テンプレ批判について思うこと
○はじめに
SNSを眺めていると、
「テンプレはけしからん」
という主張をたびたび見かける。
もちろん、内容にはいくらかバリエーションがあって、
「ランキングに似たような話ばかり並んでけしからん」
「テンプレ作家は古典を読んでないのでけしからん」
「テンプレを批判はしないがテンプレはけしからん」
とかいったことである。
なにせSNSの限られた字数で語られることであるから、大した議論の深まりもなく、しだいに忘れ去られ、したがって、またさも新しい主張のように「テンプレはけしからん」というようなことを数ヶ月おきに、おそらくこの先も未来永劫繰り返すのだろうが、私などは根が素直な人間であるから、「はて、テンプレとは、ほんとうにけしからんのだろうか……?」などと、以前にも考えたことを、また見るたびに考え込んでしまう。
まったく人間の記憶力というのは大したものだ。
さておき、これではさすがに時間の浪費もはなはだしいので、この話題が出るたびにまた一から考え直さなくてすむように、一度私の考えをまとめておきたいと思う。
先に、テンプレに対する私のスタンスを述べておかなければフェアではないかもしれない。
まず読者としての私は、交流のある方の作品を除いて、テンプレどころかWeb小説をほとんど読まない。ランキング作品のあらすじを読んで、「へえ、こういうのが流行ってるんだぁ」くらいのものだ。
これはあまり知られていない事実だが、この国には、歴史に名だたる名著や、その道のプロがこれと選んだ小説が、ことによればわずか数百円で売っている「書店」という店があるのだ。
一方、書き手としての私は、設定上のテンプレを使って書くことがある。
書き物を通してあるものごとを表現するにあたり、舞台はあまり問題でないという場合が私にはしばしばあって、小道具は拳銃でも魔法でも成立するし、舞台は近未来都市でも、いわゆる「ナーロッパ」的世界でも代替可能だという場合、私は社交性の現れとしてナーロッパ的な舞台や設定を用いる。
私にとって大事なことは、テーマやコンセプトや文章そのものであって、舞台ではないからだ。
また、そもそもテンプレを茶化したいという動機で書き始める場合もある。よくいえばパロディ。その場合、作り込まれたオリジナルの世界観を舞台としたのでは意味がわからない。
そんな次第であるから、テンプレ作品の批評をおこなうつもりはない。そもそも読んでいないので。
ただ、あらすじを信用する限りどうもこういう話らしい、というのに基づいて考えをすすめていくので、その程度のものだと思って読んでもらえると嬉しく思う。
1.テンプレとはなにか
いちいち断るまでもないとは思うが、ここで扱うのは、いわゆる「なろうテンプレ」というものだ。
ここでは、この『小説家になろう』という小説投稿サイトをはじめ、Web小説プラットフォームで、単に流行というよりも、共有されている道具立てやセオリーを指すものとし、大きく次の2つに分けられると思う。
①設定に関するテンプレ
②物語構造に関するテンプレ
この2つが混同して語られていることは、議論が混乱する原因になっているように思う(誰もそんなこと気にしちゃいないかもしれないが)ので、ここでは下記のように分けて考えたい。
1-1.設定に関するテンプレ
代表的なものは、私もしばしば使うゲーム的世界観。ドラクエ的な剣と魔法、『モンスターハンター』シリーズの影響ではないかと思うが「冒険者ギルド」という組織があり、モンスターを討伐することで報酬を得るという設定が多いと思う。
また、「中華風ファンタジー」や「和風ファンタジー」など、舞台や道具立てを特定の国の歴史的な雰囲気に置換したものも、設定に関するテンプレといえるかもしれない。
人間以外にエルフやドワーフ、獣人がおり、弱いモンスターとしてスライム、強いモンスターとしてドラゴンいるというのもお決まりだと思う。
1-2.物語構造に関するテンプレ
一時期流行った「ざまぁ系」や「異世界転生・転移」、「婚約破棄」のようなもの。
なお「異世界転生・転移」は物語の冒頭しかカバーしておらず、そこから「成り上がり」「ざまぁ」「悪役令嬢」「スローライフ」など別のテンプレに接続していくようである。
また歴史カテゴリはざっと見た感じ半分くらい(以上?)は転生していたが、そこからある程度は史実に沿うであろうから、題材にとった時代や地域ごとにだいぶ違った物語になりそうではある。
いずれも、不遇(ニート、社畜、追放、婚約破棄)な主人公が別の環境(異世界、新しいパーティー、別の恋愛対象)に移動し、承認を得るという点で、ジャンルをまたいで共通の構造を持っているということができそうだ。
2.テンプレに対する批判
ここ最近では、テンプレがランキングを席巻したことについて、なろう作家を批判しながら「これはWeb小説の構造的な問題だ」というのが印象的だった。多分この人は「構造的な問題」という言葉の意味をよく分かっていないと思う。
