63 対 孫策
ゆっくり、堂々と。
自信に満ちた歩様で、光射す草原を進む孫策。余裕の笑みの中でその力強い双眸は真正面の大男を捉え、離さない。
(あれが呂布か)
孫策は鼻を鳴らした。黄蓋の巨体を吹き飛ばすとは、大した怪力だ。天下無双、名前負けの雑魚だったらどうしてやろうかと思っていたが、さすがにそれは無いか。野生の本能が、接近と共に獲物の観察を始める。
均整の取れた身体、手にした戟は少々短めで身長と同程度。ただ、でかい。黄蓋より頭一つ大きいことを考えれば、あの戟も並以上はある。長身剛力で振り回せば相当な範囲を巻き込むだろう。
(なるほどな)
長尺の武器に馬鹿力で雑兵を蹴散らす。董卓軍に匈奴、黒山賊、寡兵で大軍を叩くにはもってこいだ。野蛮な笑みが広がり、隙間から牙が覗く。
孫策は若いが、己を知らぬ愚か者ではなかった。剛力自慢は、自分が最も得意とする種類の相手だ。例え万の兵を蹴散らす規格外の力でも、勝算は十二分にある。知らず、踏み出す足に力がこもる。ここで奴に勝てば、その名声・武名がそっくりそのまま手に入るのだ。父の死後、袁術軍の一武将となり果てた自分にとって、天下に名を轟かせるまたと無い機会!
いつしか駆け出していた赤服の若武者は、顔がハッキリ見える距離まで加速すると突風を纏い宙に舞った。
「おおっ?」
軽く声を上げて驚く呂布を横目に、身体を伸ばしたまま宙返りした孫策は空中で向きを変えると、下半身を折り畳むようにして柔らかく着地した。風が流れ去り、片膝をついた姿勢のその右手に輝くのは、抜き身の刃。
「……ま、当たらんわな」
屈んだままの若武者が発した楽しげなつぶやきに、呂布は傾けた上体を戻した。跳躍の途中で刃が向かって来たのだ。正確に、首を狙って。身のこなしもとんでもないが、コイツは、確かに。
「若!」
「!?」
聞き慣れた呼び名につい顔が向く。が、声の主である韓当はようやく立ち上がった若造に駆け寄った。若?てことは……
「馬鹿かお前は!?いきなり斬りかかる奴があるか!」
「…お前はやったんか、韓当?」
「何?」
「やってないなら静かにしとけ」
「!」
怒りに言葉を失う韓当を見もせずに片手で押しのけると、孫策はゆっくりと顔を上げ、
「……黄蓋が世話になったようだな、呂布殿」
その鋭い眼光と共に持ち上がる切先は、呂布の眉間にピタリと狙いを定めた。
「では、次はこの孫策とお手合わせ願おうか?」
「…」
なにやら格好良く剣を突きつけらた呂布は、鼻の頭をかきながら思った。
なるほど確かに、このお調子者は一回ボコっといた方が良さそうだ。
職業、身分、場所や時代を問わず、調子に乗る若者というのはいるものである。
(…?)
ところ変わって、宛の街中。高順の視線の先では、身体ばかりがが先行して成長してしまった若者が3人、下女らしき娘をとり囲んでいた。
「…別にいいだろうが、ああ?」
「俺らが誰かわかってんのか?紀霊将軍の隊のモンだぞ?精鋭様だぞコラ」
「で、でも……私、お使いが……」
ただこれだけであれば、それこそどこにでもある、珍しくもない光景である。いささか見苦しいが、現在商人に化けて隠密行動している高順としては、止めに入って目立つ訳にはいかない。どこかへ連れていかれるようなら尾行し、人目につかないように処理する。そう考えていた。
そんな怪しい偽商人が密かに意識を向けていると、視界の中に大きな荷物を背負った白髪交じりの男が入って来たのである。武芸者なのだろうが、背負の袋とは別に右手に持った長物が、低めの身長と不釣り合いに大きい。布に覆われている先端部の尺から察するに、長刀の類か。使いこなせるのだろうか?
