64 強者の道程
修行不足、だと!?
怒りが生み出す激しい熱は、しかしそれ以上に苛烈な激痛に散らされ、身体を動かす力には変わらなかった。意に背き横たわる手足に感じるのは、冷たい大地の感触。高く青い天を流れる雲が霞み、孫策は改めて奥歯を噛みしめた。が、それすら、満足に力が入らない。脇腹から爆発するように広がる鈍痛は全身を打ち叩き、思考が、意識が押し潰されていく。そして、暗く揺らぐ世界におぼろげに現れる、赤い頭巾の男の影。
―嫌いだった。その無駄が、その粗さが。
猛獣の背を取る機敏さを持っていながら、その我流の戦闘術は極めて粗雑で、荒々しい。真っ当な武術をかじったことすらない父・孫堅は、それでも無双の強さを誇っていた。刃で斬る、突くだけでなく、柄で殴り、拳で殴り、斬ると見せては蹴り、掴み、引き倒す。地に手を突けば砂を撒き、届くものなら落ちた鏃も折れた刃も、全てを使って敵を追い詰めるその姿は、野蛮な獣そのものであった。
認められない。無駄で、見苦しいあの戦い方は、真の強者のものではない。その稚拙な乱暴さが油断を生み、結果、無様な死を招いた。俺は違う。爪歩に併せて武術を覚え、隙の無い、無駄や粗さを必要としない、一段上の強さを身につけたのだ。さらなる、真の強さを。事実、出会う猛者全てと戦い、勝ってきた。圧勝で、だ。
なのに、なぜだ!?
力の消え失せた身体で、否定した父を、その陰から微かに見える現実を、振り払う。
「お?」
助け起こしてやるか、と近付いた呂布の前で、孫策は動き出した。ゆっくり膝を曲げ、震える腕を支えに身体を起こし、フラリ、と力無く立ち上がる。
頬を撫でた緩い風に誘われるように、呂布は笑みを浮かべた。風に揺らぐ立ち姿に、戦う力は見当たらない。
(根性だけは一人前、か)
「若!」
韓当のその声は、もはや孫策には届いていなかった。立ち尽くす若大将に駆け寄り、手早く肩を貸す。
「黄蓋!手伝え!」
全体重が乗る。意識が無いのだ。しかし、担いだ右腕の先、力無く垂れる右手は、いまだに剣を掴んでいた。呆れた韓当はチラつく刃を奪い取り、外傷を確認する。脇腹の裂傷自体はさして深くはない。だが、あの高速移動をさらに超高速の斬撃で打ち飛ばされ、落下したのだ。受けた衝撃は相当だろう。胴、腕、脚と目線を巡らせ
(深刻な怪我はない、か)
そう判断すると、韓当は改めて孫策を見た。年不相応に大柄で、鍛えられた体躯。一見、修行不足には見えない。しかし韓当も、呂布と同意見だった。体格に恵まれているのも、才能である。この若大将はその優れた才能の分以外に、努力をしてきていない。だから、体格に劣る自分ごときと互角なのだ。その有り余る才を活かせば、この馬鹿坊主はまだまだ伸びる。先代・孫堅も常々、「息子こそ、真の猛虎と呼ぶにふさわしい」と言っていた。それを解らせたかったから、呂布に頼んだのだ。「叩きのめして欲しい」と。
その結果が、これなのだが…
(にしても、これほどか)
視線を、呂布へと移す。黄蓋を吹き飛ばしたのはともかく、この孫策をこうも容易く子供扱いとは。それも、欠点を指摘し、牙を正面からへし折って、だ。予想通りとはいえ、やはり目の当たりにすると無茶苦茶な強さである。韓当は自分が戦わずに済んだことを天に感謝した。元より、その気は無いが。
「どうだ韓当殿?大怪我はしてないと思うが」
当の呂布は、何事もなかったかのように声をかけてくる。韓当は頭だけで礼を取った。
「まさに天下無双の武勇、良いものを見せてもらった」
「いやいや、この“若様”も相当に強かったぞ?こっからまだまだ伸びるだろうしな」
呂布は孫策に目を向けた。不似合いな、どこか優しい目つき。
「…しかし、『叩きのめしてくれ』、ねえ…」
それから横目で視線を戻す。これは意地悪な目だ。
「…狙い通り、ってワケか?」
その問いに、韓当は片眉を上げてみせた。
「……ほほう?」
大通りの裏、人通りの無い路地に姿を現した高順を見て、まだら頭の武芸者は左目をその太い眉ごと大きく見開いた。どこか嬉しそうな表情。その見透かすような視線に、高順は警戒心を強めた。今、自分は商人を装っており、武術の気配など微塵も出していない。しかし。
「お前さん、どこの者じゃ?」
やはり、見抜かれているか?ほんの一瞬考え、答える。
「鄴から参りました。燃えた洛陽より難を逃れて移りましたが、近頃は鄴もまた、戦の気配が濃くなっております。新たな土地を求めての、言わば『下見』でございます」
全くの嘘にはせず、真実を装う。相手は全く表情を動かさず、鼻を鳴らした。
「上手いこと言うのう。ま、問われて素直に答えるようなら最初から商人に化けなどせんか」
そう言うと、ゆっくりと背中の荷物を降ろす。
「化ける?と、言われましても……困りましたな」
言葉通りの表情を作りながら、高順は腹を括った。先程、若者たちをひと薙ぎにした時にも担いだままだった大荷物を、降ろしたのだ。あちらに譲る気は無い。何事もなく、では済ませられまい。相手の得物は長物、間合いまでは1歩分のみ。しかしこちらの刀剣は荷物に隠して背負い袋の中。どうするか。
「なあに、そう気張るな若いの」
全てを見通したかのような余裕の声が、楽しげに告げる。
「ちらっと試すだけじゃ。お前さんの腕前と、技をな。……ホレ、剣を出せ」
「…」
一度静かに息を吐き、高順も背負い袋を降ろした。本当に見破られているのか、ただの当てずっぽうか。そもそも、何者なのかも判らない。のだが。
(いいねえ、やっちまえよ高順。なんなら代わってやろうか?)