これは「構造的な問題」という言葉が、賢そうでカッコ良すぎることに問題がある。
私も賢そうな言葉を使って賢そうに見られたいと常日頃から思っているので、最近は「パースペクティブ」という言葉を使う機会を虎視眈々とうかがっているが、あまり意味は分かっていない。
こういったことは、テキスト優位の社会においては賢そうな言葉で賢そうに振舞うことに強いインセンティブが働くという、構造的な問題である。したがってこれを私個人の責任に帰することはお門違いだ。
話を戻して、実際にどのような批判がされているか考えていこう。とはいえ、私はこの分野について特別深い関心を寄せて積極的に収集しているわけではないので、「だいたいこんなことが言われているのを見かけた」程度の話であり、網羅的でもなければ正確でもないことを先に断っておく。
2-1.ランキング独占
これは「テンプレ以外の作品を探すのに検索性が著しく下がる」という読み手視点の問題と、「テンプレ以外の作品を書くと読んでもらえない」という書き手視点の問題に分解できる。
突き詰めると、サイトのトップページという有限のスペースに、どういう作品を並べるべきかという問題だと考えられる。
2-2.ジャンル汚染
ファンタジーが特定の設定に偏る、歴史が転生もので溢れるとかいったもの。
本格ファンタジー界隈(というラベリングが正しいのか分からないが)の人がこの手の主張をするのをよく見かけるが、私個人としては歴史カテゴリの転生が気になった。
特定ジャンルの古参ファンと、なろう作家との間におきる、ジャンルの様式に関する解釈の違いということができそう。
2-3.商業主義
ランキングのハック、その先の出版に最適化された執筆は、本来、文学的感性によって書かれ、出版されるべき文学のあり方に照らして不純であるというようなこと。
また、作家の本来書きたいものが抑圧されてしまうという主張。
2-4.市場における量産型小説の氾濫
ランキングの独占とかぶるようだが、一段階大きなレイヤーの話で、出版市場がテンプレ的小説に席巻され、旧来の文学が市場から消えてしまうのではないかという懸念。あるいはすでにそうなっているという主張。
2-5.しょうもない創作論
ランキングをハックし、あわよくば書籍化まで至るような小説の書き方、つまりテンプレの書き方が、あたかも小説一般の普遍的な技法であるかのように語られる。それによって、小説の執筆という非常に広くて豊かな創作行為が、著しく狭隘なものになってしまうという懸念。
2-6.読者の知能、人間性の低下
高尚な小説を読むと知性や人間性がアップするので、逆にテンプレのような低俗なものを読むとダウンするに違いないという説。
私は個人的にこの主張が気に入っている。
2-7.単純につまらない
とくに説明は必要ないと思う。
3.小説の価値
上記の批判が妥当であるか否かを考える前に、そもそも小説の価値とはなんであるかを考えなければならない。
SNS上では「Web小説・ライトノベル」VS「一般文芸・古典文学」というような括りで比較されることが多いように思うが、一般文芸といっても推理小説と私小説では供される価値がまるで違うことは論を俟たない。古典といってもモダニズム文学は、近代文学の「19世紀的リアリズム」からの脱却を目指したものだ。
つまり、今日古典に括られる作品群がそもそも価値観の相反を起こしているのに、それをひとまとまりの概念として別のものと比較しようというのが土台無理な話なのだ。
にも関わらず、あたかも古典や一般文芸には共通した単一の価値があり、またWeb小説とラノベも単一の価値を共有しているかのような論調で語られているのをかんがみるに、ひょっとして、このテーマはそもそも考えるに値しないのではないか。
そんな疑問が湧いてきたのだが、もうこの時点で3,600字も書いている。
ここまできたら、もういくところまでいくしかない。サンクコスト効果というのがあるのだ。
さて、昨年、現代文学の怪物として名高いソローキンの新作『ドクトル・ガーリン』を読んだ。お尻の形をしたG7首脳のクローンを治療する医師が、核戦争から逃げ延びながら旅をし、ミュータントに捕まって木彫りのiPhoneを作らされるという愛の物語だ。
なにをいっているかわからないと思うが、ソローキン作品の中では、まだわりと読みやすい方だ。
幻惑され、圧倒され、目眩をおぼえながら読み終えた後に呆然とする、「あれは一体なんだったんだ……?」と途方に暮れる、もちろんそんな本ばかり読んでいるわけではないが、私はそういう読書体験がわりと好きだ。
この一冊だけとってみても、小説の価値などとても一言で言い表せるものではないことが分かってもらえると思う。
「小説の価値とは何か?」と問われて、「これこれこうしたものである」とためらいなく言い切る人を、私は信用しない。
