第二話 目覚めるのは風鈴の音
ジャンルはどちらかというとホラー?
窓を吹き抜けて入ってくる外の匂いはいつも初夏の暖かさを感じさせ、僕を覚醒へと誘う。風鈴の音が僕の目覚まし時計で、その澄んだ音色を聞くと僕はものぐさな仕草をしながら、上半身を起こす。
彼女はさりげなく僕の生活をサポートしてくれていて、毎朝必ず窓を開けてくれて、風鈴を窓際にかけてくれる。そうして、決まった時間に風は室内に流れ込み、僕を目覚めさせるのだ。
彼女は食事も用意してくれて、目覚めた僕はコタツの上に置かれ、皿に載っている目玉焼きと焼きトーストを見つめ、感謝の気持から一日が始まる。でも、最近は少し飽きている。なぜなら、いつも同じメニューで、たまには味噌汁やご飯を食べたい。でも、パンと目玉焼きが彼女のこだわりのようで、作ってもらっている身でそんな贅沢は言えない。食べ終わり僕は服を不器用に来て、玄関に向かう。履きなれたスニーカーが揃えてある。これも彼女のおかげだ。昨日帰ってきたときは靴を投げ出すように脱いであがったのに、翌日にはちゃんとこうして揃えてあるのを見ると、疲れたスニーカーも僕を理解してくれていてありがとうという気持ちになる。そして、気分よくバイトに行くのだ。
彼女に向かって「行ってきます!」と元気に言うと、「行ってらっしゃい」とにこやかに返してきた。
僕がここに移ってきたのが新しいバイトを決めて、フリーターとしてバイトを転々としながら生活していく憂鬱な気分を一新しようと決意したからだ。部屋は都内にあるマンションの七階の一番端。築二十年の古い物件だったが、僕は決意が鈍る前に即決した。
僕はその頃一人暮らしをしたいと思っていた。ずっと親元から離れず、親の世間体をメインにした生活はそれで通用してきた人にはある程度安定した幸せをもたらすが、親も実際そうであるし、常に世間にはじかれてきた僕としては苦痛でしかなく、ただやりたいこともやらないままただフリーターとして生きてきたことに自責の念を感じていく。その憂鬱を払いのけたいと強く念じていた。そして、引越しをして親元を離れ、誰か彼女でも見つけ、仲良く暮らすとかそんな妄想を抱いていたのだけども、多少その気持が神様の周辺に伝わったのか、不思議と入居した日から、彼女は僕の生活を支えるようになっていた。
僕の日常はスーパーの惣菜の品出しバイトを終えると、部屋に帰ってくる。部屋に入ると彼女は浴室でシャワーを浴びているらしく、時折漏れる鼻歌は僕をほっとさせる。よくそんな冷たい水でシャワーなんて浴びることができるなと思っている。というのも、古いマンションのせいか、蛇口から出るお湯はぬるく、僕はいつも部屋の風呂に入らないで、だいたいバイト帰りに銭湯に寄ってくる。
今日もそんな日常を繰り返していて、いつものようにコタツの上には食事が用意されている。僕は目玉焼きと焼きトーストという粗末なものでさえも、ありがたく頂戴するのだ。今日はなんだか疲れていて、僕は彼女の存在を身近に感じながら、電気を消し布団にもぐって寝た。
いつも目覚めるのは風鈴の音。それによって僕の意識が鮮明になっていく。しかし、いつもちゃんと定刻に鳴るのは感心だ。これも自分と彼女の日ごろの行いのおかげだろうか。
風鈴は古い真鋳か何かの黒いもので、年期を感じさせるものだ。引っ越した当初から、窓側にかけられていた。不動産屋の社員と一緒に一度部屋を確認したときにはそんなものは無かったはずだが、契約書類やらを済ませ、鍵をもらって引っ越してきたときにはそれが窓際に下げられていたのを覚えている。そして、その日から僕は彼女と暮らし始めた。
彼女はいつも早起きで、今日は外にでも出かけているのか、部屋にはいないようだ。でも、きちんと目玉焼きとトーストは用意されていて、そのありがたさに僕は微笑を浮かべている。
テレビを点けてみると、朝の定番ニュース番組が流れている。銀行の社員がお客のお金を着服した事件、ビルの耐震偽装事件、ITベンチャー企業の株価操作事件。そのどれもがお金持ちの裕福な人たちの話で、社会の底辺でねちねちと生きている僕にはまったく関係のない話ばかりだ。テレビに映る映像が生放送であろうとなかろうと現実味を伴わないのは、やはり僕が比較的まともに生活してきた人々が作り上げた日本社会を、僕も一緒に支えているという意識が乏しいからだろう。それよりも今の僕は今の生活を維持していく事が何よりも先決で、これ以上生活レベルが下がらないようにと世間にしがみついて、彼女との生活で癒されている自分はちっぽけだが心地よい。
そんなことを思いながら、僕はバイトに出かける。「行って来るね!」と声をかけると、奥から「行ってらっしゃい」と彼女が言ってくれた。うれしい気持ちで僕はドアを閉めてエレベーターに向かうのだ。
