16 暗殺へ
「どもー」
「あら兄さん、いらっしゃい!」
この数日通っていたらすっかり顔を覚えられた曹性は、しかしそんな食堂のおばちゃんの親しげな声に反応できなかった。
店内の一番奥の隅の机。そこに座っている男に、目を奪われたのだ。
(でか!)
四角い岩のような大男だった。存在感が凄い。
(呂布殿より大きいんじゃないか?)
厳つい顔に満面の笑みを浮かべたその男は、
「は~い、仲ちゃん、あ~ん」
対面の女性に言われるままに、嬉しそうに口を大きく開けていた。
その外見とのあまりのギャップに噴出しそうになった曹性は、慌てて近くの席についた。見ていることに気付かれると、とてもまずい気がする。いや、一般常識として、他人様をじろじろ見ていいものではない。そうそう、幸せそうで、結構なことじゃないか。
そうやって意識を他に向けようとするが、どうしても気になって視線がそっちに向かってしまう。と、後ろから肩に手を置かれた。
「まあまあ、大目に見てやんな。なんでもやっと仲直りできたんだってさ。微笑ましいねえ。…で兄さん、注文はいつものでいいのかい?」
おばちゃんはそれほど気にしていないようだ。それが良いことに思えて、曹性は少し感心した。笑顔で頷く。肩をポン、と叩いて、おばちゃんは厨房へ向かった。声だけが、視界の外から聞こえてくる。
「おいしい?」
「うまい!最っ高にうまいぞ!」
「もぅ仲ちゃんてば。お外では『うまい』じゃなくて『おいしい』でしょ?」
「ああそうだったな。おいしいよ、お前。…ハッハッハ!」
…さすが洛陽天下の都、いろんな人がいるもんだ。
外では『魔都』とも称される今の洛陽で、到着以降ずっと非番の呂布隊隊長は、今日も平和な昼食時を過ごしていた。
魔都・洛陽の主、董卓。字を仲頴という。漢帝国の北西の端、周囲を異民族に囲まれた涼州=西涼のヤクザの大親分であり、最近「相国」という三公の上の最高位を得た官僚でもある(非常設の特別な役職で、日本で大統領に任命されるようなもの)。
気に入らない役人・官僚を皆殺しにし、金持ちからは財産を強奪、若い娘を誘拐しては自らの屋敷に連れ去った。世間に流れるこれらの噂は全て、事実である。
董卓は、腐った洛陽を滅ぼすために来たのだ。
西涼には董卓の他にも馬騰、韓遂といったヤクザの大派閥がある。彼らは時に戦い、時に手を組むような間柄であったが、腐った朝廷からの狂った徴税要求に対する姿勢は「突っぱねる」で統一されていた。そのため派遣されてきた役人を見せしめに殺す事も役所を襲う事もあったが、それだけではなく、税の免除や軽減のため役人に手を貸し、異民族の討伐や別のヤクザの制圧に参加することもあった。しかしそれでも朝廷は、それぞれが手塩にかけて育てて守ってきた領地領民に対し、何も与えず、約束を破って税だけ奪いに来る。敵意は増すばかりだった。
そんな中で起きたのが、黄巾の乱である。
ヤクザが地盤を固めている涼州ではその規模は小さく、各々自力で鎮圧できるものだった。しかし、大軍を率いて現れた官軍は、董卓達地元のヤクザが鎮圧のために兵を動かしている隙に、物資調達などと称して領内の村や集落を襲ったのだ。
これで、ヤクザはおろか、それまで怯えていた民衆までもが切れた。
元々気性の荒い土地柄である。ヤクザの派閥も黄巾も民衆も関係なく、皆一緒になって官軍を徹底的に排除したのだ。武闘派ヤクザの加わったその勢いは凄まじく、官軍は完全に壊滅した。そしてこのことで、朝廷という共通の敵に対し、各派閥は手を組むことになったのである。