しかし、私自身ははっきりと答えることができるだろう。
「いろいろある!」
4.批判に対して思うこと
上記の通り、小説の価値というのは多元的であり、ある価値観に照らせばテンプレ小説が優れている点もあるのだろうと思われる。私は読まないが、私の好みと、それ自体に価値があるかどうかというのはまったく別の話だ。
さておき、「2.テンプレに対する批判」の項で思い出せる限りのテンプレ批判を並べたが、私はこれからそうした批判について一つ一つ意見を書かねばならないのだろうか? 自分ではじめたことながら絶望している。
4-1.ランキングについて
テンプレ以外の小説が読みたくてWebのテンプレ小説をくさしている人たちに対しては、「本屋に行け」の一言に尽きる。図書館でもいい。優れたコンテンツを鑑賞するのに相応のコストを支払うのは当然のことだ。
私はラノベをほぼ読まないので、ラノベの棚がどうなっているかは知らないが、私の知っている本屋でまずテンプレ小説が目に入ってきたことなど一度もない。
書き手についていえば、基本的に、ランキングに載りたい人がランキングに載るための努力をしてランキングに載ったということを、私は健全だと考える。そこ(小説投稿サイト全体ではなく、そのランキング欄)は、そういう競技をする場所だからだ。
一方で、そうした競争に背を向けて、自分の書きたいもの、表現したいこと、そうせずにはいられないことを書き続ける人が私は好きだ。
テンプレではないもので敢然とランキングに立ち向かっていく作者がいるとすれば、それはとても勇壮で素晴らしいことだとも思う。
問題なのは、読まれたいがために嫌々テンプレを書いているような人、それからテンプレを書かずにランキングに載らないことを呪い、恨み言を吐いてしまうような人だ。
私はそういう人たちより優れた作者でも優れた人間でもないので、特に助言めいたことをいえるわけでもない。できるのは、別にそんなことしなくていいのにと思いながらただ祈ることだけだ。
先ほどあらためて『小説家になろう』のトップページを見てきた。
確かに、一番最初に目につくのはランキングだが、ランキングのスペースは案外コンパクトにまとめられていて、その下に「完結済みの連載作品」「更新された連載作品」「新着の短編作品」と並ぶつくりになっている。
見方は人によっていろいろあるだろうが、限られたスペースの中でランキング以外の作品が露出するよう、かなり頑張っている方だという印象を私は受けた。
Web小説の構造的な問題という人もいるが、私はPVやランキングにとらわれるのは個人の問題だと思う。とらわれていないなら文句も出まい。
4-2.ジャンル汚染
Web小説に対する批判としてはかなり主要なトピックだと思うが、私は特定のジャンルに忠誠心というものがまったくないので、特にいうことがない。
たとえば「古典ファンタジーを踏襲すべき」という意見も、「テンプレをおさえるべき」という意見も、私には「どういう反復が擁護され得るか」という話でしかないように見える。
その上で、歴史ジャンルの転生だけはやはり少し気になる。私は歴史小説に詳しいわけではないが、読むとすればその時代の価値観、その時代の思考様式を擬似体験することで、自身の価値観を相対化するような読書を期待する。主人公が転生した現代日本人というのではその読み味が損なわれるのではないか。
とはいえ実際読んだわけではないので、これはまったく要らぬ心配なのだが。
4-3.商業主義
少し考えればわかることだと思うが、今日、古典として残されている名作の数々は、どこかの時点でバカ売れしたから残っているのだ。それはひょっとしたらカフカのように作者の死後かもしれないが、ドフトエフスキーも、カート・ヴォネガットも、ヴァージニア・ウルフも、売れるから刷られている。
歴史に名だたる文豪たちを売れない作家と思わない方がいい。
それはそれとして、ジョン・バースが復刊され、トマス・ピンチョンのシリーズが文庫化されることを願う。
4-4.市場における量産型小説の氾濫
作家を舐めるな。
4-5.しょうもない創作論
作家個人が「こんなふうに考えて書いてます」みたいなのが私は好きだ。どんどん書いてほしい。
一方で、あやしげなセミナー講師みたいな人たちの偏狭な創作論が鼻について仕方なかったのだが、最近になって、あの人たちは情報商材屋さんであり、「無意識でこれをやってる男、絶対モテない」みたいなのと同じ人種だと気づいてからは、なんなら騙される方が悪いくらいの感じになった。真に受けることは絶対にないが、こうなってみると別に腹もたたないというのは不思議なものだ。
中にはなにかの賞をとったという肩書きを振り回して、頼んでもいないアマチュアに説教を垂れる商業作家もよく見かける。
