1 何進暗殺
「若!若!」
幕舎の外から自分を呼ぶ若い声に、呂布はうんざりした顔になった。
(『若』ってのはやめられないモンなのか?)
呂布、字(いうならば正規のあだ名)を奉先という。当年とって二十一歳、身長約190㎝・体重約100㎏と非常に大柄・筋肉質で、精悍な顔つきの青年である。
彼は并州の刺史(県の知事みたいなもの)・丁原の養子であり、また丁原には実子がいないため、立場としては『若』で間違ってはいないのかもしれない。だが、しかし。
勢い良く開かれた幕から現れた男に、
「オレは跡を継ぐわけじゃないって、師匠は何回言ったらわかるんだ」
機先を制するように言い放った。
「ハイハイ。そんなことより若、何進将軍が殺されたそうですよ!」
「ハイハイ」で流されてしまう。呂布は呆れ顔で目の前の人の良さそうな中年男の顔を見た。
中年男の名は、黄栄。丁家の武術教師であり、同時に并州丁原軍の武術師範でもある。丁原軍は精強で知られており、丁原本人も武闘派を絵に描いたような人物だが、黄栄はその丁家にあって、誰からも一目置かれる程の腕前を持った武芸者であった。丁家の息子である呂布は当然彼の弟子であり、毎日のようにしごかれている。だが、しかし。
「いやあ若、やっぱりこれはアレですかね。いくらお后様の兄だからってお肉屋さんを大将軍(武官の最上 位)にしちゃイカンってことなんですかね。『私腹を肥やすばかりの宦官を討とう』ってのはわかりますけどそのために何故か各地の将兵に集合かけたりするから逆に警戒されて先手を打たれちゃったんでしょうね。美人の妹を皇后にしたのは宦官で、そのおかげで大将軍になったのにその宦官を滅ぼそうとして結局その宦官に嵌められて殺されたっていうんだから都の連中ってのはホントどうなってるんだか。ねえ若?」
(アンタの口もどうなってるんだか)
彼はお喋りが大好きだった。武術の師の顔をしているときは厳然寡黙でいかにも武芸者然としているのに、普段はこんな、オバチャンたちの井戸端会議にでも参加できそうな調子である。
(間を取ってくれればいいのに)
呂布もそうだが、丁原軍の誰もがそう思っていた。
もっとも、彼のこの性格のおかげで呂布の元には常に最新の情報がもたらされていた。養子とはいえ〝一人息子=跡継ぎ候補〟という立場もあってか、黄栄は呂布に対しては機密にあたる重要な情報も全て同じ調子で喋ってくれるのだ。これは無碍にはできない。なにせ養父・丁原からは何の情報も与えられないのである。丁原が呂布を呼ぶのは、戦の直前だけだった。
「何進将軍が殺されそうってのは、今回の大集合がかかった時点で師匠自身が予想してたじゃないか。宦官がどうの~、って話もその時に聞いたぞ。それに、オレは養親父と本気で敵対してるんだから、『若』はやめてくれって」
「敵対だなんて若、そんな悲しいこと言わないで下さいよ」
「悲しいもんかよ」
幼い頃に丁原に拾われた、と黄栄から聞かされているが、赤子同然だったのだろう、拾われた時の記憶は無い。そして呂布の一番古い記憶では、呂布少年は既に相当嫌われていた。機嫌が悪いだけで理由もなく殴られたものだ。それも、剣の腹で。黄栄に鍛えられて剣を一人前に使えるようになるまでは、ことあるごとに、いや、何もなくてもとりあえず殴られ、倒され、蹴り飛ばされるのが日常であった。
(…我ながら、良く生きていたもんだ)
呂布は丁原に連れられて十歳から戦場に出ているが、死の恐怖を感じた回数は自宅の方が多い。それを考えると自然に仏頂面になった。毎度のことに黄栄は溜息をつく。
