんです……」
「へぇ……それで?」
「こ、こう見えて……人と話すのが苦手で……特にク、クラスの男の人は……皆……変なことばっかり言っているので……」
この僅かな時間だけで、二つ気になる事があった。一つ。川香さんはどう見ても人と話すのが得意そうに見えない。
二つ。川香さんのクラスの男子は一体どんなことを言っているのか。
「そ、それで……龍哉さんが話しかけてくれたの……嬉しかった……」
もう一つ、気になる事ができた。何故、龍哉先輩の話をこのタイミングでしているのか。
「龍哉先輩、誰でも気軽に話しかけることが出来る、保険会社の宣伝文句みたいなオーラ持っているからね……」
「公園……寄っていきません? 宮下君……」
「えっと、それはここの公園の名前が『宮ノ下公園』って事が関係あるのかな?」
「え? あ、本当だ。似た名前ですね」
笑顔で言うな。似た名前も何も、僕は宮森だ。という内容の抗議をしようと思ったが、突如蘇った母の言葉でそれはかなわなかった。蘇った母の言葉は「ムニエル・カルボナーラって……神様の名前みたいね」だ。……コメントは控えさせてもらいます。あえて一つだけ言うなら母がこれを言ったのは、神話の怪物が僕達家族を襲った次の日の朝食だ。
川香さんが公園のベンチに座り、僕にも座るように促したので、とりあえず彼女の隣に腰を下ろした。
「龍哉さん……以外で話をした男の人……宮野君が初めてだった……」
宮野君が初めてだったんだ……。僕じゃないんだ……だって僕は宮森だし、君は僕の事宮下って言うし……宮野って言われたの僕の記憶が正しければ過去一回だし……。
「あ、すみません。宮下君でした……」
貴方の記憶に宮森と言う高校生の名前は無いのですか?
「そ、それで……あの……宮下君……優しくて……」
「言葉はまとめてから言おうよ。内容がちぐはぐになってるよ……」
「あ、え、あの……その……あれが……」
大きく嘆息。身振り手振りを駆使して必死に何かを伝えようとしているのは解る。だが、伝えたい内容が全く分からない。
「飲み物買ってくるから……何がいい?」
「えっと……ココア……でお願いします……」
とりあえず、川香さんの謎のジェスチャーから解放され、再び嘆息。僕は、自動販売機の前まで来て、思った。
何で自販機って『温かい』とか『冷たい』ではなく、『あったか〜い』と『つめた〜い』なんだ? 前者の方が、文字数が少ない上に、言った時にキリッと締まるのに、何故自販機の会社は力の抜ける上、長い後者の方をこぞって作るのだ?
僕が自販機の会社の社長だったら間違いなく前者を作るように命じるだろう。
「そんなことは置いといて、さっさと買っちゃおう」
僕は、自分の思考を無理に止め、力の抜ける『つめた〜い』のカフェオレと『あったか〜い』のココアを押す。
そういえば、前に一度だけこんな風に、自動販売機のあったか〜いを押したことがあったっけ……。
川香さんのところへ戻り『あったか〜い』ココアを渡すと、僕は再び彼女の隣に腰を下ろした。
「……何かいい事あったんですか?」
「ん? 何で?」
「笑って……ます……」
自分でも分かった。自分の顔が、微笑んでいる事が……。
「昔の事を思い出してね……」
川香さんは何も言わない。だけど、僕はそれを話した。何故か、川香さんには話したかった。意味が解らない。だけど、僕は自分の心とやらに従ってそれを話していた。
「三年前のクリスマスでね……雪が降っていたよ。その日、僕の妹の八百がいきなり家を飛び出しちゃって。理由は……笑ってくれてもいいけど、僕とゲームやっていて負けたのがショックだった事でさ、僕が強いの知っていたはずなのにね。僕はさ、必死に探したよ。それでさ……ん? 何?」
「笑ってます……」
そうかなぁ……と誤魔化す。いや、自分の頬がゆるんでいることには気付いていたんだけど、ここで素直に認めるのはプライドが……どうでもいいや……。
「ご馳走様でした……」
「じゃ、今日の所は帰ろうよ。この話はまた……」
僕は、川香さんと寮へ戻った。例の階段を雄叫びを上げて駆け上がったが、川香さんがついて来なくて部屋で一人で泣いていたのはこのすぐ後の話しだが、関係ない。断固関係ない。
前書きにも書きましたが、一話目の分際でやたら長い上に、この上なくくだらない事ばかりが書かれた小説です。
なんかすみませんでした