表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/65

6 対 趙雲

 華雄は追手をかけてこなかった。どころか、東門は最初から開いていて、董卓邸の夜襲に失敗した呂布一行は、昼間の商人よりも楽に洛陽から出ることができた。

(あの虎顔のオッサンの仕業か)

 どこかの小悪党と違って、度量が大きい。苦笑が漏れた。

  

 洛陽を出て、まっすぐ北へ。并州に向かう。

 今回の夜襲で、半数以上が討たれた。ハナから罠と思っていたのに、なぜもっと上手く撤兵できなかったのか?最初から屋敷を囲む必要などなかったんじゃないか?

 馬を降り、反省しながら皆と共に歩いていると、隣にいる馬上の黄青に呼びかけられた。

「若、騎馬隊が近くにいます」

「騎馬隊?」

 一応後ろを振り返るが、追手の気配はない。の本隊か?危険を避けるのだけは上手いあの養親父が、まだこの辺りに残っているとは思えないが…。呂布は馬に跨った。

「向こうです」

 黄青の指した左前方を、細目でじっと見てみると、確かに月明かりの中に動く影があるようだ。こちら同様ずいぶんゆっくりと進んでいるようだが、どこの軍勢だろう?

「このまま行くと、丁度ぶつかりそうだな。黄青、一応気合は入れとけよ」

 無言で頷く無口な副官。2騎は歩兵の列の左側を、護衛するようにして前進する。

 進路が交差する地点に先に着いたのは、こちらだった。距離はかなり縮んでいる。向こうも気付いているのは間違いない。呂布と黄青はその場に停まり、歩兵達を送るように先行させる。さて、何者が現れる?

「こちらは、幽州、公孫瓉軍は、趙雲と申す!攻撃の意思はない!そちらは、何者だ!」

 聞くまでもなく、向こうが大声で名乗ってくれた。が。

「…公孫瓉ってのは、どんな奴だ?」

 小声で聞くと、黄青が馬を寄せた。

「華北の一勢力で、勇将と聞きます。反董卓の姿勢を示しているので、敵ではありません」

「そうか。…先に名乗ってくれたこと、感謝する!俺は呂布!呂布、奉先だ!」

 返事はなかったが、代わりに1騎、こちらに向かって来た。顔が見える。声から想像されたとおり、若い。体格も目立って大きい訳ではない、が、芯の座った武人の気配が夜の暗がりの中でも伝わってくる。師匠に、似ているか。と思って、思い出した。謁見の前、広間にいた男だ。そういえばあの後、師匠に聞いた。

「呂布殿、その名、存じています」

「そいつは光栄だな、趙雲、子竜殿」

「!私をご存知とは」

「腕の立つ奴には興味があってね。若いのに各種武芸に通じていて、強者を求めて放浪してたとか」

 黄栄に聞いたままを答える。趙雲は軽く笑みを浮かべた。

「并州では知らぬ者のおらぬ呂布殿に興味を持って頂けるとは、光栄至極」

 二人の武芸者の間に、徐々に気が溜まっていく。隣で黄青は小さくため息をついた。これは、奇襲失敗後の撤退中にやることではない。

 呂布はさすがに黄青の気配に気づき、ためらった。しかし趙雲は口を開いた。

「呂布殿。このような場所で巡り会ったも何かの縁、ここはひとつ、お手合わせでも…」

「若」

 趙雲から視線を外さない副官に一言で呼び止められる。残念な苦笑いが浮かんだ。

「すまんな趙雲殿、ご覧のとおり撤退中の身でね。無事に帰らなきゃならん。そちらも、同じじゃないのか?」

 趙雲は困った顔になり、少し考えてから

「この方角、并州へ帰られるのでしょう。ならば、公孫瓉殿の陣へ参られてはいかがです?位置的に大きく回り道になるわけでもありませんし、食事も睡眠も取れましょう」

「…だってよ黄青?」

 楽しげに聞く呂布に、今度は大きなため息をつく黄青。

「将は、若です」

 任せる、ということは、行っても良い、ということだ。さすが黄青、話せる。

「てなわけで趙雲殿、その申し出、ありがたく受けさせてもらう」

 部下達には、いち早く休息を与えたい。それに自陣に戻るよりも、よほど休まるだろう。

(とかいう言い訳はいらんか)

