61 もうひとつの袁家
「…では、呂布は既に洛陽へと逃げていた、ということですかな?」
高都の町に攻め込むかのように、その北側に陣を敷いた袁紹軍本隊。その指揮官・逢紀は顔良からの報告を求め、町の中心にある屋敷に出向いていた。
「いかにも」
座して平然と答える顔良。
板張りの部屋は到底広いとは言えないが、それでもここは高都の中心、張楊の屋敷の一室である。上座を譲られてはいたが、湿った木材の匂いも、部屋に差しすぎる陽光も、どこからか吹き込む冷たい隙間風も、名門の重臣・逢紀には全てが気に入らなかった。前線で戦うしか能がないくせにその無駄に長い士官歴のために自身よりも高い地位にある顔良も、気に入らなかった。
「私の本隊より1日以上先行し休みなく進軍されたにもかかわらず、追いつけなかったと?」
「いかにも、左様」
「ほう……顔良殿ともあろうお方が、ねえ」
右目だけを大きく開き口を歪め、無口な将軍を見下す。顔良の表情は動かない。
「……まあいいでしょう」
歪めた口で薄く笑うと、逢紀は続けた。
「呂布が消えたとあれば、早急に北へ向かって頂かねばなりませんな。一日も早く再開すべき公孫瓉討伐、軍の中核たる顔良殿がその先陣を切ってこそ、勝利も確実になるというものですからなぁ」
顔良の部隊はここまで数日ほぼ休みなく駆けて来ている。さすがの顔良も鼻を鳴らした。
「…もとより。なれば、某はこれにて失礼致す」
答えを聞くこともなく立ち上がり、背を向ける。
「おや?顔良殿」
「…?」
「その槍、どうなされました?」
小さく吹き込んだ冷たい風に、顔良は踏み出した足を止めた。差し込む光が床を照らす。
「……」
季節外れの柔らかな日差しは、思いの外暖かい。
「……なに、酷使して壊れた、それだけにござる」
砕けた穂先が、立ち去るその背で穏やかに輝いていた。
冬の気まぐれのような陽光を跳ね返す黒い刃。その刀身を眺めていると握る右手に手応えが蘇り、自然と顔が緩む。そこに、覗き込む瞳。
「……高順」
「ん」
「何とかならんのか、あれは。いい加減気色悪いぞ」
げんなりとした張遼の声に問われた高順は、苦笑と共に首を振った。呂布だけなら止めようもあるが、今はどうしようもない。
崩壊したまま復興の気配もない洛陽の街の、未だ焦げた瓦礫の散らばる大通りを進む赤兎の巨体、その足取りは軽く、緩やかである。その背の2人、大きな男と小さな女の夫婦は、季節外れの陽気をその身に纏ったかのような様子で、後に続く高順以下呂布軍一同は距離を開けずにはいられないほどだった。
呂布が笑っているのは、武人・顔良の別れの一撃のためである。
以前のこちらから頼んでの一合では、呂布はあえて横振りを選んだ。重鎧を纏った顔良の最高の一撃は、その重さ全てを活かしての振り下ろし、これは間違いない。その最高と勝負したかったのだ。対して、丁度一日前にただ一合の再戦を申し込んできたあの武人は、あえて横振りをぶつけてきたのである。軽鎧を常用している呂布にとっては縦横にさほどの差は無いが、それでも威力は増したのだろう、真上から叩き付けた戟剣の黒刃は顔良の短槍の穂を打ち砕いた。とはいえ勢いは完全に殺されたので、引き分けと言って差し支えはない。さすがの剛腕、しかし何より嬉しいのは、わざわざ追撃隊を率いて来て、ただの一撃、それも律儀に前回から立場を逆転させての勝負を挑み、気持ち良く去っていった顔良のその心意気だった。
その呂布の前にちょこんと座る貂蝉はというと、暗闇の危地にしっかり助けに現れてくれた夫の絶大な信頼感・安心感とその上機嫌に包まれ、ニコニコが止まらなかった。暖かいのだ。平和なのだ。
「追い出されちゃって行く先も無くて、状況はめっちゃ悪いんですけどね…」
曹性の苦笑いにも優しさが多分に混じる。ちらりと董卓夫妻が思い出された。仲が良いのは良いことだ。
「とりあえず今日のところは、懐かしの洛陽で一泊、ですかね?」