その朝廷の次の手は、董卓を将軍に任命しての、黄巾討伐命令だった。領地の位置関係上、最も都に近い董卓に命が下ったのだ。そして西涼ヤクザ連合は、董卓軍の軍師・賈詡の案で、これを利用し洛陽を攻めることとなった。ちなみにこの命を受けた董卓は、既に涼州では黄巾も民衆も一つにまとまり区別はなくなっていたため討伐数の報告を行わなかったが、それが都では「董卓は黄巾を一人も討てずに惨敗した」と報告されていたらしい。どうしようもない腐りようである。ともかく、董卓は自領の守りを元黄巾の民衆に任せ、将軍として、兵を率いて洛陽に凱旋した。義兄弟である華雄の派閥がこれに参加し、韓遂など他の派閥は、董卓の領地および涼州全体の防衛役となった。
その後、何進暗殺、宦官誅殺、帝の保護、と洛陽内の動向が都合良く展開し、戦うことなく権力を握る形になったのである。そのため、戦に乗じて行うつもりだった殺戮・強奪などを平時に行わなければならなくなり、余計な時間がかかってしまったが、代わりに良い事もあった。
殺すだけの予定だった高官の中からまともな者を残すことができたし、殺した者の後任もこちらで指名できた。董卓軍はヤクザの例に漏れず、政治が解る者などほとんどいない。だが、筋を通せる者は区別できたし、董卓は才能のある者が好きだった。朝廷の腐敗を指摘し投獄されていた者や、免職された者、また朝廷の中にいて、腐敗に毒されなかった者。それらを積極的に登用し、政治を任せることができたのだ。
また、財産の移送がゆっくりと行えたため、移送先の長安の街の準備を整えることができた。当初の予定では、人も金も掻っ攫ってきて働かせる形だったのが、助命を願った金持ち連中や、洛陽を見限った移住希望者、依頼して引き抜いた職人など、人の移動も万事穏便に進んでいる。最終的には強制移動になるだろうが、その前に最低限説明する時間もできた。
洛陽は、朝廷と共に破壊する。これは、決定事項である。延々続く朝廷の腐敗を一掃するためには、人はもちろん、場所も替えねばならない。腐った都には腐った土壌が残っている。土質は、簡単に変化しないのだ。
おまけに、幼い皇帝である。宦官から助けた縁かどうやら董卓が相当気に入ったようで、「仲頴殿」と何かにつけては呼び出してくる。毎度相手もしていられないので抛っておいたら、今度はやたらと高い役職をこれでもかと任命してくるようになった。困ったものだが、それ以外では賢い子であり、董卓も彼を可愛がっていた。しかも、都を替えるにあたっては、この幼い皇帝の同意があれば、他者の反対意見などどうとでもなるのだ。
準備は順調に進んでいた。
しかし、新たな問題も生まれた。
それはどうしても解決しなければならないことであり、何よりも重大なことだったため、以降董卓は自らその解決に心血を注いできた。非常に難しい問題であったが、連日連夜、ありとあらゆる手段を尽くし、そしてとうとう
「ごちそうさまでした。おいしかったね、仲ちゃん」
「うむ、実においしかった!やはりどんな山海の珍味より、お前と一緒に食べるのが一番うま…おいしいな!ハッハッハ!」
解決に至ったのであった。
女達を送ったことでまさかこれほど怒るとは思わなかったが、長安に謝りに行って以降、20日ばかり二人で過ごし、怪しい影のかけらも無いことが判ったのだろう。昨晩ようやく許してくれて、まあその後も朝まで大変ではあったが、結果、前よりさらに強く結ばれたようだ。やはり、こうでなくては!命より大事な相手に嫌われたままで、何ができようか?いや、できるはずがない!…ああ、顔が緩んで仕方ないわ!