少し前まで、丁家の本拠・并州は戦の多い土地であった。丁家を含む中小勢力が領内に乱立しており、小競り合いを続けていたのだ。黄栄に鍛えられた丁原軍が十余年かけて并州を統一し、丁原が刺史に任命されたのはついこの間のことである。呂布は、その統一までの全ての戦に参戦し、多大な戦果を上げていた。中小勢力相手ではあるが、斬った将の数も十を越えている。名前も、州を越えて知られ始めていた。
しかし、『精強』と言えば聞こえは良いが、丁原軍はその強さと同様に性質の悪さも相当なものだった。頭領の丁原に似て、凶暴粗野で、勝つためには手段を選ばず、女・金品の略奪もアリ、弱者からは死なない程度に搾取し、強者には尻尾を振りつつ隙を窺う。もちろん全員がこう、というわけではないが、世間では「丁原軍=ヤクザ」と認識されていたし、その親分の息子で身体も大きく腕も立つ呂布の名もまた、「恐ろしいヤクザの恐ろしい息子」として有名になりつつあった。
内でも外でも、呂布にとっては迷惑なことしかない。
「良いところってのが無いんだ、あの男には」
「まあ…反面教師、ですかねえ」
事情が解っているだけに反論できず、黄栄は苦笑した。
「とりあえず、何進将軍が死んじゃったんで宦官討伐もどうなることやら、ウチの軍はしばらくここで 様子見です。…さて、若は、この先どうなると思います?」
「宦官、ねえ…」
呂布は思考を切り替えた。
宦官というのは、元は皇后を始めとする後宮の女性の世話をする役職である。最上級の官職というわけではないのだが、今は最大の権力者集団になっていた。その業務を利用して皇后と必要以上に親密になり、いつしか皇后を丸め込んで、そこから帝を操り、ついには直接帝を言いなりにするようになっていったのだ。
(やっぱり、切っちゃうと性格曲がったりするのか?)
帝の女に手を出せないよう、宦官になるためには去勢するのが必須条件であった。
考えただけでゾッとする。呂布は大きい身体を少し縮めた。そして、余計な考えを見透かすかのような黄栄のジト目に、改めて真剣に考え始める。
武官ではない宦官達には、自前の軍勢が無い。対して、既に主だった地方の軍勢は都に集まっており、数の上では圧倒的である。宦官側は帝を盾に禁軍(帝直属の軍隊)を使うつもりだろうが、何進将軍を殺しているため、宦官討伐には立派な大義名分がある。何進将軍殺しは宦官達自身の保身のためであって帝のためでもなんでもないから、討伐側は帝に遠慮することもない。さらに現実的に考えれば、どの軍も移動に結構な費用がかかっているだろうから、手ぶらで帰る気はないはずだ。
「…遅かれ早かれ、宦官は討伐されるだろうな」
何進将軍は宦官討伐のために諸勢力を集めたのだから、彼が生きていてもやはり宦官は討伐されていたはずである。既にどうしようもなかったのだ。
「いい読みですね。」
黄栄は満足げだ。
「じゃあ、さらにその後は?」
「そりゃあまだ分からないだろう」
呂布は即答した。
「誰が最初に手を出すのか、誰が手柄を立てて、誰が権力に近付くのか。こればっかりは予想の仕様がない」
〝よくできました〟とでも言うように黄栄は笑顔で頷いた。今度は呂布が苦笑する。
『考える余地があることはしっかり考え、予測する』
『判らないことを無駄に考えない』
子供の頃にそう教えられたのだ。黄栄は武術以外には一切口出ししなかったが、この考え方だけはしつこく覚え込まされた。おかげで、今では呂布にとってこれが自然になっている。
「さて若、それじゃあ修練と行きましょうかね。移動が無いんで今日はガッツリといきますよ」
言って黄栄は立ち上がった。
「おお、望むところだ」
呂布は笑顔で返した。
お喋りより武術の方が圧倒的に性に合っている。例え十戦して一、二回しか勝てなくても。
二人は並んで幕舎の外へ向かった。輝く陽の照らす、中原の大地へ。