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56 飛将軍

 話を聞く前から、文醜ぶんしゅうは不機嫌だった。

 多勢に無勢とはいえ黒山賊ごときに後れを取り、兵を失い兵糧まで奪われ、一撃加えることもできないまま退却してきたのだ。南方での賊軍討伐の功績も全て忘れ、怒りと苛立ちに塗り潰された文醜がぎょうの街に戻ったのは、日が落ちた後だった。


「まずはご苦労、と言っておこうかな?文醜」


 他人に会いたくない夜にわざわざ訪ねて来たのは、最も会いたくない男である。小さく髭を生やした陰険な顔を嫌味に歪ませた許攸きょゆうは、いつもの尊大な態度でそう言った。

 君主・袁紹えんしょうと幼い頃からの友人だというこの嫌味な軍師は、まるで君主の代理であるかのように振舞う。武官全般と折り合いの悪い軍師連中のなかでも、ひときわ鼻につくのがこの許攸であった。しかし、今や本拠地となったこの大都市・鄴を無血開城させたその進言、功績は認めざるを得ず、それが余計に腹の立つところでもあった。

 今さら嫌悪感を隠す意味は無い。文醜は無愛想に尋ねた。

「……このような夜更けにわざわざ何用ですかな?」

「面白い話があるものでな。どうしても貴殿には早く伝えてやりたかったのだ」

 許攸は嫌味な性格を隠すことなく顔を上に向け、大柄な文醜を見下す。

「あの呂布が、我が陣営に加わったのだ」

「……ほう」

 退却の命令を報せに来た時に、呂布が訪れることは聞いていた。驚く程のことは無い。

「これが噂に違わぬ剛の者でな。顔良がんりょうと互角に打ち合うほどの武勇に、おそろしいほどの偉丈夫。あれは、貴殿以上ではないかな?」

 文醜の眉間に皺が寄った。ヤクザに興味が無い文醜でも噂程度には知っている。100万を相手に戦うその武は天下無双、そして女欲しさに養父を殺した、狂ったヤクザの狂った息子。真に受ける気はないが、かといってそんな噂の立つような男と比べられ、劣る、などと言われるのは心外極まる。

「……礼節兼ね持つ顔良殿のこと、相手を思い手加減されたのでしょう」

 そこを堪えて言う文醜。

「であれば良いが。まあ、すぐに判ることだ。貴殿の帰還を待たず呂布は出発したのでな」

「出発?北、ですか?」

 北の公孫瓉との戦いには、自分が参加する予定だったはずだ。もっとも己の不手際で帰還が遅れた以上、変更があっても異議は無い。

「違うわ。貴殿が敗れた、黒山討伐よ」

「な!」

「僅かな手勢のみで出て行くあたりはさすがの猪武者よ。だが、万が一あれが勝つことがあれば、のう?」

 嫌らしい笑みの前に文醜は言葉を詰まらせた。黒山賊討伐に出ただと?新参の狂人が、勝算があるというのか!?何たる屈辱!だがこれは許攸の挑発、乗るのは気に入らない。湧き起こる怒りを抑え、どうにか頭を働かせる。黒山賊はただの賊ではない。良く統率が取れており用兵も鋭く、そして万余の大軍である。簡単に勝てる相手ではない。まして手勢のみでなど…

「文醜、貴殿は3000率いて逃げ帰ったのだったか?呂布の奴は100騎程で出て行きおったぞ。葬式のような黒い鎧装束の一団、なかなかに勇ましかったがな」

 ……黒い鎧装束(、、、、、)?直前の嫌味は通り過ぎていった。先日、こちらの背後を突いて兵糧を奪っていった黒山賊は、100騎程の、黒い騎兵だった。そして、さらに思い出す。その前に出会った「若」と呼ばれる大男の武芸者。そういえば、名を名乗らなかった。自分より大きい武芸者などそうはいない。呂布は、顔良殿や自分よりも大柄だ、と許攸は言った。

 あれが、呂布ならば。身を偽り、こちらの隙を突いて食糧を奪った。そして今、陣中に入り込み、勝てるわけのない小数で黒山賊討伐に向かっている。

 もはや眼前の嫌味な軍師などどうでもよかった。既に、敵の策に嵌っている!