その武芸者は真っ直ぐ若者たちの後ろまで進むと、空いている左手、ではなく、右手の長物をひょいと持ち上げ軽く振り下ろした。
「!痛ってえ!?」
「なんだてめえ!なめてんのかオッサン!」
その様子に高順は細い目をさらに細めた。あの体であの得物を軽々と、そして身体にブレもない。相当な使い手と見える。下女のことは任せよう。しかし、意識は離さない。興味の対象は移っていた。
視線の先では、白黒まだら頭の男が立派な髭を微かに揺らす。愛嬌のある丸い目には、たっぷりの余裕が浮かんでいた。
「なんじゃ最近の若いもんは、他人の名を借りんと女子に声もかけられんのか?」
(元気でいいねえ)
向けられた切先を見つめながら、呂布は笑った。一度だけ会った『江東の虎』は、敵味方を超える程の力強い魅力を持った、真に格好いい男だった。纏う空気は似ていても、さすがに息子はまだ子供か。むしろ、向こう見ずなところは自分に似ている。そう思うと、再び笑みが浮かんだ。戟剣を剣に持ち替え、握る右手に力を込める。構えは、取らない。
「いいぜ、いつでもかかって来いよ」
その言葉に、孫策の眉がピクリと動いた。ニヤリと歪んだ口から牙が覗く。
「余裕か」
ゆっくりと、孫策は構えを取った。切先は標的に向けたままで右手の剣を引き、同時に右足も大きく後ろに引いて腰を深く落とす。対の左手は、腕を伸ばし掌を呂布に向け、狙いを定める。
(また随分とカッコいい構えだな)
よほど見てくれにこだわりがあるらしい。確かに、近くで見ればこの孫策、整った顔立ちの中に野性味を備えた、かなりの男前である。無駄に思える構えも、まあ似合ってはいる。
「…死んで後悔しろ」
呟くように言って、孫策は動いた。
地を滑るような鋭い踏み込み、やはり韓当と同じ流派か。しかし一歩目が速い。感心と共に迎撃の刃を走らせる。狙いは足元、互いの速度で接触までは一瞬。かわすなら跳ぶか?しかし孫策の体勢はさらに下がった。それでどう避ける!?走る黒い刃、対して赤い突風は剣を引いたまま。何だ?よぎる違和感。
(!)
次の瞬間、疑惑は驚愕に変わった。斬撃が空を斬る。刃の前から消えた気配は左後方、振り向く暇はない。呂布は即座に右に跳んだ。風斬り音が耳を打つ。そのまま地面を転がるようにして向きを変え立ち上がるが、眼前に切先が迫る。回転の勢いを殺さず後ろに倒れ込みながら上体を反らし、同時に戟剣を跳ね上げる。鼻先で接触する刃と刃。
「おおっと!」
甲高い金音の残響の中、孫策は剣を掴み直して脚を止めた。後転して距離を取った呂布は、片膝立ちからゆっくり立ち上がると息をつき、服の砂を払う。
強引に刃を打ち払うことでごまかせたが、しかし何てヤツだ。手加減抜きの斬撃、その前を走り抜けた、のか?目の前で見たことだが、信じられん。どうやってるんだ?改めて、赤服の男前を見た。獣の笑みには余裕が浮かぶ。
「さすが、力は凄いな」
牙を見せたままで、孫策は再び構えを取った。呂布は視線を逸らさず、深く息を吸い、大きく吐く。
「けど、もう効かんぞ?」
どうする?とでも言いたげに、吹き上がる突風。赤い影が走る。呂布も地を蹴った。右足を大きく踏み出すと同時に右腕を体ごと引き絞る。牽制ではない。着地と共に解き放つ。先程とは比較にならない速度で閃く黒刃、その先でさらに加速し、滲む赤風。この反応!色を残して気配は飛んだ。また左後、振り向くと同時に左腕を上げ既に放たれている突きを甲で逸らすが風は吹き止まず巻き上がる。孫策は流れた刺突と共に呂布の側面へ跳び上がると刃を返して斬り下ろし、戟剣に阻まれた刃ごと体を捻ると着地と同時に一気に身を縮めて足元を薙いだ。得物の柄を地に投げつけるようにしてその斬撃を防ぐ、がその時には影もない。背後から迫る殺気。大きく前に跳びながら振り返ったその鼻先を刃が掠めた。握り直した戟剣で下から斬り上げるが、一歩先に眼前に迫られている。獣の笑み。構わず振り抜く。左へ消えた影相手に手応えは無い、代わりに左の二の腕に痛みが走った。手甲で受け切れなかったか。呂布は振り抜いた得物をそのまま左肩の上に引いた形で、動きを止めた。背後の気配も、止まる。