 嘘ではないが、やはり一番の理由が自分の楽しみなのは間違いない。我がことながら、あきれた苦笑いが浮かんだ。

「快諾、ありがとうございます。それでは、隊を連れて参ります」

 趙雲は一礼して自身の隊へと向かう。黄青も、既に部下の方へ向かっていた。双方を見送る呂布には、趙雲との手合わせとはまた別の、普通とは違う『何か』が始まったような、そんな気がしていた。

  

 并州から、世に出た呂布。時代の流れが渦となり、彼をその中心へと誘う――

  

  

  

「おお、貴殿が噂の丁家の跡目殿か。よくぞ参られた!間もなく引き払う陣ゆえ大したもてなしはできんが、それまではゆっくり休んで行かれるが良い。…誰か、友軍に休む場所と食事の手配を。急ぐのだぞ」

  

 丁原本隊の助勢を買って出た、というのは、ここへ来てから聞いた話だが、それもあってか公孫瓉はこの急な珍客を歓迎してくれた。あの馬鹿養親父のこと、助けてもらってロクに礼もしていないのだろう、と、なるべく丁寧に感謝を伝えたのも良かったのかもしれない。白ずくめが少々派手だが、いかにも良識のある首領、といった感じで、好感が持てる。

(もっとも、本気で董卓とやりあう気は無いんだろうな)

 天幕の中で寝転がり、真上を見上げながら、少しだけ頭を働かせる。

 やはり董卓の勢力は強大なのだろう、本気で噛み付いたのは、ウチのイカれ養親父だけのようだ。それに便乗して一撃加えた、というのは、反董卓の姿勢をハッキリ示した、ということになる。董卓が帝を拾って権力を手にしたことを気に入らない連中は、そのほとんどが黙って自分の土地へ帰って行っただけである。公孫瓉は、その誰よりも真っ先に「董卓に立ち向かった」という事実を作り、実績と名誉を得たわけだ。しかも、幽州は遠い。帰ってしまえば、ガチでぶつかり合って滅ぼされる危険は、まず無い。

(上手くやるもんだ)

 領地が隣合わせにもかかわらず見え透いた夜襲を見破られた我が丁家のドンブリ勘定とは、雲泥の差である。浅薄な親分のせいで、并州はまた戦場になるかもしれない。しかも今度の相手は一地方の豪族などではなく、現代最大勢力、且つ、帝を擁する、董卓軍なのだ。

「…いっそ今頃攻め立てられてりゃいいのに」

 ヤケ気味に考えを終わらせて目をつぶると

「それはまた穏やかではありませんな」

思考に返事が返ってきた。と思ったが、すぐに声が出てしまっていたことに気付く。そして、声の主にも気付いた。が、面倒なので転がったまま声をかける。

「盗み聞きは良くないなあ、趙雲殿」

 笑みを浮かべて中に入ってきた趙雲は、

「自然に聞こえてきたものですが、まあ、そう思われたなら謝りましょう」

立ったまま頭を下げた。呂布も笑いながら、上体を起こす。

「待ちましょうか?」

「いや、大丈夫だ。寝てたワケじゃない」

 では、と会釈し、趙雲は出て行った。

 呂布は立ち上がって一度大きく伸びをし、それから屈伸をして、さらに大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと外へ向かった。

 趙雲は、少し遠くを歩いていた。距離を詰めるでもなく、後を追って歩く。どうやら陣の外に向かっているらしい。

(篝火やら天幕を巻き込むと迷惑だもんなぁ)

