17 董卓一家への加入
(ど、どこまで走る気だよ…)
路地裏を走る怪しい男を追う曹性は、思考まで息切れを始めていた。曹性も一人前の兵である以上、鎧を着たまま長時間走り続ける事もできる。しかし今回は、相手の足が相当に速い。ずっと全力で走り続けてギリギリ見失わずに済んでいるが、かれこれそれが2、30分ほど続いているのだ。こんな乱暴な走り方で、長持ちするワケがない。路地の角を曲がって、ずっと先に見える怪しい背中を睨みつける。あちらに衰える様子は見られない。どこの間者か知らないが、すごい奴だ。この洛陽に忍び込むだけの事はある。間者は角を曲がった。
(どう鍛えてるのか教えてもらいたいね!)
曹性はやけくそ気味の気持ちだけで加速し、その角を折れる。
怪しい背中は、予想より近かった。
しかも、立ち止まっている。
その正面には、高い壁があった。怪しい男の倍以上ある。左右は建物であり、路地の幅は狭い。
期せずして追い詰めた形になった曹性は、顔には出さなかったが心底ホッとしていた。よかった休憩だ。ゆっくり息を整える。怪しい男はゆっくり振り向いた。袋小路に追い詰めたその男までは15歩ほど。剣を抜き、一気に近付いて捕まえる。
のが正しいのかもしれない。
だが曹性は剣が苦手だった。その上、今はかなりしんどい。
以前剣を呂布に貸して以降、彼は剣と一緒に小ぶりの弓と矢を1本、携行するようにしていた。どちらかと言うと、その弓でここから無力化したい。しかし剣に括ってある弓を取ろうとする動作を見て、向かって来られたら困る。曹性はもう一度、奥の壁の高さを確認した。
(これは、どうしよっかな…)
濃い影の落ちる路地裏で、しばし睨み合う。
「仲直りのお祝いを用意してるなんて、ホント曹くんて気が利くよねえ」
「うむ、流石だ猛徳!」
「いえ、この程度、お傍に仕える身としては当然にございます。さ、奥へどうぞ」
相変わらずべったりくっついている董卓夫妻を自分の屋敷に導き入れ、曹操は遠くの空を見渡した。良く晴れた空に煙はない。
それだけ確認すると、曹操は門を完全に締め切った。
怪しい男は剣を抜いた。釣られて曹性も剣を抜く。相手の短剣はこの狭い場所でも使いやすそうだ。と思ったときにはその短剣が飛んで来た。
(やっぱり)
相手は戦う気が無い。大きくかわしながら右手の剣で弓矢を括った紐を切り、剣を捨てると矢を番え、思い切り引きながら狙うのは、奥の壁の上。
(多分ここだ)
射線の先に、身軽に壁を蹴って跳び上がってくる怪しい男。即座に放つ。背中に矢を受けた怪しい男は、壁の向こうに落下した。
壁を乗り越える事で、巻くつもりだったんだろう。だが、余裕を持って逃げていた者が自ら袋小路に入って追い詰められる、ということ自体が怪しかったのだ。脚力から考えても、予想はついた。
(素直に走ってりゃ逃げられたのに)
曹性は剣を拾って鞘に収めると、壁の向こう側へ回り込むため路地を引き返した。
手元の七星刀を見つめながら、曹操は考えた。
外には未だ騒ぎの気配は無い。逃げ出す隙を作れていないのでは、実行は危険すぎる。
だが、この好機を逃していいものか?このままただ七星刀を贈れば、後日何事もなく領地に帰ることはできるだろうが、それでは早々に洛陽から逃げ出した連中と同じではないか?今までここにいたからこその、この機会である。
「猛徳、まだか!」
「もう、そんな急かさないの」
「…ただいま参ります。今しばらくお待ちを」
曹操はどちらか決めかねたまま、董卓の元へ向かった。
その曹操の屋敷の前で、呂布は大きく息を吐いた。
目の前の門は、相変わらず完全に締め切られている。完全に留守で下男もいない、ということだろう。
ずっと家にいない、というのは、どういうことだ?仕事はしているんだろうか?曹操は董卓に付いていると聞く。夫婦喧嘩で自由行動中の董卓に付き従っているのか?それなら、留守なのもわかる。
勝手な予想に納得し、立ち去ろうとして
(いや待て、それなら下男はいるんじゃないか?)
