5 董卓軍への夜襲
少し時間をさかのぼって。
洛陽門外、北西部。
丁原は、斥候の報告を待っていた。
夜襲は、今のところ成功している。ここまで、三つの陣を続けて抜いてきたのだ。どの陣でも、并州の騎馬隊の前に、董卓兵は反撃もせず陣を捨てて逃げ出した。既に戦利品は相当な量になっている。
弱い。昨日今日傘下に入った都の兵が中心の陣、やはり腰抜け揃いということか。もちろん、罠の可能性もある。が。
「見てきやしたぜ、親父!次の陣も一緒です!周りに伏兵の気配はねえ!」
にやけ面の斥候が大声で報告しながら馳せ戻る。丁原は粗暴な笑みを浮かべた。
獲れるものは、ギリギリまで獲ればいい。
「よぉし、お前ら!こっからは早いモン勝ちだ!好きなようにブン獲って来いや!」
後ろに控える騎馬隊に向かってそう叫ぶと、何倍もの野蛮な喊声が上がる。と共に、我先に皆が駆け出した。土煙が上がり、一時視界がなくなる。
視界が戻ると、そこには丁原の他、直属の部下数十騎が残っていた。丁原は口の端だけで笑うと
「先に行け。殿は俺がつく」
静かに命令を下した。数十騎が等間隔に散開しながら、ゆっくりと前進を始める。
解っているのだ。丁原が、ここを引き際と判断したことを。
ここまでの敵陣の脆さを考えれば、誘いである公算は高い。伏兵に包まれる位置にいては命取りである。先の陣までに得た獲得物は輸送隊にまとめられ、先刻并州へと出発しているし、主力部隊の大半は奪った陣に待機させてある。
つまり、いつでも退けるのだ。それでも前進するのは、単に「獲れるだけ獲る」という姿勢の現れか、あるいは、現状の危機や裏の意図に気づかない、出来の悪い部下を篩にかけるためか。
丁原以下、30足らずの騎兵隊は、歩調を早めることなく前進を続けた。
無人の陣に雪崩込んだ丁原軍は、さすがに異変に気づいた。空なのだ。正面から見える部分以外、その陣には、何も無かった。
先頭が停止したため、後続に押されて集団が縮む。すぐには反転できない。ならば、と、見せかけの陣を突き抜けるべく前進を再開するまでの、僅かな時間。
集団の中央の一騎が、突如馬上から崩れ落ちた。注目が集まった先には、深く突き立った、矢。
動きを止め、注目する。一連の動作が、周囲に伝播する、そのほんの僅かな隙。その一瞬に、察知して駆け出した者、見て気づいた者、ようやく到着した者、全てに等しく、鋭い雨が降り注いだ。
(見事な攻め手だ)
偽の陣を見下ろす小高い丘の上で、馬上の公孫瓉は感心して頷いた。
公孫瓉、字は伯珪。并州の北東、幽州の有力者で、長髪と白い鎧姿が目を引くが、北の異民族との戦いや反乱鎮圧で名を上げた勇将でもある。何故か白色を好み、自身の馬も白馬である彼は、騎兵、特に騎射を用いた戦闘を得意としていた。
戦場を駆ける騎兵に矢を射掛けるのは難しいものだが、偽の陣という目標で足を止めさせ、その瞬間を狙って射た、その読みと、手際の良さ。北方の軽装騎兵には、相当手痛い打撃になったはずだ。
そして、どうにか撤退すべく動き出そうとしている丁原軍を、左右から挟撃にかかる部隊が見える。両翼とも数はさほど多くないが、速い。おそらく董卓本軍、西涼の部隊だろう。
「行きますか?」
「そうだな、そのために来たのだから」
真剣な表情で董卓軍を凝視している隣の青年武将に問われ、目的を思い出す。
帝を勝手に変えてしまった明らかなる逆賊・董卓に対し、諸侯の対応はと言えば、故郷に逃げ戻るか、尻尾を振って傘下に入るかで、どちらにしても情けないものだった。そんな中、丁原が董卓軍に夜襲を掛ける、という情報が入った。ガラの悪さが有名なだけはあって、なかなか骨がある。それならば、と兵を出したのだ。夜襲の情報が漏れていた以上、返り討ちの可能性は高い。こちらはそれを助ける意図も込めて、秘密裏に、である。
董卓軍の手際に感心している場合ではない。
(それにしても)
突撃の命令の前に、改めて戦場を見る。罠にかかった丁原軍は残り1000といったところである。明らかに少ない。大半が後方待機していることは、斥候から聞いていた。
(本隊を直前の陣に残して進むとは、なんと鼻の効く男だ)
「これより我が軍は丁原軍の助勢に入る!攻撃目標は、董卓軍、左翼!後方から撃破の後、右翼に当たる!」
右手を挙げ、