よほど気持ちがいいとみえるので、私もなにかの拍子に賞などとったあかつきには、セミナーを開いて若人に説教を垂れることで残りの作家人生を謳歌したい。もしあなたがその会員になってお友だちに私のセミナーを紹介してくれたら、あなたは親会員となって子会員から集めたセミナー費用の30パーセントを受け取るシステムを構築するつもりだ。
4-6.読者の知能、人間性の低下
そもそも読書というものは神聖視され過ぎているように思う。たかだか1,500円やそこらの本で人生が変わるのだとしたら、その人生の軽さを心配した方がいい。本など読まなくても立派な人はたくさんいるし、頭のいい人も山ほどいる。
だいたいSNSで本読みを自称しながら、やってることがレスバというのでは、本など読まない方がいいのではと思うくらいだ。
私は月に2冊くらいの本を読む。本読みとしては少ないくらいだろうが、あまり読み過ぎて自分が賢くなったと錯覚するのも考えものだ。このくらいのペースに抑えておこうと思う。
4-7.単純につまらない
自分の好みに合った本を見つけるというのはそもそも難しい。厳しい競争を勝ち抜いて本屋に並ぶプロの作品でさえそうなのだ。ましてやアマチュアの作品の好きでもないテンプレを読んでわざわざつまらないと愚痴をいっているのだとしたら、その人に必要なのは読書ではなく休養だ。
5.テンプレそのものについて思うこと
ガブリエル・ガルシア=マルケスが書いた『百年の孤独』は、スペイン語圏では刊行当初から「ソーセージのように売れた」といい、ラテン・アメリカ文学のブームを巻き起こした。
同時代やそれ以前のラテン・アメリカ文学が発掘されたということもあるだろうが、一方で『百年の孤独』を真似た作品も相当書かれたであろうことは想像にかたくない。
おそらくそれらのほとんどは消えた。
今小説投稿サイトで起こっていることは、ガルシア=マルケスの時代であれば消えていた作品群が、ネットの力を借りて可視化されたに過ぎないと私は考えている。
「3.小説の価値」において、古典といってもその中で近代小説とモダニズム文学では価値観が違うということをいったが、とはいえ古典が古典として現代に残るにはその要因となる価値があると考えられる。
思うにそれは下記の2つだ。
・現代に通ずる
・歴史を変えた
ブラック・ライブズ・マターが流行ればラルフ・エリスン『見えない人間』が復刊されるし、フェミニズムが盛り上がればシルヴィア・プラス『ベル・ジャー』の新訳が出る。
ウィリアム・S・バロウズの作品を純粋に楽しんでいるという人を見たことはないが、実験小説の雄として彼の名は語り継がれている。
ひるがえって、テンプレ作家がこのように語り継がれる可能性は、低いのではないかと思われる。
テンプレは同時代性の高いタームを多用する技法であり、また新奇性を犠牲にすると考えられるからだ。つまり50年後の人が読んでもわけが分からないし、性質上「歴史を変えた」的なことは起こらないのではないかと思う。
しかしそれが悪いことかというと、少なくとも私はそうは思わない。
先の通り、小説にはいろいろな価値がある。同時代の人たちが同時代の感覚で楽しめる作品というのは、おそらくこれまでもあったと考える方が自然だ。
そうした作品群は、時代が経るにつれ風化して消えたかもしれない。しかしそれらが同じ時代を生きる人たちを楽しませ、あるいは心の拠り所となった可能性は否定できない。
とはいえ、テンプレが単に人気作の模倣というにとどまらず、一種の型として定着している背景には、私たちのアノミーが見え隠れするように思えてならない。
私たちは神のいない時代に生まれた。がむしゃらに働き金を稼ぐことが必ずしも幸福につながるわけではないことも知っている。芸術の歴史とは旧来の秩序の、控えめにいって拡張の歴史であり、率直にいえば破壊の歴史だ。
世間では思考のアップデートだの、価値観を最新モデルに書き換えろとかまびすしいが、5年や10年で書き換えるような価値観に、もとより人生を預ける強度など期待するべくもない。
そんなこんなで、私たちはなにかにつけて規範を喪失している。
これは一見自由にも思えるが、私たちは未規定な世界に放り出されていつまでも宙ぶらりんでいられるほど強くはない。
そこでとりあえずWeb小説における仮の規範として現れたものがテンプレではないかというふうに、私には見える。
創作は自由だ。なにをやってもいい。しかし「なんでもいい」が一番困る、みたいなことで。
一方でテンプレを批判している側はというと、死んだ神に変わって自ら模造の神を作り出して祀っているように私にはみえる。
模造とはいえ神であるから、異教徒に侮辱されるのは我慢ならない。しかしとはいえ模造であるから、その時々の都合でいかようにも作り変えられる。
私自身も似たようなものだ。おそらくどちらの要素も持っている。
だからこそ思いつくままつらつら書いているうちにこれだけの量になるわけだ。
——と、なにか締めにちょうどいい文句を少し前から探しているのだが、一向に見つからないのでこの辺にしておこうと思う。