思い直して再び門に向き直った。一度、声をかけてみればいいだけのことである。
しかし門を叩こうとして、手が止まった。
明らかに締め切られた屋敷に向かって、門を叩き声をかける、というのは、なかなかに間抜けな姿である。呂布は左右を確認した。誰もいない。目を閉じ、一度深呼吸する。
意を決し、呂布は目を見開いた。拳を振りかぶる。
「こちらが、この為にご用意致しました、宝剣・七星刀でございます」
「!こ、これは見事な…」
「すっご~い、綺麗…」
両手で掲げ見せた七星刀に董卓夫妻が魅入っているうちに、曹操は言葉を続けた。
「この美しき稀代の宝剣、常ならば相国にお納め願うところではありますが、此度はお二人の仲直りの記念にございます。愚臣の案にはございますが、こちら、同じく稀有に美しき奥方様の護身刀としてお贈りさせて頂きたく存じます。いかがでしょうか?」
断られればそれまで、のつもりであった。しかし。
「え~!じゃあ私が貰っていいの?やったぁ!」
董卓が反応する前に、夫人が半歩前に出たのだ。一息で、首が掴める距離。だが、どうする。迷う暇はない。退路が無いのだ。危険過ぎる。だが、今なら確実に。
瞬時の葛藤の中に、門を叩く音が割り込んだ。弾かれたように、曹操は動いた。
「曹操殿の屋敷のものはおらんか~」
門を叩き、少々控えめに声をかけたが、やはり返事は無かった。
これでは、恥のかき損じゃないか。
何だか納得いかないが今度こそ立ち去ろうとした時、呂布の耳に、微かな物音が聞こえた。曹操の屋敷の中から、である。留守の屋敷から物音、ということは。
(泥棒!)
突然沸いた活躍の場に、凹んでいた呂布の心は一気に盛り上がった。泥棒には悪いが、いや悪くないが、これはもう、捕まえずにはいられない!
怪しい男が落ちたはずの壁の向こう側には、男の姿は無かった。ただ、地面に小さな血溜まりができており、そこから路地の先へと、血痕が点々と残っていた。射られた上にあの高さから落ちて、まだ逃げるとは見上げたものである。やはり鍛え方が違うのだろうか。
急ぐよりも待ち伏せを警戒し、慎重に血痕を辿っていく。ほどなくして、大きな屋敷の裏側に出た。その裏口へと血の痕は続いている。裏口に近付こうとして、曹性は空気に混じる異臭に気付いた。
(何だこれ?…油くさ)
次の瞬間、塀一枚隔てた向こう側で、熱を持った空気が大きく膨らんた。
大槍を門に立てかけ、それを足場に塀を乗り越えて屋敷に侵入した呂布は、人の気配のする方へと音を消して進み、角を曲がった廊下の先に意外な状況を見た。
小柄な男が、女を盾にしている。その奥に見える大男は、あんな体型の男は二人といない、おそらく董卓だろう。
(泥棒、とはまた大分違うなあ)
ややこしそうな場面である。女性が董卓の奥方として、小柄な男は曹操か?何がどうしてこうなったのか知らんが、しかし自分がすべきことはハッキリしている。
女子供を盾にするなど、下衆のやる事だ。
呂布は身を縮めた。剣も槍もない今、女性を助けるには箭疾歩で一息に近付くしかない。だが、この技は踏み込みの音が大きい。先に気付かれては女性が危険だ。呂布は全身に気を入れたまま息を潜め、機を窺う。屋敷の外からは、何やら喧騒が聞こえ始めた。
「何だ今のは?」
「あっちだ!お屋敷が燃えてらあ!」
「すげえ煙だ!ありゃあ燃え広がるかもしれねえぞ!」
(我に天佑あり!やはり正しかった!)
閉ざされた屋敷の中でも聞こえ始めた騒ぎの声に、曹操は確信した。退路ができたのだ。董卓の首を獲り、洛陽を出れば、もはや天下は自分の手中である。
左手で後ろから腕を捻り上げ、右手の七星刀を首筋に突きつけた奥方を盾に、曹操は董卓と対峙していた。3人の部下が現れ、董卓を囲んで剣を突きつける。
「相国、お覚悟を」
表情の消えた董卓に、動く様子はない。後ずさって距離を取り、廊下へと移動する。あれほど愛する妻を盾にされては、手も足も出まい。捨てることができればこの難局も越えられように、愚かなことだ。
「仲、ちゃん…」
静かだった夫人が身を僅かに動かした。見ると、首筋から血が流れている。自ら首を刃に押し付けたか。流石は董卓の妻、見上げた覚悟だ。だがもう遅い。
「殺せ」そう命じるために視線を董卓に戻した曹操は、しかし言葉が出せなかった。身が竦み、汗が噴き出す。
「…離せ」
董卓は、曹操を見ずに言った。地獄の鬼の如き表情で、自分の妻を見ている。周囲を押し潰すような圧倒的威圧感。剣を突きつけた部下達も、いつのまにか一歩引かされている。
(夫人を盾にしたのは間違いだったか?)
一瞬そう思ってしまうほどの迫力に、曹操は奥歯を噛み締めた。これだ、この力だ。この曹操に欠けている、これが必要なのだ。ここで殺して、奪ってみせる!