「全軍、突撃!」
先程声をかけてきた青年・趙雲を先頭に、幽州の騎馬隊は夜の丘を一気に駆け下りる。
前方に見える自軍の明かり、その左右の闇に土煙を確認したとき、丁原は既に後方の自陣へ向かって駆け始めていた。直属数十騎も、それに追随する。
(ま、こんなところか)
読み通りの罠を、鼻で笑う。
余裕を持っての撤退である。さほど急いではいなかった。そのため、左手の丘から見知らぬ騎馬隊が現れたときにはさすがの丁原も焦り、全力で駆けた。
しかしその騎馬隊はこちらを無視し、そのまま後方、おそらく馬鹿な部下達が罠にかかっている方へと駆けて行った。
ある程度距離を取ったところで脚を止め、後ろを確認する。と、ゆっくりこちらに向かってくる騎影が、3つ。
旗を掲げている以上、一軍の将であろう。その旗に「公孫」の字がかろうじて見える距離に来たところで、向こうが声を上げた。
「私は幽州の公孫瓉と申す者!丁原殿とお見受けする!」
聞いた名から思い出された顔は、スカしていて気に入らない。が、将どころか首領である。無碍にあしらう訳にもいかない。
「いかにも俺は丁原だが、幽州殿が何用だ?」
公孫瓉一行は、かろうじて互いの顔が見える距離まで来て、脚を止めた。
「逆賊・董卓を討たんとする貴殿の志に共感した次第。我らは微力なれど、ご助勢させて頂きたく」
一旦、騎馬隊が駆けていった方を向き、涼しげな笑みを浮かべて振り返ると
「宜しかったかな?」
(…気にいらねぇ野郎だ)
宜しいも何も、幽州軍は既に助勢に向かっており、しかも戦場は後方で今さら止めることはできない。今日の夜襲は狙い通り成功したが、そもそも数の上では圧倒的不利であり、援軍を断る手はない。
聞くまでもない、答えの解った質問なのだ。それを、あの笑い方。
「申し出はありがてえが、今日のところは撤収だ。残りの連中を助けてくれるってんなら、頼むわ」
見捨てた連中を助ける価値などほとんど無いが、董卓の兵力を減らしてくれるのはありがたい。
(せいぜい気張れや、幽州殿)
丁原は右手を軽く挙げて部下を促すと、挨拶も交わさずに馬首をめぐらせた。
その背に律儀に礼を送ると、公孫瓉もまた、後方に離れた自軍の方へ向かう。
幽州軍の先頭を駆ける趙雲の視線の先には、董卓軍の最高尾がはっきり映っている。
良い距離だ。
槍を左手に持ち変え、同じ左手に持つ弓に、矢をつがえる。
奇しくもほぼ同刻に、洛陽・董卓邸前の呂布と同じ動作を取ったこの青年、名を趙雲、字は子竜という。
幽州は常山出身で、中肉中背だが良く鍛えられた頑強な身体をしている。異民族との諍いや漢の混乱の中で育った彼は、自然、強さを求めるようになった。個人の強さ、集団の強さ、その両方を、である。そして少年の頃から強者を求めて放浪してきた彼は、若くして既に相当な武術を身につけていた。
今は同郷の縁で公孫瓉の世話になっているが、あくまで客将としてであり、主従ではない。仕える主を探すのは、まだ早い。そう考えていた。
趙雲が弓を持ったのを合図に、後続の騎馬隊も一斉に弓を構える。
狙って当てるのはたやすいが、後方の一騎を除いたところで効果は薄い。趙雲は弓を引き絞ると、前を行く騎馬集団の上、空中に向けて矢を放った。
狙うのは先頭。実数を減らすより、疾駆する敵騎馬隊に動揺を起こし、勢いを殺すことが肝要なのだ。その後の突撃を最大限に活かすために。
背後からも、次々と矢が放たれる。
(この精度の騎射。一騎馬隊の攻撃としては最高峰だろうな)
指示せずとも、全員が狙いを心得ている。理想的だ。
弓を鞍にかけ、槍を右手に持ち直す。矢が届き、前方の敵部隊が一気に減速した。
あとは、一撃で討ち果たすのみ。静かに、大きく息を吸い込み、全身に気を満たす。
罠にかけた敵の脇腹に突撃をかける最中に後方から射掛けられ、何事かと脚を止めたところに猛然と突撃をかけられて、董卓軍の挟撃部隊・左翼は一気に半数以下になっていた。
「なんだコリャあ?聞いてねえぞ!」
左翼を率いる将、李傕は誰にともなく怒声を上げた。
少し太り気味だが腕には覚えがある李傕は、頭の回転はあまり良くなかったが、それを自覚もしていた。だから、作戦は参軍の賈詡に全て任せたのだ。罠にかけ、撃破するだけの楽勝の戦と聞いていたのに、これは一体どういうことだ?
