62 獣の保護者たち
袁術にこの戦乱を収められるか?
頼っておいて申し訳ないが、呂布にはそうは思えなかった。
どの程度状況を把握しているのかは判らないが、袁紹に追い出された呂布軍に対し、袁術軍は受け入れの姿勢を見せていた。呂布が直接挨拶に行ったのが昨日のこと、今は袁術軍の本拠地・宛の街の郊外に陣を張り、沙汰を待っているところである。
許可が出るまで街には入れないが食料は気前よく援助してくれたため、陣での食事はいつもより豪勢になっていた。呂布は具の大量に入った汁を啜りながら、袁術のことを思い返す。
宛の街には活気があった。領民・兵馬は共に多く、袁紹軍の鄴のような華やかな装飾こそ見当たらなかったが、十分に栄えている。袁術の館も、街の規模相応に広かったが全体的に質素で、むしろその派手さの無い落ち着いた装飾がかえって高級感を漂わせていた。
「これはこれは、呂布殿自ら来て頂かなくとも、出迎えに向かいましたものを」
そう言って席を立つと礼を取り、頭を下げた袁術。巨大勢力の頭領とは思えない、丁寧な口調と腰の低さである。袁術本人もそうだが配下の文官武官も総じて丁寧で、少なくとも表立っては嫌悪感や敵意は感じられなかった。
しかし。
(やっぱあの青白さがダメなのかな?)
君主・袁術の覇気の無い顔。何度思い出してもやる気を感じない。そのせいか、丁寧な物腰も少々うさん臭く見えてしまっていた。もっとも、熱意は多分に持ち合わせていた袁紹の軍が、あのまとまりを欠いた状態である。君主のやる気がそのまま当てになるワケではない、つい最近身をもってそれを知ったところなワケだが、しかしそれでもやはり、あの病弱そうな顔に期待は持てなかった。
「ん?」
口の中の予想外の感触に、思考が止まる。弾力のある柔らかさ。餅か団子か、それに塩気の濃い汁の味がよく染みていて、なかなか旨い。
人物はともかく、食料の援助はありがたいもんだ。まずは何かひと働きして、この恩を返すとしよう。
(あれが、呂布か……)
薄暗い小部屋を、微かに震える行灯の明かりが照らす。こじんまりとした自身の居室で、袁術は挨拶に来た呂布の姿を思い出していた。
「いやー食料だけでもこんな快く頂けるとは!ありがとうございます!」
笑顔で礼を述べるかの飛将軍はいかにも好青年で、噂のような狂人とは到底思えない。袁紹軍を追い出されたというが、あの頭の悪い袁紹のこと、どうせまた正義だ何だといったくだらぬこだわりを見せびらかしたのだろう。無双と謳われるあの武勇をみすみす逃すとは。
「……フフ」
こみ上げる笑いを堪え切れず、小さく声が漏れた。
あの袁紹が手放した、使いこなせなかった呂布を配下に加える、というのは、この上なく楽しい状況である。人物を見極める必要はあるが、戦力としては申し分ないし、若く無鉄砲な孫策の良い手本となってくれるかもしれない。そして孫策が一人前の虎になれば…
「…フッフッフ」
橙の明かりに包まれた袁術の頭には、周辺の敵を、そして袁紹のいる華北を、全土を一息に制圧していく袁家の龍虎の姿がはっきりと映し出されていた。
本人は気付かず・望まずとも、腹違いの兄・袁紹に似た、壮大な妄想。しかし兄とは違い元々内向的で視野が狭い袁術は、悪く転んだ場合のことを考えていなかった。そして袁術軍には、それを咎める主張の激しい部下達も、いなかったのである。
では、その袁術軍中で最も激しい部下は、というと―
地に伏せる程に体勢を下げて斬撃をかわす。獣の眼光は鋭く狙いを定め、伸び上がりながら踏み込むと相手の首元へと剣を走らせた。寸前で槍の柄に激突し止められたところで、孫策は動きを止める。
「ハハッ!紀霊殿、本気だったら首に届いてたぞ!?」
大声でそう言い放つと、手首で派手に剣を回して腰に収めた。
「…………お強く、なられました」
相手の将軍風の男は静かにそう言うと、姿勢を正して一礼した。
武骨な体躯に武骨な顔、そして似合わぬ細い口髭を整えた紀霊は、袁家分裂前は「顔良に比肩する」と言われた程の武勇の持ち主であり、袁術軍筆頭の将軍である。頭が固く極端に義理堅い彼は、世間一般的に長男・袁紹が本家と見なされている現在でも、分家の袁術に絶対の忠誠を誓っていた。
「よぉっし!肩慣らしは終わりだ!」
そんな紀霊を圧倒し、意気揚々と歩き出す孫策。自由気ままな彼は、こうやって独りで将軍達の陣を訪れては手合わせするのが常であった。「勝って当然」とばかりに挨拶もせず陣の外へと向かう彼の頭には、今の手合わせの内容など欠片も残っていない。向かう先は一つ。
(さて、噂の飛将軍がどの程度のもんか、見に行ったるとするか)