「いかん!そやつこそ、呂布こそが、黒山賊ではないか!」




 その黒山賊の首領と刃を交えんと、今まさに呂布は駆け出していた。松明の火が闇夜に光の一筆を走らせる。冷えた空気を震わす蹄音を裂き、呂布は叫んだ。

「右から行く!あっちも自由だ、思い切り飛ばすぞ!」

「ぅオッス!」

 返事は成廉せいれんのみ、しかし一騎たりとも遅れてはいない。確認も心配もせず、呂布は全速力へと突き進む。


 迎え撃つ張燕ちょうえんに油断は無い。暗闇の中で揺れ迫る火の玉の速度は掴みづらいが、相当に速いのは間違いないのだ。瞬時に動きを読む。左翼への、直進。

「あの火の左へ射掛けろ!大雑把でいい!」

 背後で上がる喚声に、無数の弓の音が連なる。張燕は左手の松明を高く掲げ、大きく横に振った。陣を左に傾け両翼の中央に引き入れ、中央からの突撃で仕留める!


 敵陣に並ぶ炎が各々横に滑る。距離のまだあるこの暗闇で、判断が早い。前から風切り音が一斉に広がった。真っ暗闇、弓矢で狙える状況ではない。だが見えない分、受ける恐怖は倍増する。

(気にする奴はいないがな!)

 呂布と赤兎は風を掻き分け、黒い炎となって夜を跳ぶ。この速さだ、対応できるか?


 左翼の奥から剣戟が聞こえ始める。想像以上に速い。しかし予想の内だ。接敵した左翼をバラし、中央と右翼を押し上げ横腹を突く。

「左は全力で陣のケツまで下がれ!右ぃっ!突撃!」

 相手の速度に合わせたいが、半端に細かい指示は混乱を招くだけだ。先を狙えるのはこの本隊のみ。張燕はまだ下がっていない左翼のその奥を睨み、自らも突撃を開始する。

「俺達も行くぞぉっ!身の程知らずの官軍どもを轢き殺す!」



 右手の戟剣で突き出された穂先を左に逸らし、跳ね上げるように右へ大きく薙ぐ。吹き飛んだ敵騎兵の奥に輝く次の刃。動き出す前に得物を叩き付け馬ごと左に打ち倒した。僅かな隙に敵軍の奥を確認する。

 眼前の兵は向かって来ているが敵陣の灯火は逃げるように離れている。

「死ねェっ!」

 叫びを上げた正面の兵に捻りを加えた突きを叩き込み刺し貫くと右腕に力を加えてその身体ごと一気に頭上で振り回し、真正面に不幸な身体を投げ飛ばす。間髪いれず左右両脇から突き出された穂先の左側を左手甲で打ち払い、そのまま体を左に大きく傾け右の槍をかわしつつ得物を真上に振り上げ、

「っとアレ?」

振り下ろすハズの敵兵は先に突き飛ばされていた。突いた成廉は今も隣を維持している。体勢を起こし、得物は手近な敵に振り下ろした。正面の気配が空いている。向かい来る敵はひと段落のようだ。少し先の闇の中に背を向けた敵の最後尾が見えている。追うか?後方の自軍に意識を向けたその時、再び風切り音が聞こえた。仲間諸共射る気か?しかし飛来する矢の気配は、駆ける呂布軍の後方に集中している。視認無しでこの的確な狙い。相当できるヤツだ。

「一旦離れるぞ!」

 このまま無理押しすれば隙を突かれる。馬体を傾け急旋回する呂布は、知らず笑みを浮かべていた。



(まだ先を行くか!)