勢いよく戦の音が近付いてくる。敵の突撃は終わったわけではない。今はこの場を何とかして、文句を言うのはその後だ。
「お前ら、奇襲はヤメだ!各自迂回して右側に合流しろぉっ!」
西涼から共に出てきた連中は気が荒い。やられたらやり返すのが当然で、今も反撃に出ようとしている者が大半である。しかし背後から奇襲されて、この場で押し返せるワケがない。一応、一軍を任されているのだ、これ以上部下を無駄死にさせられない。敵の数もわからないが、ここは迅速に引く。直感的にそう決め、自分も駆け出そうとした、その時。
「董卓軍・李傕将軍!お手合わせを所望する!」
背後からの声。振り向くと、声の主と思しき青年が血で汚れた槍を構え、鋭くこちらを見据えていた。
「威勢がいいな、若造。お前が隊長かぁ?」
体格で勝っている、間違っても負けはない。一目でそう判断した李傕は、余裕を見せた。この一騎討ちで、撤退の時間稼ぎどころか、勝って状況をひっくり返せる、かもしれない。
「常山の趙子竜、参る!」
しかし若造は一気にかかってきた。
慌てて構えをとろうとした李傕の胸元に、恐るべき速度で穂先が迫る。なんとか受け流した、と思った直後、二段目の突きが右肩を撃った。鎧に阻まれて刺さりはしなかったが、その衝撃で体制が崩れ、落馬しそうになる。それを脚の力加減だけで騎馬を操って、どうにか免れた。
勝てない。
一瞬で考えを変えた李傕は、逃げる機会を窺い始めた。
(さすが涼州の将、かなりの騎乗技術だ)
攻めの手を休めないままで、趙雲は感心した。
眼前の小太りの男は腕力も武術も中途半端だが、こちらの攻めを騎馬と共に受けることで、しのいでいる。防ぎ、流す、その時々に応じて、自然に騎馬もそれを助けるように姿勢を変え、動いていた。初撃の二段突きでも、完全に体勢を崩しながら、馬に自身を拾わせるようにして持ち直したのだ。あれは、並ではない。
その相手に防御に専念されているため、勝負を決めるには少々手間がかかりそうだ。一撫でに討てるならば、あるいは予想外の剛の者ならば、と思って単騎で駆けてきたが、
(これは、どちらでもない)
左翼は追い散らしたが、まだ右翼を攻めねばならない。どうでもいい敵将は、捨て置くに限る。あえて攻め手を緩めると、李傕の方もそれを待っていたのか一気に背を向け、一目散に逃げ出した。当然、追いはしない。
(引き際、逃げ足も騎乗技術のなせるワザ、か?)
周囲を確認すると、敵兵の姿は既になかった。手早く部隊をまとめ、次に向かう。
「郭汜将軍、李傕将軍が来ました」
今まさに敵を挟撃しているはずの味方の将を見つけても、賈詡は冷静だった。
賈詡、字は文和。董卓軍には数少ない知力派であり、自身もその智謀に自信があった。乱世を己の智でどうこうしよう、などという野心はないが、己の人生に起こる全てを、己の智謀をもって打開しよう、と考えていた。そのための努力は惜しまず、それが楽しくもあった。
さっきから、左翼の兵がこちらに逃げてきている。何かしら攻撃を受けたのだろうが、果たして相手はどこの軍だ?丁原軍には罠を罠で返すような知者はいない。おそらく別勢力だろうが、敵対候補が多くて予測は困難である。実際襲われた李傕に聞けば、正体が判るかもしれない。
「李傕!何やってんだお前はよ!」
落ち着いた賈詡とは対照的に、隣の痩せた将軍は甲高い声で叫んだ。
今回の挟撃の右翼・本隊の将軍、郭汜。細身の外見と高い声に似合わず、董卓軍の中でも5本の指に入る武勇の持ち主であり、李傕とは幼少時からの親友であった。
「おう郭汜ぃ!違うんだって、いきなり矢は降ってくるわ突撃喰らうわでよぉ。やい賈詡、お前奇襲掛けるだけで楽勝だって言って」
「将軍、敵はどこの軍でしたか?」
苦情は無視し、割り込む。知らぬ敵のことをとやかく言われても困る。
