60 袁紹との決別
文醜を蹴散らし并州山中へと消えた呂布軍。彼らは晋陽へと直進し食料を補充した後、休む間もなく南下、平陽に入っていた。
「さて一休み、できるか?」
すぐ後ろに追手が、ということはないだろうが、いかんせん状況の把握はおざなりになっている。追撃部隊の規模さえ判らないのだ。動きの重い袁紹軍のこと余裕はあると思いたいが、こちらも1000騎のご新規様の分、相応に遅い。
「呂布、貴様は隊を町の南側へ連れて行け。斥候はこちらで出す」
「おう、頼む。張楊にも会わねーとな」
脚を止めた張遼を残し、騎馬隊を率いて半壊した町を駆ける。以前立ち寄った時よりも人影が多い。復興に向け、張楊の手腕が発揮されつつあるのだ。その人々が逃げるように次々と姿を隠す中、呂布は強く思った。ここに戦を持ち込むワケにはいかない。
(……)
呂布は振り向かず、意識だけを遠く背後の鄴へと向けた。すぐには迎えに行けそうにない。
「!」
角から顔を出しそうになる貂蝉の肩を掴んで引き戻し、即座にその口に手を当てて塞ぐ。
「…度々、失礼を」
小声でそうささやく高順の視線の先で、揃いの鎧を纏った騎兵が数騎、通りを駆け抜けて行った。兜に施された赤い意匠を見るに文醜の隊ではない、別の袁紹軍か。
と、左腕に軽い痛みが走った。小さな両手でその腕を掴み、不安そうに見上げる貂蝉と目が合う。高順は小さく苦笑した。劉備の一撃を受けた部分が完治していないのだろうが、丁度そこを掴まれるとは。
「少し急ぎましょう」
騎馬に後続の気配が無いことを確認し、2人は通りに出た。
文醜が出撃した隙に鄴を脱出してから5日、ついさっき高都に着いたところである。可能な限り急ぎはしたが、不慣れな貂蝉を連れての山中行軍ではこれが限界だった。むしろ少々無理をさせてしまっている。できればすぐにでも休息したいのだが、そこへ先程の騎兵が現れたのだ。
後続がいないということは、あちらも到着したばかりの先行偵隊だろう。張楊殿がこの高都にいるなら、あの袁紹軍より先に連絡を取っておきたい。
周囲に目を配りながら少し進むと、半壊した家屋の入口の影に見知った気配があった。手招きするその影は、近付くと小さく頭を下げる。状況確認と寝床の手配のために先行させておいた部下の1人。今は立場が逆転しているが、董卓軍時代、素人だった高順に諜報の技術を教えた、極めて優秀な男である。
「…奥へ」
短い言葉に頷きを返し、貂蝉の手を引いて中へ進む。と。
「いやはや、毎度バタバタしますなあ」
「!」
いつも変わらぬ笑顔で2人を出迎えたのは、当の張楊その人であった。
雄々しく大地を踏み鳴らし、紅く彩られた騎馬隊が街道を埋め進軍する。その先頭、ひと際紅い鎧の勇将・顔良は、高都が遠くに見えて来たところで隊の速度を落とした。
この辺りを取り仕切っている張楊は呂布と同じ元・丁原配下。逃げ込んだ呂布に協力し、待ち伏せなどされていては面倒だ。勢いを殺さぬ程度に速度を維持しつつ、斥候の戻りを待つ。
馬上で行く手を見据える顔良の眼には、楽しげに笑う呂布の姿が映っていた。今回の目的は「呂布軍の撃退」であり、あちらが領内から真っ直ぐ逃げ出すなら戦闘は起こらない。厳密に言えば高都は既に袁紹の領土ではなく、既にこれ以上追う必要は無いのだ。だが顔良には、確かめたいことがあった。今一度、呂布に会わねばならない。
小さく土煙を上げ、正面から斥候の1騎が戻って来る。
「町に呂布軍はおりません!姿を見た者もおらぬ模様!」
外れか。残念な、しかしどこか安堵したような矛盾した感情を、顔良は腹に呑み込んだ。
「よし。このまま、高都に入る」
「飛将軍!お待ちしてました!」
部隊を町の南側郊外に待機させた呂布の前に馬を駆って現れたのは、元・黒山賊の首領、張燕だった。
「おお張燕殿、平陽に来てたのか!…しかし『待ってた』ってのは何だ?」
「今の状況をお伝えせねば、と思いまして」
飛んで下馬し近寄ると、張燕は声を一段落とした。
「袁紹の追手は強引な進軍で相当距離を詰めてます。精鋭5、6000騎、顔良隊です」