  

 ほどなく、出口に到着した。簡単な柵の間の、簡単な門、その外側で、趙雲が待っている。ここなら大きめの篝火があり、視界は良好だ。

 門を出ると、趙雲が槍と剣を投げて寄越した。空中で受け取り、一応確認する。ごく一般的な物だ。特に槍は、普段使っている自分用のそれと比べると、かなり小振りである。相手は、と見ると、槍しかもっていない。

「そっちは槍だけで良いのかい?」

「ええ、問題ありません」

 穏やかに答えた趙雲は、静かに、息を吸い込んでいく。

 僅かな静寂に、空気が張りつめる。

「こっちは北、か。まあ安全だろうけど、見張りは?」

「今頃ゆっくり休んでいるでしょう。我らと交代です」

 呂布の軽い口調に微かな笑みを浮かべ、趙雲は槍を構えた。呂布も小さく笑う。

 やはり、強い。

 芯の座った構え、重心の安定感。研ぎ澄まされた、無駄のない気迫に、それでいて急所を刺し貫く殺気。

 気の昂ぶるまま戦って、勝てる相手ではない。まして、戦場ではないのだ。勢いや流れの無いところからの、純粋な勝負である。力みは隙に繋がる。いつも師匠に注意されることだ。

 溢れ出す力を抑えるように、ゆっくりと剣を腰に差し、槍を構える。呂布は、これまでのどの戦いより真剣に、趙雲に対峙した。

「では、参ります」

 律儀に宣言して、趙雲は動いた。

 一息で槍の間合いに入ると、そのまま流れるように突きを放つ。速い。尋常ではない。反射的に右手の槍でいなすが、間に合わずに二の腕を掠った。鎧はつけていないため、服ごと斬り裂かれる。浅い。支障はない。しかしなんてムチャな速さだ。既に迫っている二段目を、空いている左手で強引に払い、反撃のために槍を引く。が、三段目が既に向かって来ている。真直ぐ、眉間へ。首を上体ごと左へ逃がし、同時に引いた右手の槍を手首で跳ね上げ、迫る穂先を打ち上げる。が、それでも首の皮を掠めた。避け切れなかった驚きに、全身に、一気に力が巡る。四段目を意識して、崩れた体勢を起す。左から横殴りの一撃が迫る。槍を立てて受けると、かち合った衝撃で予想外に自身の槍がブレた。得物が軽い分、力が乗せ切れないのか。趙雲は弾けた勢いを生かし、体ごと反転して逆からさらに加速した横振りを放つ。受け止めて一瞬でも動きを止めなければ、反撃の隙をくれそうにない。今度は左手も添えて、立てた槍で受ける。衝突。思いの外、軽い。止まるでも弾けるでもなく、呂布の槍の腹を滑るように引き戻された趙雲の槍は、今度は右胸へと突き放たれていた。両手が右側へ寄っている今の体勢では、最も避けにくい位置。尋常ならざる速度。まずい。血が、気が、全身を駆ける。鮮明になる視界。両手でしっかり握った槍を、穂先の進路に引き戻す。間に合うのは当然、しかし先端を芯で受けねばならない。ズレて滑れば、貫かれる。集中。時が遅くなる。僅かな位置を、合わせる。と、衝突の手前で槍の軌道が左へブレた。

(!)