 完璧に読めていたが、やはり速さが異常だ。口許を引き締めた張燕が睨むその先の光点は、尾を引いて離れていく。仕切り直しだ。先の結果を考え、両翼の兵数を減らし方陣に、中央を厚くし、その突撃で勝負を決める。命令は飛び火の如く伝わり、内側から順に動く灯火が群れを先導し形を変えていく。いい動きだ。手応えもあった。やはり平地ならば、勝てる!



「二手に分かれるぞ」

 距離を取って向きを変えた呂布軍は脚を緩めていた。呂布の楽しげな笑みは炎に照らされ、濃い陰影が赤い返り血を凄惨に浮かび上がらせる。

「おう。火はどうする?」

 成廉を挟むように前に来た張遼が答えた。この間に成廉は息を整える。

「オレが持つ。オレが見えなくなったらバレるだろ?左は任せるぞ」

「フン、全力で終わらせてやる。貴様こそ、独り遅れるなよ」

 ん?この殿が、独り遅れる(、、、、、)?有り得ない。単純な成廉は、単純ゆえにすぐ気付いた。ああ、この人独りで行く気だ。1と、残り全部に分かれるつもりだ。確かについていくだけでギリギリである、単騎の方が自由に動けていいのかもしれない。けど、それなら。

「片手は無いッス!火は俺が持ちます!」

 目を丸くさせた2人の間で、言い切った成廉は荒い鼻息を吐いた。

「……ハハッ、お前はホント良い根性してるな!」

「行くからには、この馬鹿の足を引っ張るなよ」

「ウス!」



 敵軍唯一の火が、先刻同様左へと流れ行く。対してこちらは、先程と違い既に動き出していた。左翼は下がって敵を引き付けながら左奥へ回り込み、右翼は真左に移動、敵の後ろを塞ぐ。そしてこの本隊が側面・正面だ。

「行くぞ!」

 張燕率いる中央の本隊が動き出すのと同時に、左翼の後退速度が上がる。敵の灯火は迷い無くそれを追っている。左右の兵を減らした分翼は縮み、引き付けた敵はすぐ間近。いかに相手が異常な速さでも、この距離、そしてこの兵数。包み込める。

「お前ら!一射、あの火の先を狙ってやれ!」

 そう叫ぶ張燕の目は、更なる異常を捉えた。速い。ついさっきよりも、一段速くなっている!?放たれた矢の遥か先で、火矢の如く飛ぶ敵軍の炎。左翼の最後尾が追いつかれる。全速力に集中する張燕の耳に、後方からの声が届いた。

「敵だ!後から、敵騎兵!」

 二手に分かれたのか!?意表は突かれたが、しかしあの少数を分けるとは、馬鹿め!

「右は守りに集中しろ!逃げてもいい!左の敵将を落とせば終わりだっ!」

 張燕に迷いは無かった。敵は近い、ここが勝負どころだ!大軍を背に率い、大気を揺らし駆ける。視界の揺れと共に近付く敵軍。届く。届かせて、勝つ!


 徐々に見えてきた敵騎兵の周りでは、黒い塊が宙を舞っていた。炎に照らされ真紅に輝く巨大な馬体に、跨る黒い鎧も相当な巨躯だ。剣戟は無く、聞こえる声は、悲鳴と、断末魔。

 最接近時に張燕が見たその光景は、完全に常軌を逸していた。男が長物を振るうごとに、人が、馬が、肉塊となって舞い上がる。残された半身は血飛沫を噴き上げ、撒き散らしながら地に崩れた。闇夜でなければ、気も狂うような地獄絵図だったであろう。そして味方を解体しながら駆けるその血まみれの騎兵は、それでなおこちらより速かったのだ。

 側面を突くのも間に合わず、今は馬20頭分ほど先に小さく見える赤い光の元には、あの化け物の他はただ1騎が松明を持って付き従うのみ。たったの2騎である。だがその2騎が、今まさに視界の奥で左翼を壊滅させた。光の揺れが、止まる。