寄り添って腕を組み、全身から桃色の空気を華咲かせて下町の店から出てきた巨漢と美女に、道行く人は皆振り向き、そしてすぐに目を逸らすのであった。
一足先に店を出ていた曹性は、周りの視線の動きで例の二人が出てきた事を悟った。曹性も、つい何気ない体を装って振り返り、横目でそっちを見ようとして。
目端の利く彼は、通りの向こう側にいる男が気になった。
曹性は建物を背に通りの方を向いていて、左手の直線状、少し離れたところに食堂があり、例の二人がいる。旅人風のその男は、視界に例の二人が入る位置にいながら、チラ見するでも、目を逸らすでもなく、額の汗を拭っていたのだ。
まあ、アレが気にならない人もいるかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。
曹性は、その男を尾行することにした。勘違いでもいい、どうせヒマなのだ。いや、確か今の騎都尉は呂布殿の友人と聞いた。ここはお手伝い、ということにしておこう。
「うまい!この饅頭うますぎるぞおっちゃん!これなら毎日食っても飽きないな」
その呂布は、まさに騎都尉の友人・李粛の手伝いとして、大槍を担いで街を巡回していた。と言っても部下ではない呂布は自由行動である。洛陽外周部の下町の空気は呂布好みであり、気付けばただの楽しい街歩きと化していた。
この数日、高順は、呂布隊の中の希望者に剣を教えている。そのため稽古の相手がいない呂布は、徐栄の率いる董卓軍や李粛の部下達の鍛錬に参加していたのだが、打ち合える相手がいるわけでもなく、槍を振るうだけで感心されるようなむずがゆい環境に耐えられなかったのだ。
昨日から巡回を始めて一日半、下町だけでも相当に広い洛陽は、街頭販売などを見て回るだけで十分に楽しかった。が、それを満喫していると、徐々に罪悪感が生まれてくる。これでは、遊んで暮らしているだけじゃないか?もう少し、仕事らしいことをしなければ。
しかし呂布には仕事はおろか、用事の一つもなかった。泥棒でもいれば勇んで捕まえてやるが、ヤクザの街で物を盗む馬鹿はそうそういないようだ。とりあえず、下町を歩くのは楽しすぎるのでマズい、中央に向かおう、と思ったところで思い出した。
そういえば、曹操が会いたがっていた。ウチに来る、といっていた日に結局帰れず、その後曹操の屋敷を訪ねたのだが、今度はあちらが留守だった。いつか会うこともあるだろう、とそのままにしていたが、丁度良い機会である。呂布は今日の巡回の目的地を曹操の屋敷に決めた。
ようやく見つけた。
部下からの報告を受けた曹操は、身支度を整えると急いで屋敷を出た。董卓夫妻は共に贅沢を好まない。それに合わせて質素な服を選んだ。空の馬車を従え、直接迎えに行く。「筋」を重視する董卓のこと、曹操自らが迎えに行けば断る事はあるまい。上手く屋敷に連れ込み、殺す。董卓自身剛の者であり、ただ襲うだけでは返り討ちの危険性が高い。が、一緒にいる夫人を狙えば、尋常ならざる愛妻家の董卓には必ず隙ができよう。勝機は十分にある。
怪しい旅人の動向はやはり怪しかった。
たびたび立ち止まり、汗を拭い、周囲を確認する。その動作には、特別不自然さはない。不自然なのは、例の巨漢と美女、あの二人との距離だ。離れるでも近付くでもなく、ずっと一定の距離を保っている。当然、移動する方向も同じである。間を広く取っているため巨漢と美女が気付くことはないだろうが、それをさらに後ろから見ている曹性にはハッキリ判った。
問題は、すぐ止めさせるべきかどうか、である。あの巨漢と美女がタダ者ではないのは見れば判るが、実際誰なのかを知らない曹性にはこの判断は難しく、結局「様子を見る」という無難な結論とともに今に至っていた。
視線の先で、先程巨漢と美女が左に曲がった四つ角に、怪しい男が辿り着いた。正面から、1頭の騎馬に先導された馬車がこちらに向かって来ている。道の右側を歩いていた怪しい男は、その馬車とすれ違ったところで右に曲がった。
(!?)
偶然、だったのか?信じ難い思いでその四つ角まで走る。馬車は止まり、先導の男は馬を降りていた。気にせず角を飛び出し、右を確認する。怪しい男の背中が少し先の路地へと消えた。走っている。気付かれた!?曹性は慌てて後を追った。
目の前に、董卓と夫人の背中がある。腕を絡めて歩いている様子から、仲直りしたことが判る。このまま斬りかかればあるいは、と考え、曹操は思い止まった。気取られて、仕留め損ねれば、それで終わりだ。やはり確実を期す。見張り役だった部下には、30分後に空き家で火事を起こすよう命じた。ここから屋敷までが約30分。その後、もし手こずって暴れられても騒ぎが目立たぬように、また、成否問わず脱出するためにも必要な、陽動である。あとは馬車に1人と、屋敷に忍ばせた3人。万全か、と問われればまるで足りないが、単独行動の上に最愛の妻と二人きりという、董卓自身の油断がある今をおいて、機会は無い。言い換えれば、絶好の好機が来ているのだ。
天下に号令し、万民を導く、その機会である。曹操は心を鎮め、声をかけた。
「…相国ではありませんか」