「あぁ?どこの軍かなんかわかるかよ…え~っとな、何かえらく強ぇ若造が将軍で…趙、趙なんとか、って名乗ってたかな」
(若い将、趙…。趙雲、か。騎射からの突撃といい、おそらく公孫瓉軍)
人材が何より重要な乱世である。賈詡の頭脳において趙雲の名は、重要人物として記憶されていた。武者修行に明け暮れ、数多の武術を収め、その上戦上手。主君は定めていないが、義理忠節を重んじる。味方に欲しい逸材である。が、その気質は西涼ヤクザを認めまい。しかも、さしあたって今は追手である。
「敵はおそらく幽州公孫瓉軍。すぐにもこちらに向かってきましょう。丁原軍は十分討ちましたし、これ以上の戦果は期待できません。ここは撤退すべきと考えます」
「やられっぱなしで帰れってのか?」
戦果はあげられないと言っているのに、この細い方は。
「公孫瓉の兵を減らしたところで、あちらは結局幽州へ帰るのみ。こちらに何の利もありません。西涼の精鋭に犠牲を出してまでやることではないでしょう」
「そうだ郭汜、并州の奴らはもういねぇんだし、退こうや。大体あの若造、めんどくさそうな奴だったぜ」
太い方は、憶病さの分話が通じる。比較的、だが。
「そうか?じゃあ、退くか」
李傕の言葉に、郭汜はさっそく振り向き、部下に撤退の命令を出そうとする。
「郭汜将軍。せっかく李傕将軍もいることですし、ここは隊を二手に分けましょう。判断に迷えば追撃の脚も鈍るでしょうし、深追いしてくるようなら取って返して挟撃することもできます」
単体で真っ直ぐ逃げては、左翼の二の舞になりかねない。という逃げ腰の本音は、言わない方が良いだろう。
「お、そいつはイイな。よし李傕、半分は任せたぜ」
「おぉ、任せろぃ」
二人の将軍は、細かい指示もなく簡単に隊を分割した。こういうとっさの融通が利くのは、兵卒と将の距離が近い董卓軍の長所である。これで、趙雲は追って来るまい。領地が接してすらいないのだ。あちらにとっても、董卓軍の兵数を無理に減らすことに何の得もない。
(しかし、公孫瓉軍、か。情報不足・認識不足。改めなければ)
撤退の中、賈詡は反省点を得たことを悔しくも、嬉しくも思っていた。
賈詡の予想通り、趙雲は二手に分かれた董卓軍を見て追撃を止めた。個人的には郭汜とも手合わせしてみたかったが、部隊を危険にさらしてまでやることではない。李傕があの程度なら、まあそこまで大きな差はないだろう。この戦は、ここまでだ。
洛陽の北を、東へと進む。公孫瓉の陣は、洛陽の北東、かなり離れた位置にあった。あとは幽州に帰るだけのため、進軍はゆっくりとしたものだ。暇な道中、趙雲は現状興味のある強者を挙げてみる。
董卓軍では、やはり華雄。董卓本人もかなりの武人と聞くが、これは機会があるまい。しかも、洛陽からは離れるところである。幽州に戻ると、最寄の勢力は、冀州の袁紹。たしか顔良・文醜という義兄弟がいた。このまま公孫瓉の元にいれば一戦交えることもあるだろうが、果たしてこのままで良いものか?強者を求めるには気ままに放浪している方が都合が良いし、そろそろ真の主君を求めても良い気もしてきている。西涼の雄・馬騰や、江東の虎と呼ばれる孫堅などは、その武名もあって、是非一度会ってみたい。
と、前方に歩兵の一団らしき影が見えた。火の一つも灯していないが、奇襲部隊というよりは、敗残兵のようである。董卓軍の待ち伏せ、という気配ではないし、実際襲ってくる様子もない。一応警戒しながらそのまま進軍を続けると、あちらも警戒しているのか、騎兵が2騎、脚を止めてこちらを窺い、歩兵を先に進ませているようだ。
無駄な戦いは嫌いだ。趙雲はまだ少し距離のあるうちに呼びかけることにした。
「こちらは、幽州、公孫瓉軍は、趙雲と申す!攻撃の意思はない!そちらは、何者だ!」
向こうの2騎の影が近付き、少し間が空いてから、返事があった。
「先に名乗ってくれたこと、感謝する!俺は呂布!呂布、奉先だ!」