「…顔良殿か」
背後から不穏な圧力のようなものを感じると思えば、あの武人だったか。
「感心してる余裕はありませんよ。後ろには袁紹軍の本隊が動いてます。数万の兵を山中にまで広げ、隙を完全に潰して進んでいるようです」
「そこまでするか?本気だな…」
今までは袁紹殿の意思は見えなかったのだが、この規模で本隊を動かしたとあればあちらも腹を決めたのだろう。となると気がかりなのは、
「鄴に残っている、高順達の動きは判らないか?」
“嫁の”とは聞けないが、実際高順だけなら心配などしない。
「鄴を出てはいるみたいですが、詳しいことまでは」
「そうか…」
「高都の張楊殿からも、今のところ連絡は…」
「殿!」
遠くから割って入った叫びに振り返ると、全力で駆けて来るのは成廉である。呂布の目の前で騎馬を荒々しく急停止させた成廉は、降りる間も惜しむように口を開いた。
「上から失礼します!どうやら時間が無いみたいッス!今日中にも、袁紹軍がここまで届きます!」
「今日!?早いにしても早いな」
拙速の袁紹軍の中でも、やはり顔良殿とその部隊は別格か。
「飛将軍、顔良は高都とこの平陽に向け、軍を二手に分けています。顔良自身は高都側を率いているとのこと。ここに敵が来るということは、より近い高都は既に乗り込まれているはずです。すぐに出発を」
呂布は少し、ほんの一瞬だけ考えた。目を向けた先が、彼方まで線として繋がる。
「そう、だな。成廉、張遼に伝えろ、このまま南に出て洛陽に向かえと」
「ウス!伝えてきます!」
「で、張燕殿。あちらさんの狙いはオレ達だ、無駄に戦うなよ?」
「大丈夫です。人足として建て直しに全力を出すよう、張楊殿にも言われてますから」
歯を見せる張燕に、つられて呂布も笑う。黒山賊の一部は戦いたくて兵として残ったんじゃなかったか?張楊のあの調子は、誰にも等しく効果があるらしい。
「よし!んじゃまあ、行くとするか」
気負いや力み無くそう言い、呂布は赤兎の元へと足を向けた。
高順の強さは自分が一番理解している。だが、顔良はお荷物付きで相手できるほど甘い相手ではない。ここでの戦を避けるため、兵は洛陽まで退く必要がある。となれば。
得物を手に愛馬に跨ると、大地を削り、単騎、駆け出す。
「ひ、飛将軍!どこへ!?」
背後で小さく聞こえた声に、呂布は笑顔で叫び返した。
「ちょっと、野暮用だ!」
仮眠から覚めると、外の気配は完全に夜になっていた。脚を組んでいたせいで、少々関節が固い。音を立てないよう気を遣いながら立ち上がった高順は、小さく息を吐いた。すぐ傍の暗がりには、汚れた毛布にくるまりボロボロの壁に寄りかかって寝息を立てている貂蝉の姿が見える。もう一度息を吐くと、気を取り直して意識を外に集中させた。人の、兵士の動く気配。近くはない。離れて行く。集中を続けたまま、高順は思った。
(若に合わせる顔が無いな)
高都の廃屋で高順達を出迎えた張楊は、味方であることを約束してくれた。そしてそのまま逃亡の手配を、というところで、ほぼ同時に到着した袁紹軍が町に入ってしまったのだ。張楊は町の責任者として、袁紹軍の将の元へと出向いて行った。高順は当然隙があれば脱出するつもりだったが、よく統制の取れた部隊で行動も早く、巡回に隙が無い。幸い張楊が簡単な食事と毛布を用意してくれていたので、そのまま休息を取ることにしたのだ。この廃屋は丁度外から内側が見えないように半壊しており、音を立てなければまず見つかることはない。部下達はそれぞれ住人を装い、情報を集めに出ていた。
(日が昇れば、退いてくれるか?)
それともそのまま南に向かうのか。どちらにせよ、町を出てくれればそれでいい。仮眠のおかげで十分に体力は持つ。冴えはじめる感覚が、それまでよりさらに鋭く気配を捉える。近付いて来る、大きな気配。この夜中に隠すこともない、力強い、武人の気。敵将か。単独行動をしているなら、あるいは討ち取れば。
「女、動くな」
静寂の中を太い声が通った。動きが止まる。女?