(……なるほどな)
正に旋風のごとき、おそろしい俊敏性である。これだけできれば、そりゃあ調子にも乗る。
だが。
呂布はゆっくりと振り向きながら、戟剣を下ろした。左腕の傷から広がる僅かな熱が、指へ、肩へ、全身へと伝わり、巡る血流に体がほぐれていく。丁度、イイ感じだ。
「……斬られたくせに、まだ余裕のつもりか?」
構えを取らない呂布に対し、孫策は三度構えを取った。声に、表情に、苛立ちが見える。
「いやいや、お前さんのスゴいところはよーく解った。だからこっからは」
呂布は不敵に笑った。
「お前さんが強くないことを解らせてやるよ」
「ホレ、解ったら家へ帰っておとなしくしとれ、未熟者どもが」
高順の見立てに誤りは無かった。無造作に若者を殴ったあと、白黒頭の男は自ら彼らを引き連れて路地へ向かい、瞬く間に打ちのめしたのである。予想と違っていたのは、男が使ったのが武術云々ではなく、単純な腕力だったことだ。右腕一本で長物を振るい3人を一度に吹き飛ばすと、起き上がる間も与えず打ち据えたのだ。日頃怪力は見慣れている高順も、自分より小柄な男のその腕力には目を見張った。立ち姿から感じたのは、もっと洗練された武術家の気配だったのだが…
ほうほうの体で逃げ出す若者たちを腕を組んで見送ると、男はきょろきょろと周りを見た。
「なんじゃい、娘の方もおらんのか?礼も言わずに全く…」
なにやらブツブツと文句を言っている男から視線を外し、高順は路地に背を向けた。あの腕力に興味はあるが、悪党ではないのだ。無理に手合わせする必要はあるまい。顔は覚えた、縁があればまた会うこともあるだろう。そう思い、一歩踏み出したところで、
「で!」
ただの一音。それが、明確にこちらに放たれた。気付かれた?瞬間、動きが止まる。そこへさらに声がかかった。
「そこの、何をコソコソ見とる?用があるなら出て来んか!」
こちらは曲がり角の影に身を隠していた。一度も、見られていないはずだ。高順は静かに息を吸い気を引き締めると、声の主の方へと足を向けた。この男、やはり只者ではない。
(しかし人間離れしてんな)
縦横の連撃を手甲と戟剣を合わせて防ぐと、次の瞬間には死角に跳ばれている。それを追って動いた先には再びの連撃。まともに打ち合うことを許さない赤い旋風、その動きは驚嘆に値する。
「なめとんのかっ!」
急停止の反動を利用し、孫策は下段から剣を振り上げる。呂布はまだ振り向いてすらいない。駆け上がる刃は、しかし鉄の手甲に阻まれた。またか!そのまま引き気味に振り抜くと手首を返し左袈裟に斬り下ろすが、こちらは立ち上がった黒い戟に防がれる。右肩の動きに攻撃の気配。孫策は地を蹴った。
体勢低く踵で踏み出し、加速中につま先で地を削り再加速する。これを左右複合して行うことで急加速・急制動・方向転換を自在に操る歩法。父から受け継いだ『爪歩』と呼ばれるこの技において、脚力は当然ながらそれ以上に重要なのがバランスである。高速移動中に自身の身体をつま先一点で正確に押し出す、力と方向の集中。腕の振り、上体の動きを加えた細やかな体重移動。荒海の船上をものともしない父の鍛えられた感覚が遺伝したのか、幼い頃から孫策はこの感覚に秀でていた。相手の裏を容易く取れるこの技を以ってすれば、いかなる猛者も敵ではなかった。だが、江東の虎と畏れられた父は、黄祖のごとき凡将に遅れを取った。油断したのだ。口に出したことこそないが、孫策にはそれが許せなかった。己の強さを、世に証明する。父よりも、誰よりも強いことを。孫策にとってはそれこそが重要であり、家の再興など二の次であった。そして、天下無双の男を相手にしている正に今この時こそが、その絶好の機会なのだ。
(絶対に勝つ!)
