違和感の圧
二週間、平和でした。
だから油断しました。
その後の二週間は、皮肉なくらい平和だった。
私とセリナの奇妙な共犯関係――【勘メモ】の運用は、想像以上に回っていた。
『経理の橋本さん。薄い緑。咳なし』
『了解。今日、彼がこっちの島に来る用事は私が代行して潰します』
翌日。
橋本さんは発熱で欠勤。
百発百中、ではない。
けれど八割近くの確率で、私が「色」を見た人は数日以内に体調を崩した。
セリナはそれを「神楽センサーの精度が高い」と喜び、私は「ただの不吉な予言者」になった気分だった。
それでも――
自分の視界が、誰かの役に立つ。
その事実が、胸の奥の怖さを少しだけ麻痺させた。
役に立てている。
そう言い訳しながら。
私は、自分の怖さを見ないふりをしていたのかもしれない。
「えー、業務中にすまん。全員、手を止めてくれ」
橋爪係長が、手を叩いてフロアの注目を集めた。
顔色が悪い。
病気のそれじゃない。土気色。紙みたいな色。
横のセリナも、いつものノートを抱えたまま表情が硬い。
「急な話だが、本日午後、本社から藤堂本部長が視察に来られる」
空気が一段重くなる。
藤堂本部長。
品質管理部門を統括する役員。
とにかく「現場主義」と「精神論」が大好きだという、嫌な噂しかない人。
「それでだ。議事録を……神楽さん、相田さん、頼めるか」
「……はい?」
間の抜けた声が出た。
隣を見ると、セリナも一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに仕事の顔に戻る。
「坂口さんが午後から外回りだ。手が空いてて、議事録が早そうなのが君たちでな」
「係長、神楽さんは……対外的な対応は、あまり得意ではないかと」
セリナが即座に助け舟を出す。
さすが“変人の後見人”。
私のコミュ障設定を盾にしてくれる。
「分かってる。喋らなくていい。端で記録だけ取ってくれ。頼む」
係長が拝むようなポーズをした。
切羽詰まっているのが伝わる。
断ったら、後で何を言われるか分からない。
「……分かりました。記録だけなら」
頷くと、係長は「助かる!」と叫んで走り去った。
「大丈夫ですか。緊張でフリーズしないでくださいね」
「緊張は平気。心配なのは、その本部長の話が長いかどうかだけ」
「噂だと熱血系です。まあ、三十分の辛抱です。私が壁になりますから」
頼もしい後輩だ。
この時の私は、まだ楽観していた。
所詮、退屈な会議。
唾を飛ばして喋るおじさんを、遠くから眺めるだけ。
――そんな仕事のはずだった。
午後一時五十五分。第一会議室。
部署で一番広い。
でも窓は開かない。密閉された箱。
その上座に、男が入ってきた。
「いやあ、みんな元気そうで何より!」
ドアが開いた瞬間、空気が震えるような大声。
藤堂本部長。
恰幅が良い。血色が良い。笑顔が大きい。
そして――
ノーマスク。
(うわ)
反射的に、自分のマスクの上から鼻を押さえたくなる。
衛生用品メーカーの役員が。
この密室で。
大声で。
私とセリナは下座、ドアに近い隅に並んで座り、ノートPCを開いた。
距離は三メートル。
……届かないはず。飛沫は。
「では、現状の品質管理体制について報告させていただきます」
橋爪係長が資料を読み上げ始める。
私はタイピングしながら、何気なく本部長の顔を見た。
いつもの癖で、口元へ視線が吸い寄せられる。
(……?)