今日の夜はなんだか疲れていて、それでもいつものように有難く食事を済ませ、横になってテレビの画面を眺めていた。というのも、パソコンでインターネットやる金も無いし、パソコンは無いし、買う金も無い。時代に取り残されたまま、映りの悪い画面を見入っている。古いマンションだから電波状況がよくない。眼が断片的に痛むようなうざったさを感じながらも、時々画面が切れるような白黒に近い映像はマンションが建ってからの年月を思わせた。内容が古いニュース事件の特集をやっているらしく、地下鉄サリン事件のときの映像が流れている。「そんなこともあったね」という気分だった。僕には社会の大事件もそんな感じでもあり、でも当時感じた社会状況を思い出してもいた。世間のおおかたの人はヒステリックになっていたし、僕もその雰囲気に飲み込まれて、どこか空々しさを感じながらもそれでもやはりひどい事件だと思って憤慨していた。画面に映る救急車やら被害者やらをぼんやり見ながら、ひどかったなと思いが満ちてきそうなのを、事件も大方の犯人は捕まったし、まあいいかという気持ちで冷ましてしまう。そうして起こっていた事件から遠ざかりかけたとき、この事件があったころにはこのマンションが建てられた頃だとふと思った。当時は誰かすでに入居していたのだろうかな。まあ、いろんな人生の一時の宿り木になってきたのだろう。僕と彼女の宿り木でもある。こんな日がいつまでも続けばいいなと願いながら、彼女の様子を伺った。彼女はガラスの敷戸の向こう側で食器を洗っている。彼女の手のうちで静かに踊る皿と水道の水に混じって鼻歌が聞こえてくる。実に楽しそうだ。
今日は休みで、のんびりと彼女の太ももを膝枕にしながら、僕は寝ている。もう朝なのだろう。彼女はいつ僕の頭を太ももに載せてくれたのだろうか。薄目を開けて意識に入ってくる彼女の顔は優しさを帯び、でも何かしらの苦悩を抱えているのか、なやましげな表情で窓の外を眺めている。
不粋な風が入ってきて、風鈴を鳴らす。起きなければならない。僕はその彼女のぬくもりに未練を感じながらも、身体を起こし、寝ぼけたまま頭をかいた。
背中越しに彼女は「おはよう」とやさしく言って立ち上がって、ガラス戸の向こうへ消えていった。やがてフライパンで目玉焼きを作る音が聞こえてきて、その彼女のつつましくてさりげない様子に感謝しながら、僕は外を眺めていた。
今日は日差しが強そうだ。太陽光が窓から入ってきているせいで畳を焼き、古い部屋独特の湿気と混合して畳の腐った匂いが鼻孔を掠める。
やがて彼女はおぼんにいつもの食事を載せて、手馴れた手つきで並べる。そして、また台所へ戻っていった。
その仕草に見とれながら僕はコタツに座り、箸を取る。
彼女はいつも同じような服を着ている。白いシャツに青いスカート、それはいつも清潔を保って清楚な彼女にはぴったりだ。今風のラフな着こなしではなくて少し流行遅れかもしれないけれど、時代にも流されない意思をほのかに包んでいる。
今日はずっと寝転んでいた。休みだったからこんなものだろう。あまり何をしたか覚えていない。実りのあるようなことをしたということはなかったということだ。強いて上げれば十分体を休めたということだろう。陽が沈むまま、電気も点けずに薄暗がりの部屋を静かに浸り、べたべたするでもなく、無視するのでもなく、時折彼女の存在を感じながら、くつろいでいた。
夜になって、昼間あんなに寝たのにまだ眠い。視線が揺らいでいるのはそのせいだ。このまま寝ようと僕は思った。
そんな僕にしなやかに彼女は近づいてきた。
僕がゆっくりと浅い意識に包まれていくのを彼女は微笑むように眺めて、燭光の揺らぎのようなしめやかな身のこなしで、暗くなった部屋から差し込む夜光を眺めるためか、窓際の方へ静かに腰を下ろす。そして、彼女もいつの間にか眠るのだろう。そして、明日の朝僕より早く目覚めるのだ。
風鈴が鳴る。風がないのに風鈴が鳴る。いや、窓が開いていないのに風鈴が鳴った。それは彼女の思いやりだろう。また、今日という日常をこなさなければならない。
ゆっくり起きて、そのまま這いつくばって、コタツの前にあぐらをかく。目玉焼きと焼きトースト。いつもの食卓だ。僕はささやかに今の生活に満足した。不動産屋さんに感謝した。
僕の部屋を紹介した不動産屋さんは、安い家賃のところを望む僕の要求に沿って、ここを紹介してくれて、しかも敷金も安く抑えてくれた。今時古い物件とはいえ、こんな安い部屋はそうそうない。不動産屋さんはすごく親切な人で、他人である僕のことを心配してくれていた。
僕の入った部屋が安いのは本当に古くて傷んだ部屋であること。その他に今まで二十年という間に数十人という人が入居した事、そして、そのいずれの人も一年以内に引っ越したという事。その入居者の人たちが定着しない理由はそれとなく言ってくれていた。くだらない噂話だった。
それでも、僕はかまわなかった。少ない給料で生活していくにはそれしかないし、家賃が安いのはいいことだ。
ふと気がつくと、彼女はどこかに出かけているようだった。いつもどこかに行き時折戻ってきている。今日はどこに行っているのだろう。まあ、彼女がどこに行ったか知らないが、このマンションが建てられた頃に、この部屋の窓から飛び降りたのは確かだ。