 血が沸き立つ感覚。このままでは間に合わない。

  

 趙雲の突きに押されるように大きく後ろに吹き飛んだ呂布は、それでも両足で着地した。

(やってくれる)

 自然と笑みが浮かぶ。

 自ら後ろに跳びながら槍の位置を強引に合わせ直してどうにか防いだが、コイツは只者ではない。速度、正確さ、加えて、止めようとすれば引き、受けようとすれば曲げる、その柔軟かつ適切な対応力。間違いなく、強い。種類は違うが、師匠と同等、か。滾る血の裏で、感覚が研ぎ澄まされていく。

 凌ぐのがやっとのあの攻めの中に割り込むのは困難だろう。次の先手はもらう。

 改めて趙雲を見ると、遠くで全身を縮めるような構えを取っていた。距離はあるが、念のため槍を持つ右腕に力を込める。

 前方の強敵から、槌で地面を打ったような鈍い音と振動が響いた。何だ?と思ったところへ、瞬時に槍の穂先が飛来する。驚く間もなく、とっさに身をかわしながら己の槍で打ち払う。

(どう投げたらこんな一瞬で届く!?)

 左へ払いのけた槍は、当然左へ吹き飛ぶ、ハズが、その場で大きく弧を描いた。目の前の趙雲が頭上で槍を大きく振り回し、そのまま斜めに斬り下ろしてくる。理解は後回しだ。上体を思い切り逸らし、横にした槍の上を滑らせるようにして斬撃を流す。趙雲は最初から呂布がそう避けることを知っていたかのように、体ごと回転させてさらに加速した。

 今度こそ止める。体勢を直しざまに槍を立て、高速の横薙ぎに向かって大きく踏み込む。自由に槍を振り回されている間は、こちらの番は回ってこない。先手も譲ってはもらえない。距離を詰め、腕力勝負に持ち込む。しかし趙雲はそれも知っていたかのように、槍を薙払いながら、小さく跳ぶように一歩、詰められたのと同距離退がった。激突の衝撃が伝わる。退がられた分、遠い。しかも趙雲の槍はまた滑るように引き戻されている。さっきの二の舞は、ヤバい。あれは確実に防げるものではない。ならば。

 両足に力を溜め、一瞬待つ。引き戻された槍が、突き出される、その瞬間。穂先に向かって思い切り踏み出した。どうせ急所に来る。真正面で良い。突きに、槍の腹をぶつけにいく。

 突きを出す瞬間に踏み込まれた趙雲は、瞬時に判断を下した。全力で、貫く。突きの体勢に入ってしまっているのだ。今さら変わって退いたところで中途半端、それでは眼前の男の突進は止められない。本気の突きを、丸い槍の腹で一度受けられている。この相手は、異常だ。距離を詰めて同じことをするつもりなのだ。しかしそれならば、合わす間もない速度で刺し貫くのみ。全身の動きと流れを繋ぎ、集約する。この一撃、止められはしない。

  

 尋常ならざる速度で迫る穂先が、一段加速した。

(まだ上があるのか!)

 我が身に迫る危機よりも先に、呂布は感動した。この速度、自分には出せない。目の前の男は、想像以上に凄い奴だ。嬉しいが、笑う暇はない。目では捕らえられなくなった突きの先端を読み、全力で押し出す。寸分違わず、急所。間違いない。迷う暇どころか考える暇もない。しかし自信はある。間に合わせる。

  

 槍の腹の中心に、切先が突き立つ。衝撃が両者に向かう、その前に、趙雲は槍を捻り込み、突きを打ち抜く。受けた槍がしなる。呂布も、構わず押し込む。しなっていた槍が砕けた。衝撃が響く。二つに分かれた穂先側は左手に握ったまま、柄尻側は手放す。瞬間だが目一杯体をかわす。超速の突きは、脇腹を掠めた。趙雲の流れが、一瞬止まる。

(ここだ!)

 空いた右手で趙雲の槍を掴むと同時に、左手の半槍を振り下ろす。趙雲は受けるように右腕を上げた。斬撃に力は乗っていないが、それでも腕一本くらいはもらう。斬りつけた槍はしかし腕に受け止められ、流された。直後、趙雲は槍を手放し大きく後ろに跳ぶ。

「…何だそりゃあ?」

 楽しくなって、つい声に出た。もらった、と思ったんだが、こいつはとことんやってくれる。

 手応えは、金属。手甲を仕込んでいるのか。卑怯、などとは思わないが、槍を捨てたあちらには武器がない。さてどうする?これで引き分け、か?