 張燕は恐怖した。あれと戦うのか?しかし頭の中の冷静な部分は、このままの勢いで轢き潰すべきだと考えていた。負ければ、黒山賊は終わりだ。行くしかないのだ。冷たい予感を背にしても、張燕は突撃の脚を緩めなかった。敵の炎は再び揺れている。左右に動くことなく、揺れる。真っ直ぐ、こっちへ向かっている!呼吸を忘れた張燕は、それでも思考を止めなかった。こちらの中央に突っ込むということは、つまり1000を超す騎兵の真ん中に突っ込むということだ。勝機。その判断が正しいかどうか、もはや判らなかった。張燕の視界には、まだ距離のあるはずのあの化け物が、天に届くほど大きく映っていた。


 最後の意地で唇を噛み破り、目を覚ます。その張燕の視線の先で、赤馬の騎兵は炎を残して左へ飛んだ。物理的に一歩で届くはずのない距離。しかしそれを一息で飛び越えた化け物は、着地の一突きで騎馬隊の一角を吹き飛ばした。止まらず次の一歩、勢いそのまま前に飛びながら空中で向きを変え、旋回と共に唸る戟が触れた全てを断ち分かつ。隊の中に大穴が開く。通り過ぎる形になった張燕は急停止し馬首を巡らせた。探した相手と、目が合う。奴は真っ直ぐこちらに飛んだ。斜めに振り上げられた黒い戟が炎に煌き、一瞬後に吹き上げられた肉塊が張燕の周囲に降り注ぐ。温かい血の塊を浴び、半身が赤く染まった。


 動く意志は消えていた。どうしろってんだ。一飛びで、一振りで何人もの部下が飛び散る、現実味のない光景。用兵、兵法、経験、その他諸々全てのものが、その巨大な蹄で踏み破られる。黒い刃に斬り飛ばされる。真面目で堅実だからこそ、張燕は動けなかった。これを相手に、どうしろっていうんだ。絶望をそれと認識できないほどに絶望した張燕は、もはや目に映るものさえも見えなくなっていた。



 半数程の敵を屠ったところで、呂布と赤兎は戦いを止めた。いつしか現れた張遼率いる騎馬隊も逆側から突撃しており、残った賊の騎兵はごく僅かになっていた。その生き残りも、先を争いここから離れて行く。

 馬上で首を垂れ、休む。人馬とも、疲労の局地であった。身体全体で荒い呼吸を繰り返し、どうにか身体を支えている。浴び過ぎた血で体は重く、鼻はとうに麻痺して匂いを感じないが澱んだ呼吸で頭は曇っていた。それでも呂布は、戟剣を握る右手に力を入れて、顔を上げた。

 屍の野の中心に立ち尽くす、黒山賊最後の一騎。将なのだろうか、その軽装の男はうつろな目をして身動きもしないが、しかしその手の槍を手放してはいなかった。

 呂布がゆっくり近付くと、目線も合わないままのその将は、操り人形のように、震えた、ぎこちない動作で槍を持ち上げ、その揺れる切っ先を呂布へと向ける。最後の集中力をもって、呂布は一呼吸だけ、気を込めた。力を乗せ、戟剣を振り抜く。


 未だ明けぬ夜の闇に、赤く湿った鉄の音が、高く、長く響いていった。




 翌朝。捕縛した張燕を引き連れた呂布軍は晋陽へ向かい、これを開城させることに成功する。


 『飛燕』と呼ばれ、幾度も官軍を打ち破ってきた張燕の人望は厚く、それを生け捕りにした呂布軍への畏怖、加えてあの惨状から逃げ帰った僅かな兵が伝えた圧倒的恐怖が、この降伏に影響していることは間違いなかった。


 こうして、并州黒山賊は崩壊・解散したのである。



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