大将代理として、高順は目を伏せ頷く。
「これだけ広ければ使える屋敷も残っているだろう。成廉、いくらか連れて見て回るぞ!」
「ウッス!」
動き出した張遼達を見送る曹性の目に、賑やかな都の喧噪が浮かんで、消えた。見る影もない破壊の跡は物寂しいが、しかし不思議とあの頃の平和な空気が残っているようにも感じられて、少し嬉しい気もした。
繁栄していた当時から守りに不向きな平地の都だった洛陽は、崩壊した現在では、どの勢力も手を出さない“空白地”と化していた。
帝を擁する残党軍―元董卓軍の李傕・郭汜が長安で睨みを利かせていることもあり、洛陽を手にするには再建のための人手以上に兵力が必要になる。しかも昔と違い周囲の各勢力は敵対しており、都・長安の暴政もあって交通は不自由、交易で利益が上がる目算も立たない。つまり、旨味がないのだ。そしてこの敬遠の事実が、前都・洛陽に、ある種の神聖性を持った新たな意味を産んでいた。即ち、
この不遇の洛陽を獲る = 帝を、都を取り戻し、天下に号令せんとする
その意思表示となっていたのである。
近隣の大勢力には、長安の残党軍に袁紹・袁術の2大袁家、そして青州を得て国力の増大した曹操がいたが、いずれも洛陽に立って周囲全てを敵に回せる程には突出していない。
このような事情があって、現在洛陽は奇妙な安全地帯となっていたのである。
「……なんかこう」
「?どうしました?」
「随分久しぶりな気がしやすねえ、皆揃ってる、ってのも」
「ああ、確かに。それでですかね、この感じは」
顔を見合わせた侯成と曹性は、意を得て笑い合った。
夜の廃都に明かりを灯し、ひとときの安息にその身を休める呂布軍。日中曹性がぼやいたように、その状況は悪く、先行きに明るい要素も特に無い。それでも、どこか余裕のある、むしろ久しぶりに自由を取り戻したかのような一行が、次に流れ行くその先は―
荊州北部、南陽郡・宛。
反董卓連合の頃、江東の虎・孫堅と手を組み華北の兄と袂を分かった袁術が本拠とする、中原から荊州への玄関口となる街である。肥沃な大地を持つ荊州と、長安・洛陽の両都を結ぶ街道の分岐点でもある宛の街は、北方と南方の文化の混じり合う商業都市であった。そして、袁家の3分の1、5万を超す大軍をを率いた袁術軍が入ることによりその規模は拡大、軍事面においても堅固な城塞都市へと変化しつつあった。
寒風吹く中、至る所で補強・増築工事が行われている宛の城壁。その一角に、明らかに異質な空気を纏う男達の姿があった。
「……これは、ちゃうやろ」
「…」
「韓当、お前なんとも思わんのか?」
「うるさい馬鹿、手動かせ」
言われた筋肉質の大男は、逆に完全に作業の手を止めた。上半身をはだけてその浅黒い身体を冬の寒空にさらしている角刈りのこの男、今は亡き江東の虎・孫堅の腹心の一人、黄蓋である。そしてその隣で作業を続けている小兵の男は
「いやいやどう考えてもおかしいやろ!?」
「おかしいのはお前だ馬鹿」
同じく腹心の一人、韓当であった。彼は髭に隠れた口から白い息を吐き、小さく首を振る。馬鹿は風邪をひかないらしい。
「俺は壁直すために生き残ったわけやないぞ?」
「あーそうだな」
「大体この壁、黄巾の時に俺らが壊した壁(※)やないか。こんなとこお頭に見られてみ?何言われるか」(※黄巾の乱時、この宛に立て籠もった黄巾賊を孫堅軍が撃破している)
「そうだな、まず服着ろ。んで手動かせ」
「いやンなこと言うかいな!」
孫堅の死後、玉砕覚悟の敵討ち、には行かず、親交のあった袁術軍に身を寄せた元孫堅軍。跡継ぎである長男・孫策がまだ半人前なこともあって、全兵権を袁術に預ける事実上の吸収を受け入れたため、今も孫策の傍に残っているのは黄蓋達腹心の将軍のみとなっていた。その彼らにしても、「前線に出ず孫策のいる宛に残る」という主張を通すためには、袁術の為に働かないわけにはいかず、今もこうして城壁の補修に参加しているのである。半ば海賊のような孫堅軍の中でも特に血の気の多かった黄蓋に不満が溜まるのは、当然のことであった。
