第三話 耳が遠い
これもホラーでしょうか?
さて、そのばあさんは耳が遠い。なぜなら単に年を取って身体機能が低下し始めているからで、聴覚だけでなく目も悪いし足や腕やらいつもで、何かしら身体の機能が故障していて、整体や薬によって多少機能が持ち直すため、いつも病院に来ていた。妙に愛嬌があるため、おれはいつも待っていた。腰を曲げ、杖をついてロビーに入ってくるばあさんはかわいいものだ。
この街には総合病院が一つしかなく、片道一時間ぐらいのバスに揺られて、来るわけだ。それがこのばあさんの楽しみであり、長寿の秘訣らしい。少なくとも本人がそう思っている。
長時間待たされる受付ロビーでは時間をもてあました患者たちのたまり場だ。そのばあさんいつも腰を降ろして、誰ともなく挨拶を交して、世間話をしている。もっともほとんど会話は繋がっているようで繋がっていなくて、やはりそれは耳が遠いということがもたらしているもので、まあ、コミュニケーションがとれていようがとれていまいが、愛嬌があっていい。それにこのばあさんは根っからの善人らしく、人の悪口らしきものが出てくると「なんて言ったの?」「はあ?」「ごめんねぇ。耳が遠くてね」と何度も聞き返す。そのうち悪口を降った人が繰り返すうちに、諦めて話題を変える。そのとき、ばあさんの笑顔に釣られて笑いが生まれるという寸法だ。実を言うと、とぼけているのか、ほんとうに聞こえないのかは定かではない。
そのばあさんの会話は実にたわいのないものだが、それが人というものだろうし、この病院内の噂話もよく持ち上がる。
今日は近所からきたおばさんと話している。おばさんと言っても七十過ぎだが、ばあさんは九十過ぎている。おれは話を聞くため、さりげなくばあさんたちの後ろの椅子に座った。この病院の外科医の噂をしている。その外科医は最近結婚したが、ある夜、上野の路地裏を別の看護婦と街を歩いていたという目撃談。何せ人はそういう話をしたがる。
「いや、あの先生はいい人だべ。会った感じが良かった。そんなことはない。見まちがいだー」
ばあさんはその噂を否定して笑う。おれは知っているが、確かにあの外科医と看護婦はデキている。でも、このばあさんはやはりいい人でそれとなく感づいていても悪いことは決して言わないし、男と女の話なぞ、自分に勝るものはないみたいな魂を持っている。そのふとっぱらな肝に好感をもってつぶやく。ばあちゃん、えらいわ!
「なんか言わなかったかい?」とばあさんは問いかけ、相手は不思議そうに答える。
「いえ、何も」
「そうかい?耳が遠くてね。年を取るってやだねぇ」
ばあさんたちは笑いあう。最近入ってきた入院患者の話が出てきた。その男の老人は原因不明の腹痛を訴えて、医者に無理を言って入院した。
「本人は相当つらそうにしてるわね。医者も何の病気なのかわからないそうよ。あたしは死んでしまうような気がするわ」
「さあね、あたしにゃ、死ぬような人に見えんね。顔色いいし、だいじょぶだぁー」
ばあさんはまた笑って、話し相手もつられて笑う。
そのとおりだ。あの男の老人は家族と折り合いが悪くて、淋しくて、仮病で入院したのだ。担当の医者の話でも全然悪いところはない。健康そのものだと言っていた。
病院に時折姿を現す変な男の話が出た。面白半分、興味半分の話し相手の口調には怯えみたいなものが見える。死んでしまった患者が死の直前に その男の姿を見るそうだ。つまりご先祖が迎えに来たとか、悪霊ではないかとか、死神ではないかとか、という憶測の話だ。死んだ患者と会話しなければわからないようないい加減な噂だ。ようするにどこにでもありそうな病院の幽霊話で、まあ、ばあさんにはあまり興味が湧かない話だ。何せ老年期に入っているばあさん自体にお迎えがくるのだろうから、もうどうでもいいだろう。
「どうなのかね?あたいはそんなことはあまり信じていないけど、やはり臨終のときはじいさんが迎えにくるのかね」
このばあさんの旦那、つまりじいさんがやはり風をこじらせ肺炎になって亡くなったとき、この病院に運ばれてきた。そのときじいさんはそのうち迎えにくると言っていた。おれはそう本人から聞いていたので呟いた。ばあさん、じいさん必ず迎えにくるよ!
「なんか言ったかい?」
「えっ?ばあちゃん、耳かい?まったくお互い年はとりたくないね」
笑いの花が咲く。
「この年になってもそういうのが怖くてねぇ?」
と、ばあさんの相手が言う
「まあ、怖くないかといえば嘘になるやろ。でも、どうでもいいね。まだ生きたいね。その男の幽霊はしょっちゅう出るのかな。浮かばれん死に方したんやろか」
幽霊の男まで心配したって仕方がないのに、やはりこのばあさんは根っからの善人だ。
おれは呟いた。ばあさん、やさしいね!
「なんか聞こえなかったかい?」
「えっ?また耳かい?」
「悪いねぇー。耳が遠いもんだから」
ばあさんたちのゲラゲラ笑い、また雰囲気が花になる。
おれのつぶやく声が聞こえるとは世の中、不思議なもんだ。まあ、棺桶に片足を突っ込んだばあさんだが、ばあさんの様子を見ていると迎えは当分来ないだろ。