未だかつて無い程に集中し、赤い疾風が吹き荒れる。
さらに速くなった。背後に回った気配を追いながら、呂布は感心していた。瞬時の間を稼ぐため半歩踏み出しながら左に振り返り、両腕に力を巡らせる。視界に入った刃は左隅、最も遠い。即座に左腕の手甲を合わせにいく。左から振り向けば左から、狙いはいい。だが読めている。そして。寸前で間に合った鉄板が斬撃を上に逸らす、と同時に右腕の戟剣を振り始める。と、突風が背後へ跳んだ。やはり。動きだけでなく、目がいいのだ。反撃の動作を見てから最適な方向へ消えるその反応速度。強いワケだ。
(けどな)
誘いの戟剣を止め、左の裏拳で左後方へ消えた風を追う。さらに加速した気配はその先を行き右へ飛んだ。呂布は向きを変えずに両足で地を踏むと、後ろに跳ぶようにして右肩から背をさらにその加速の先にぶつけに行く。衝突、の寸前で流れる疾風はさらに向きを変えた。気配が離れる、その前に、黒い閃光が大気を引き裂く。
弾ける鉄の響きと共に、孫策は派手に吹き飛んだ。自身の勢いそのままに大地を転がり、しかし片手片膝を突いてどうにか踏み止まる。右の二の腕から肩が、浅く斬り裂かれていた。剣で受けもした、跳びもした、それでこの威力か。だが、問題は剛力ではなかった。奴は、より速く動き、見てから隙を狙っているこちらの先を行ったのだ。奥歯を鳴らし、間合いの離れた呂布を睨み上げる。
「…問題は2つある」
右手の戟剣を無造作に下げ、再び棒立ちに戻った呂布はそう声を上げた。その声に緊張感は無い。
「まず、お前さんは最も有利な位置、角度、状況を狙いすぎだ。その異常な速さと反応のせいなんだろうが、それじゃ簡単に読めちまう」
読んだからと言って誰にでも返せるものでもないのだが、そこは呂布にはわからない。
「それに、せっかくその速さで動けるのに、剣でしか攻撃しないってのはもったいない。もっと色々できるハズだ。蹴りでも、目つぶしでも。ていうか、その剣も手に合ってないんじゃないか?」
言葉を切った呂布は、自身の得物に目をやりその黒刃を肩に担ぐと、視線を孫策に戻した。そして少し考え、頭を掻いた。しまった、2つじゃなかった。
「…あー、スマン。もう1個あったわ」
孫策は口に入った砂を地面に吐き、視線を下げたままゆらりと立ち上がった。たった一撃。それだけで、こいつは何をほざいとる?体の芯から溢れ出す怒りと屈辱。奥歯を噛み砕かんばかりに力が漲り、全身が震え出す。
「いや、むしろその1個が全部というか」
「やかましい!」
顔を上げ、一気に風を纏う。全速力の上の全速力へ、全ての加速を前進に、奴に向ける!俺より速い者などいない!先に、斬る!
大地を駆ける赤い突風の向こうで、呂布は右手を後ろに槍の構えを取った。そうそう、そういう“全開”ってのはいいぞ。大きく一呼吸し、血を巡らせる。こっちも手加減無しだ。神経を集中し、全身を充分に引き絞る。肌に空気の揺れを、脚に大地の重みを感じ、さらに集中を増していく。時間が遅れはじめる。向かい来る烈風。この世界でもなかなかに速い。凄いモンだ。距離が詰まる。最高の位置。ここだ!呂布は溜めた力を爆発させた。
轟音、衝撃、振動、それら全てを置き去りにして、ただ一歩の踏み込みと共に振り抜かれた黒刃。その嵐のごとき暴風は赤い烈風を容易く呑み込み、弾き飛ばした。再び吹き飛ばされた孫策はその身を大地に打ち付けられて跳ね上がると、無様に何度も転がり、やがて力無く止まった。
呂布は手応えの残る得物の感触を確かめながら、笑みを浮かべていた。ほんの少し、手応えが弱い。あの状態で跳んだのか?そもそもかなり手元まで踏み込まれていた、その上で威力を逃がす方に跳ぶとは。本当に凄い、末おそろしいヤツだ。しかし。
振り抜いた戟剣を下ろし孫策の方に向き直ると、呂布は呆れたような息を吐く。
移動は凄い。だが、その移動以外がヒドい。剣の振りも遅い、力も無い、考えも狙いも甘い。移動と反応のおかげでやってこれたんだろうが、全てが、まるで鍛えられていない。
……もったいない。
(鍛えたら、どんな化け物になるんだ?)
つい頭に浮かんだ楽しい想像に、思わず笑みがこぼれる。これは是非、強くなってもらわねば。そのためにもここは一度、折っておいた方がいい。
ワザとらしい咳払いで笑みを引っ込めると、呂布はあえて上から、極力偉そうに言い放った。
「解ったか?オマエはそもそも、修 行 不 足 だ」