呂布が郊外に陣を敷いて2日。軍議では、明日には歓迎の宴が設けられ、正式に軍に迎え入れることになった。やるなら、その前がいい。
未だ寒々しい空気の中、悠々と歩を進める孫策の顔に浮かぶ笑みは、不敵、と言うには少々野蛮な気配を漂わせていた。
一歩、また一歩と、ゆっくり天幕に近付く。この陣中で、他のものよりほんの少しだけ大きいその天幕の入口には、こじんまりとした旗が立っていた。翻る『呂』の文字。それを確認することもなく、入口のすぐ手前で足を止めると、
「殿~、何やってるんですか~」
曹性はそれなりの大声で呼びかけた。が、反応は無い。うんざりな溜息をつく。
今日は、久しぶりに兵を全員揃えての訓練を行うことになっていた。呂布が参加するということで、皆その武芸を少しでも学ぼうと期待し、既に陣から少し離れた草原に集合している。今は張遼が馬術を見ているのだが、それも間もなくひと段落するだろう。
「と~の~、張遼殿がキれちゃいますよ~?」
適当なことを言いつつ呂布の天幕を覗き込んだ曹性は、
「!」
予想だにしない光景に、顔だけでなく全身を引きつらせた。
視界を埋める、黒光りした筋肉。入ってすぐの位置に、半裸の大男が立っている!?
その黒い背中の上に載った頭がゆっくりと回り、肩越しの視線と目が合った。
「……し、(つれいしましたぁ)……」
消えるような声と共に後ずさり外に出ると、ひと息ついて気を落ち着かせる。何だ今のは?
「なんスかねえ、あのお客人達」
「!!……侯成さん、いたんですか」
再びビクついた曹性の死角から現れた侯成は、いつものだるそうな表情、をほんの少し引き締めていた。それに気付いて、曹性も真剣な視線を返す。
「誰です、あれ?」
「いやあ、誰かはあっしも知らねぇんですけどね?ただ、どうにも“ご同業”の匂いがするんでさあ」
そう言う侯成の右手は、剣の柄に添えられていた。曹性の顔が一気に曇る。そういうのは、担当外だ。巻き込まれてはたまらない。この場を離れる言い訳を考えようとして、その前にひとつ気付いた。
余所者とはいえ、ウチの殿に喧嘩を売らないといけないとは。
(あの業界も、大変だなあ)
が、困っているのは殿の方だった。
「余所者のあんたには関係無い話だが、頼む」
どうにもワケのわからないことを頼まれている。味方を、倒せ?困り顔の呂布の前には、椅子に座って頭を下げる袁術軍の将軍。韓当と名乗ったその小兵の男の後ろには、腕を組んだ筋肉ムキムキの刈り上げ男がこちらを威圧するように立ちはだかっていた。上着を大きくはだけて日焼けした肉体を晒しているが、寒くないんだろうか?
「…………駄目か?」
「あ、いや、ちょっと確認したいんだが…」
「何だ?」
「その、『叩きのめして欲しい相手』っていうのは、あの、孫堅の息子の?」
「……ああ、そうだ」
「てことはアンタら、江東の虎に恨みでもあるのかい?」
「……」
探るような視線が交錯する。そして
「……俺達は」
「めんどくさ」
野太い声が割って入った。座った二人が見上げる中、不機嫌に顔を歪めて刈り上げマッチョが続けて言う。
「もうええやろ韓当。何やウダウダめんどくさい、こんな細かい奴に何ができんねん。こんなん連れて行ったらこっちが切れられるわ」
呂布の眉がピクリと動いた。
「馬 鹿 は 黙っ て ろ」
怒りも露わな顔を後ろに向けて韓当が睨み上げるが、
「そりゃあもっともだ!」
妙に明るい声が今度は正面から聞こえ、小兵の将軍は首を戻した。対面に座る呂布の穏やかな笑顔が、固い。
「知らないヤツの強さなんてわかるワケないからなあ。うん、オレも、弱い者いじめはしたくない」
「……あぁン!?誰が弱いやて?」
一歩踏み出す刈り上げマッチョを
「待て馬鹿落ち着け!」
韓当は立ち上がって抑えるが体格差はどうしようもなく、横に押し出されてしまう。
「この馬鹿力!呂布殿すまん、ここは冷静に」
「もう一回言うてみい!だ れ が 弱いってぇ!?」
凄む刈り上げを余裕で見返した呂布は、ニヤリと笑って言った。
「誰とは言ってねーが、アンタはオレより弱そうだ」
「!」
どうしようもない一瞬の沈黙に、韓当は顔を抑えて首を振る。もう駄目だ。
「…ンやとコラァ!表出ろや!」
「……甘かったか……」
対峙する2人の巨漢を眺めながら、韓当は後悔をこぼした。
「あの~、なんかすいません、ウチの殿が」
「?いや、こちらの見立てが甘かった、んだが?」
「でもそちらのお連れさんもなかなか、何て言うか、気合入ってますよねー」
「…あれはお恥ずかしい限りだが、いや、その前に」
「あ、始まるみたいですよ」
「お、ああ」
隣に現れた男を気にしつつ、韓当は2人に視線を戻す。
(いや、誰だあんた?)