調子のいい誰かさんの声が頭に響いた。屈んで袋の口を開き、厚く巻いた布をほどきながら、高順の口も解ける。
(やれやれ)
袁術配下の人間かもしれないのだ。騒ぎは極力避けなければならない。ほどいた布の中から、剣の柄が顔を出した。さて。
顔を上げると、ホレ見たことか、と言わんばかりの得意げなにやけ面と目が合った。男はその顔のままこちらに一歩踏み出し、軽く構えを取る。得物は水平、刃は右奥。先端は布にくるまれたままだ。高順は取り出した剣を両手で大事に抱えて立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。
「?」
そのまま堂々と間合いに踏み入り、まだら頭の前まで進む。
「……何のまねじゃ?」
訝しむ声に応じるように、高順は足を止めた。そしてその場に膝を突くと、鞘に入ったままの剣を両手で掲げるように差し出す。
「私は、刀剣を扱う商人でございます。あいにく今は品物を持ち合わせておりませんが、常々見本として持ち歩いているこの一振り、ご覧になれば納得頂けるかと」
この言葉に、まだら頭の左目は再び大きく開いた。
「お前さん、しつこいのう」
ため息交じりにそう言いながらも、男は構えを解いた。その右手が、当然のように差し出した剣の柄へと延びていく。名剣、と聞けばつい確かめてしまうのは、武人の性か。目線は向けないまま、高順は相手の動きに集中した。武人の力強い右手が広がり、指が、眼前の柄に近付く。徐々に距離が詰まり、先頭の中指が、触れる。
「!」
突如頭上へ槍が振り下ろされた。予想はしていたが、速い。抜く暇は無い、鞘のまま流す。
いくら速くとも正面からの斬撃、しかも勢いを奪うのではなくただ流すだけである。怪力も把握している、高順は当然捌けるものとして動いた。ほぼ真上から迫る一撃を、両手で支えた鞘を小さな弧を描くように傾けながら受ける。そして、左に逸れる、はずのその衝撃は、
(な!?)
真正面から両腕を襲った。想定外の威力を止められず鞘は頭に激突し、そのまま身体ごと地面へ押し付けられる。元々立てていた膝に上体を預ける形でどうにか堪えるが、食いしばった歯からは空気が漏れた。どういう、ことだ?皆目見当もつかない。圧力は増していく。まずい。力比べをしていい相手ではない。苦しい体勢だが力と呼吸を一瞬に合わせて鞘の角度を僅かにずらすと、その隙をついて強大な圧力から転がり抜けた。
……何が起きた?
後転で間合いを広げ、追って来ていないことを確認しつつ思考を巡らせる。何かを失敗したわけではない。動作、勢い、角度、全て問題はなかった。無論、鞘では不十分、などという浅い技でもない。考えられるとすれば、相手だ。接触の瞬間、力を、曲げた?しかしそんなことが…
数歩分離れた視線の先で、まだら頭の武芸者は左手の槍を地に突き立ててこちらを向いていた。その顔からは先程までの余裕が消えている。
「……お前さん」
声にも、警戒心が濃く滲んでいた。
「今の技、どこで覚えた?」
(?)
一瞬返事に迷う。が。
「武具を扱う以上、手習い程度に剣を習っただけでございます。技、と言われましても…」
「フン」
言葉尻に噛みつくように鼻を鳴らした男の顔は、さらにその険しさを増した。
「素人の受け方なものか。見くびるなよ、ワシを誰だと思っとる」
誰だか判らない、と思っているのだが。答えに詰まり、少し無言の時が流れる。睨み合う二人の背後に風が起こり、足元を吹き抜けた。砂が散り、やがて止まる。
「……ふぅ」
しびれを切らしたのは、まだらの武芸者の方だった。
「わかったわかった、やめじゃやめじゃ。強情な奴め」
言いながら両手を上げて大きく伸びをする。高順も、息を吐いた。警戒を解く。どうやら切り抜けた、か。戦意の消えた相手からは、
「たまさか出くわした商人さま相手に、これ以上凄んでみせるのも面白くないわい」
これでもか、というほどつまらない顔を向けられた。
「…わかって頂けたようで」
「じゃがの」
言葉を遮る強い語気。
「…お前さんの方が、ワシに用があるはずじゃ。心当たりがあれば訪ねて来い」
「?」
確かに、受け流しを外されたのは気になっている。だが、訪ねる?どういう意味だ?
答えは、次の言葉にあった。
男は名乗った。ただ、名を告げた。しかしその名は、高順の心を一撃した。
(!)
動揺は表には出さず、頭を回す。それでも、背中には嫌な汗が滲みだしていた。
「ワシの名は、黄忠」
「黄」の姓が、全てを理解させた。間違いない。先の流し損じ、あれは偶然などではなく、狙ってやったのだ。自分の知らない技。そして、それを知る者。
この男、黄家の。父が出奔した黄家武術の本流、荊州黄家の人間。
立ち去る男の背に向かい、高順は知らず礼を取っていた。