「その逆賊を殺せ!」
「「ワシの嫁を離せェ!猛徳ッ!」」
二重に聞こえるほどの大音声に、曹操の声はかき消される。空気が激しく振動し、皆がたじろいだ。そしてそれが収まった時。
「なんだ本当に曹操殿か。貴殿は見るたびに小さくなるな」
(!その言葉は、呂布か!?)
曹操は両手首を後ろから強く握られていた。手が千切れるほどの剛力でそのまま持ち上げられると、部屋の中に投げ飛ばされる。
人形のように飛んでいった主を見て、曹操の部下は我に返った。董卓を殺さねば。しかし、その董卓は既に動いていた。
正面に突きつけられた刃を素手で握って捻り取ると、その文字通り岩のような拳で一人目の顔を殴り飛ばす。後ろから背中に剣が突き刺さるが、前に踏み込んだ分、浅く済んでいる。振り向きもせずに奪った剣を後ろに投げつけ、董卓は真っ直ぐ妻に駆け寄った。意識を失ったのか、床に力なくへたり込み、男の腕に支えられた妻は、首から一筋の血を流し、今にも泣き出しそうな顔をしていた。床に膝を突いて肩を掴み、そっと抱き寄せる。入れ替わるように、支えていた男が立ち上がった。
「退け。それとも無駄に死にたいか?」
呂布のその声に、曹操の部下達は背を向けて逃げ出した。部屋を見ると、投げ飛ばした曹操の姿も消えている。何とも素早い。呂布はひとまず息をついた。足元では、岩のような大男が妻を抱きしめ泣いている。呂布は何とも言えない、優しい気分になった。
さて、しかしこの何とも言えない状況で、一体何と声をかければいい?
「…いや、こんなところで奇遇だなあ相国殿」
偶然居合わせた呂布の、素直な気持ちである。董卓が、涙に濡れた怪訝な顔で見上げてきた。気まずさに、苦笑いが浮かぶ。それを見た董卓は一度鼻で笑うと、続けて気持ち良く声を上げて笑い出した。
「ハッハッハ!全く!呂布、お前は!お前は素晴らしい男だ!」
「ここも燃えてるぞ!」
「曹操様のお屋敷からも、火が出たぞ!」
曹操は逃げ際に火を放っていた。屋敷を出た呂布と董卓夫妻は、鎮火のために向かってきた李粛の部下から馬を借り、董卓夫妻は帝の宮殿へ、呂布は曹操が逃げたと思われる南門へと向かった。宮殿には帝の侍医がおり、最良の治療を安全に受けられる。
「深追いはするなよ。必ず戻って、ワシにこの大恩を返させてくれ」
そう言われて曹操を追った呂布だったが、逃げるところまで計画していた曹操の行動は素早く、火事で騒ぐ群集や鎮火部隊にも阻まれる形になり、結局その影を見ることすらできなかった。
董卓軍は、激怒した。普段冷静な董卓の右腕・徐栄がその筆頭であった。董卓と共に曹操に目をかけていた彼は、この裏切りを激しく憎み、董卓と奥方を危険にさらした己の不明を強く後悔していた。彼の指揮の下、曹操の人相書きは全土に手配され、その首には莫大な賞金が懸けられたのである。ほどなくして、洛陽から曹操の本拠・陳留へ向かう途中にある中牟県から「曹操を捕らえた」という報告があったが、徐栄自ら兵を率いて行った時には、その姿はなかった。この頃には徐栄は冷静さを取り戻していたが、その心中では怒りが煮えたぎっていた。
董卓本人はと言うと、曹操への恨みよりも、妻が無事であったことと、その妻を助けた呂布という若者を得たことの喜びが勝っていた。曹操に対しては、捕まえればもちろん報いを受けさせるが、逃げるならそれも良し、いずれ刃向かってくるならそれもまた良し、という態度である。
命を救われた夫人も呂布を大いに気に入り、宝だ女だと様々な物を贈ろうとしたが、呂布は「そんな贅沢な趣味はない」と軒並み断っていた。唯一つ、董卓の愛馬である「赤兎」だけは、その余りの力強さに受け取らずにはいられなかった。
そして、それだけでは納得できない董卓夫妻の強い希望によって、呂布は正式に董卓の養子に、家族になったのである。これはただ感謝の現れというだけではなく、義父を殺した過去を持ち、天涯孤独な呂布に、心を許せる家族の素晴らしさを知って欲しいという、二人の気遣いでもあった。
曹操とのすれ違いを繰り返し、挙句直接暗殺を防ぐことで、入れ替わるように董卓の信頼を得、生涯の相棒となる「赤兎」をも得た呂布。退屈な間借り部隊だった彼は、こうして、この先に続く曹操との因縁と共に董卓一家に加わったのである。