「覚悟はええな、呂布ぅ!」
「いつでもいいぜ、ご自由にどうぞ?」
「!……死 に さ ら せこのボケがぁっ!」
動き出したこの刈り上げは、態度と同じで動作も大きい。ついでに、得物も。振りかぶられる鉄の塊を半目で見つつ、合わせるように呂布も右手の得物を引いた。あの大鉄鞭、刃で受けたら欠けちまうな。速くはないが力強い踏み込み、そして急加速する鉄塊に対し、刃を返し戟剣を叩き付ける。激しく心地よい衝撃が右腕を貫き肩に抜けた。この風体で、さすがに弱くはないか。歯を見せて笑いながら弾けた得物を再度右に引き戻し、2撃目を半歩の踏み込みと共に走らせる。すかさず迎撃に来る鉄塊。生じる爆音。今度は衝撃ごと打ち抜き、さらに踏み込むことで右腕を左に引き絞る。
(刃じゃないからいいだろ!)
3撃目、音を残した一閃は風を巻き上げ、
「ごぉわあっ!」
声を残した筋肉男は4、5歩分ほど離れた草むらまで吹き飛んでいた。
(黄蓋でこのざまか……)
予想通り、とはいえあまりに早い決着に、韓当は知らず真顔で呂布を見据えていた。
「おー、凄いですね」
「?いや、あんたの主君だろう?」
「いえいえ殿じゃなくてお連れさんですよ。ホラ、もう立ち上がってる」
言われて見れば、確かに黄蓋は立ち上がろうとしていた。が、さすがに動きがぎこちない。
(……あの馬鹿)
勝ち目などないのだ、大人しく寝ていればいいものを。目を伏せ小さく首を振ると、
「少々、失礼する」
韓当は仕方なしに歩き出した。
起き上がる黒い肉塊を眺めながら、呂布は念のため構えを取り直した。結構イイ感じに入ったと思ったが、あの裸は寒さだけじゃなく打撃にも強い特別製なんだろうか?裸なのに。
「呂布殿ー!」
横合いからの声に顔を向けると、小兵の韓当が両手を大きく振りながら近付いて来るのが見えた。この韓当、隠してはいるが相当の使い手と見える。これは、「次は私がお相手致す」とかいう展開か?
「……身の程知らずが余計な手間をかけさせてしまったが、いや噂に違わぬ見事な強さ、恐れ入った」
しかし目の前で頭を下げた韓当にその気配は無い。
「…違ったか」
「ん?」
「いや何でも」
「?」
怪訝な顔の韓当は、気を取り直して口を開く。
「どこ向いとんじゃコラァ!」
聞こえてきたのは別の声だった。呂布は向き直った。隣の韓当は動いた。
地を蹴る音も軽やかに、滑るように距離を詰める。立ち上がった刈り上げが金棒を担ぎ上げるその動作の間に眼前まで迫った韓当は、無言でむき出しの黒い脇腹を殴った。
「んぎがっ!」
奇妙な鳴き声を残し、崩れ落ちる筋肉。見事な手際である。やはり、できる。
そして足元の同僚をまるで気にせずこちらに戻って来た韓当は、再び頭を下げた。
「呂布殿、重ねての失礼、申し訳ない」
ゆっくりと顔を上げる小兵の将。
「そして、飛将軍殿」
その眼差しは真剣で、
「…その武で、あの孫策を、その性根を、打ちのめしてもらいたい」
その視線は、呂布の脇を抜け、その奥へ向かう。
呂布も顔を向けたその先には、こちらに向かい歩いて来る男の姿があった。華やかな赤い衣裳に身を包んだその男は、身体はさほど大きくなかったが、何か、大きな風格のようなものを纏っている。揺れる気配の奥、二つに分けた長い前髪の向こうに微かに見えるその荒々しい笑みは、確かに、いつか見た男を思い出させた。
「あれが、虎の子か……」