「あまり大声を出すな。お主はそれでなくとも目立つのだ」
背後からの声に、2人が振り向く。
「程普、ええとこに!お前も何とか言うてくれ」
「珍しいな、わざわざここまで来るのは。何かあったのか?」
韓当の問いに、痩せ気味の初老の将軍は柔和な笑顔を見せた。孫堅軍でも将軍兼参謀だった彼は、いつもは孫策軍の代表として城に出仕している。部下を持たない今の黄蓋達にとっては、唯一の情報源であった。
「少々物騒な客が来る。お主ら、修理作業から解放されるかもしれんぞ?」
「戦か!相手は誰や!?」
「落ち着け。『かもしれん』てことは、攻めて来たわけじゃないんだろ?」
程普の細長い顔が頷く。
「うむ。兵数は1000足らずらしいからな」
「なんや、ホンマに客やないか。しょーもな」
宛の袁術軍は5万を超えている。近隣の拠点にも兵を配しており、合わせれば10万近い。一気に興味を失いそっぽを向く黄蓋。
「お前は、ちゃんと話を聞け。……で、物騒なのはどのへんだ?」
「その1000、全て黒塗りの騎兵という」
聞き手2人の動きが止まった。ゆっくりと振り向く真顔の黄蓋と、韓当の目が合う。戦ったことはないが、当然知っている。当代最強と謳われる、黒ずくめの騎馬隊。
「……そう、今度の客は、あの呂布軍だ」
不敵に告げる程普の声に、しかし韓当の頭には不安が溢れ出していた。
孫堅軍の連中の中で、おそらく自分だけが見た、呂布の姿。夜の洛陽で、丁度今のように城壁の上から見たあれは、もはや人ではなかった。武芸がどうの、才能がどうの、という次元の問題ではない。
しかし、ウチの若大将は、こっちの馬鹿よりもさらに頭の悪い馬鹿大将なのだ。
「なんと!あの呂布殿がここに!?」
豪勢な食事を前に、孫策はその手を止めて大声を出した。
孫策、字は伯符。江東の虎・孫堅の長男であり、17の頃に父と共に既に戦場に出ていた戦の申し子である。その整った顔立ちは未だ20前の少年のものだが、鍛えられた肉体は既に大人に引けをとらず、黄蓋達父の腹心を除けば袁術軍中に彼にかなう者はいなかった。身体に相応しく、声の大きさもまた相当なものである。ちなみに彼の言葉や発音は、江南訛りと中原の言葉が混ざり合い、非常に独特なものとなっていた。
「そうなのです。どうやら袁紹に追い出されて困っておるらしく、援助を求めているようなのですが…」
その対面、上座で地味な椅子に座っている袁術は、少々血色の悪い痩せた顔に相応しい力の無い声で、丁寧に説明する。
昔から反りが合わず、反董卓連合では正義だ何だと口ばかりで動こうとしなかった兄・袁紹を見限った袁術は、その悪巧みが似合う外見に反して真っ当な、筋を通す人物へと成長していた。そこには、当初代わりに戦わせるだけのつもりだった孫堅の、あまりに見事な「武人の意気」のようなものを肌で感じた影響があった。かの江東の虎は侮辱には容赦なかったが、味方の将兵や下々の者、そして刃を交えた敵にさえもある種尊敬されていた。そしてその声望・名声がありながら、見た目や雰囲気で見下されがちな袁術を、常に対等かそれ以上に扱ってくれたのだ。もはや返せぬその恩を、彼は息子の孫策に返すつもりだった。そのため、目下成長期の孫策には君主の自分と同等の十分な食事を採らせ、話す時には自然と言葉も丁寧になっていた。
「それはいい!是非来てもらいましょう!噂に高い飛将軍の武勇、この目で見られるまたと無い好機!我らが袁術軍にとっても、力強い味方になりましょう!」
「孫策は賛成ですか。私も困っている者は助けたい、のですが、彼には……」
「心配ご無用!」
少年らしく輝いていた笑顔に、わずかに青白い影が差す。
「……もし呂布殿の悪い噂がほんまなら、この僕が討ち取って御覧に入れますよ」