指が止まった。
見間違いかと思った。
一度目を伏せ、もう一度見る。
本部長の口元――鼻から顎のあたり。
そこに、何かがいる。
薄青いシャボン玉じゃない。
緑の季節性のものでもない。
赤だ。
鮮血の赤じゃない。
酸化して黒ずんだ、古い赤。
粘り気のある靄が、呼吸に合わせて膨らんでは縮む。
じゅるり。
……そんな音まで、頭の奥で鳴った気がした。
鉄が錆びたような臭い。
鼻の奥が、勝手にその匂いを作り出す。
背筋が粟立つ。
初めて見る色だ。
本能が、けたたましく警報を鳴らす。
――吸うな。
――吸ったら、終わる。
霧じゃない。
「吸ったら、内側に貼り付く」類のものだ。
係長の説明が一段落した。
本部長が、大きく息を吸い込む。
その動きに合わせて、赤黒い靄が一気に口元へ引き込まれる。
凝縮される。
「なるほど! 数字は分かった!」
破裂音みたいな勢いで吐き出された。
大声に乗って、赤黒い粒子が散る。
散弾銃みたいに。
さっきまで口元に留まっていたのに。
声圧に押されて、テーブルの中央にまで侵食してくる。
私は反射的に仰け反った。
キーボードを打つ指が震える。
見えないはずの“汚れ”が、会議室の空気を汚していくのが分かる。
「だが橋爪君。私は数字よりも、君たちの“顔”が見たいんだよ」
本部長が身を乗り出す。
赤黒い靄が、さらに広がる。
獲物を探す触手みたいに、ゆっくりと。
嫌な予感がした。
最悪の予感。
やめて。
それだけは言わないで。
視線が、係長から私たちへ向く。
「ここは社内だ。外部の人間はいない。どうだね、腹を割って話すためにも――マスクを外してはどうだ?」
時間が止まった。
係長が一瞬だけ固まり、すぐに「は、はい」とマスクを外した。
権力者への反射。
サラリーマンとして正しい反応。
「そっちの女性社員たちもだ」
矛先が向く。
逃げ場のない密室で。
赤黒い靄を撒き散らす発生源が。
満面の笑みでこちらを見る。
「いい表情で仕事をしようじゃないか。ね?」
息ができない。
外す?
この部屋で?
毒ガスが増えているのに?
無理だ。絶対に無理。
視界の端が白くチカチカする。
喉の奥に、薄い膜が貼り付く感覚。
咳が出そうになる。でも出したら吸う。
テーブルの下で、トン、と膝に何かが当たった。
セリナの膝。
私のチャット画面が光る。
『神楽さん、呼吸浅いです』
『見えてますね?』
その瞬間、世界が一段暗くなる。
赤と黒が混ざった粘液の霧が、本部長の顔から立ち上がり、天井にへばりつき始めた。
「――君たちさ」
本部長の声が、空気を揺らす。
「いつまでそんなもの付けてるの?」
「世の中はもう元に戻ってるんだよ。いつまでも防波堤の裏側に隠れてたら、社会人として成長しない」
(成長とか、そういう話じゃ――)
心の中で反論しようとしても、声にならない。
喉がきゅっと縮む。
肺が浅くなる。
本部長が喋るたび、赤黒が濃くなる。
これは精神論じゃない。
物理攻撃だ。
「俺なんか、感染しても構わないよ」
大げさに胸を叩く。
「リスクを取るのが管理職の仕事だ。だからさ、君たちもさ――マスクなんか外して、顔をちゃんと見せてくれよ」
視線が、まっすぐ私に突き刺さった。
赤黒い靄が、私の目の前まで迫る。
「特にそこの君。ずっと下向いてるじゃないか」
心臓が早鐘を打つ。
飲み込まれる。
そのとき。
隣のセリナが、椅子をきゅっと引いた。
凛、と金属みたいな音がした。
迫っていた靄が、ほんのわずか“ためらった”。
「本部長」
セリナの声。
いつもの軽さが消えている。
現場の温度を一段下げる、仕事の声。
「申し訳ありませんが、そのご提案には、業務上ちょっと問題があります」
本部長の目が、すっとセリナに移る。
「問題?」
「はい」
セリナは手帳――例の【業務メモ】を開いた。
「当社の感染症対策ガイドライン、最新版では、本部フロアはマスク着用推奨区域のままです。特に品質管理部門は優先対象になっています」
「推奨だろ? 外してもいいってことじゃないの?」
「文言が違います。ここ、“原則着用”です」
セリナの声は、事務的で冷たい。
その言葉が落ちた瞬間。
本部長の周りの赤黒が、見えない壁にぶつかったみたいに波打った。
止まった、というより。
形を変えるのを迷っている。
「もし本部長のご判断で“原則”を外すなら、改訂です」
「衛生委員会と産業医に通します」
短く。
切る。
「この場の口頭指示だけだと、何か起きた時に“誰の判断か”が曖昧になります」
「現場は、それが一番困ります」
赤黒が揺らぐ。
「お、大げさだよ。クラスターだなんて」
「大げさにしたくないから、線を守ります」
そしてセリナは、最後の一枚を切る。
「それと――本部長の健康は、BCP(事業継続計画)的にも、会社にとっての重要リスクです」