 跳びのいた趙雲は、着地すると同時に小さく縮んだ。地を打つ音が響く。直後、一瞬で距離が詰まった。眼前に拳が迫る。矢弾のように飛来した趙雲を、かろうじてかわす。

 素手で、やる気なのか。確かにおそろしい踏み込み(?)だが、当たっても致命傷にはなるまい。どういう勝算があるのかしらんが、これほどの相手だ。遠慮なく、迎え討つ。こちらに背を向ける形になっている趙雲に対し、半槍を捨て、右手を腰の剣に向かわせる。抜きざまに、斬る。しかし柄を握ったところで、正面から衝突された。身体が浮くほどの衝撃。モロに当たった右腕が痺れる。拳を空振った体勢から、そのまま背中をぶつけてきたのだ。それで、こんな威力が出せるものなのか?さらに趙雲は流れるように旋回し、蹴りを放つ。こちらは浮かされている。かわすことはできない。防御のため身体を固める。直感が叫んだ。受け止めるのはヤバい。蹴りが届いた。金属の感触。

  

 地面を滑るように吹き飛ばされた呂布は、滑りながらも趙雲の方に向き直るとその勢いで立ち上がり、剣を抜いた。右腕が軋む。が、折れてはいない。

 いよいよヤバかった。寸でのところで着地が間に合ったので自ら跳んで誤魔化せたが、鉄鞭で思い切り殴られたかのような強撃。まともに受けたら、腕一本では済まない。

 (剣一本のこっちの方が、分が悪いということか)

 武器などなくても存分に戦える人間なのだ。殺らなければ殺られる。自身を巡る気が、濃く、重くなっていく。

 あの踏み込みで来るか?来れば、落とす。虚を突かれなければ取れる。が、来ない。なら。剣を突きの構えに引き、大地を蹴る。今度こそ先手をもらう!

  

 趙雲は少なからず驚いていた。

 槍を捨てさせられたばかりか、機先を制し、完全といえる流れで放った蹴りからも逃げられたのだ。最良の逃げ方で、被害を最小に抑えられた。こう(肩・背による体当たりのこと)を当てた時の手応えから、普通ではなかった。鎧のない身とは思えない、異様な重さ。こんな経験は初めてだった。体幹が、強すぎる。突きの止め方といい、反応も判断も、尋常ではない。先手を取らせたくはないが、箭疾歩せんしっぽ(突進のこと)はおそらく見切られる。そしてそう判断するための一瞬で、呂布は既にこちらに突っ込んできていた。全力の、上をいかねば、やられる。

 深く息を吸い、さらに神経を研ぎ澄ます。

  

 一気に間合いを詰め、そのままの勢いで呂布は突きの構えを引き絞る。小細工は無い。初撃で、決める。軽過ぎてふらつく剣を軋む右腕の力で抑え、闇夜の雷光の如き突きを放った。

 定めた狙いから視線を微塵も動かさず、一直線に、真正直に眉間へと放たれた突きを、左腕で外に払い同時に右拳を突き出す、この一つの動作で迎え撃つ。油断などするはずはなかったが、趙雲には自信があった。狙いはハッキリ見えている。飢えた虎もかくや、という迫力に、空気ごと押さえつけられるようだ。が、来る位置がわかっていて対処できないことなど、無い。左腕の手甲が刃に触れる。理想的な位置。ほんの少し軌道を逸らせば十分だ。迫る切先。ずれない。力は込めている。距離が縮む。やはり、逸れない。

 駄目だ、この相手は、異常だ。

 趙雲は、さらに力を加えて何としても軌道を変えようとするのではなく、腕で刃を押すことで逆に己の身体の方を右にずらした。体勢が崩れる、が、足りない。間に合わない。さらに上体を傾け、顔もできる限り反らす。突き出す拳からも力が漏れる。しかし間に合うか?