「間者か。出て来るでござる」
……ござる?いや、それよりも、今ここで「間者の女」となると。
高順は静かに外を確認した。声の方向、曲がり角の向こうから明かりが漏れている。そしてその手前には、間者の女――部下の1人の背中が見えた。高順は歯を噛みしめ、深く呼吸を始める。馬騰の付けてくれた下女2人、彼女達は優秀な兵士だが、諜報は専門ではない。文醜程度ならともかく、一流の相手には隠密の技量が足りなかったか。ゆっくりと血が巡り、動く準備が整っていく。袁紹軍を侮った、自分の判断が招いたことだ。明かりが揺らぎ、武人の気配が近付く。優秀な兵士であるが故に、彼女は動くだろう。始まってからでは遅い。直感がそう告げている。足元の木片を拾うと小屋から半身乗り出し、数軒離れた小屋へと放り投げると同時に駆け出した。
静寂の中で、木のぶつかる音は思いの外響いた。それを合図に、部下の女が短剣を抜く。大きな気配が動き、炎とともに敵将が角から姿を見せた。動き出しが速い。それでいて重々しい斬撃が部下の胴へと向かっている。間に合うか?二刀を抜き放つ。後ろに跳ねつつ受ける部下の短い刀身に、敵将の短槍が触れる。何の抵抗もなく進む刃は、軽い木片を打ち飛ばすかのように部下の身体を持ち上げた。短剣は押し込まれ、くの字に曲がった胴体に刃がめり込む。高順は両手の刃を叩き付けた。
盛大に金属音が響く中、高順は着地した。同じく落下した部下は倒れたままだが、致命傷は免れただろう。しかし、相当な怪力である。高順も、弾き返されたのだ。
「…仲間を助けに来たのか。見上げた精神でござるな」
重厚巨大な鎧兜を纏った敵将はそう言いながら左手の松明を地面に置くと、背中に差したもう一本の短槍を手に取った。闇夜の炎に照らされたその巨体はまさに赤い鬼の如く、放つ気の重さはそれが実力を伴った迫力であることを示していた。
これは、簡単に済ませられる相手ではない。しかも先程響かせた金音で、方々から声が上がり始めている。さて、この場をどうやって切り抜け、奥方を守るか?
「顔良様!先程の音は!?」
赤鬼の後ろに現れた敵兵が声をかける。眉一つ動かさずに、顔良と呼ばれた敵将は答えた。
「間者でござる。が、こやつはいい。周囲を警戒せよ」
「ハハッ!」
命に従い、兵士は奥の闇へと消えた。さらにまずい。万一奥方のいる小屋を調べられたら一巻の終わりである。相手の力量がどうであれ、やるしかない。高順の細い目に殺気が宿る。2本の短槍にあの剛力、全身を覆う鎧。重い構えに狙う隙は無い。ならば、創り出すまで。音もなく地を蹴り、2本の刃が風と舞う。
小兵の間者が地の底から放った斬り上げは、恐ろしくも見事な一撃だった。とっさに受け流した傍から無数の斬撃が飛来し、捌き切った時には既に間合いの外に跳んでいる。その連撃も、全て無駄なく正確な狙いを持っていた。両手に短槍を構えていなければ防げなかっただろう。生半な技量ではない。
「貴殿、何者か?ただの間者ではないな」
顔良の問いに答える気配は無く、間者は再び地を蹴った。その低い体勢に対し、力を込めて構えを上段に移す。素性は知らぬが相手は達人、生け捕りなどという甘い考えは死を招く。突進から眼前で伸び上がる、先程と同じ動作。確かに見事であったが二度は甘い。叩き潰す!
あの剛力でもって全力で振り下ろされる二つの刃の迫力は、呂布の一撃に勝るとも劣らない。自らの地を這う姿勢と闇夜がその圧力を増幅し、身体が直接押されていると錯覚する。
ここだ。
怪力に加え二刀を扱う相手に「後を考えない全力の一撃」を出させるのは難しい。初手からの狙い通りに進んだ、今、この機に決める。大気を押し込む圧力の中、風を切るように閃く高順の二刀は当然のように先の倍速で翻り、描いた円月は迫る双刃から奪った力を乗せて旋風と化す。
叩き付けた刃が夜の町に再び金音を響かせる。三度距離を取った高順は、空になった右手の痺れを振り払った。剣は、というと、睨む先、顔良の脇腹の、切り裂いた鎧に食い込んだままになっている。狙いを外された。両手同時に受け流すのは確かに初めてだったが、とはいえ完璧に読み切って放った一撃に対し、崩れた体勢の中で重心を落とし刃に装甲を当てるとは。鎧に残った剣が邪魔となり、左の刀も脇腹を浅く裂くに留まった。致命傷には届かない。高順はほんの少し眉を寄せた。厄介な相手だ。
自らの鎧を軋ませ、剣を引き剥がす。その動きで脇腹の肉がえぐれ、改めて血が流れ出た。それでも表情を変えず、顔良は剣を捨て、口を開く。
「なんと奇怪な、そして見事な技よ」