決定打。
その瞬間。
私の喉元まで迫っていた赤黒が、後退した。
引き戻される、というより。
“取り戻しに行く”みたいに。
赤黒の触手が、私から離れて、本部長の口元へ集まっていく。
(……消えない)
完全には消えない。
薄くなるだけだ。
相手がまだ息をしている限り、そこにある。
でも――
今の私は吸わずに済んでいる。
セリナが続ける。
「俺にうつしてもいいから顔を見せろ、とおっしゃいましたが」
柔らかく笑って。
目だけが、氷みたいに冷たい。
「申し訳ありません。本部長にうつしてしまうリスクは、私たちの給与では背負いきれません」
空気が少し軽くなる。
浄化、じゃない。
圧が変わっただけ。
会議室の端で、誰かが小さく「ぷっ」と吹き出した。
すぐに咳払いで消える。
「君ねぇ……そういう言い方は」
本部長が顔をしかめる。
セリナは引かない。
でも攻撃もしない。絶妙に“現場”の言葉に落とす。
「本部長のお気持ちはありがたいです。部下を守るために自分がリスクを取る、というのは素敵だと思います」
「ただ、真正面から受け取ると、何かあったときの責任が現場に落ちてきます」
「私たち、そこまで強くないです」
「だから、せめてガイドラインどおり――“本部長を守る側”にいさせてください」
沈黙。
本部長はしばらく天井を見た。
天井には、まだ赤黒が薄く張り付いている。
その薄膜が、ゆっくり呼吸しているみたいに見える。
「……君さ。そういうの、どこで覚えてくるの?」
「業務です」
一拍も置かない。
「品質管理は、“最悪のケースを想定しておく仕事”なので」
本部長がふう、と息を吐いた。
その息には、さっきほどの禍々しさは乗っていない。
……完全に無色でもない。
「分かった。今日は、そこまで言うなら、ガイドラインどおりでいい」
会議室のあちこちで、静かな安堵が走る。
「ただし」
本部長が指を立てる。
「次に本社のトップが来る時は、もう少し“顔を上げて”おくように」
視線が、また私に戻ってくる。
喉がきゅっと鳴った。
声が出ない。
そこへ、セリナが割り込む。
「神楽さん、今ちょっと喉をやられてまして」
「え?」
「さっきから咳、我慢してるの、私にはバレてます」
「声が出づらいのに無理させると長引きます。そこもリスク管理として、ご理解いただけると助かります」
本部長が鼻を鳴らす。
「君たち、ほんと口が立つね」
「本部長の教えがいいんだと思います」
セリナは平然と言った。
本部長はそれ以上、マスクの話をしなかった。
会議が終わって廊下に出た。
人のいない給湯室まで歩き、私は壁に手をついた。
「……っ、は……っ」
肺がようやく底まで開く。
指先が冷たい。
手のひらが汗で濡れている。
さっきの“赤黒い世界”が、まだ網膜に焼き付いている。
もし、あれを吸っていたら。
自分の体がどうなったか。
……想像したくない。
紙コップの水が差し出された。
「どーぞ」
セリナ。
彼女の手は微動だにしない。
水面も揺れていない。
「ナイス“喉やられ設定”だったでしょ」
「……設定って言うな」
水を飲む。冷たい。
冷たさが、現実を連れて戻ってくる。
でも、喉の奥の違和感は消えない。
薄い膜が貼り付いたまま。
「……ありがと」
「はい?」
「マスク。守ってくれて」
セリナはいつもの調子で肩をすくめた。
「当然です。“変人の後見人”ですから」
「守るべきは、マスクと、神楽さんと、会社のガイドラインです」
「順番おかしい」
「そうですか? 全部、大事な資産ですよ」
笑う。
その周りの空気は、いつも通り透明だ。
……少なくとも、私の目には。
私はもう一口、水を飲んだ。
その時、セリナが小さく息を吐いた。
ほんの一瞬だけ。
肩が、わずかに落ちた。
「……さっきの、正直、賭けでした」
セリナはぼそっと言う。
「BCPって単語、刺さる人には刺さるんです。役員ほど。……刺さらなかったら、どうしようかと思ってました」
「賭け、って」
「はい。勝てる戦いに見せるのが、現場の仕事なので」
そう言って、またいつもの顔に戻る。
私は、笑えなかった。
あの会議室の天井にへばりついていた赤黒い薄膜。
本部長の笑い声。
薄くなっても、消えていない。
“まだそこにいる”。
あれは、避ければ終わるタイプの色じゃない。
向こうから来る。
逃げ場のない場所へ追い詰めてくる。
――次は、もっと近い。
根拠のない確信が、喉の奥に残った膜みたいに貼り付いていた。
私の“不吉な予言者”としての一日は、なんとか終わった。
終わった、だけだ。
お待たせしました。
少し間が空きましたが、続きを更新しました。
次回も、違和感を少しずつ“形”にしていきます。
読んでいただき、ありがとうございます。