  

 交錯。呂布が打ち抜いた突きは、趙雲の左頬から耳にかけてを深く引き裂いた。趙雲の拳は、狙い過たず鳩尾を捉えていた。

  

(そう返すか)

 門柱にもたれたままで、黄青は感心した。

 あの突きを前に、避けることに全力を割かず、拳を打ったのだ。そうできることではない。自身の凄まじい勢いのせいで、いくら若でも今のは相当痛いはずだ。

 だが。

 黄青は背を離した。

 呂布を尾行してきてここで勝負が始まってから、ずっと見ていた。あの呂布奉先を押し込み、蹴り飛ばす趙雲の武術は恐ろしいほどのものだ。しかし、止める必要は感じなかった。

 決定打は、今の交錯だ。両者を見据え、近付く。

  

 そのまま趙雲は膝を着き、呂布は剣を振りかぶる。叩きつけられた斬撃を左腕で受けるが、止めきれず趙雲の体勢はさらに崩れた。さらに一撃加えるべく、剣が振り上げられる。

 ここで、黄青は割り込んだ。

 間合いの外から鋭く踏み込むと振り上げられた呂布の剣を自身の刀で叩き折り、その衝撃で上体がこちらに向いたところを遠慮なく蹴り倒す。

「そこまでです、若」

 足下に倒れた若は、声も無く激痛に身悶えていた。

  

  

 急な乱入者によって幕が引かれてしまったことを、趙雲は黄青の声で悟った。緊張が切れる。息が漏れた。


 負けた。

 あの突き。直撃は避けたものの瞬時に首を激しく振られ、視界は一瞬焦点を失い、全身の力が抜けた。撃った右拳は正面から槌で打たれたようで、腕ごと痺れていた。左膝が地に着いたところで力が戻ったが、見上げた呂布は、打撃など無かったかのように既に剣を振りかぶっていた。一撃目を左腕で受け、二撃目。受けられる体勢ではなかった。防御を捨て、開き直りに似た覚悟をもって痺れる右拳を放つつもりではあった、が。

 趙雲は静かに目を閉じ、下を向いた。

  

「趙雲殿」

 目を開き、声の方を向く。思いの外近い。呂布の副官、確か、黄青といった。気配が極端に小さい。この男は、いつからあの場にいたのだろう?並の武芸者ではない。趙雲は最後まで気付いていなかった。呂布は、どうなのだろう?

「…待 て 黄 青 て め え この」

「ご安静に」

「いぎゃあああああああ!」

 呂布は、ようやく立ち上がったところを今度は鞘で鳩尾を突かれて、悶え転げていた。

 趙雲は思った。相手が何者か、は、とりあえず置いておこう。

 それ以前に、己が未熟なのだ。単純且つ正直な突きを見て、対処できる、と決めてかかった。想像を超えていた相手に、そう認識したその上で、慢心を見せたのだ。負けて当然、命を拾ったのは僥倖だ。

「…色々と、失礼しました」

 のたうつ呂布に冷たい一瞥を送ってから、趙雲に頭を下げる黄青。

「とんでもない」

 笑みを浮かべて首を振り、立ち上がる。顔の左側から、痛みが響いた。少し表情が歪む。

「よい勉強になりました」

 そういって深く礼を返すと、趙雲は夜空を見上げた。世界は広い。数多ある星、その微細なるにいくら勝ったとて、輝ける将星にかなうわけはない。本当の強者と戦わねば。戦って、打ち破って、より強い者へ。そうやっていけば、いずれ再びまみえることもあるだろうか?

 呂布に目を向ける。再び立ち上がった呂布は、もの凄い不満顔で黄青をにらんでいた。と、目が合った。一転、歯を見せて笑う。趙雲も、笑った。

  

 揺れるかがり火の向こう、星の瞬く夜空の奥、東の地平が、ゆっくりと白み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