斬撃を、受けた刃に吸い込まれたのだ。腕を掴んで引き込まれたかと思うほどの力で体勢は前に崩された。崩れるに任せてさらに膝を折ることで鎧で受けられたが、まさに目にも止まらぬ高速の剣閃、この程度で済んだのは僥倖である。
顔良は両手の槍を握り直した。痛みはあるが、傷は骨には届いていない。腰を落とし構えを取る。相手を見れば、残った刀を右手に移し、暗闇に溶けるように静かに立っている。向かって来ない、逃げもしない。技もそうだが間者にしては妙な男だ。
「…どうした?刀だけでは戦えん、でござるか?」
そんな筈がない。解っていながら問うと、顔良はゆっくりと間合いを詰め始めた。
高順は悩んでいた。
敵将を討つなら突っ込むべきだ。先手は取った、勝てる見込みは高いが、しかし即殺とはいくまい。時間がかかればそれだけ奥方の危険が増す。闇に紛れて逃げるか?潜む部下は3人、自分が敵を引き付ければ奥方を脱出させられるかも知れない。が、相手は一流、奥方から離れるのは相当な危険をはらむ。若の代わりに傍にいる身で、その賭けには出られない。
重装甲の赤鬼が少しずつ近付いている。高順は細い目を閉じた。進退共に下策、そして浮かんだこの選択は。
薄く笑いながら細く目を開く。理屈で考えれば意味不明な、しかし不思議な確信を以って高順は決断する。
待つとしよう。
貂蝉が目を覚ました時、ハッキリ判る程に周囲に人の気配があった。もたれていたボロボロの壁のすぐ向こうにも、人が大勢いる。声もする。ざわめきというか、どよめきというか。そしていつも聞いている、剣を打ち合う音。
「…どうした、何を狙っているでござる?」
……ござる?じゃなくて、知らない声だ。尋ねられたのは?そういえば、高順さんがいない。外を確認したい、けど顔を出すのはどうだろう?大勢いる外の人たちが味方とは思えない。けど高順さんは?他の皆は?きょろきょろと見回しても暗くて狭い廃屋の中には、何にもない。誰もいない。どうしよう!?
そんな貂蝉の耳に届いた言葉が、迷いを吹き飛ばす。
「…ま、まさか!呂布だ、呂布がいるぞー!」
その味方の声に振り向いた顔良軍の兵士は、横からひょっこり顔を出した黒髪の少女に心底驚いた。そして声を上げる間もなく跳ね飛ばされた。
「お、貂蝉!いいところに出て来るな!」
髪を大きく揺らすほどの風を起こし、地響きと共に闇の中から降ってきた大きな大きな親しい気配は、明るい声と共に力強い腕をこっちに差し伸べる。迷わずしがみつくと、抱き寄せるように胸の前に持ち上げられた。
「ケガはないか?」
笑っているけど、息が荒い。赤兎ちゃんも、湯気が出るくらい汗をかいている。貂蝉も笑顔で頷いてみせた。
「けど、高順さんが…」
「若、待ちましたよ」
「!」
その高順はすぐ横にいた。いつの間にか、貂蝉が隠れていた小屋の上に片膝をついて座っている。
「いや悪ぃ、なんせ道が暗くってな」
視線を交わす二人を見て、貂蝉の心は温かくなっていく。もう、大丈夫。
「静まれぇい!」
突如現れた呂布に騒然としていた周囲の兵を、顔良の一喝が引き締める。先程まで行われていた高順との一騎討ちを囲む分厚い兵士の輪の中、勝負を途中で放棄された武人は少々憮然とした表情で呂布の前に立った。
「…呂布殿の配下でござったか」
「おお、顔良殿。やはりここまで来てたのか。さすがに速いな」
呂布は貂蝉の頭を優しく叩くと、静かに赤兎から降りた。構えは取らず、親しげに話しかける。
「オレは袁紹殿に刃を向けるつもりはないぞ。もちろん、ここに居座るつもりもない。見逃しちゃあもらえないか?」
対して顔良も小さく笑った。
「某の任は呂布軍を領外に追い出すこと。去ると言うならばこれ以上追う理由はござらん。そちらの間者殿も、正体が判った以上刃を交える理由はなくなり申した」
しかしその言葉とは裏腹に、両手の短槍を身体の右側に引いて構える顔良。
「……が、呂布殿。貴殿には、個人的に用がござる」
「おいおい、好きだな~顔良殿も。いいのかい?」
にやりと笑い戟剣を構える呂布。
「一合で結構でござる。全力で、お願い致す」
その言葉に両者は腰を深く落とし、力を、気を溜める。冬の夜の冷気が一層張り詰め、徐々に熱くなっていく。1000を越す兵が固唾を飲んで見守る中、音の途絶えたその瞬間に、双方同時に踏み込んだ。
赤い鬼の放った重々しい横殴りの2連撃が大気を震わせ、遠い篝火が揺れる。対する呂布の放った渾身の一撃は黒い閃光となって闇を貫く。
最後に響き渡った轟音は、真の武人との、そして袁紹軍との別れの挨拶となった。